先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。

 

小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。

 

壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。

 

島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです。島に滞在できるのは3時間15分ほどですので、慌ただしく感じるかもしれません。

 

市営渡船のニューおろしま。

 

遺構は島の北側にありますので、上陸後は北に向かって歩いて行きます。

 

道沿いに残る陸軍境界標

 

高台に小呂島小中学校が見えますが、戦時中は海軍防備衛所の棲息施設が置かれていました。なお後方のピークに砲台、右側に衛所があります。

 

学校東側の道を進みます。

 

この道から支道に入ると海軍望楼(防備衛所)や弾薬庫を見ることができますがお堂まで進みます。ちなみに上陸してココまで約20分です。

 

お堂の場所で行き止まりになりますが、白い矢印の藪を突き抜けると砲側庫入口に、赤い矢印のお堂裏を直登すると第1砲座に行くことができます。

 

お堂裏に入るとコンクリートの瓦礫が残っています。建物でもあったのかな?

 

ちなみに、砲台には校庭を抜けて校舎裏から入る別ルートもあります。こちらの方が難易度は低いですね。

 

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遺構の場所を地図に示しました。

 

陸軍は標高90m周辺に砲台、その後方に弾薬支庫、さらに北端高地に電燈所を擁していました。また海軍は標高109m高地に衛所を置いていました。弾薬支庫と防備衛所はブログで紹介済みですが、電燈所は次回レポートします。

 

弾薬支庫の記事

 

防備衛所の記事

 

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昭和12年(1937)3月20日に竣工した小呂島砲台は、下関要塞大島砲台、壱岐要塞名烏島および黒崎砲台と協力して、玄界灘における敵艦の行動我が海上交通を援護することが任務でした。

備砲は四五式十五糎加農 改造固定式で、起工当初は2門を備える予定でしたが、その後変更となり4門編成で竣工しました。

 

改造固定式の大射角姿勢 (「日本陸軍の火砲 要塞砲」より引用)

 

砲台の簡単な履歴です。

◆起工:昭和10年(1935)4月15日

◆竣工:昭和12年(1937)3月20日

◆備砲:四五式十五糎加農 改造固定式  4門

◆備砲完了時期:2門/昭和10年8月31日、2門/昭和11年9月10日

◆射撃の首線:真方位0度(真北)

◆砲座標高:85m乃至90m

◆壱岐要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年11月、最新/2024年4月

 

見取図を描きましたので掲載します。

 

4つの砲座と地下砲側庫が現存していますが、右翼側の第1・第2砲座は藪に埋もれています。また砲台西側には北方の電燈所に向かう交通路が伸びています。

 

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それでは左翼側から遺構を見て行きます。

校舎裏から上がると道沿いにコンクリート製の円形窪地があります。

 

コンクリートで縁取られたすり鉢状の凹みです。壱岐要塞生月砲台でも同じような物がありましたが何でしょう?機銃座だったのだろうか?

 

地元の小学生が立てた看板があります。看板右側は第4砲座、左側は電燈所への交通路が下っています。

 

看板の西側に「左限界」標柱が植設されています。

 

標柱は第4砲座の左側にありますので左射界の制限を表していると思われます。ただ、これまで「左射界」や「左視界」は確認しましたが「左限界」は初めて見ました。

 

参考までに、「左射界」(下関要塞観音崎砲台)

 

「左視界」(対馬要塞西泊砲台)

 

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第4砲座です。

 

コンクリート製胸墻に2ヵ所の階段が設けられています。各地に残る十五糎加農砲座でよく見られる構造です。

 

十五糎加農の据付部分です。砲床は全体がコンクリートだったと思われますが、破壊されて瓦礫が転がっています。

 

おそらくこれと同型かと。(下関要塞大島砲台)

 

砲座の右前方にコンクリート柱が転がっています。

後ほど掲載しますがコレと同じ物が第3砲座右前方に立っていますので、おそらく射撃に関わる標柱だったのではないかと思われます。

 

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石積みされた道筋を辿って第3砲座に向かいます。

 

第3砲座です。

 

火砲据付部の砲床です。

 

胸墻に白ペンキで書かれた数字(22、24、26)が残っています。

 

第3砲座内には第4砲座で見られなかった段差がありますが、確認したところ内側の第2砲座と第3砲座が段差あり、外側の第1砲座と第4砲座が段差なしでした。

段差の形状は堆積物により不明ですが、おそらく下関要塞大島砲台(下記写真)と同型の二段構造だったのではないでしょうか?


さて昭和10年2月の史料には、「砲座は二門分を築設し、所要に応じ更に二門分を増加し得る如く考慮す」と書かれています。この2か月後から砲台の工事が始まりましたが、同年11月には砲座を増設することが決まりました。よって砲座は追加で2つ構築されたわけですが、現存する砲側庫の位置から考えると、内側の2砲座が当初の砲座、外側の2砲座が追加の砲座だと推測されます。ただ、なぜ砲座は内と外で異なる形状で造ったのでしょうか?


備砲の四五式十五糎加農の固定砲床型には「改造固定式」「改造固定式㊕」と言う2種類が存在しました。

『日本陸軍の火砲 要塞砲』に掲載の図面では、「改造固定式」が“段差なし”の砲座、「改造固定式㊕」が“段差あり”の砲座と見て取ることができますので、最初は各々2門ずつ据え付けたのではないかと思いましたが、複数の史料にて「備砲は改造固定式 4門」であることが確認できますのでそれは違うかと。

当初「改造固定式㊕」を据付予定が「改造固定式」に変更になったので、追加の砲座は“段差なし”で造られた...と考えるのがスムーズですが、推測の域は出ません。

 

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砲座の考察は終わりにして...。

第3砲座右前方に小隊長位置と思われる石積みの囲いが見られます。

 

砲座右前方直下にコンクリート柱が立っています。射撃の目安となる標柱かと思われますが詳細は不明です。

 

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砲台の右翼側は藪に埋もれていますが見に行きます。

 

第2砲座です...ってどこに?w

 

藪に突入して砲座内へ。2段構造の胸墻を確認しました。

 

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第2砲座東側に平坦の窪地がありますが、これを越えると第1砲座です。階段と胸墻がかろうじて見えます。

 

砲座内から階段。胸墻の形は最左翼の第4砲座と同型です。

 

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砲座は以上ですが、第1砲座の右側には交通壕で繋がった複数の掩体が残っています。

 

見取図を再掲。

 

窪地は写真ではなかなか伝わりにくいので、円形っぽい掩体の1枚だけ掲載します。

 

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次は地下に設けられた砲側庫を見に行きます。

地下には砲具置場、砲側庫(弾丸置場)、砲側庫(弾丸置場)、砲具置場の並びで4室が設けられていますが、この造りは各地に残る十五糎加農砲台でよく見かける構造です。

 

それでは左側の入口から入ります。

 

鉄扉が付いていた箇所は崩されていますが、蝶番が残ります。

 

入って左手の部屋、砲具置場です。

 

「砲具置場」の文字が鮮明に残っています。

 

砲側庫が2つ開口しています。

 

内部を見ていますが、砲側庫は2つとも同型です。

 

砲側庫内に九州・山口ではお馴染みのサクラビールの瓶が転がっています。

 

砲側庫対面の壁に「弾丸置場」の文字があります。

 

文字は2つの砲側庫の真ん中あたりに描かれています。

 

並びの一番右側にある砲具置場です。

 

右側の入口から退出します。

 

入口を出ると通路はカーブしています。

 

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他地域の砲台を見ると1つの砲座に砲側庫が1つ付属しているのが基本だったようですが、小呂島砲台は4砲座に対して2つの砲側庫しか残っていません。もしかして見逃したのかと思い今回の再訪で確認しましたが、やはり存在しませんでした。

現存する2つの砲側庫は、位置的に考えると2段構造の胸墻を持つ第2砲座と第3砲座の付属だと思われますので、追加で構築された外側の第1砲座と第4砲座の砲側庫が無いことになります。

昭和10年11月の史料には、「十五加二門の砲座を増設す但し之に伴う附属設備は努めて省略す」と書かれていますので、砲座は2つ追加したけれども附属する砲側庫は造られなかった...と読み取ることができますが、他地域の十五加砲台ではもれなく1砲座に1砲側庫が付属していますので、若干腑に落ちないところです。

 

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最後に観測所が置かれていたと思われる場所を見てみます。矢印の所です。

 

こんもり盛り上がっていますが瓦礫は転がっていないんですよね...。

 

史料には「観測所は砲台附近とし、八九式砲台鏡に依る射撃設備を具備す」と書かれています。観測所が存在しなかったとは考えられないので破壊されたのでしょう。

 

下関要塞大島砲台のような観測所が置かれていたと推測してみる...。

 

以上、小呂島砲台の再訪記でした。

 

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[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第十七巻 壱岐要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「日本陸軍の火砲要塞砲」(佐山二郎著、光人社ノンフィクション文庫)

「壱岐要塞兵備資料」(防衛研究所)

「壱岐要塞小呂島砲台備砲工事実施の件」(Ref No.C01004055900 アジア歴史史料センター)

「備砲工事実施の件」(Ref No.C01004236300 アジア歴史史料センター)