すくらんぶるアートヴィレッジ

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NEW-SEUM(80)京都「南座」①
・・・難波「松竹座」が5月末をもって★閉館解体となる模様ですが~なんのその京都「南座」に行ってまいりました。
★京都「南座」
605-0075京都市東山区四条大橋東詰/075-561-1155
https://www.shochiku.co.jp/play/theater/minamiza/
南座が四条大橋のたもとに建てられることになったのは、関ヶ原の戦いから数年後の1603(慶長8)年、出雲★阿国が京都でかぶき踊りを披露したことがきっかけでした。かぶき踊りとは、簡単にいうと★奇抜な格好をして踊る踊り。この踊りが大変な人気を博したことから、四条河原周辺には芝居小屋が立ち並び、かぶき踊りに似せた女歌舞伎や「操り」と呼ばれる人形遣いが数多く上演されるようになりました。
南座は、江戸時代初期の元和年間(1596~1615)に官許された劇場で、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、★日本最古の劇場です。四条通の南側に位置し、江戸時代初期には幕府公認の芝居小屋が七座存在していました。南座は、火事で幾度も焼失し、また興行の中心が★大坂に移ったため次第に数を減らし、江戸時代中期には四条通りの南(南の芝居)と北(北の芝居)、大和大路の西(西の芝居)の三座となりました。西の芝居は1794年(寛政6年)の大火後は再建されず、二座が残りました。さらに南座の向かいにあった北座は1892年(明治25年)四条通の拡張に伴い閉鎖され、南座のみとなりました。1906年(明治39年)★松竹に買収され、以後松竹の直営となっています。歌舞伎の劇場として毎年11月末日から12月末まで行われる顔見世公演が京都の風物詩となり、2007年現在では歌舞伎以外の演劇も上演されています。
南座の正面には立派な唐破風を置き、欄干や四角い窓が印象的な和風の建物ですが、実は1929(昭和4)年に建てられた地上4階・地下1階の鉄筋コンクリート建築です。1991(平成3)年に設備などを一新して近代劇場に改修。さらに2018(平成30)年には耐震補強をし、外観を保存再生して美しくよみがえりました。伝統建築の中に近代モダンさも兼ね備えている感じがします。建物は1996(平成8)年に国の登録有形文化財に登録。その後、京都市の歴史的意匠建造物にも指定されました。正面に立つとまず目に入るのが、南座のシンボルともいえる大提灯。直径約120センチ、高さ約200センチという大きなもので、京都の老舗提灯店★小嶋商店が手掛けているそうです。頭上を見上げると、大きな櫓が見えます。これこそが官許の芝居小屋である証。櫓は幕府から興行を許可された芝居小屋のみ、上げることができました。これはお城で敵を迎え討つ時に弓矢などを入れた「矢倉」が起源だそうで、弓矢の代わりに800枚もの和紙で作られた2本の梵天が立っています。また、櫓を囲う幕は興行主の紋を染めるのが決まりで、南座を経営する松竹株式会社の社紋が紅白で染められています。この梵天も提灯も毎年、12月に行われる「吉例顔見世興行」の時に新調されるそうです。

NEW-SEUM(79)みってらさん⑦
★御津公園の由来は、戦後間もない昭和20年代に整備された★「御津街園」に遡ります。
https://landtec.jp/works/pages/sankaku.html
この公園は、道路の隙間にあったため行政によって小公園として整備され、当初は近隣住民の憩いの場として利用されました。公園の形状が三角形であったことから★「三角公園」という愛称で親しまれ、地元の人々だけでなく観光客にも浸透していきました。御津公園は、アメリカ村のランドマークとして知られ、若者文化の発信地としての役割を果たしています。公園内には、甲賀流たこ焼き店や漫才師が集まる場所があり、大阪ミナミらしい風景が広がっています。
★「おおさかカンヴァス推進事業」/http://osaka-canvas.jp/
2011/通天閣、中之島公園、★アメリカ村、大阪城等、大阪ならではのエリアを舞台に、商店街やテニスコート、病院、デパートといった様々な公共空間とアートとの多彩な関係性を表現する43作品が展示された。なかでも、5年もの間、誰にも見せることなくコツコツと家屋全体を作品に変えてしまった空間が初めて公開されることに(下画像参照)。隠れた才能の発掘や、アーティストではない挑戦者が表舞台に登場するのも「おおさかカンヴァス」の特徴の一つとなっている。
★大坂の目印だった白砂青松の景勝地「みつの松原」
万葉集に「御津」が含まれる歌は全部で20首
朝なぎにま梶漕ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ
大伴の御津の松原かき掃きてわれ立ち待たむ早帰りませ
★御津という地名にはいくつかの由来があります。その一つは、苦く悲しいエピソード。仁徳天皇の后が、船で熊野岬に行ったお土産として御綱柏を天皇のために持ち帰ったのですが、その間に天皇は八田皇女と会ったことが判明。怒った后が御綱柏を海に投げ込んだということでそこが御津とよばれるようになったとのこと。身分の高い人が利用された港、「御」の「津」という意味で御津の名前が生まれたともいわれています。

NEW-SEUM(78)みってらさん⑥
★三津は御津のことで、難波津の候補地の一つです。古代には大坂湾がこの当りまで広がり、大陸との交流の窓となる港が設置されていました。寺伝によると山号の七宝山は、応神天皇の墓所のことで、院号の大福院は行基四十九院の一つで当寺院の前身となる寺です。天平21年(749)に手向山八幡宮が東大寺の守護神として、宇佐八幡宮から応神天皇を勧請し、その帰路に★御津の港に上陸し、★三津寺で休息されました。その跡地に祀ったのが★御津八幡宮との伝承もあります。
https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/437070
★御津八幡宮
542-0086大阪市中央区西心斎橋2-10-7/06-6211-8655
https://mitsugu.org/
御津宮(御津八幡宮)は現在の心斎橋一帯の産土の社です。この地は、江戸時代初期以来全国有数の商業の街として発展し、今日ではこの辺り一帯は「ミナミ」と呼ばれ、大阪の繁華街を形成しています。当宮は神社縁起に依れば、孝謙天皇の天平勝寶元年(749)、奈良の手向山八幡宮が東大寺の守護神として宇佐神宮(大分県)から勧請された折、宇佐からの神輿がこの地に上陸し、一時安置され、後にここを御津八幡宮と改めたとあり、たいへん古い歴史を有する神社です。石清水八幡宮(京都府)が源氏の氏神として勢力を伸ばした時代には、当宮もこの地に広大な社領を有し、また境内には後鳥羽上皇(第82代天皇)によるとされる勅願所碑があり、古くから朝廷からの信仰も厚かったことが伺えます。一時は大坂の陣によって荒廃しましたが、江戸時代に入り、町民の努力により再建され、当時の浮世絵などには現在の心斎橋筋で町を挙げて当宮の正遷宮をお祝いしている様子も描かれており、境内こそ約400坪と狭いものの常時参拝者も多く、今も神社前を東西に伸びる街路は「八幡筋」の名を以て呼ばれ、大阪人にとって古くから親しみのある社として今日に到っています。現在の社殿は、昭和20年(1945)の大阪大空襲で本殿・拝殿全て焼失し、昭和35年(1960)に再建されたものです。★『摂津名所図会』には「三津寺は御津八幡宮の神宮寺との説あり」と書かれているそうですし、この2つの寺社になんらかの関係はありそうです。
★摂津名所図会
https://ku.naniwa.kansai-u.ac.jp/DB/settsu/
御津八幡宮/諸社の夏祭には女伶・妓婦の輩いろいろに姿を優して、花の盛の匂ふがごとく身には錦を絡ひ、あるいは女も男に変はり、若きも老の風俗して、前囃子・後拍子に琴・三弦・胡弓・太鼓・笛にていさましく拍子どり列なり行くを?物といふ。特にみな月十五日、御津八幡の祭には名にしおふ島の内の女伶風流に粧ふて練りありく。両側の青楼よりは妓婦の輩共に花を飾りて互ひに艶をくらべ、見に来る人もみなうかれて酒を勧め、ねり物すがたにて揚づめの一夜妻とするも難波津の繁花なるべし 夏祭人も潮のわくがごと 闌更
三津寺/この楠近年の鳥有に罹りぬれども名樹なれば生ひ出づる事もあらんかし

NEW-SEUM(77)みってらさん⑤
【御津会館】
542-0085大阪市中央区西心斎橋2丁目9-15/06-6212-7352
★三津寺の役は、天正4年(1576)に発生した戦国時代における重要な戦闘の一つです。この戦闘は、織田信長と石山本願寺との間で行われ、★三津寺砦が織田軍に攻め落とされたことが記録されています。戦闘の結果、塙直政が討ち取られ、本願寺勢は勢いに乗ります。この戦闘は、石山本願寺の補給路を遮断するために織田信長が行った攻撃の一環であり、戦闘の詳細は『信長公記』や『明智軍記』などの史料に記されています。
https://www.touken-world.jp/dtl/osakajo/
★元和元年(1615)大坂夏の陣では、徳川家康の本陣が茶臼山本陣跡となり、真田信繁の本陣が敷かれた井戸や、真田幸村が作ったとされる抜け穴がある井戸、本多忠朝の墓、霧吹きの松、四天王寺庚申堂などが古戦場として知られています。これらの場所は、戦闘の歴史的な意義を示す重要な遺跡です。
★三津寺砦(摂津国・大阪市)大阪市中央区心斎橋筋2-7
もともと奈良時代に行基が創建した三津寺が戦国時代になって要塞化された砦である。石山本願寺の支城として使われたが、織田信長による本願寺攻めによって敗れた。現在も三津寺は現存しているが、周囲は御堂筋に面した繁華街となっており砦の遺構などは全く確認出来ない。
<別称>三塚(「難波三塚」『甫庵信長記』、「三塚」『明智軍記』)
天正四年(1576)、石山合戦(厳密には大坂本願寺合戦)において、本願寺の支城であった三津寺砦は原田直政ら織田勢に攻められたが、楼の岸砦からの本願寺勢の援軍により織田勢は敗北し、原田直政は討死した。織田勢は他に三好康長、根来・和泉・大和・山城衆であった。なお、この砦は「木津」と記す史料(『言継卿記』、「谷城址保管文書」、『年代記抄節』)と「三津寺(三寺)」と記す史料(『信長公記』、『教如上人御消息集』など)、木津と三津寺の間とする史料(『歴代御書』)があるが、『信長公記』、『明智軍記』では三津寺を木津と楼の岸の間であるとしているため、三津寺が正しいと思われる。
<構造・現状>遺構はない。また一帯が★三津寺荘であるため、必ずしも三津寺とは断定できない。
『信長公記』が記しているが、三津寺砦は本願寺の主要な支城である楼の岸砦と木津砦の中間地点であり、繋ぎの城として重要な位置にあったと思われる。
<史料・資料> 史料は「三津寺」と記したもののみ『信長公記』、『教如上人御消息集』、『明智軍記』、『歴代御書』、『総見記』、『日本城郭大系』
★三津寺荘/摂津国西成郡(現在の大阪市中央区)にあった荘園。ただし、戦国時代後期には欠郡所属となり、元和年間には東成郡に移された。石清水八幡宮領として成立しており、付近にある★御津宮との関連性も指摘されている。承久2年(1220年)に石清水八幡宮検校であった祐清が壇殿女房と称する女性に充てた譲状の中に「摂津国三津寺」の地名が登場する。応永22年(1415年)に作成された「摂津国三津寺荘田畠注進」や同時期とみられる年月不詳の「三津寺荘公事物注帳」(ともに『石清水文書』)から、同荘に早田・晩田・灯油屋敷・蔬菜畠の存在、更に鯛などの魚類が公事として徴収されていた事実が確認でき、小規模ながらも海に近く交通の便も良い同荘の豊かぶりを窺うことができる。戦国時代には河内畠山氏の勢力がこの地にも及び、天文年間と推定される書状には、★高屋城の畠山氏重臣吉益匡弼から三津寺荘に人夫が課され、これに石清水八幡宮側が反発する遣り取りを記されている。豊臣政権下では大坂城に近いこともあり、直轄地化されて★「三津寺村」と称せられる。大坂の陣後の大坂市街地拡張の影響で元和6年(1620年)秋に大坂市中に編入された。