今日は才能についてぼんやり考え事してたらまた何やら降りてきたので書いておきます…
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才能のせいにしてやらないのは三流
才能に頼っているのは二流
才能が無くとも事を成すのが一流
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本当はもう眠いから寝たい…何で更新してるんだろう…どうせ誰も見てないだろうに…と思いながら、降りてきたものは自分のためにも一応書き残しておかなきゃ、という使命感ともつかないもののために書いてます。
こういうのは意味も含めて降りてくる感覚なので、いつものように一応それを言葉にして説明に代えさせていただきます。
「自分には才能が無いから」といってやらない人がいます。
才能が無いからやらない、と言えばとりあえずの面目が保たれるという虚しい期待があるため、人は免罪符として『才能』を引き合いに出すのでしょう。
才能が無いんだからやっても無意味であり、だからやらなくていいでしょう、といった具合です。
でも才能なんてやってみないとあるかどうか分からないものです。
実際やってみて、やっぱり向いてなかった、ということもあるでしょう。
でもそれは、やらなかった時のあなたとは違うあなたです。これは自分には違ったな、という新しい知識を備えた成長したあなたです。
それは、本当のあなたのやりたいことを更に明確に知るために必要なプロセスだったかもしれません。
やらずにいたら、いつかそれを知らずに、「あのときああしていれば…」と思い出して苦しむかもしれません。
それは途方もない時間と労力の無駄ではないでしょうか。
そして才能に頼るということ。
これは例えば絵を描くのが上手かったとしましょう。
そのスキルのために、あなたはこだわりすぎたり、自分を制限してしまうかもしれません。
もしくは、何とかしてそのスキルを活かして生きていくことにこだわるあまり、人生の目的に縛られるかもしれません。
僕は芸術方面に明るいほうではありませんが、芸術を楽しむことはできます。
詩の一節だけで1時間も夢想に耽ることもあれば、行間に味わいを見出すこともあります。
芸術の本質が生命の表現というものであれば、人生がアートだという言葉の意味も何となく分かる気がします。
本質はいつも言葉を越えたものかもしれません。岡本太郎は、芸術は爆発だと言いました。
爆発という言葉尻だけ捕らえて、何やら危ないものだと感じるとしたら、物事の表面のメッキを撫でるような薄っぺらい視点でしかないと思えます。
きっとこの狭い肉体という乗り物から鬱屈した、膝を曲げて窮屈に抑圧されているような自分の本質がひといきに開放されたとき、勢いよく霧散していくさまを爆発と表現したのかもしれません。
才能が無い、というのは幸いかもしれません。全てがこれから新鮮に体験できるのですから。
未知を探求するということは、恐怖を克服することです。
闇に光を灯すということです。
この目的が果たされたとき、新しい扉が開けるような気がします…
受けたインスピレーションの概要はこんな感じでしょうか。
一生のテーマかもしれませんね。