2025年8月15日 終戦の日
終戦から80年の節目の年です
戦争を実際に体験している人たちが
減って生きてしまっている分
当時の事を知ることが困難になってきている
というニュースを見ました
世界ではいまだに
戦争が行われている地もありますが
あらためて
平和について考えるきっかけになるのは
戦争や原爆についてのTV放送なのかな
福生に住む叔母は20代で結婚し
そのままアメリカへ渡りました
昭和30年代 終戦後
日本が復興し始めた時代だったと思います
アメリカで約40年 その後韓国へ渡り10年
それから日本へと戻ってきました
日本の戦争のこと 原爆の事
日本の被害の事
たくさんの悲しい出来事などを考えることもなく
今の年齢になってしまったと・・・
最近のTVで知ることが多く 今になって
いろいろと衝撃を受けているそうです
特攻隊の事を知り 涙が出た と・・・
祖父(叔母の父親)は戦争へ行きましたが
戦争の話は一度も
家ではしたことはなかったそうです
晩年 戦争へ行った人の気持ちなど
同じ境遇の人にしかわからない苦しみが
あるのだと話していたそうです
原爆を落としたおかげで
今の平和な日本があるのだと主張する
アメリカ人の息子とは
この問題については会話できないと
そんなこともあり私と会話をするので
私自身もいろいろ感化され
最近はあの時代に興味を持ち
いろいろな事が知りたいと思った
以前に 出征し無事に帰還した祖父が
体験談を記した本も読んだ
牧野信一は長男あるいは
世帯主だったから免れたのでしょうか
それとも体が弱かったから?
文士だったから?
戦争が始まった頃は
まだまだ戦闘員が足りていたから
家督相続するものは徴集されなかったと
何かの本で読んだ気もしますが
牧野信一の息子 英雄は
学徒動員として戦地へ行った
「死にたくない!」と手を挙げたので
真っ先に戦地へ出されてしまったと
祖父が話してくれたと
もう一人の叔母から聞いています
牧野邦夫は 戦争の終盤兵力不足のために
学徒動員として徴兵され
九州都城にいたという話をしましたが
川崎航空の都城工場で働いていたのだと思います
都城工場も空爆され亡くなった学徒もいたので
牧野邦夫は無事に生き残った人
戦争の証人ともいえる人
それであの大作
『インパール』の絵を描いた
叔母は今年84歳
長野に疎開していたと話していました
祖父が終戦間近の頃には
長野の飛行場にいたので
祖母たちもその近くへ行ったと聞いてます
私の父は信一の母親たちと
小田原の家に残っていたらしいのですが
父もまた祖父と同じで昔の話をしない人だったので
何も聞いていない
叔母が描いた戦場へ向かう祖父の絵
叔母は恥ずかしい・・というけれど
叔母にも絶対 絵を描く才能あると
思ってしまう私なのでした
祖父の右後ろに見える廊下
信一の写真に写っている場所
昔のアルバムに残された私
叔母の記憶のすごさがわかる
祖父が帰還した時は叔母3歳です
戦後80年目の今日は
日本を守ってくれた英霊に感謝し
平和への願いを改めて考える日にしたい
当たり前だと思っている日常が
本当は当たり前じゃないんだということを
改めて考えるに日にしたい
当たり前な日常が
この先もずっと続きますように・・・
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