前回に引き続き竹敷(たけしき)を探訪します。

 

竹敷要港は明治29年(1896)に発足しましたが、大正期に入ると要港としての存在価値が低下したことから大正12年(1923)に廃止されました。

その後は特定の部隊は置かれることなく海軍管理地になっていたと思われますが、要港廃止から22年後となる大東亜戦争末期の昭和20年(1945)5月、新たに開隊した対馬海軍警備隊がこの地に進出してきました。

竹敷要港の水雷敷設隊跡地の深浦に警備隊本部を置き、要港部の本部および水雷艇隊跡地に水上特攻基地を建設を開始しましたが、3か月後の8月に施設構築途上で大東亜戦争の終戦を迎えました。

 

【参考記事リンク】

対馬海軍警備隊探訪~警備隊概略

対馬海軍警備隊探訪①~警備隊本部(深浦水雷艇隊基地跡)

対馬の守り(日露戦争) ⑭ ~竹敷要港部(前編:本部周辺)

対馬の守り(日露戦争) ⑮ ~竹敷要港部(後編:水雷敷設隊)

 

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警備隊本部の記事は3年前に書きましたので、今回は水上特攻基地を取り上げます。

 

大東亜戦争敗戦後に纏められた対馬警備隊の目録には水上特攻基地の施設や保管する弾薬類の明細が記載されていますが、前述した通り基地構築中のため、人員の進出も水上特攻に供する兵器も未着でした。

よって水上特攻兵器の詳細は分かりませんが、他地域の水上特攻基地には「震洋」「隼艇」「雷艇」と言った小型舟艇が配備されていますので、対馬警備隊の基地にも配備予定だったと思われます。

 

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「震洋」は、大東亜戦争末期に投入された水上特攻兵器です。トヨタのトラックエンジンを積んだベニヤ製モーターボートで、艇首に爆薬を積んで敵の上陸地点に進出、好機を狙って体当たり攻撃を行いました。

 

遊就館に展示の震洋レプリカ

 

加計呂麻島の震洋壕(レプリカ入り)

 

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「隼艇」は、魚雷艇から雷装を外して大型機銃を増載した舟艇です。味方の魚雷艇の援護および敵魚雷艇の排除を目的としましたが、戦争末期には魚雷を搭載したものも現れました。

 

量産中未完成の隼艇

 

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「雷艇」は、機関の性能不能で魚雷艇として実用に供さない舟艇の呼称です。雑役船として内地防御に当たりました。カミナリのような大きな音を出すから「雷艇」と呼ばれたとか。


手前に写る乙型魚雷艇228号は一時期「雷艇」として供されました。

 

「隼艇」や「雷艇」はそもそも水上特攻兵器ではありませんが、「震洋」と同じように運用される予定だったのでしょうね。

 

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それでは竹敷の水上特攻基地を見て行きます。まずは見取図です。

 

基地の施設は洞窟を中心に構築中でした。現在の基地跡は海上自衛隊対馬防備隊、住宅地、韓国リゾート施設が置かれていますので遺構の有無は十分確認できませんが、本年5月に海上自衛隊対馬防備隊の本部を訪問して遺構を案内して頂きました。以下に掲載する写真につきましては、特別な許可を受けて撮影・投稿しています。この場を借りて海上自衛隊の方々に御礼申し上げます。

 

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史料に掲載の水上特攻基地の施設明細は以下の通りです。

 

・宿舎1棟:木造地上瓦屋根 10m×6m

・倉庫2棟:木造地上 14m×6m 弾薬・運用科兵器格納中

・烹炊所3棟:木造地上背面崖 10m×3m1棟、9m×3m2棟

・浴室1棟:木造地上背面崖 23m×4m セメント浴槽を備う

・旧弾火薬庫1棟:煉瓦地上 7m×5m

・地下施設:I型洞窟14本を中心に19本(撃ち4か所に弾薬、爆雷、機雷、掃海用具などを格納)  総延長600m 

・桟橋2個

 

史料を参考にして現代の地図に遺構をマークしてみました。

 

水色の丸は洞窟、黄色の四角は建物ですが、この内、送信所壕、電源室壕、空気圧縮ポンプ室壕、旧弾火薬庫の遺構を確認しました。

 

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まずは送信所壕電源室壕ですが、上記地図にマークした推定位置に存在しますので、この2つの壕で間違いないかと。なお、写真は許可を受けて海上自衛隊敷地に入場して撮影したものとなります。

 

送信所壕です。

 

続いて電源室壕です。

 

史料では送信所壕はコ型洞窟、電源室壕はI型洞窟だったようです。

 

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空気圧縮ポンプ室壕です。こちらはコンクリートが打設されています。

 

史料を見ると洞窟が何本か並んでいますが、現存するのはたぶんポンプ室壕かと。

 

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旧弾火薬庫です。明治40年(1907)製の建物で、揮発油庫として使われました。

 

前々回の記事でも紹介したので写真は1枚のみの掲載としますが、こちらもまた海上自衛隊を通じて所有者の方に許可を頂いた上で見学させて頂きました。重ねて御礼申し上げます。

 

以上、対馬警備隊の海上特攻基地でした。

 

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[参考資料]

「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」(Ref No.C08011397300~C08011400800、アジア歴史資料センター)

「2 対馬警備隊所有総数量(2)施設」(Ref No.C08011397300、アジア歴史資料センター)

「引渡目録 訂正表」(Ref No.C08011051500、アジア歴史資料センター)

「佐世保防備隊戦時日誌」(Ref No.C08030432000~C08030436800、アジア歴史資料センター)

「鎮海防備隊戦時日誌」(Ref No.C08030456900~C08030457500、アジア歴史資料センター)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用

「昭和軍艦概史 第3」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「海軍水雷史」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「造艦技術の全貌 (わが軍事科学技術の真相と反省 ; 第1) 」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「船の科学 5(5)(43)」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)