日清戦争(明治27-28年)に勝利後、対馬の重要性はさらに増すことになりました。

陸軍は新たな防御計画を策定して対馬要塞の砲台増強を図りましたが、海軍は艦隊根拠地として浅茅湾を軍港に次ぐ重要な港(要港)に位置付け、明治29年(1896)1月に「要港部条例」を制定するとともに、対馬の竹敷(たけしき)を要港と定めました。

 

竹敷要港部は明治29年(1896年)4月1日に発足し、浅茅湾を中心とした要港海域の防御を担うことになりました。また、「要港部条例」にて要港部は水雷敷設隊と水雷艇隊を指揮下に置くことが定められましたので、従来の対馬水雷隊は要港部に編入され竹敷水雷隊となりました。

 

明治37年2月、日露戦争が開戦しましたが、開戦と同時に浅茅湾、三浦湾、鶏知湾を含めた防御海面区域が設定され、側防砲台の構築、水雷の布設、探海燈による警戒の任に就くとともに、所属の水雷艇隊は海戦にも参加しました。

 

日露戦争(明治37-38年)に際して設定された防御海面区域については以下の記事にて説明済みです。

 

日露戦争勝利後、明治43年(1910)の韓国併合で朝鮮海峡の安全が保たれることになりました。これにより対馬防御の考え方に変化が生じ、大正元年(1912)の要港部条例改正によって竹敷要港に要港部を置かないことが決まりました。

同年10月1日に竹敷要港部は撤廃され、新設の竹敷防備隊が引き継ぎましたが、大正5年(1917)に朝鮮半島南部の鎮海に要港部が設置されたことで竹敷の存在価値が低下し、竹敷要港は大正12年(1923)4月1日に廃止となりました。

 

その後、大東亜戦争(昭和16-20年)末期の昭和20年(1945)5月、新たに開隊した対馬海軍警備隊が竹敷に進出、本部機能と特攻基地の建設を開始しましたが、ほどなく終戦となりました。

 

対馬海軍警備隊の記事はこちら。

 

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明治30年代の竹敷要港部の施設配置図を掲載します。

 

要港部の本部庁舎が置かれた北側に水雷艇隊、南西の深浦に水雷敷設隊の基地が設けられました。現在の本部庁舎周辺は海上自衛隊が駐屯しており、水雷艇隊の場所は韓国のリゾート施設や民有地になっています。なお水雷敷設隊の護岸は「深浦水雷艇基地跡」として近代土木遺産に指定されています。

 

上記配置図には史料を参考に建物の名称を附しましたが、配置図の作成には複数の史料を参考にしており、尚且つ年々施設も増設されていますので、本来の配置・名称と異なる箇所があると思います。あくまで参考程度と言うことで。

なお青色で書いた部分が現存する遺構ですので、本記事で紹介していきます。

 

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竹敷要港部の正門があった場所に来ました。

 

正門周辺は民有地となっており遺構は何も残っていませんが、正門の場所に記念柱が立っています。

 

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竹敷要港部の本部庁舎、兵舎、病室などが置かれた敷地には、昭和45年(1970)に創設された海上自衛隊対馬防備隊の本部が置かれていますが、本年5月に本部を訪問して遺構を案内して頂きました。以下に掲載する写真につきましては、特別な許可を受けて撮影・投稿しています。この場を借りて海上自衛隊の方々に御礼申し上げます。

 

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海自本部内には当時の建物は現存していませんが、護岸や桟橋が残っています。

 

角度を変えて北東側からも見てみます。崩れた桟橋も見えますね。

 

ボラードかな?

 

護岸をよく見ると、上部3段が下部と異なる石材を使っているように見えますので、いつの時代か分かりませんが後世に積み増しされたのかもしれません。

 

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桟橋を上から見ています。随分と崩れていますので当時の高さが分かりません。

 

桟橋から湾内を見ています。波穏やかですね。

 

アジア歴史資料センターに残る海軍軍令部が編纂した「極秘 明治37.8年海戦史」には「竹敷要港部桟橋位置図」されていますので、以下引用・抜粋させて頂きます。

上記の図には「桟橋」と「試射場」(水雷試射場)の2本が海に突き出しています。現存する遺構は「試射場」の可能性も否めませんが、位置的に見ると「桟橋」かなと...。「試射場」はおそらく、昭和39年(1964)に開港した旧対馬空港の滑走台(スリップ)建設で消滅したものと思われます。

 

旧対馬空港の滑走台です。対馬と長崎県大村を結ぶ民間の水陸両用機が昭和39年に就航しましたが、僅か3年ほどで廃止されました。なお現在の対馬やまねこ空港は昭和50年(1975)に開港しました。

 

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防備隊の入口前面の桟橋。史料には「上陸場」と書かれています。

 

入口前に陸海軍の標石が埋設展示されています。

 

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以上が海上自衛隊対馬防備隊内に残る要港部時代の物と思われる遺構でしたが、近隣の民有地には明治40年(1907)に構築された揮発油庫が現存しています。

こちらもまた、海上自衛隊を通じて所有者の方に許可を頂き見学させて頂きました。重ねて御礼申し上げます。

 

薔薇があしらわれた素敵な赤レンガ建物です。

 

鉄窓が現存しています。

 

側面に入口があります。

 

掲示されている説明看板によると、建物の構造は「7.2m×5.4m、軒高3.75m、土間叩」と書かれています。

 

山側の内壁を見ていますが、円形窓の木枠が残っています。

 

海側の内壁。

 

床面を見ています。

 

説明書きには揮発油庫と書かれていますが、「元火薬庫」と書かれた昭和期の史料も存在しますので、時代を経て用途は変わったのかもしれませんね。

 

以上で前編を終わります。

後編では深浦の水雷敷設隊跡地についてレポートします。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原著、錦正社史学叢書)

「対馬要塞物語2」(対馬要塞物語編集委員会)

「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)

「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用

「極秘 明治三十七八年海戦史 第1編 防備/第5章 各要港の防備」(Ref No.C05110105100 アジア歴史資料センター)

「第111号 竹敷要港部桟橋位置図」(Ref No.C05110177400 アジア歴史資料センター)

「第108号 竹敷要港部手術室及ひ病理検査室位置図」(Ref No.C05110177100 アジア歴史資料センター)

「竹敷水雷隊設計変更大意」(Ref No.C10126289500 アジア歴史資料センター)

「明治31年12月2日 佐鎮第2612号の2竹敷水雷隊艦船兵器修理工場計画及費額変更の件」(Ref No.C10126556400 アジア歴史資料センター)

「明治31年12月6日 佐鎮第5608号上申竹敷水雷隊敷地開鑿外2廉設計変更及追書の件」(Ref No.C10126560100 アジア歴史資料センター)

「32年2月2日 佐鎮第284号上申竹敷水雷隊病室建築位置変更の件」(Ref No.C10126817000 アジア歴史資料センター)

「33年5月1日 佐鎮第940号竹敷水雷隊の内一部の位置及設計変更の件」(Ref No.C10127181700アジア歴史資料センター)

「33年9月21日 佐鎮第3655号竹敷水雷隊本部庁舎其他工費流用設計変更並建設位置の件」(Ref No.C10127184400 アジア歴史資料センター)

「35年7月29日 佐鎮第1405号竹敷水雷隊水雷艇囲場の内防波堤石垣起重機基礎工事の内石垣の一部設計変更及外6廉工事施行の件」(Ref No.C10127782100 アジア歴史資料センター)

「明治37~38年 戦時書類 巻114 戦時日誌11止 竹敷要港部」(Ref No.C09020205800 アジア歴史資料センター)

「引渡」(Ref No.C08020339200 アジア歴史資料センター)

「処分(5)」(Ref No.C08020492100 アジア歴史資料センター)

「移築移転(1)」(Ref No.C08021671200 アジア歴史資料センター)

「要港部条例○防備隊条例ヲ改正ス」(Ref No. アジア歴史資料センター)

「防備隊条例ヲ定ム」(Ref No. アジア歴史資料センター)

「明治二十九年勅令第三号要港ヲ定ムルノ件及同年勅令第二百三十七号竹敷要港境域ノ件ヲ廃止ス」(Ref No. アジア歴史資料センター)

「要港部条例・御署名原本・明治二十九年・勅令第四号」(Ref No. アジア歴史資料センター)