その5では砲台両翼に残る観測所と思しき遺構を見て行きます。

 

 

(関連記事)

下関要塞探訪138 ~筋山砲台 その1(概略と後方施設) -書換-

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下関要塞探訪141   ~筋山砲台   その4(砲座) -書換-

 

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さて明治期の堡塁砲台の観測所と言えば、円形コンクリート掩体に鋼製掩蓋が載った測遠機室と、司令室(通信室)となるレンガ積み掩蔽部が1つ付属している所がほとんどです。参考に佐世保要塞丸出山堡塁の観測所の写真を掲載します。

 

掩蓋の残る測遠機室。

 

司令室と測遠機室に昇降する石段。

 

史料などを検証すると、このような観測所のスタイルは明治30年前後から築設され始め(“明治30年製観測所”と称す)、これ以降に着工された堡塁砲台は設備の一つとして設計に盛り込まれたようです。また明治30年以前に築城済みの堡塁砲台には増設と言う形で新たに付け加えられました。

 

筋山砲台は明治22年竣工ですので後者となりますが、このスタイルでの観測所は見られず、その代わりに切石で囲われたスペースが残っています。“明治30年製観測所”とは全く異なる形状ですが、海側の射撃方向に開口する部屋があること、砲台両翼の高い位置に置かれていること、『日本築城史』に「両翼に観測所を設けてある。」との記載も見られることから、この遺構は明治30年以前に築設(竣工時に築設かも?)された観測所だと推測しました。

 

ちなみに、同時期に竣工した田向山砲台や笹尾山砲台には“明治30年製観測所”が現存していますが、なぜ筋山砲台は新たな観測所に更新されずに古いタイプのままだったのでしょう?

史料では確認が取れないため理由は不明ですが、いわゆる“旧式観測所”が現存しているのは知る限り筋山砲台だけですので非常に貴重な遺構であると言えます。

 

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それでは第1号砲側庫の右上方に位置する右翼観測所から見て行きます。

 

冒頭の見取図から観測所部分を拡大して掲載します。


切石で囲われたスペースで、方形部分が観測室だと思われます。天井となる掩蓋は無筋コンクリートだったようですが、破壊されて瓦礫が転がっています。

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石段の上から前室を見下ろしています。

 

堆積物で段差が見えませんが石段です。

 

前室南東側の端っこに排水管があります...ってか伝声管だったりして(^^;

 

排水管の横に横長のコンクリートが置かれていますが用途は不明です。

 

なんだろう?少なくとも竣工当時の物ではなさそうな感じ。

 

この向こうは崖で眼下に砲台の塁道と第1号砲側庫が見えるので、転落防止で置いたのかもしれませんね。

 

なお、塁道から観測所に上がる道(階段)は確認できませんでした。塁道側から崖を見ると崩落していますので、もしかしたら崩れて埋もれているのかもしれませんね。

 

第1号砲側庫前の塁道から観測所を仰ぐ。

 

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では観測所内に戻って...前室から観測室に向けて道が伸びています。

 

積石の上には観測室の天井を覆っていたであろう無筋コンクリートの掩蓋が乗っかっていますが、破壊されているので原形は留めていません。

 

掩蓋の裏側には何本もの線?が彫られています。木材でも嵌めていたのかな?

 

来た道を振り返って前室側を見ています。

 

床面には破壊された掩蓋の瓦礫が転がっています。そして観測所には付き物のカマボコ型の凹みがあります。物置と勝手に名付けていますが、コレって正式名称はなんて言うのだろう?

 

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観測室です。内壁に物置が2つ確認できますが、内部は掩蓋の瓦礫と堆積物で埋もれています。

 

観測室は海側に向けて開口しています。おそらくこれが観測窓で、スリット窓のようになっていたのでしょう。

 

観測窓の横にある小窓を見ています。上に乗る掩蓋ですが、爆破されて位置が変わってこの上に乗った感じですね(^^;

 

観測室内部には測遠機が置かれていた痕跡は確認できませんが、砲座標高は40mと低く眼の前がすぐ海面ですので、測遠機は置かずに砲台鏡を代用しての直接視認による観測にて射撃を行う形だったのかもしれませんね。

 

砲台鏡のイラスト(要塞砲兵観測教範草案より引用)

 

 

観測室を前方から見ていますが、観測窓の砲座側は斜めに開口しています。

 

角度を変えて。

 

観測室前方に掩蓋の瓦礫が転がっています。手前の瓦礫が掩蓋の先端かな。

 

観測室を後方から見下ろしています。

 

先ほども書きましたが、“旧式観測所”が残るのは知る限り筋山砲台だけですので、掩蓋部分が破壊されていることが本当に惜しいです。

 

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次は左翼観測所を見に行きます。

 

左翼観測所は第6砲座左横の翼墻上にありますが、右翼観測所よりも小規模に作られています。観測所ではなく砲台長位置のように見えますが、横に長い砲座群の観測をカバーするには右翼1か所では不十分です。しかも右3つと左3つの火砲の射撃方向が異なっているので尚更両側に必要かと。『日本築城史』にも両翼に観測所が置かれたことが書かれていますので、この遺構は左翼観測所と推測しました。

ただ、あくまで右翼側が主観測所で、左翼側は補助観測所だったかもしれません。

 

位置関係を再度確認します。

 

左翼観測所は第6砲座に近接して配置されています。

 

砲座側から観測所を見ています。掩蓋で覆われていたようですが破壊されています。

 

上から見ると構造がよく分かります。

 

方形に囲われたスペースが観測室で、砲座とは反対側に出入口があります。砲座側に開口部がありますが、当時は積石されており後世に壊されたかと。

 

観測所と砲座は非常に近いです。

 

掩蓋の瓦礫には右翼観測所の瓦礫と同じく凹み線が確認できます。

 

凹み物置が前方に1か所設けられています。

 

出入口ですが、ここまでに至る道筋は確認できませんでした。

 

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左翼観測所は以上ですが、観測所の裏手に回ると用途不明の遺構があります。

 

パッと見てお偉方の立ち位置かと思いましたが、ここに立っても山の斜面で何も見えないんですよね。

 

不明遺構の右側にはこの場所に昇降する石段が設けられています。

 

石段を上がると第6砲座後方の土塁に上がりますが、そこにはコンクリートの瓦礫が残っていました。なんだろね?

 

石段を上がった先はこんな位置です。

 

以上、5回に亘ってお送りした筋山砲台の記事書き直しを終わります。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「金比羅山堡塁監視路及弾室等増築の件」(Ref No.C02030432700 アジア歴史史料センター)

「田の首崎砲台外6ヶ所装薬調整所等建築の件」(Ref No.C02030453200 アジア歴史史料センター)

「演習用重砲備付の件」(Ref No.C07041867200 アジア歴史史料センター)

「下関砲台筋山砲台砲床工事落成に付報告」(Ref No.C10060492900 アジア歴史史料センター)

「工2より 筋山砲台建物売却の件」(Ref No.C07050446800 アジア歴史史料センター)

「縦速計算尺備付の件」(Ref No.C07072837300 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「工兵方面より 筋山砲台へ弾薬補給庫増築の件」(Ref No.C03023044700 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「参貞第1057号第1」(Ref No.C07081451300 アジア歴史史料センター)

「工2より 下関各砲台監守衛舎新築改築の件」(Ref No.C07050416900 アジア歴史史料センター)

「廃止予定砲台補助建設物除籍の件」(Ref No.C01006566400 アジア歴史史料センター)

「要塞砲兵観測教範草案」(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)