対馬海軍警備隊の概略はこちら。
浅茅(あそう)湾南側に面した美津島町竹敷(たけしき)に、警備隊本部と水上特攻基地が置かれました。周辺図を掲載します。
赤色と青色で記載したのは確認した当時の遺構、灰色は『引渡目録』に記載の要図から転記しました。
竹敷は明治29年(1896年)に海軍初の要港部が設置された場所です。竹敷要港部は隷下に水雷艇隊と水雷敷設隊を編成し、日露戦争(明治37-38年)では対馬の防備に努めるとともに海戦にも参加しました。要港部は大正期に廃止されましたが、大東亜戦争末期の昭和20年(1945年)5月頃に新設された対馬警備隊がこの地に進出してきました。なお上記見取図を見ると本部にしては建物が少ないと感じますが、進出して設営しようとした矢先に敗戦を迎えたためです。
警備隊の本部機能は水雷敷設隊が基地とした深浦の地に置かれましたが、跡地に残る石垣で作られたドックは平成23年(2011年)に「深浦水雷艇隊基地跡」として土木学会の「日本近代土木遺産」に指定されました。
そんな名誉を受けているので観光地化されているだろうと行ってみたら案内看板もなく、「え?ここのことなの?」って思わず口に出てしまうくらいの未整備ぶりです。そもそもこの場所までの道がよく分からんって言うね(^^;
では石垣で作られたドックを見ていきます。いわゆる「すべり」です。
海に向けて石垣がずっと伸びています。
先の方まで歩いていきますが、山側にもところどころに石垣が残っています。
この石垣の上は平坦地となっており、司令舎や事務室があった場所となりますが、戦後耕作地となっていたようで建物基礎などの遺構は確認できませんでした。
Rが美しいです(*´Д`)
階段も何ヶ所か設置されています。
対岸にも石垣が残っています。
あちらの陸地には電信室と水槽が記載されています。探索していませんが遺構は残っているのかな。
係船柱(ボラード)も当時の物でしょうね。今でも使われています。
だいぶ先まで来ました。振り返って見る。
まだまだ石ドックは続きます。
石ドックはこれくらいにして陸地側に目を向けます。
まぁ陸を見ても石垣なんですが(^^;
開口部の用途はよく分かりません。
建物基礎が現れました。『引渡目録』で士官室と書かれた場所にあるので、周辺図でもそのように記載しました。
反対側からも見てみます。
古そうな瓶が転がっています。
DAINIPPON BREWERYの刻印。大日本麦酒のビール瓶ですね。旧軍遺構を探索するとよく転がっていますが、昭和24年に解散されるまでビール業界を独占していた会社ですので、多く見かけるのは当然かもしれません。
ちなみに解散後は2社に分割され、アサヒビールとサッポロビールとして今に至っています。
士官室に隣接して水槽があります。
2槽式の横に長い水槽です。
この先は少々荒れているので探索はココで終了して引き返しましたが、さらに進むと弾火薬庫があった浜辺、さらにその西側は陸軍の弾薬本庫に繋がっていたようです。
なお水上特攻基地ですが、『引渡目録』を見ると爆雷や弾薬の貯蔵ばかりで、肝心の兵器に関しては言及されていません。震洋を配備する計画だったのかもしれませんが、進出前に終戦を迎えたのでしょう。
今回は特攻基地跡を探索していませんが、どうやら数多くの横穴洞窟が掘られていたようですので、残っているかどうか次回訪問してみたいと思います。
以上、警備隊本部と水上特攻基地でした。
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[参考資料]
「昭和20年9月30日 引渡目録 対馬警備隊」(Ref No.C08011397300~C08011400800、アジア歴史資料センター)
「2 対馬警備隊所有総数量(2)施設」(Ref No.C08011397300、アジア歴史資料センター)
「引渡目録 訂正表」(Ref No.C08011051500、アジア歴史資料センター)
「国土地理院地図(電子国土web)」を加工して使用