5か月ぶりの壱岐要塞探訪です(・∀・)

 

的山大島(あづちおおしま)は長崎県平戸市の北方7㎞の沖合に浮かぶ島です。2回目の上陸となりますが、前回は島の南西部の砲台跡を探索しましたので、今回は北東部の観測所と電燈所を探してきました。

 

前回のブログはこちら。

 
壱岐要塞の概略。

 

『現代本邦築城史』によると、的山大島砲台は2つの観測所を備えており、1つは砲台に近い板ノ浦地区北方、もう1つは大根坂地区西北方に配置されていたようです。

今回探したのは大根坂の観測所ですが、大根坂西北の高地を地図で見てみると、平ノ辻(標高216m)と城ノ辻(208m)の2か所となります。そこでこの2か所にターゲットを絞って探したところ、平ノ辻の山頂は公園化されており何もありませんでしたが、城ノ辻の山頂に観測所の遺構を見つけることができました(・∀・)

 

地図で場所を示します。

 

「大根坂観測所」が今回見つけた所となりますが、砲台とは随分離れた場所であることが見て取れます。直線距離で約4.7㎞あります。

また、もう1つの「板ノ浦観測所」については場所不明として推定位置を記載しました。いつか探索に赴きたいですね。

 

なお、海面を照らす射光機を擁する電燈所は北と南に2か所配備されていましたが、その内北端の長崎鼻電燈所は遺構を確認しましたので次回レポートします。

 

さて「大根坂観測所」は、砲台の建設から1年半後となる昭和5年(1930年)7月2日に竣工しましたが、遺構の形状から八八式海岸射撃具を装備した観測所だったと思われます。この射撃具は、潜水艦の潜望鏡のような形をした測遠機にて敵艦を観測し、距離・方向・航路・未来位置と言った射撃に必要なデータを、計器盤、算定具を経て電気的に決定し、電気信号にて砲側照準具に送る、と言うものでした。

そして観測所のスタイルは、鋼製掩蓋を冠した地下鉄筋コンクリート造であることが特徴となっています。壱岐島や蓋井島にも同様の遺構が残っていますが、特に壱岐島の黒崎砲台の観測所は状態がよく保存・整備もされていますので、非常に構造が分かりやすくなっています。

 

参考まで。

 

「大根坂観測所」の間取り図を書きましたので掲載します。

 

部屋名は『日本築城史』に掲載の図から当てはめています。黒崎や蓋井島に残る観測所とは若干構造が異なるものの、部屋割りの基本スタイルは同じであることが遺構を見て確認できました。

図の右側は、こんな感じで土被せて埋まってましたよって言うイメージ図です。実際の遺構は、鋼製掩蓋は取り払われて地下部分のコンクリート内壁が露出している状態となっています。

 

では遺構の写真を掲載していきますが、木々の繁殖と木漏れ日が邪魔をして非常に分かりにくい写真となっています。特に木漏れ日は大敵だ、、、(-_-;)

 

入口から内部を見ています。

 

入口の両側の壁は斜めです。

地下ではなく外に露出していた部分ですので、壁には迷彩が施されていました。今でも確認できますね(^^)

 

反対側の入口の壁と階段部分。

 

地上にあがる階段はこんな感じ。

 

地下部分に入りました。

壁の破壊が激しいですが部屋の区画は分かります。

 

司令室です。

 

算定具室です。

 

壁にはケーブルを通したような穴や機器設置の跡などが随所に見られます。

 

内部から入口方向を見ています。

 

小さめの区画が2つ並んでいます。計算室通信室としています。

 

一番前方にある部屋が八八式海岸射撃具を置いた観測具室です。

 

他の部屋では見られないぶ厚いコンクリートの残骸があります。

 

司令室の壁の一部。上部にボルトが残っています。

 

鋼製天蓋との接合部でしょうね。

 

正面が司令室、右奥が通信室。

 

上から見下ろしています。

 

 

以上、的山大島砲台 大根坂観測所でした。

 

==========================

[参考文献]

「現代本邦築城史」第二部 第十七巻 壱岐要塞築城史(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵)

「日本築城史-近代の沿岸築城と要塞」(浄法寺朝美著、原書房)