対馬には毎年探索に訪れており、これまで陸軍が築城した対馬要塞の砲台や大東亜戦争末期に海軍が開隊した対馬警備隊の施設をブログで紹介してきましたが、島内には明治期に設けられた軍跡がまだまだ残っていますので、新しくカテゴリーを追加してレポートすることにしました。
なお本カテゴリーでは日露戦争時における対馬防衛について書いていきますが、陸軍の砲台は既にレポート済みですので、海軍が設けた防御施設を中心に紹介します。
対馬は九州の北方、玄界灘に浮かぶ島で、行政区分では明治9年(1876年)8月に長崎県の管轄となり今に至っています。
朝鮮半島に近いため古来より大陸との文化的・経済的交流の窓口としての役割を果たしてきましたが、明治期に入ると朝鮮半島を挟んで大陸の清国やロシアと対峙することになったため、対馬は国境の最前線として国防上重要な拠点に位置付けられるようになりました。
そこで大日本帝国陸軍は、明治11年(1878年)に対馬分遣隊を編成(明治19年/対馬警備隊に改編)して防衛の任に就かせるとともに、明治20年(1887年)から沿岸防御の砲台(対馬要塞)の築城を開始しました。
一方海軍においては、明治23年(1890年)に敷設部と攻撃部からなる対馬水雷隊を配備、浅茅湾(あそうわん)南部の竹敷(たけしき)に基地を置きました。
日清戦争(明治27-28年)に勝利後、対馬の重要性はさらに増すことになりました。
陸軍は新たな防御計画を策定して対馬要塞の砲台増強を図りましたが、海軍は艦隊根拠地として浅茅湾を軍港に次ぐ重要な港(要港)に位置付け、明治29年(1896年)4月に竹敷要港部を設置して要港海域の防御を強化しました。なお「要港部条例」にて要港部は水雷敷設隊と水雷艇隊を置くことが定められましたので、従来の対馬水雷隊は要港部に編入されることになりました。
明治37年(1904年)初頭、ロシアとの関係悪化で戦争は避けられないものとなったため日本各地で開戦準備が進められました。対馬では陸軍の砲台への動員、海軍は望楼の増強、要港防御海面での水雷敷設と側防砲台の設置が急ピッチで行われました。そのような中で明治37年(1904年)2月9日、日露戦争が開戦しました。
日露戦争時の対馬全域図を掲載します。
対馬の上島と下島を隔てる浅茅湾は明治維新以降最も防御すべき海面となりましたが、日清戦争後は三浦湾まで防御エリアが拡大し、日露戦争では「防御海面令」に基づき、鶏知(けち)湾も含めた竹敷要港防御海面区域が開戦と同時に設定されました。
一方海軍望楼は、日清戦争時の明治27年に設置された神崎、韓崎以外の4ヵ所が日露開戦後に増築されました。
それでは竹敷要港防御海面区域をクローズアップしてみます。
地図が大きすぎて見難いですね(^^; クリックして見て下さい。
なお水雷衛所の名称ですが史料によってマチマチなので、防御海面の名称を冠名として仮置しました。
各地区ごとに拡大して見てみます。まずは浅茅湾と大口瀬戸。
浅茅湾口の大口瀬戸と竹敷要港部に繋がる単口に浮標水雷が敷設されました。浮標水雷とは火薬を詰めた球形の水雷罐を海面に沈置し、陸地の水雷衛所とケーブルで繋げておいて敵艦の通過に合わせてボタンを押してドカンと爆発させるヤツです。(細かいツッコミは無しでw
ちなみに敷設数は、史料によると大口に70個、単口に42個、三浦湾に31個、鶏知湾に35個、合計178個だったようです。
ちなみに浮標水雷はこんなのです。
対馬の鶏知住吉神社に奉納されていますが、帝国海軍が使った物ではなく日露戦争後に下付された戦利品かもしれません。
浮標水雷の敷設と合わせて側防砲台の構築も行われ、大口瀬戸防御の聖山第一、二、三砲台(12斤速射砲6門、47密重速射砲1門)は明治37年2月、芋崎砲台(47密軽速射砲4門)は10月に完成しました。また夜間に海面を照射する探海燈も3ヵ所に設置されました。
日露戦争時は第三艦隊が尾崎湾を根拠地としていました。
第三艦隊は常設の第一第二と違って必要に応じて編成する特設艦隊で、明治36年12月に編成され開戦後は連合艦隊に編入されました。老朽艦の寄せ集め部隊と言われていますが、戦時は上陸支援や哨戒任務に就き縁の下の力持ち的(?)に活躍しました。
第三艦隊旗艦を務めた「厳島」の15㎝副砲と推測される砲身。(美祢市)
陸軍の砲台は浅茅湾内5ヶ所にありましたが湾口には1つも設けられていませんでしたので、郷山、樫岳、多功崎の3ヵ所で戦時中に砲台工事が行われましたが、完成したのは戦後でした。
「威兵精鋭三塁成」と書かれた砲台築城の記念碑
冒頭に書いた通り陸軍の砲台はレポート済みですのでこちらからご覧下さい。
三浦湾と鶏知湾地区を拡大しました。
三浦湾には浮標水雷が31個敷設、側防砲台は47密軽速射砲6門、機砲5門でした。
ところで史料には機砲の名称が「一尹四連諾典砲」と書かれていました。聞いたこともなかったので調べたところ、イギリス製の1インチ4連ノルデンフェルト砲のことでした。手動で回して連射するタイプで、47㎜速射砲が世に出てからは消えていったようですね。
それにしても“諾典”は“のるでん”と読むのか(^^; 諾が“のる”と読むなんて知りませんでしたが、この文字はノルウェーの当て字である“諾威”にも使われています。
三浦地区には探海燈が1ヵ所でしたが、現地には格納庫の遺構が残っています。
後日詳しくレポートします。
最後は鶏知地区ですが、ここには陸軍の対馬警備隊司令部(のち対馬要塞司令部)が置かれ、重砲兵大隊と歩兵大隊が駐屯していましたので、鶏知地区の背後には陸戦用の3つの堡塁が置かれました。一方海軍の配備は、湾口に浮標水雷が35個敷設、側防砲台が根曾に47密軽速射砲7門(10月に芋崎に4門転用して3門となる)、太田埼に7.5拇克式山澤砲2門配備されました。
またよく分からない火砲が出てきましたが、“拇”はオランダ特有の長さの単位である“ドイム”を表しているそう。1ドイムは1㎝らしいので7.5㎝。そして克式はドイツ・クルップ社式のこと。山澤砲は、、、分からんw 有坂砲や山内砲、村田銃は開発者や改良者の名前をくっつけているので山澤砲も同じだろうけど。山澤静吾と言う陸軍軍人がいますが関係あるかは分かりません。
対馬重砲兵大隊(明治23年)→鶏知重砲兵大隊(大正9年)→鶏知重砲兵聯隊(昭和11年)→対馬要塞重砲兵聯隊(昭和16年)と変遷しました。
以上のように対馬では防衛態勢を敷いてロシアの艦艇出現に備えましたが、結果的に攻め込まれることはなく、日露戦争は明治38年(1905年)9月に日本の勝利で終わりました。
以上、日露戦争時の対馬の守りについて書いてきました。
次回から各地に残る遺構を紹介していきますが、本項で取り上げた場所の景色を掲載してお別れとします。
四十八谷砲台から浅茅湾内。単口と大口瀬戸の水雷敷設ラインを追記。
城山砲台から大口瀬戸、尾崎湾を望む。
深浦水雷艇基地跡。
見通鼻より三浦湾口。
上見坂堡塁から鶏知湾、三浦湾を望む。
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[参考文献]
JACAR(アジア歴史資料センター)
・極秘 明治三十七八年海戦史 第1編 防備/第5章 各要港の防備(Ref No.C05110105100)
・極秘 明治三十七八年海戦史 第4部 防備及ひ運輸通信 巻1、2別冊 第6号 竹敷要港防備図(Ref No.C05110106300)
・極秘 明治三十七八年海戦史 第3編 通信/第4章 望楼(Ref No.C05110109900)
・水雷隊配備表・御署名原本・明治二十三年・勅令第百七十九号(Ref No.A03020078000)
「現代本邦築城史」第二部 第二巻 對馬要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)
「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)
「明治期国土防衛史」(原著、錦正社史学叢書)
「対馬砲台あるき放題~対馬要塞まるわかりガイドブック」(対馬観光物産協会)
「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用