その3では砲側庫の考察を行います。

 

 

前回紹介した通り、筋山砲台には6つの砲側庫が現存しています。要塞築城初期の明治21年着工ですので、レンガの積み方はフランドル(フランス)積みが基本なのですが、なぜか第一号と第二号砲側庫はイギリス積みとなっています。さらに第一号に至っては天井穹窿アーチがレンガではなくコンクリート仕上げでした。

 

写真で比較。

 

さて、なぜこのような違いが生じたのでしょう?

アジ歴を検索したところ、砲側庫に言及した明治27年11月の史料がヒットしました。要約すると以下の通り書かれています。

 

「弾薬補給庫と備砲の数に違いがある」

「弾薬補給庫壱個を増設」

 

弾薬補給庫=砲側庫ですが、明治27年ともなればレンガの積み方はすべてイギリス積みに切り替わっていた時期であり、天井の穹窿部分もレンガから耐弾性の高いコンクリート施工になっていました。これらのことを踏まえると、第一号は明治27年以降に増設された砲側庫であると推測されます。

 

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ただ第一号はこれで解決したとしても、ではなぜ第二号もイギリス積みなのでしょうか?

 

破損部分から覗くレンガを見るとイギリス積みであることが分かります。

 

内部。

 

第二号は穹窿部分もレンガ積みで通気口の形も三号から六号と同一なので、側壁のレンガの積み方だけが異なります。そういった意味からも第一号とは趣を異にしているわけですが、理由がよく分かりませんので推測してみます。

 

明治22年竣工時点での砲側庫は4つだった(第三号~第六号)

→その後明治25年ごろに1つ増設した(第二号)

→さらに明治27年以降に1つ増設した(第一号)

 

明治25年ごろと言えば、レンガの積み方がフランドル積みからイギリス積み、穹窿部分がレンガからコンクリート、と言った具合に移行の過渡期でしたので、二号が本当に増設されたのだとしたら、壁はイギリス積みで仕上げたものの穹窿はレンガのままだった、、、と推測することができます。

 

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一号も二号も増設されたのなら砲側庫ドア上に掲げられた番号表記はどうなっていたのでしょう?

以下に番号が彫られた石をまとめてましたが、“第一号”の字体は他の5つと異なっています。また“第三号”の“三”は上に寄り過ぎている感じがしますので、“一”に2本線を追加して“三”にしたのかも。右翼側の砲側庫2個が増設なら、三号が元々の一号だったと言えますからね。

 

 

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次の疑問は、6個の砲側庫の内で偶数番号の二号、四号、六号の横墻上にコンクリートの瓦礫と石積が見られることです。

 

第二号です。白い矢印の所に平たいコンクリートの瓦礫が乗っています。黄色い矢印は横長の石積です。

 

横墻上に上がって石積を見ています。

 

コンクリートの瓦礫はこちら。

 

第四号です。

 

四号横墻上の石積み。

 

コンクリートの瓦礫。

 

3つ目は第六号です。

 

石積みの手前の床面にコンクリート平板が張られているように見えます。

 

写真は第五号ですが、一、三、五号の奇数には瓦礫も石積も見られません。

 

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さて、二、四、六号に残る瓦礫と石積はなんでしょう?以下2点を推測してみました。

 

1つ目は、「横墻を跨ぐ通路が設置されていた」と言うことです。

コンクリート部分は割れて破損していますが、パッと見で通路のように見えますので、横墻の“通路”を通って砲座間を行き来していたと推測できます。

ただ、最右翼の一号は片側にしか砲座がないので“通路”が設置されていなくても頷けますが、三、五号は二、四、六号と同じ条件ですので、“通路”が無い理由がよく分かりません。

 

2つ目は、「近接射撃用の歩兵胸墻が設けられていた」と言うことです。

敵が砲台前に接近もしくは上陸して攻めてきた時に、この場所で歩兵が銃を構えて迎え撃ったのではないかと。そのような用途での“歩兵胸墻”は他の砲台でも設置されています。

 

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以上で砲側庫の考察はおしまいです。

ちなみに、大瀬戸防御の4砲台(田向山、田ノ首、笹尾山、筋山)は明治20~21年のほぼ同時期に起工されましたが、田向山と笹尾山に現存する砲側庫は筋山と同型に見えますので、同じ設計の下で造られたのでしょうね。

 

田向山の砲側庫。

 

笹尾山の砲側庫。内部もフランドル積みでした。

 

田向山と笹尾山の砲側庫の上部には御影石が並んで積まれています。筋山の砲側庫では見られませんが、上部はいずれも破損・剥ぎ取られていますので、おそらく当時は積まれていたと思われます。

 

 

以上、その3は終了です。その4では砲座を見て行きます。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「金比羅山堡塁監視路及弾室等増築の件」(Ref No.C02030432700 アジア歴史史料センター)

「田の首崎砲台外6ヶ所装薬調整所等建築の件」(Ref No.C02030453200 アジア歴史史料センター)

「演習用重砲備付の件」(Ref No.C07041867200 アジア歴史史料センター)

「下関砲台筋山砲台砲床工事落成に付報告」(Ref No.C10060492900 アジア歴史史料センター)

「工2より 筋山砲台建物売却の件」(Ref No.C07050446800 アジア歴史史料センター)

「縦速計算尺備付の件」(Ref No.C07072837300 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「工兵方面より 筋山砲台へ弾薬補給庫増築の件」(Ref No.C03023044700 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「参貞第1057号第1」(Ref No.C07081451300 アジア歴史史料センター)

「工2より 下関各砲台監守衛舎新築改築の件」(Ref No.C07050416900 アジア歴史史料センター)

「廃止予定砲台補助建設物除籍の件」(Ref No.C01006566400 アジア歴史史料センター)

「」(Ref No. アジア歴史史料センター)