まんなかスピリチュアル。

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霊能者・占い師の鑑定体験談。
スピリチュアルな情報や体験談。
この世への疑問や考察など載せていきます。

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時に、心を制するという表現をする人があります。


心と感情は別のものだと思っているのですが、これらはよく混同されます。ここでは感情を制することについて話します。


ヨイトマケの唄などで知られる美輪明宏さんも、感情をコントロールしましょうと言われます。


そしてそう言われると、感情をコントロールするとは、感情を失くしてしまうこととイコールではないかと疑問を呈し、それに抵抗感を持つ人がおられます。

要するに喜怒哀楽を失ってしまうことと思っているということですね。


僕はこれは誤解だと思いますし、感情はコントロールしなければいけないと思っている派です。

そんな派閥があるのかは知りませんが。笑


多くの人は感情をコントロールできてはいないと思います。僕もできていませんので偉そうなことは言えないのですが。


それは例えばちょっとした事があるとすぐ不安や恐怖に呑まれてしまう、または怒りで我を忘れる、といったこともありますが、適度な恐怖心を失くしてしまうこともまたコントロールを失っている状態と言えるかもしれません。

例えば高所平気症などと言われる、身の危険を感じることで防げるものへの感覚の希薄化も問題といえば問題かもしれません。


感情のコントロールとは、今この瞬間に、どの感情を味わうかを選べるということです。


それは、今ここで笑おうとか、怒ろうとか泣こうとかをいちいち考えてからやるということとも違うと思います。


感情は自分のためにあるのであって、振り回されるためにあるのではありません。


負の感情と言われるものは、感情にコントロールされているから負の感情になるのではないでしょうか。


例えば怒りは、理不尽や不当な出来事や圧力に立ち向かうためには必要だったでしょう。

革命や変革の根底にはいつも怒りがあったのではないかと思います。

陵辱や虐待に対して悲しんでいるばかりでは今日の世界はなかったでしょう。いつも闘う人がいて、世の中が変化してきたのは歴史を見れば明らかです。


悲しみから、繰り返すことを止めることもあります。何が間違っていて、何が正しいのか、を推し量る指針として悲しみは大切な存在です。

大切な人、という概念も悲しみがなければないのではないかと思います。

人を悲しませたくないという優しさも、悲しみがなければ優しさたりえないのではないでしょうか。


感情は、冷静に行使しなければならないのではないでしょうか。


冷静に怒り、冷静に悲しみ、冷静に楽しみながら喜ぶのです。

それが、感情を深く理解し、本当に味わうということではないかと思います。


自分の感情を恥じたりしないでください。意味のないものが人間に備わっているはずはないと思います。


でも感情にコントロールされないでください。感情が誤作動することはあります。間違った使い方をしているとしたら、内観をしてそれを徹底的に見付けだしてください。そうすると、それはなくなります。

それには瞑想がおすすめですが、何か時間を忘れるほど集中できる趣味があればそれに没頭するのもひとつの手です。


このごろ世の中が感情的に傾きすぎているように感じて、そんなことを思いました。

最近ネットでは偏った女性叩きや男性叩きなどが少し目立ちます。


現実では女性も男性も実に色々な人がいます。それに同じ人であっても、良いところ、そうでないところ、皆が皆、両方持っています。

どちらか一方だけの人というのは、少なくとも僕は見た事ありません。しかも良い悪いというものも主観によって変わったりします。


こんな曖昧なものに優劣・甲乙つけようとするのは、少なくともそれを一般化や普遍化しようというのはそもそも虚しい試みではないでしょうか。


そんな前置きをしておきながら、デートでお金を出さない女性について書くというのも矛盾しているかもしれませんが、少し気になったので書いておきます。笑


それは最近テレビなど影響力の大きいメディアで、「男性がお金を全部出すのが当たり前」という主張をする女性を放送することがあまりにも多いからです。


先に言っておきたいのですが、これは恐らくテレビ局側の演出だとは思います。


そういう主張をしている人もいわゆる仕込みである可能性が高いであろうと思いますし、そうでなかったとしても、そういう主張を放送しようという製作者側の意図があるでしょう。


しかしそれを見て真に受けた女性が影響をされて、それが正しいと思ってしまうのは危険だなと思ったのでそれについて思ったことを書いてみます。




まず、男性がお金を払うのが当たり前って、どこから来たのか…という考察を今長々と書き連ねていたのですが、まどろっこしいので今全部削除しました。笑

端的に僕の気持ちを書かせてもらいます。




とりあえず、男からして全額払うのを納得できる場合から見て行きましょう。


1.明らかに男性の側が収入が多い

この場合は男性が払ってあげても良いでしょう。

お金のある人が失う3万円と、そうでない人の3万円とでは、価値が違います。

それならお金のある人が出すというのは、まだ筋が通っています。

それでも少しくらい出してもいいとは思いますが、まだ納得できます。


2.男性の方が年齢が高い

これは筋が通っているかどうかでいうとギリギリラインですけどね。さっきと少し矛盾しますし。笑

あくまで男女の収入が同じくらいであり、そこから男性が払うという場合にひとつの納得できる判断材料としてはありかなと思うからです。

僕だったらかっこつけて出しちゃうかもしれませんし。笑


3.相手の女性ととても有意義な時間が過ごせた場合

楽しい時間を演出してくれる人というのはそれだけで価値があります。

話が面白かったり、素敵な情報を提供してくれたりと、こちらにとっても精神的・物的なメリットがあるのであればお金くらい出すよとこちらから思います。

これは人によりますが、面食いな人からすれば例えば女性が美人であるとか、あるいは個人的に好きな人とのデートであればそれ自体が自分にとっての幸せなわけですから、お金くらい払っても良いと思います。

自分がかっこつけたい、良い思いをしたいという"メリット"があるわけですからお金くらい払うのは何てことないです。




問題は、このような条件を満たすわけでもなく、「男だから払って当然」という思考停止も甚だしい厚顔無恥の乞食根性丸出しの人間です。

筋も通ってなければ奢ってもらう価値も無い女性です。


男に貢いでもらうキャバ嬢だって、ちゃんとお仕事としておもてなしをして、お客のニーズに応えるという努力と労力があるからお金をもらっているわけです。決して座ってるだけでお金を稼いでいるわけではありません。

まして可愛いだけでずっとトップにいられるような甘い仕事とも思えません。可愛いだけの子なら今時珍しくもないからです。


まったく当たり前のことですが、何の価値もないものにお金を払いたい人なんてそうそういません。


そもそもこういう愚痴を言う人というのは、奢ってもらえなかった女性です。


まず全額払わない男をケチだとか言ってるようなのは、男を悪者にしてますが要するに自分が払いたくないだけでしょう。

つまりそんな事を言ってるお前のほうがケチだよということです。自分の乞食根性は棚上げにして人のことをケチ呼ばわりとは被害妄想ここに極まれりといったところです。

相手を悪くして自分の正当性を際立たせたいという単純に卑劣な行為です。

男も馬鹿ではないので、そういう女性だというのを見抜かれたのでしょうね。

もっとはっきり言えば、あなたにデート代払う価値なんてないと判断されたということです。まずはそれを厳粛に受け止めましょう。

相手に自分の価値を示す努力もしないでただで飲み食いしたい、相手をお財布くらいにしか思ってないようなのが悔し紛れにこんな風説に乗っかっても、ますますあなたの価値を下げるだけですからやめたほうがいいと思いますけどね。まともな感性があれば、惨めになるだけでしょう。


では男に奢らせるのが悪い事なのか?というと、そんな事はまったくないと思います。


例えば人というものは、ご飯を奢ったときに


「ごちそうさま」「いつもありがとう」「美味しかったね」


などと言ってもらえるだけで、ああ、ご馳走してよかったな、次も喜んでもらいたいなと思ったりするものです。

それによって気分が良くなることが、奢った人にとっての"メリット"になるからです。

奢る方もそれを自覚して、相手に恩を着せすぎることなく、気持ち良くお金を払えると良いと思います。


主婦だってそうではないでしょうか。いつもご飯作って洗濯してお掃除して子育てして、毎日毎日献立を考えたり家を守っているのにそれを当たり前にされてしまっては、仏や神様じゃあるまいし、気分良くはないでしょう。


男が「デート代を少しも出してくれない女性ってどうなの」と愚痴っているときは、大体において、実はお金の問題というよりも、そういう人間性に対して不満を感じているものです。

言葉を額面通りに受け取ってはいけません。

それを当たり前にされて、自分が軽んじられている。そういう事をする女性への不満です。


男を手の平で転がしてお財布扱いするのも、うまくやれるなら僕はまったく悪いことだとは思いません。

それで男性が気持ち良くなっているのであれば、被害者などいないからです。笑

お金を出したくないのであれば、せめて出したくなるような女性としての気遣いや努力くらいは見せたらどうでしょうか。

それもしないで金だけ出せって強盗みたいなものだと思います。


男だって本当は気持ち良くお金を使いたいと思っているんだよと、そういう話でした。

最近よく瞑想をするようになりました。


色々な知識を本で詰め込んできた数年間でしたが、そのなかで結局行き着いた答えが、自分で知るしかないなというところだったからです。


どんな立派な本を読んでも、それが体験の伴ったもので、細胞のひとつひとつが理解していなければそこまで意味はないのではないか、と感じます。


聖書を読んでいる人は世界中に相当数いるにも関わらず、その本当の意味を理解している人がほとんどいないところを見ると納得できるのではないでしょうか。


といってもまだまだ瞑想に費やす時間は少ないですけどね…本当は一日中してたって足りないくらいだと思います。


そして瞑想していると心がとても平和になる瞬間があります。


例えば、僕も一人の個性を持った人間なので、どうしても個人的なものの見方、ある意味では偏見と呼ぶのかもしれませんが、自分の考えというものがあります。


許せないこと、これは自分だったらしないだろう、これはいかがなものか、といった意見があります。


これは悪いことではないと思っています。そういったものは誰にでも必ずあるものです。


僕はこのブログでもたびたび霊視してもらった体験談などを載せてきましたが、今は見れなくしてあります。


それはある出来事がきっかけではありましたが、それだけではありません。それは瞑想とも関わりがあるのです。




あるとき、瞑想をしていました。


瞑想をしていると、途方もない数の雑念がどうしようもなく湧いてきます。


そのなかで、僕は自分のなかにある、数々の自分の主張を観察していました。


そうしているうちに、どこかそういう自分の気持ち、だと思っていたものをいつもより少しだけ客観的に観ている自分に気付きます。


そうして、ある意味で何かに批判的な自分に出会います。


そのときに、人は単にあらゆるバリエーションとして配置されている駒のように感じることがあります。


違う言い方をすれば、そういう配役のなされた劇のひとつの役という感覚に近いかもしれません。


皆それをただ忠実に演じているだけで、それを批判することが何だか無意味なように思えた…ような気がしました。


そのなかで、過去に自分に対してひどい仕打ちをしてきた人がふと浮かんできて、その状態からその人を観察したときに、何故だか分からないのですが、ありがとう、という気持ちが浮かんできたのでした。




…でも瞑想を終えてしばらくすると、またいつもの僕にすぐ戻ってしまうのですけどね。笑




目を瞑っているときにだけ落ち着いた気持ちになれても仕方ないので、これを更に深く、そして普段から感じられるようになりたい、と思いました。


このブログも、この小さな僕という自分を観察するために書き始めたものです。


自分を知りたい、と思って始めたのですが、本当の自分というものを知るためには直接的には役に立たないものかもしれません。


しかしこの小さな自分を制御するためには、それをよく知っておくのは無駄ではないと思っています。




それからサイキックな力を求めて色んな技法に手を出している人も多く見受けられるのですが、その一番確実な方法が瞑想のような気がします。


ただそれを運用する理解や人格が伴っていないと新たなカルマをつくってしまうため、おそらく保護機能としてストッパーが働いているのだと思います。


なのでいたずらにそれを求めていると失望してしまうかもしれませんが、それを興味として瞑想を始めるのも悪くはないと思います。


瞑想は結果的に、同時にそういう素養を育てることにもなると感じるからです。


今更ですが、SRFという組織のクリヤヨガにも申し込んでみました。詳しく知りたいかたはネットにいくらでも情報がありますので、各自お調べください。


瞑想は皆様にもおすすめします。

今日は才能についてぼんやり考え事してたらまた何やら降りてきたので書いておきます…


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才能のせいにしてやらないのは三流


才能に頼っているのは二流


才能が無くとも事を成すのが一流


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本当はもう眠いから寝たい…何で更新してるんだろう…どうせ誰も見てないだろうに…と思いながら、降りてきたものは自分のためにも一応書き残しておかなきゃ、という使命感ともつかないもののために書いてます。


こういうのは意味も含めて降りてくる感覚なので、いつものように一応それを言葉にして説明に代えさせていただきます。




「自分には才能が無いから」といってやらない人がいます。


才能が無いからやらない、と言えばとりあえずの面目が保たれるという虚しい期待があるため、人は免罪符として『才能』を引き合いに出すのでしょう。


才能が無いんだからやっても無意味であり、だからやらなくていいでしょう、といった具合です。


でも才能なんてやってみないとあるかどうか分からないものです。


実際やってみて、やっぱり向いてなかった、ということもあるでしょう。


でもそれは、やらなかった時のあなたとは違うあなたです。これは自分には違ったな、という新しい知識を備えた成長したあなたです。


それは、本当のあなたのやりたいことを更に明確に知るために必要なプロセスだったかもしれません。


やらずにいたら、いつかそれを知らずに、「あのときああしていれば…」と思い出して苦しむかもしれません。


それは途方もない時間と労力の無駄ではないでしょうか。


そして才能に頼るということ。


これは例えば絵を描くのが上手かったとしましょう。


そのスキルのために、あなたはこだわりすぎたり、自分を制限してしまうかもしれません。


もしくは、何とかしてそのスキルを活かして生きていくことにこだわるあまり、人生の目的に縛られるかもしれません。


僕は芸術方面に明るいほうではありませんが、芸術を楽しむことはできます。


詩の一節だけで1時間も夢想に耽ることもあれば、行間に味わいを見出すこともあります。


芸術の本質が生命の表現というものであれば、人生がアートだという言葉の意味も何となく分かる気がします。


本質はいつも言葉を越えたものかもしれません。岡本太郎は、芸術は爆発だと言いました。


爆発という言葉尻だけ捕らえて、何やら危ないものだと感じるとしたら、物事の表面のメッキを撫でるような薄っぺらい視点でしかないと思えます。


きっとこの狭い肉体という乗り物から鬱屈した、膝を曲げて窮屈に抑圧されているような自分の本質がひといきに開放されたとき、勢いよく霧散していくさまを爆発と表現したのかもしれません。


才能が無い、というのは幸いかもしれません。全てがこれから新鮮に体験できるのですから。


未知を探求するということは、恐怖を克服することです。


闇に光を灯すということです。


この目的が果たされたとき、新しい扉が開けるような気がします…


受けたインスピレーションの概要はこんな感じでしょうか。


一生のテーマかもしれませんね。

矛盾とは、真実に近付いたときに生じるもの


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これもいつだったか降りてきたものです。


これは、この世的に矛盾するものは、という意味だと思います。


今の科学の世界にも、このメッセージは象徴的に現れていると感じられます。


例えば量子力学では、粒子の位置は確実に表すことはできず、確率的にしか決定できないといいます。


そしてそれは、観察することで決定し、収束します。


(本当のところ、確率的にというのは正確ではないと思いますが僕は科学者ではないのでここは言及できません。)


僕達は確固たる現実に存在している、ように確かに感じているはずなのですが、それを築き上げているはずの粒子が、そもそもあいまいな存在なのです。これは大いなる矛盾です。


正確にいうと、本当は矛盾しないのですが、この世的に見ると矛盾しているように見えます。


何故かと言うと、本当は全てのものは一つであるからです。


この世は二元的な世界であるにも関わらず、本質はひとつのものでできているからです。


つまり両方の性質を持っていることになります。


それを二元的な世界観から見ると、矛盾しているように感じるのだと思います。


あなたがもし今何かに矛盾を感じ、混乱しているとしたら、もしかしたら真実・真理に近付いている証かもしれません。