筋山砲台の記事は2020年の初訪問後に書きましたが、その後何度も訪れて新しい発見や疑問点も浮上しましたので、今回考察を交えつつ書き直すことにしました。

 

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関門海峡(下関海峡) は周防灘方面の北東部と響灘方面の西南部に出入口を持っています。明治期の下関要塞は敵艦の海峡侵入を阻止することが主任務でしたが、海峡がカーブする西南部出入口の大瀬戸(大迫門)には、北側の下関市彦島と南側の北九州市小倉北区/門司区に4つの砲台が設けられました。

 

田ノ首砲台:明治21年12月28日竣工 加式鋼製二十八口径二十七糎加農 4門

筋山砲台 :明治22年8月31日竣工 二十六口径二十四糎加農 6門

田向山砲台:明治22年3月31日竣工 二十四糎臼砲 12門

笹尾山砲台:明治22年9月30日竣工 二十八糎榴弾砲 10門

 

地図で場所を示します。

 

筋山砲台(すじやま)砲台は現在の下関市彦島塩浜町の丘陵地(標高40m)に築城されました。当初は丘陵地の西側に位置する大山(標高112m)に建設する予定でしたが、射撃に不都合が生じたため明治20年(1887)9月に筋山へ変更され、翌年4月に建設が始まり、明治22年(1889年)8月31日に完成しました。

備砲は二十六口径二十四糎加農 6門で、据付が完了したのは砲台完成から7年後の明治29年4月でした。明治37-38年(1904-05)の日露戦争では戦備に就きましたが、戦勝後は沿岸防御の見直し機運が高まり、大正8年(1919)の要塞整理にて廃止が決定されました。

 

筋山砲台の簡単な履歴です。

◆起工:明治21年(1888)4月4日

◆竣工:明治22年(1889)8月31日

◆備砲:二十六口径二十四糎加農 6門(備砲完了:明治29年4月)

◆砲座設置標高:40m

◆廃止:

・大正8年 (1919)要塞整理要領にて廃止決定

・昭和10年(1935)3月12日 防御営造物より全部除籍

◆特記:明治40年(1907)、旅順重砲兵大隊演習用に送付のため備砲2門を撤去

※明治期の下関要塞の概略はこちら→→→

※訪問:初回/2020年3月、最新/2024年1月

 

芸予要塞来島北部砲台の二十六口径二十四糎加農

(愛媛県今治市小島の桟橋休憩室に掲示の写真より引用)

 

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筋山砲台と田ノ首砲台の見取図を描きましたので掲載します

 

筋山砲台と田ノ首砲台は近接しており、その後方谷地には2つの砲台に弾薬を供給する仮屋ヶ迫(かりやがさこ)弾薬本庫が置かれていました。筋山の遺構はよく残っていますが、田ノ首や弾薬本庫は戦後の再開発で消滅しました。

なお筋山砲台の北側高地には昭和期の照空陣地の跡が残っています。

 

ちなみに1947年の空中写真で見るとこんな感じ。鮮明に写っていますね。

 

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上記見取図から筋山砲台を拡大します。

 

二十四糎加農の6つの砲座と砲側庫が横並びに置かれており、両翼には観測所と思しき遺構が残っています。『日本築城史』には「砲列は折線をなし、第1ないし第3砲座火砲の首線はSW50度、第4ないし第6砲座火砲は一直線上にあって、その首線はSW30度である。射界はいずれも120度である。」と書かれています。

また砲台後方には付属建造物が置かれていましたが、地形はなんとなく残っているものの建物基礎など建造物の痕跡は確認できませんでした。

 

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それでは現地に向かいます。

上記見取図での緑線は当時の軍道で現在は舗装路となっていますが、この道沿いから山に入るとすぐに砲台敷地となります。立入禁止の表示はありませんが、入山は自己責任にて。

 

金網フェンスのある辺りが当時の砲台入口です。手前の柵の内側が見取図に描いたAの建造物が建っていた平坦地となります。

 

Aの平坦地に入ると横長に掘開された削平地のように見えます。

 

コンクリートの瓦礫が積まれています。

 

道筋を伝って敷地の中へ入っていきます。

 

所どころに建物があったことを窺える瓦礫が転がっています。

 

サクラビールの瓶の底部が転がっています。

 

サクラビールは大正2年(1913)に帝国麦酒株式会社が販売を開始したブランドで、工場は現在の北九州市門司区にありました。帝国麦酒は昭和4年(1929)に桜麦酒株式会社と社名を変更しましたが、戦時中の昭和18年(1943)に大日本麦酒株式会社に合併されました。

 

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Bの平坦地は建物基礎はありませんが、端っこの交通路の脇に石積みと排水溝の跡が残っています。なお排水溝の両側はレンガ積みです。(赤矢印)

 

平坦地Cです。

 

井戸と何かの機器でも置いていたような台座があります。

 

八角形の井戸を真上から。1か所だけ穴が開いています。

 

平坦地Cの脇に石垣がありますが、この上は平坦地Dに繋がる交通路です。

 

平坦地Dに残る2つの丸い穴...木が抜けただけかも(^^;

 

平坦地Dから平坦地Cを見下ろしています。B→C→Dと段々に高くなっていることがわかります。

 

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筋山砲台の補助建造物ですが、『日本築城史』には「補助建家7棟を付属した。」と書かれています。史料では十分確認できませんが、以下の建物があったと推測しました。

 

監守衛舎:史料・明治25年に新築。それまでの仮衛舎は売却。

砲具庫

弾廠

装薬調整所:史料・明治35年7月に竣功図書進達

炸薬填実所:同上

厠圊

軽便鉄道格納庫

 

この内軽便鉄道格納庫はお隣りの田ノ首砲台に置かれていたことが分かっています。弾薬本庫からの弾薬の搬入に軽便鉄道が用いられたので格納庫が存在したと思われますが、田ノ首にあるなら筋山にもあっただろ的に加えてみました(^^;

 

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平坦地Dから西側に向けて上がる道筋が見えます。

 

こちらの道は史料に残る明治期の砲台図には記載がありませんが、この道を辿ると昭和期の照空陣地に繋がりますので、陣地建設に合わせて作った道だと思われます。

 

道を上がると平坦地Eがあります。ここは砲座後方の背墻裏側にあたります。

 

平坦地Eの端に背墻に上がる道筋が見えたので上がってみたところ、第2号砲側庫を挟んで第1砲座&第2砲座が眼下に見えました。

 

赤丸から見下ろしましたが、ちょうど砲座の塁道から背墻に昇降する石段が設けられた所になります。

 

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平坦地Eから照空陣地に向かう道を辿ってみます。道幅広めですね。

 

山側に上がる切れ込みが1か所ありました。

 

照空陣地に到着。着いたのは何らかの建物があったと思われる平坦地です。

 

照空陣地の紹介はこちらの記事をどうぞ。

 

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それでは一旦平坦地Cに戻って砲台施設に向かう道を辿ります。

 

緩やかに上がって行きます。

 

右カーブを取って進むと...

 

第六号砲側庫の前に出ました。

 

ここでその1を終了します。続きはその2にて。

 

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[参考資料]

「現代本邦築城史」第二部 第三巻 下関要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)

「明治期国土防衛史」(原剛著、錦正社)

「日本の大砲」(竹内昭, 佐山二郎 共著、出版協同社)

「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

「金比羅山堡塁監視路及弾室等増築の件」(Ref No.C02030432700 アジア歴史史料センター)

「田の首崎砲台外6ヶ所装薬調整所等建築の件」(Ref No.C02030453200 アジア歴史史料センター)

「演習用重砲備付の件」(Ref No.C07041867200 アジア歴史史料センター)

「下関砲台筋山砲台砲床工事落成に付報告」(Ref No.C10060492900 アジア歴史史料センター)

「工2より 筋山砲台建物売却の件」(Ref No.C07050446800 アジア歴史史料センター)

「縦速計算尺備付の件」(Ref No.C07072837300 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「工兵方面より 筋山砲台へ弾薬補給庫増築の件」(Ref No.C03023044700 アジア歴史史料センター)

「火砲据付報告進達の義に付申進」(Ref No.C10060959100 アジア歴史史料センター)

「参貞第1057号第1」(Ref No.C07081451300 アジア歴史史料センター)

「工2より 下関各砲台監守衛舎新築改築の件」(Ref No.C07050416900 アジア歴史史料センター)

「廃止予定砲台補助建設物除籍の件」(Ref No.C01006566400 アジア歴史史料センター)

「」(Ref No. アジア歴史史料センター)