田向山電燈は田向山砲台に隣接して明治28年(1895)に設けられました。

『日本築城史』によると「電灯は可搬式90センチ探照灯で、照明所は左翼砲座西北方170メートル(左観測所からも西北方90メートル)標高50メートルの海岸寄りに位置選定した」と書かれています。

電燈の任務は夜間時の警戒と、敵の侵入時において敵艦艇を照射して射撃を援助することにありました。明治期の下関要塞では田向山、老ノ山、門司(和布刈)の3か所に電燈を設置していましたが、現存するのは田向山電燈だけとなります。

 

田向山電燈の履歴を掲載します。

◆起工:明治28年(1895)5月1日

◆竣工:明治28年(1895)12月31日

◆装備:九十糎射光機、電燈座、電話室、圬堵造地下室、機関舎

◆経過:

・明治34年(1901) 電話室増築

・昭和2年度(1927) 「改造ス式九十」に改造

・昭和5年(1930) 電燈の光力増大・俯仰角改造、蒸気からディーゼル機関に改める

・昭和13年(1938)9月8日 全部除籍

※明治期の下関要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年6月、最新/2024年2月

 

見取図です。

 

遺構については、射光機を配置する電燈座(照明座)と電燈に電力を供給する電燈機関舎が現存していますが、電燈座には他地域では見られない照射方向を示す文字が残っています。なお圬堵造地下室と言った部屋(他地域の電燈で見られる操作室用途の掩蔽部のことか?)もあったようですが、残念ながら確認することができませんでした。

 

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では第6砲座後方から左の道を下って電燈座を見に行きます。

 

舗装路から外れて左側の遊歩道に入ります。舗装路を下った方が楽に行けますが、遊歩道は当時の交通路ですので歩いてみます。

 

路面は苔むしてズルッと滑りますのでご注意を(;'∀')

 

交通路の脇には排水溝が設けられています。

 

山側にも排水溝が見られます。見取図では“I”の位置となります。

 

 

広めのスペースがありますが見取図でも確認できますので当時の地形でしょう。

 

所どころに切通しのような小径があるのが気になります。

 

電燈座に到着しました。路面より若干低い場所に置かれています。

 

ちなみに照明座後方の交通路は戦後に敷かれた舗装路で分断されています。当時は赤線のような道筋だったかと。山も削られている感じですね。

 

舗装路直下に交通路の跡が残っています。

 

本来はこの交通路を通って右側から電燈座に入る形でした。

 

電燈座直前に石積みが見られますが、左右で積み方が異なるのが気になります。

 

電燈座に入りました。

 

こんな感じで進入。

 

説明書きがあります。

 

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それでは電燈座を詳しく見ていきます。

 

内壁はレンガ積み、円形部分の外周と電話室(仮)はコンクリート造りです。

 

円形部分が射光機を配置した電燈座です。床面の凹みは電燈井ですが内部は埋もれています。この件は後ほど考察します。

 

正面より。

 

観測所と同様にコンクリート製の円盤は萌えますね(*´Д`)

 

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電燈座手前に凹みスペースがあります。多くの電燈座に同様の凹みが設けられていますが、おそらく電話室だったのではないかと思われます。

 

金具が削り盗られた痕があります。この上に掩蓋が付いていて、まさに電話ボックスのような感じだったかと。

 

電燈座を後方から見ていますが、特筆すべきが矢印の箇所です。

 

照射方向を示す地名が残っています。これは他地域の電燈所では見られないので大変貴重です(・∀・)

 

照射方向は14か所。右側(東側)から順に番号を附してみました。

 

一つ一つ簡単に説明します。

 

①矢筈山(やはずやま)

門司区にある標高266mの山。明治31年に堡塁を築城。

②大里(だいり)

明治22年に柳ヶ浦村発足。明治41年に大里町へ。門司市に編入され現在は門司区。

③古城山(こじょうさん)

門司区和布刈にある標高175mの山。明治23年に砲台、明治28年に堡塁を築城。

④与次兵衛燈台(よじべえとうだい)

関門海峡の大瀬戸にあった与次兵衛ヶ瀬(暗礁)に明治22年に設置された挂灯立標。

⑤火ノ山(ひのやま)

下関市にある標高268mの山。明治24年に砲台を建設。

⑥鳴瀬燈台(なるせとうだい)

下関市彦島弟子待(でしまつ)にあった挂灯立標。明治22年設置。

⑦田ノ首村(たのくびむら)

下関市彦島にあった村。現在は田の首町。

⑧筋山(すじやま)

下関市彦島の標高60mの山。明治22年に砲台を建設。

⑨俎灯台(まないたとうだい)

下関市彦島田の首にある挂灯立標。明治22年設置。現存。重要文化財に指定。

⑩竹ノ子島西端(たけのこじませいたん)

彦島北西端に位置する島。

⑪藍ノ島西端(あいのしませいたん)

北九州市小倉北区に属する響灘に浮かぶ島。

⑫白連島(しられんしま)

北九州市小倉北区に属する響灘に浮かぶ島。男島と女島の2島で白島と呼称。

⑬名古屋岬(なごやみさき)

北九州市戸畑区にあった岬。埋め立てにより消滅。

⑭小倉/防波堤(こくら/ぼうはてい)

現北九州市小倉北区。明治22年・小倉町、明治33年・小倉市。防波堤の場所は不明。

 

照射方向14か所を地図に記してみました。

 

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ところで④の与次兵衛燈台ですが、刻まれている文字では「共(?、もしかして與?)次兵エ燈台」としか読めません。ただ、③古城山と⑤火ノ山の間に位置する灯台であること、そして字づらから見て与次兵衛燈台だと判断しました。

 

先ほども書いた通り与次兵衛ヶ瀬は関門海峡の大瀬戸にあった暗礁です。干潮時だけ海面に岩姿を現す暗礁で「死の瀬」として恐れられ、海難事故も多かったようです。1592年には豊臣秀吉を乗せた船が座礁し、船頭だった明石与次兵衛は打ち首(自刃説もあり)となりましたが、1670年に地元民が暗礁に石塔を建て、与次兵衛ヶ瀬と呼ばれるようになりました。

明治期に入ると、石塔と替えて明治4年に立標を建設、明治22年には揮発油灯を挂げた挂灯立標を新設しました。おそらくこれが電燈座に刻まれた「与次兵衛燈台」でしょう。その後暗礁は、関門海峡改良工事にて大正7年に除礁されました。

ちなみに当初建てられた石塔は門司の和布刈公園に置かれています。

 

シーボルトが書いた与次兵衛ヶ瀬の石塔 (門司の歴史ものがたり(下)より引用)

 

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では電燈座の紹介に戻ります。

 

方形の凹みは電燈井ですが内部は埋もれています。

 

明治期の電燈配置は、平時は射光機を電燈井の下部に格納しておき、使用時に電燈座に引き揚げるスタイルを用いていました。なお『日本築城史』では以下の通り説明されています。

 

「昇降機井は1.4メートル×1.7メートルの矩形で、深さ5mの地下煉瓦造で、探照灯を載せた昇降機台が昇降する。地上には函形蓋があり、この蓋を開いて、昇降機台を地上4メートルの架台上に揚げて、照射するようになっていた」

 

大久野島南部電燈の説明看板にあるイラストが分かりやすいです。

 

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電燈所は要塞付属の補助建設物として各地の要塞に配備されており、これまで複数の現存を確認しています。地下(1階)に操作室となる掩蔽部、掩蔽部の奥に電燈井、電燈井の上(2階)に電燈座が遺構の基本形ですが、電燈井が埋もれているのは田向山だけで、さらに地下掩蔽部も見当たりません。史料には「圬堵造地下室」と記されていますので他地域と同様の掩蔽部が設置されていたと推察されるのですが、存在を確認することはできませんでした。

 

参考に芸予要塞来島北部電燈の写真を掲載します。

 

田向山にもこんな掩蔽部があって...

 

こんな見上げる電燈井があって...

 

落ちないようにハラハラしながら見下ろす電燈井があったはずなんですけどね。

 

ってか電燈井は埋もれてるだけであるんだった(^^;

埋没した理由は、公園整備の際に埋められたか、昭和期の射光機改造時に固定式とするために埋められたかのどちらかだと思われますが定かではありません。

 

ところで今「固定式」と書きましたが、電燈井がある以上射光機は「可搬式」だったと思います。ところが、防御営造物から除籍された昭和13年9月の史料には「改造ス式九十糎固定式射光機」と書かれていますので、昭和初期の射光機改造時に固定式に改変したのかもしれません。

 

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田向山の電燈井をもう少し詳しく見てみます。

 

先ほども載せた前方から見た電燈井ですが、矢印の所に昇降機台のレールの支柱と思しき方形の凹みが確認できます。

 

向かって左側。

 

向かって右側。

 

この凹みは他地域の電燈井にも残っています。写真は芸予要塞来島南部電燈です。

 

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以上のように田向山の電燈井にも昇降機台の設置があったことが分かりましたが、実は凹みの位置が他地域のソレと異なっています。

 

田向山の電燈井は、電燈座の出入口から見て右側に太い凸部、左側に細い凸部があり、その側壁に凹み(矢印)があります。

 

対して他地域の電燈井は、電燈座の出入口側に太い凸部、電燈座正面側に細い凸部があり、その側壁に凹み(矢印)があります。

 

上記写真では太い凸部側の電燈井下部に地下掩蔽部の出入口が開口しています。つまり掩蔽部は電燈座出入口に沿って地下に設けられていると言うわけです。上記は函館要塞立待電燈の写真ですが、他地域もこれに倣っています。

対して田向山電燈は太い凸部の位置が90度異なっていますので、地下掩蔽部が存在していたのなら以下のイラストで示す位置にあったと推定されます。

 

 

写真で示すと黄色線の位置だったのではないかと...。

 

ただこの位置には地下掩蔽部の痕跡は確認できませんでした。もっとも、この山の斜面は所どころ崩落しており法面工事の跡が見られますので、埋もれてしまっているのかもしれませんね。

 

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以上、電燈座だけでああだこうだと半ばどうでもいいことを考察してきましたが、自分的には書きたいことが書けて満足です(笑)

電燈機関舎の紹介は後編に回しますが、これまで確認した他要塞の電燈の記事を掲載しておきます。あらためて並べてみると田向山電燈は飛び切り古いのですね(・∀・)

 

下関要塞・田向山電燈(明治28年)

東京湾要塞・猿島電燈(明治28年ごろ)→→→

広島湾要塞・鷹ノ巣電燈/豪頭鼻電燈(明治33年)→→→

広島湾要塞・大君電燈(明治35年)→→→

芸予要塞・大久野島北部電燈(明治31年ごろ)→→→

芸予要塞・大久野島南部電燈(明治33年)→→→

芸予要塞・来島北部電燈(明治34年)→→→

芸予要塞・来島南部電燈(明治34年)→→→

由良要塞・生石山電燈(明治33年)→→→

由良要塞・友ヶ島電燈(明治34年)→→→

長崎要塞・神ノ島電燈(明治34年)→→→

対馬要塞・芋崎電燈(明治33-34年)→→→

対馬要塞・折瀬ヶ鼻電燈(明治35年)→→→

函館要塞・立待電燈(明治35年)→→→

函館要塞・穴澗電燈(明治35年)→→→

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「工兵方面より 田向山電燈建築の件」(Ref No.C03023042500 アジア歴史史料センター)

「工兵方面本部より 田向山電燈建築工事竣工延期の件」(Ref No.C03023052000 アジア歴史史料センター)

「工兵方面より 田向山電燈建設費増額の件」(Ref No.C03023052200 アジア歴史史料センター)

「下関要塞電灯改造(老ノ山、門司、田向山)並増築工事引き渡済の件」(Ref No.C01003911000 アジア歴史史料センター)

「要塞電燈改造に関する件」(Ref No.C01002605900 アジア歴史史料センター)

「下関要塞防御営造物除籍の件」(Ref No.C01004457300 アジア歴史史料センター)

「田向山等の電灯付属電話室増築の件」(Ref No.C02030441400 アジア歴史史料センター)

「補助建設物解除の件」(Ref No.C03011503900 アジア歴史史料センター)

「下関要塞防禦営造物除籍利用に関する件」(Ref No.C01006144500 アジア歴史史料センター)

「廃止予定砲台補助建設物除籍の件」(Ref No.C01006566400 アジア歴史史料センター)

「下関海峡の灯台 -明治期の航路標識の整備- 戸島 昭」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「門司の歴史ものがたり(下)」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「彦島あれこれ」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)