・・・以前「ケンチク」ブログで、天理大学図書館「開館90周年記念展」には、残念ながら松尾芭蕉「貝おほひ」は展示されていませんでした。★詳細は後日紹介しますと書きましたが、「天理大学図書館」の紹介はすでにすませていました、下記を参照してください。
天理へ(2) https://ameblo.jp/manabunc/entry-12635886363.html?frm=theme
天理へ(3) https://ameblo.jp/manabunc/entry-12635898821.html?frm=theme
★『貝おほひ』
松尾芭蕉の俳諧集。1672年(寛文12)刊。 松尾芭蕉がまだ故郷にあって、宗房と名乗っていた頃の30番俳諧合であり、処女出版でもある。
板本は久しく行方を失していたが、昭和十年の秋出現して、現在★天理図書館納屋文庫に収められている。本書中の小唄や流行詞に、種彦が出典を示したりした略註がついている。
https://www.lib.u-tokyo.ac.jp/ja/library/general/collectionall/shachiku
他に、★東大付属図書館蔵の旧洒竹文庫本に、柳亭種彦自筆自注書入本と、横本の校本とがある。版元に「芝三田二丁目★中野半兵衛、同庄次郎開板」と記されていて、現存の納屋文庫本と別板本の存在した事が知られる。
★伊地知鐵男文庫/早稲田大学図書館
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00335/index.html
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/919767/1
その序には、「小六ついたる竹の杖、ふしふし多き小歌にすがり、あるは流行言葉の一くせあるを種として、云捨られし句どもを集め 右と左にわかちて つれぶしにうたはしめ 自らが短き筆の辛気ばらし 清濁高下を記して 三十番の発句合せを思い(中略)当所あまみつおほん神(天満宮)のみやしろの手向草となしぬ 寛文十二年正月二十五日 伊賀上野松尾氏宗房 釣月軒にして自ら序す」と書いてある。時に芭蕉★29歳。
※書名は、古くからある女子の遊戯「貝おほひ」(貝覆)の、あわせて勝負をみるところから由来。
https://japanplayingcardmuseum.com/5-1-4-0-utaawasecarta-origin-seashellgame/
平安時代末期に始まった室内遊戯。★貝合(かいあわせ)とは別のものだが、後に混同された。ハマグリの貝殻を2組に分け、一方を地貝(じがい)と称して、数人で囲んだ座の中央に円形に並べ、他方を出貝(だしがい)と称し、1個ずつ地貝の中央に置き、この出貝に合う地貝を多く取った者が勝ちとなる。1対の地貝、出貝の内側には同じ絵が描かれる。室町時代末期になると、この貝を入れる貝桶(かいおけ)を嫁入道具とすることが流行した。歌がるたは江戸時代の初期に貝覆が変化してできたとされる。
★西行法師「今ぞしる二見のうらのはまぐりを貝あはせとておほふなりけり」
《参考》「西行と芭蕉」/日本語と日本文化より
https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo410.basho.html
西行が出家後初めての陸奥への旅について、能因法師を強く意識していたように、それから五百年後に芭蕉が行った陸奥への旅について、芭蕉が西行を強く意識していたことはよく言われることである。芭蕉がこの旅をした元禄二年(1689)が、西行★五百年忌にあたっていたことからも、そのことは伺える。もっとも、「奥の細道」の中には、直接西行に言及した記事は殆ど無い。西行と同じ道を芭蕉も又たどったことから、芭蕉が西行を強く意識していたことを推測するのみである。ただ一つ、西行の歌を引用した箇所がある。それは加賀と越前との境にある汐越の松を舟で尋ねたときのことで、その歌は「終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」という歌だが、これは芭蕉の間違いで、西行ではなく蓮如の作だと言う。
《参考》山梨 歴史文学館「山口素堂と共に」より
●『貝おほひ』1~15番
http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/7132613.html
●芭蕉『貝おほひ』15~跋
http://kamanasi4321.livedoor.blog/archives/7132647.html
附貝於保飛跋/松尾氏宗房稚仲為予断金之友、其性嗜滑稽潜心於詼諧者幾換伏臘矣、今茲春正月閑暇之日以童謡俚近之語作狂句者 総若于釆而輯之分是於左右以判断 其可否誠錦心ロ撃節嘆賞焉瑶後序 鯫生素以切偲之情不忍袖手旁、文雖漸羊豹僣一言以続于後云 寛文壬子孟春日 伊陽被下横月漫跋
・・・さて、ここから話はむっちゃ飛躍・脱線します。自宅近くに、もと「古市代官所」ゆかりの方がおられます。
《古市遺跡》
●江戸時代のはびきの
江戸時代の羽曳野は、幕府の領地である天領、各地の大名の領地、将軍直属の 家臣で旗本の領地など、いくつにも細かく分けられ支配されていました。大坂や堺などの商業の町とは、竹内街道や川船の行き来する石川、大和川によって結び付けられ、交通の要地として重要な位置をしめていました。特に古市の町は代官所や宿屋、市場、商家、社寺が並ぶ、交通や商業の中心地として、行きかう旅人や商人でおおいに賑わっていました。大都市『大坂』の近郊に位置していることから、そこで消費される農作物の生産も盛んで、ため池や用水を整備して新田開発(しんでんかいはつ)が進められ、米や野菜が作られました。また特産の河内木綿の栽培にも力がいれられ、大坂を経て各地へ流通していました。
《古市代官屋敷跡》
誉田の踏切を亙って100mほど、東高野街道東側に江戸時代の「古市代官屋敷址」がありました。古市は、江戸時代石川流域の物資集散地であり、竹内街道・東高野街道が交差する交通の要地でした。そのため、江戸幕府は直轄支配地、いわゆる天領にし、「上方代官」と呼んで旗本クラスの人物を派遣、江戸初期から明治初期まで7回にわたって天領にしています。記録によると第一回目は寛永十一年(1634)より明暦元年(1655)まで、第二回目は寛文八年(1666) から翌九年まで、第三回目は456石分のみ寛文九年(1669)より宝永二年(1705)まで、第四回目は前記石分が享保十五年(1730)から延享三年(1746)まで、第五回目は全村千百二四石分が延享三年(1746)から宝暦六年(1756)まで、第六回目は宝暦九年(1759)から安永八年(1776)まで、第七回目は寛政二年(1790)から明治元年(1886)までとなっており、上記以外は大阪城代の役知(役務知行地、管理職手当)となっています。その最後の代官が旗本★内海多次郎で、支配地石高一万二千余石にも及んでいたそうです。また、当代官所は河内長野にも関係のある天誅組関係者を取調べた所でもあります。その後、1990年に同代官所址の一郭が共同住宅建設工事にかかるため発掘調査が行われ、近世を中心とする時期の遺物が検出されました。調査の結果によると、屋敷址と思われるものは確認出来ませんでしたが、埋ガメ、石組土壙(どこう)・溝・井戸などの遺構が見つかり、井戸の中から徳川家の紋の三つ葉葵の軒丸瓦が出土、また鉄滓(てつかす)やフイゴの羽口が比較的多く出土していることや旧町名★鍛冶町から製鉄関係の施設が存在した可能性が考えられます。
※現在、製鉄関係では「市口鉄工所」があります。
【内海多次郎】参考:大阪府域の変遷
https://archives.pref.osaka.lg.jp/search/information.do?method=initPage&id=77
大阪府の前身である大阪裁判所の管轄は、大坂町奉行所・堺町奉行所の支配地、大坂城代直轄地及び摂津・河内両国における代官★内海多次郎の支配地のみでした。この時の内海以外の旧代官の知行所と管轄は以下の通りです。(~略~)したがって、慶応4年2月時点での大阪裁判所の管轄地は、大坂城代直管の大坂城地、大坂町奉行支配の大阪市街地、豊島郡岡町、和泉国南郡貝塚、堺町奉行支配の堺市街、和泉国大鳥郡の堺町奉行支配地、代官★内海多次郎支配地、和泉国和泉郡の代官小堀数馬支配地となりました。3月1日、摂津・河内・播磨3国の旧代官斎藤六蔵の支配地だった、尼崎藩・三田藩・狭山藩・龍野藩・赤穂藩の管轄地域は、大阪裁判所から兵庫裁判所の所管へ移りました。(~略~)5月24日には、1万石以下の領地(宮・堂上家(とうしょうけ)領、旗本領)も社寺領と同様に最寄りの府県に属することになりました。河内・和泉・摂津の川辺郡以東8郡内の万石以下の領地は大阪府に属しました。しかし、社寺領同様、土地・貢租は依然として旧領主が所有し、明治2年12月2日の布告で上知を命ぜられるまで続きました。(~略~)6月、京都守護職松平容保・京都所司代松平定敬・大坂城代牧野貞明(貞直)の知行所、小田原藩の領地を大阪府へ移管されることになり、河内国の京都守護職・京都所司代の知行所は狭山藩、摂津国の大坂城代の知行所・京都所司代の知行所は尼崎藩・三田藩が管轄していた地域が大阪府の管轄地となりました。また、小田原藩の領地は6月10日に大阪府へ移管されました。(~略~)7月2日、河内国の御領の狭山藩取り締まり分が免じられました。(~略~)7月19日、大阪府内の田安家領地を引き渡すこととなり、大阪府の管轄地は河内国と摂津国8郡になりました。(~略~)10月24日、大和川中央に大阪府と堺県の府県境を設けることとなり、これにあわせて、摂津国住吉郡と和泉国大鳥郡の郡境も移動しました。明治2年1月20日、南北司農局が河内県・摂津県になったことにより、大阪府の府域は大阪市街地のみとなりました。また、1月晦日、摂津県管轄の大阪市街に接続する西成・東成両郡の地を大阪府へ編入しました。これは、江戸時代、大坂三郷に隣接していたために市街地化した村々が該当します。9月19日には摂津県から兵庫県へ移管された地域のうち、住吉・東成・西成の3郡を大阪府へ移管しました。(~略~)明治12年2月7日、堺県を合併し、摂津7郡、河内・和泉・大和が所管地となりました。明治20年11月4日、奈良県が再置されることになり、大和国を分離し、現在とほぼ同じ府域となりました。
・・・いろいろな思惑(利害)がからんでいたのでしょうか?なんと目まぐるしい。
※参考【内海淡節】文化7年~明治7年(1810~1874)
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7496
松山出身の俳人。文化7年松山藩士★内海多次郎の子として生まれる。愛之丞と称した。相応軒・花の本とも号す。仕官をやめて上京、桜井梅室に師事し、梅室の養子となったが、後旧姓に復す。花之本脇宗匠となり、洛北一乗寺★芭蕉庵に入った。明治5年帰郷して地方俳人の指導に当たったが、3年後に再び上京し、京都を中心に活動した。『青客帖』を編し、其戎の『あら株集』に序文を寄せ、『逐波集』『知那美久佐』等に出句する等伊予俳壇との関係も深い。明治7年6月14日64歳で没した。その養子(娘婿)の良大も花の本七世を継ぎ、『俳諧発句明治集』(明治13年)等を出して活躍した人である。良大は明治25年9月14日没、59歳。
※次の図書にも「内海多次郎」という「八十俵四人フチ下谷生駒赤門前」の人物が出てきます。
・西沢淳男 編『江戸幕府代官履歴辞典』岩田書院 2001 【GB364-G57】 p.96(貴館指定資料(4))
・村上直、 荒川秀俊 編『江戸幕府代官史料 : 県令集覧』(吉川弘文館 1975 【AZ-145-28】 p.284、 324、 348、 388(貴館指定資料(5))
※参考「金福寺」芭蕉庵
606-8157京都市左京区一乗寺才形町20/075-791-1666
https://ja.kyoto.travel/tourism/single02.php?category_id=7&tourism_id=296
864年(貞観6)円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ、安恵僧都が創建。江戸中期に鉄舟和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという★芭蕉庵は荒廃したが、のち★与謝蕪村が再興。紅葉が美しい。背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は文久2年、勤皇の志士によって三条河原でさらし者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として明治9年まで14年間すごし、当寺で生涯を終った。法名は清光素省禅尼と云う。本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。3月は紅梅とあせびの花、11月はさざんかと紅葉が美しい。芭蕉庵からは洛中が一望できる。
・・・その「古市代官所」ゆかりの方がお屋敷を片付けられていたら、どっさり古い和綴本が出てきたということで、見せてくださいました。調べますと、
《観世流謡本》★山本長兵衛版/木版摺り/江戸期・享保18年(1733)
《百年企業のれん三代記》KANDAアーカイブより
http://www.kandagakkai.org/noren/page.php?no=13
●第13回「株式会社檜書店」
101-0052東京都千代田区神田小川町2-1/03-3291-2488
https://www.hinoki-shoten.co.jp/
お話:5代目・椙杜久子(檜久子)さん、6代目・檜常正さん(記事公開日:2012年5月2日、文:亀井紀人/追加記事公開日:2018年2月19日、文:竹田令二)
創業は、万治2年(1659年)2月京都です。(一説にはその20-30年前の寛永頃)初代★山本長兵衛が二条通御幸町西入で観世流謡本を出版したのが始まりです。当時の二条通りは、現在の神田神保町のような本屋の集まる通りだったそうです。当初は私的に出版していましたが、元禄頃(1690年台頃)から★観世大夫と繋がりを持ち、観世流宗家公認の謡本の版元となり、謡本を出版するようになりました。観世流の流行と共に全国に販路を広げ、安泰の世と共に店も繁盛しました。それから約200年後の幕末期、池田屋事件を引き金とする元治元年、尊攘を藩論とする長州藩が京都に攻め上り、薩摩、会津両藩との激しい交戦となり、その兵火によって京都の市中は三日間燃え続けるという惨禍に、山本家も巻き込まれます。元治の大火は店を構えていた二条御幸町の一帯をも襲い、謡本の板木のほとんど全てを、わずか一日で★灰にしてしまいました。
・・・そして、その「謡本」の中に「芭蕉」がありました。
●観世流謡本/伝観世黒雪筆「芭蕉」/文化デジタルライブラリー
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/collections/submenu?division=collections&class=nougaku_doc
●宝生流謡曲「芭蕉」
http://www5.plala.or.jp/obara123/u1163basyo.htm
あらすじ/唐土楚国の湘水というところに山居の僧が毎夜読経をしていると、ひとりの女がそっと聴きに来る様子なので、ある夜、僧は女にその素性を尋ねる。すると、女は「私はこの辺りの者で仏縁を結びたいと思って来るのですから、どうか内へ入れて御法を聴聞させてください」と言う。その志に感じて僧は庵の中に入れて、薬草喩品を読んで聞かせる。それに対して、女は草木さえも成仏できる法華経の功力をたたえ、その後、自分が芭蕉の精であることをほのめかして消え失せた。その後もなお僧は夜もすがら読経をしていると、芭蕉の精が再び女の姿で現れる。そして非情の草木も無相真如の體であることや、芭蕉葉が人生のはかなさを示していることなどを語り、舞を舞った。秋風が吹きすさむとその姿は消えて、庭の芭蕉の葉だけが破れて残っていた。
・・・いやあ調べるって、いろんな「つながり、由緒、ゆかり」がわかって本当におもしろい。訪問させていただいた伊賀市「ミュージアム青山讃頌舎」★茶室においても、壁に「伊勢物語」を張り込んでおられたように、私もこの「謡本」を活用して、様々な作品をうみだせたらと思っています。