入来院重宏のオフィシャルブログ
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「天皇と原爆」と(西尾幹二)を読んで思ったこと

著者は「神の国」アメリカにとって、同じく「神の国」を標榜する日本は憎むべきサタンで邪魔でしょうがなかったのだという。

著者の説明する日米開戦に至る経緯や背景は、僕もいろいろな書物を通じて自分なりに理解しているところも多かったのだが、アメリカの「独善的」「原理主義的」な思考や行動の特徴の根拠を「宗教的な信仰度合いの強さ」においているところが新鮮だった。
 また、その理由を「アメリカは多民族国家ですから、どのようにして国家を統一するかが非常に大事になるわけですが、日本のように無意識に国家が成立しているんじゃないので、宗教でもって統一しようとする傾向があります。」という。
 そして著者は、対する日本もやはり「神の国」であり、その淵源は天皇の存在にあるという。

本書においては、とくに次に掲げる箇所が重要だと思った。
「明治以来・戦中までの日本は国全体がずっと「革新」であって、「神の国」であることと西洋風の個人主義・自由主義の生き方は必ずしも相反してい ない。たしかに戦後は少し様相が変わるが、それはアメリカの庇護の下にいるからで、「神の国」であるアメリカに守られて、自分の「神の国」を忘れてしまっているからです。しかし、いつ日本が「神の国」の必要に目ざめるかは分かりません。再び尊皇攘夷になる可能性はいくらでもあります。日本はそういう歴史的 宿命を背負っています。「神の国」の伝統にすがらなければ、この国が対応できない事態が起こる時、卒然として「神の国」は激しくよみがえる可能性がある と、私は言いたいのです。」
「私たちの国は今、再び国体論をきちんと考え直さなければ切り抜けられそうにない時代にさしかかっているからなんです。みんな気がついてないけれ ども、じつはそうなんですよ。2011311日の東日本大震災の直後に今上陛下が「お言葉」を述べられましたが、昭和天皇による終戦の詔勅にも匹敵す るものであったと認識した日本人がじつは少なくなかったことも申しあげておきたいと思います。」

 僕は、この「東日本大震災の直後の今上陛下のお言葉」の箇所を読んで二つのエピソードを思い出した。一つは昨年の年末に福島県のある農協に訪れたときに、職員から聞いた話である。若干の記憶違いもあるかもしれないが大凡次のような内容だった。
111516日に全国農業担い手サミットが今年は長野県で開催され、皇太子殿下がご出席してくださいました。皇太子殿下はわが県(福島) の農協中央会の会長を直々にお呼ばれになって、大震災や津波、原発の対応に対する日頃の苦労に対して直接ねぎらいのお言葉をかけてくださいました。15分くらいお話しされたそうです。会長は感激と緊張で汗びっしょり、涙ぼろぼろだったそうです」
 農協中央会の会長にしてみれば、さぞ感激感動し身の引き締まる思いだったろうし、その気持ちを地元に持ち帰り、さっそく中央会職員や傘下の農協組合長たちを前 にことの顛末と皇太子殿下のお言葉を皆に伝え、叱咤激励したに違いない。

そして、このエピソードが福島県の農協組織職員はもちろんのこと、組合員である農 業者、ひいては県民全体を鼓舞することになったのであろうことは想像に難くない
 僕はこの話を聞いたとき、天皇(この話は皇太子殿下だけど)の国民に対する「計り知れない影響力」をあらためて知ることとなった。
 同じような状況で、たとえば総理大臣が直接ねぎらいの言葉をかけたところで、感動されるどころか「損害賠償どうしてくれるのか」と問い詰められたりしてあたふたするのがおちだろう。
 いざというときに国民をまとめることができるのはやはり天皇しかいないのではないだろうか。
 天皇と国民の関係というのは実際戦後どう変わったのだろう。(もしかしたら本当は何も変わっていないのではないだろうか。)
 
 思い出したもう一つのエピソードは、石原慎太郎が著書「国家なる幻影 わが政治への反回想」で書いている、昭和4310月に東京の武道館で天皇、皇后両陛下を迎えて行われた「明治百年記念式典」で起きた出来事である。
 僕はこの出来事をこの本で初めて知った。ことの真相も含め衝撃的な話であり、以下その部分を抜粋する。

式典が進んでいき、最後に体育大学の学生たちによる立体的なマスゲイムが行われ、その後、佐藤総理の音頭で日本国万歳が三唱され式は終わった。や がて司会のNHKのアナウンサーが、「天皇、皇后両陛下がご退席になります」と報せ、参加した全員がまた立ち上がって両陛下をお見送りした。そしてあのこ とが起こったのだった。
それが起こった瞬間に、私だけではあるまいに、出席していたほとんど全員がこの式典に実は何か一つだけ足りなかったを知らされていたと思う。檀上 から下手に降りられた陛下が私たちの前の舞台下の床を横切って前へ進まれ、丁度舞台の真ん中にかかられた時、二階の正面から高く澄んだ声が、
「テンノオー、ヘイカッ」と叫んでかかった。
その瞬間陛下はぴたと足を止め、心もちかがめられていた背をすっくと伸ばされ、はっきりと声に向き直って立ち直されたのだった。そしてその陛下に向かって声は見事な間をとって、「バンザアーイッ!」叫んだ。
次の瞬間会場にいた者すべてが、実に自然に、晴れ晴れとその声に合わせて万歳を三唱していた。私の周りにいた社会党の議員たちも全く同じだった。 そして誰よりも最前列にいた佐藤総理がなんとも嬉しそうな、満足しきった顔で高々と両手を掲げ万歳を絶叫していた。あれはつくづく見事な『天皇陛下万歳』 だったと思う。おの席にいながらなお、あれに唱和出来なかった日本人がいたかも知れぬなどとはとても思えない。あれは単なる天皇への言寿ではなしに、私た ちを突然見舞った熱い回顧であり確認だった。それを唱えながら私たちは忘れかけていたものを突然思い出し、静かに、密かに熱狂していた。
あの瞬間ただひたすら、ああ、かつて私たちはこうだった。なんだろうと、こういう連帯があったのだったと誰しもがしみじみと感じなおしていた。
あれはなんといおう、国家なり民族というものの実在への、狂おしいほど激しい再確認だったと思う。

 石原慎太郎がここで感じた「連帯」という言葉が一つのキーワードではないだろうか。
 僕が連帯という言葉から受けるイメージは、ともに戦う仲間であったり、仲間と一緒に戦っている姿だ。
 単なる人との繋がりとか、あるいは友情とも違い「同じ目的を持った仲間との繋がり」といったようなものか。
 日本が国民全体の連帯を必要とするときにその中心となるのはやはり天皇なのだろう。
 アメリカの庇護の下で「神の国」であるアメリカに守られて、自分の「神の国」を忘れてしまっている日本が、いつか「神の国」の必要に目ざめるときがくるのだろうか。
 石原慎太郎は、式典での万歳を「たぶん日本で最後の本物の天皇陛下万歳」と表現していたが、いつの日かまた、本物の「天皇陛下万歳」が行われる日がくるのかもしれない。

意欲のある農業者が一堂に会し、農業経営の現況や課題についての認識を深めるとともに、相互研鑽・交流を行うことを目的に毎年度各県持ち回りで開催している。「第14回全国農業担い手サミットin長野」は平成231115日(火)・16日(水)に行われた。

アデルに泣く

一昨日からアデル漬けです。

この前の日曜日、仕事帰りに新宿に寄って久しぶりにCDショップを覗いてみた。
数か月前、村上春樹と小澤征爾の対談本を読んでみたら、お二人は基本的に僕の知らないことばかり話しあって夢中になっているんだけど、随分とマー ラーについてページを割いていたので、とりあえず聞いてみようと思ってクラウディオ・アバド指揮の交響曲第9番のDVDを買って観 て(聞いて)みたら、まぁこれが実に素晴らしくて感激してしまった。
マーラーというと、僕は学生時代に夢中になって何度も観たヴィスコンティの映画「ベニスに死す」で彼の曲が使われていることは知っていたし、音楽 が素晴らしい演出効果をあげていた印象も記憶にあったので、今度はこの映画で使われていた曲のDVDを買おうと思って店に寄ったのだった。
店には、多くはないけどマーラーのDVDがあった。
だけどまったくまぬけな話で、僕は映画で使われていたのが交響曲の何番か知らなかった。
店内には音楽関係の本も置いてあったので調べたけど結局分からなかった。
『ちゃんと調べてから買おう』と思って店を出ようとしたんだけど、帰り際にたまたま平積みになっているところを目にしてそのまま手 に取って買ってしまったのが
「ADEL LIVE AT THE ROYAL ALBERT HALL」
これがまた素晴らしかった。
CD+DVDで3280円というのも何だか得した気分。
最近はCDが売れないという話は聞いているけど、それなりにいろいろと販売方法を考えてるんだな。

さて、さっそくその晩(日曜日の夜)DVDを見る。
まるでライブ会場にいる一観客になったような気分で感動して涙を流す。

昨日(月曜日)は仕事中ずっと事務所でCDをかけ続ける。
やっぱりところどころ涙を流す。
夕方定時以降、職場のパソコンでDVDを観る。
2回も観てしまってやっぱりところどころ泣く。

そして今(火曜日の昼間)もCD聞きながらこの文章を書いています。(涙ふきふき)

アデル
二十歳そこそことは思えない。
素晴らしい声、異常にうまい歌、そのうえ曲がまた素晴らしい。
見た目も貫禄充分だし。

地球規模で見渡すと本当に凄い才能はいつだって芽を吹いているんだな、きっと。
でも、アデルはその中でも特別かも知れない。
それぐらい凄い。

頑張れアブラゼミ!

子供時代(とくに小学生低学年)に東京の多摩地区に住んでいた人に聞きたい。
「君の子供時代の夏に見た蝉は何蝉ですか」と

僕は1961年生まれで、小学校低学年時代は東京都日野市の近くに浅川が流れる住宅街で育った。
僕がこの時代に見た蝉で圧倒的に多かったのがアブラゼミで残りのほとんどがツクツクボウシだった。
アブラゼミとツクツクボウシの比は4対1くらいだったという印象だ。
あとひと夏に一度見るか見ないかという程度の珍しい蝉がニイニイゼミで、鳴き声は結構耳にするけど稀にしか見ることができない蝉がヒグラシだった。

アブラゼミは、羽が茶色で身体も黒っぽくて「美しくない」ので、少年入来院君は子供心にもこのアブラゼミが好きになれなかった。
また、やたらと多くて希少価値を全く感じさせなかったことも、アブラゼミを好きになれなかった理由と思う。
少年入来院君は、図鑑でしか見たことのないクマゼミとかミンミンゼミのように大型で羽が透明な蝉を一度でいいから自分の手で捕まえてみたかった。
ある日の午後、少年入来院君は蝉の鳴き声でお昼寝から目を覚ました。何気なく蝉の鳴き声を聞いていると、どうも「ミーンミーン」と聞こえてくる。
少年入来院君は「ミンミンゼミだっ」と思わず飛び起きて、興奮したまま虫取り網を持って玄関を飛び出した。
鳴き声がすると思われる木の根元まで走って行って木の上方を見上げるがいつの間にか鳴き声も止み、辺りを一所懸命に探すけど、どこにもミンミンゼミは見当たらない。
長い夏休みの間にはこんな午後がいくたびかあった。

月日は「あっと」流れて40年程経った2007年の夏の夜、中年入来院(僕)は事務所の近くで蝉の幼虫を発見した。事務所の裏が公園なのだが、きっとそこから這い出してきたのだろう。羽化しようと歩道の脇に立つ木を目指していたようだ。人通りは少ないとはいえ誰かに踏みつぶされないとも限らない。僕はこの羽化直前の蝉の幼虫をヒョイとつまんで事務所に持って帰ると、ベランダにある高さ約2mのユッカの木の根元に置いた。
どのくらいの時間放っておいたか忘れたが、しばらくして見に行くとユッカの木の高さ1.5mくらいの高さでちょうど羽化を始めている最中だった。
しばらく仕事を中断して羽化の様子を見ていると、どうやらこの蝉は子供時代に捕まえるどころか生きている姿を見たことすらなかったミンミンゼミのようだ。僕はてっきりアブラゼミだとばかり思っていたので驚き、興奮して写真を撮ったりしてネットで確認するとやっぱりミンミンゼミだった。

さて、今年も暑い夏の真っ最中だけど、お盆休みが始まったあたりからあちこちと蝉の死骸を見かけるようになった。
子供の頃はアブラゼミの死骸ばかり目にしていたけど、最近では確かにミンミンゼミの死骸も見かけるようになった。
4年前に実際にミンミンゼミの羽化を目の当たりしたこともあり、気になったのでウィキペディアを見てみると、実際に東京都心部ではミンミンゼミが増えている(アブラゼミが減っている)ことが分かった。
「アブラゼミは幼虫・成虫とも、クマゼミやミンミンゼミと比べると湿度のやや高い環境を好むという仮説がある。このため、都市化の進んだ地域ではヒートアイランド現象による乾燥化によってアブラゼミにとっては非常に生息しにくい環境となっており、乾燥に強い種類のセミが優勢となっている。東京都心部ではミンミンゼミに、大阪市などの西日本ではクマゼミにほぼ完全に置き換わっている。」(ウィキペディア)
また、「セミの多くは透明の翅をもつが、アブラゼミの翅は前後とも不透明の褐色をしていて、世界でも珍しい翅全体が不透明のセミである。」(ウィキペディア)
実はアブラゼミは蝉の仲間のうちでは珍しい種だったのだね。知りませんでした。
アブラゼミが減少しているというけれど、僕ら大人が子供時代にアブラゼミ君たちを大事にしてこなかったつけがまわってきたのかもしれないね。
ごめんね。そして、頑張れアブラゼミ!
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