・・・前回、張本勲さんの「お袋、語るよ。あの日を」の後半を(以下略)としてしまいましたが、最後の部分が大切だと思いますので掲載します。
《1985年6月。張本さんが母危篤の報を受けた夜、東京から広島に向かう新幹線は既に終わっていた。「すぐに勲が来るよ」。病院で世烈さんと小林さんは母を励ましたが、張本さんが在来線を乗り継いで到着した翌朝、母は息をしていなかった。安らかな顔だったという。「耳元で言ってやりたかったんだ。あなたの息子でよかったと。産んでくれてありがとうと」。母の死から11年後、兄も病に倒れて世を去った。その後も家族の間では原爆を話さない暗黙の約束を守りながら、姉弟はめいめいに語り出した。★「あの日」を私たちに伝えるために。》
《NEWS》2019.8.8
「生ある限り署名訴える」/張本勲さんの姉、小林愛子さん
元プロ野球選手で解説者の張本勲さんの姉、小林愛子さんがヒバクシャ国際署名にかける思いを、長崎市内で開かれた原水爆禁止世界大会の会合で語った。「あのような悲しく恐ろしいことは絶対にあってはならない」。81歳になった今も、毎日署名を集めている。小林さんは7歳の時、広島で被爆した。「ピカッと光り、ドーンと大きな音がした瞬間、母が私と5歳だった弟(勲さん)に覆いかぶさった。母は体中にガラスの破片が突き刺さっていた」と振り返った。原爆が投下されてから2日ほどして、行方がわからなかった4歳上の姉が見つかった。姉は全身やけどで目と口がふさがり、何も言えないまま、まもなく息をひきとった。小林さんは「私も本当は原爆で死んでいた身。生きていて何をすべきか。子どもたちが笑顔で幸せに暮らせるために核兵器廃絶の署名を集めようと、昨年から毎日一人で署名を集めている。知らない会社でもあらゆるところを訪ねている」と話す。
これまで集めた署名は2665筆。署名を断られると「涙が出る。平和を望まないのかと。でも負けない。動ける限り頑張る」。今も亡くなった姉に背を押されている感じがするという。「『こういう恐ろしく悲しいことは二度とあってはならないんだよ』と教えてくれているような気がして。毎朝天をあおぎ、亡くなったお姉ちゃんと、助けてくれた母に今日も頑張って集めてきますと手を合わせている。皆さん、ともに頑張りましょう」
・・・「記憶の玉手箱」を開くということは、こういうことなんだなと、あらためて考えさせられました。そして、「しらべの細道」に取り組んでおられる伊達伸明さんのことも書いておきたいと思います。
《伊達伸明-建築物ウクレレ化保存計画》COBA STUDIOより
http://www.cobastudio.com/hozon.html
人の暮らしと深く関わった建築物、その廃材を使いウクレレとしてその想いを蘇らせようという計画です。『今はなき建築物がより親しみやすい形に姿を変えて、新しい生活空間で再び歴史を刻み始めます。さまざまな可能性を持つこれらのウクレレはきっとステキな改築記念となるでしょう。』 (建築物ウクレレ化保存計画案内より)京都市立芸術大学で「漆(うるし)」を専攻し、在学中から漆を使ったアート作品を発表してきたが、建築学に対する興味も深く、「空間アート」的な作品や音を介して鑑賞者を引き込む「サウンド・アート」なども展開。今回の企画はアーティストの一方的な表現ではなく、素材となる廃材に人の思い入れや歴史が刻まれており、他者との関わり合いの中からの作品作りが、これまでにない充実感と喜びを感じると語ってくれました。語り口といい表情といいとても優しさの溢れる方で、「建築物」という少々堅いイメージと「ウクレレ」というのほほんイメージが伊達さんの人柄で見事に結び合わされ建築物に対する思い入れが優しく暖かなウクレレに包まれて生まれ変わる。見事な新しい形のサウンド・アートでした。
■2004年11月に作品集が「青幻舎」から出版されました。2000年4月に開始され5年鑑の間に制作された28本のウクレレを紹介しています。
http://www.seigensha.com/books/4-86152-027-4
■「カトリックたかとり教会」/『遠くへ行きたい』より
第1852回 2007年4月29日/大阪市、神戸市/チチ松村「浪花の街に響くウクレレの調べ」
http://www.to-ku.com/midokoro/1852.htm
旅とは思い出を作るもの。今回の旅は一味違い、思い出を辿る旅となりました。みなさんには忘れたくない思い出、ありますか?「その思い出を何かの形に残していけたら」そんな思いで取り壊されていく建物の廃材をウクレレにしている方がいるのです。そんなウクレレで奏でられる音楽に耳を傾けると…音楽には人を幸せな気持ちにする力があると感じずにはいられません。今回旅をするのは、アコースティックギターデュオ、ゴンチチのチチ松村さん。彼のウクレレの調べが、大阪・神戸の街に響きます。
※「たかとりコミュニティセンター」
たかとりコミュニティセンター(TCC)は、神戸市長田区海運町にあるカトリックたかとり教会の中に位置しています。たくさんのNGO、NPO、地域、教会の楽しくて頼もしい仲間たちが自由に集まって、神戸長田の町を中心に、多文化で多彩で豊かなまちづくりひとづくりを目指して、ささやかですが大きな夢を持って一緒に歩んでいるところです。1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災で、この地域はほとんどの建物が崩壊し、火災によって焼き尽くされてしまいました。教会の周辺一帯は一面の焼け野原になりました。 しかしそんな中でも、お互いに助け合い声をかけ合ってこの痛みを乗り切ろうと、地域の人々や多くのボランティアの人たちが夢を持って立ち上がりました。震災で多くのものを失いましたが、多くの人々との出会いが生まれ、新しい仲間もたくさんできてきました。こうしてTCCの前身であるたかとり救援基地が生まれました。
http://nodahokubu.web.fc2.com/column4/column18.html
・・・震災から数年後、訪問させていただきました。その時は、こんなところにウクレレがという感じでしたが、それが伊達さんのウクレレとの最初の出会いでした。ですからかえって記憶にくっきりと刻み込まれています。ウクレレという形の「記憶の玉手箱」ですね。
・・・さて、仙台の話題にもどります。
《NEWS》2019.7.11河北新報より
<仙台空襲74年>児童ら防空壕を見学、戦争の悲惨さ学ぶ
戦争の悲惨さや平和の大切さを学んでもらおうと、仙台空襲から74年となった10日、仙台市青葉区八幡小の6年生110人が近くの八幡1丁目、角五郎1丁目に残る防空壕を見学した。八幡1丁目では児童が1944~45年ごろ造られた高さ165センチ、奥行き7.5メートルの防空壕に入った。
http://machi-isan.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_7115.html
市民グループ「仙台・空襲研究会」のメンバーが戦時中の様子を説明。「夏の暑い日に狭く、じめじめした防空壕で、爆弾におびえながら避難した当時の状況を想像してほしい」と語った。川名湊君(12)は「狭くて暗い空間で、爆弾が落ちる音を聞いたことを想像すると、とても怖かったと思う」と語った。岡村星璃(あかり)さん(11)は「身近な場所に戦争被害があったとは知らなかった。仙台空襲について学びたい」と話した。防空壕の見学は、青葉区★戦災復興記念館(980-0804宮城県仙台市青葉区大町2-12-1/022-263-6931)で開催中の「戦災復興展」の関連企画。
http://www.city.sendai.jp/aoba-chiikishinko/aobaku/shokai/kunai/kinenkan/
児童は見学前に記念館を訪ね、今野幾代さん(84)から仙台空襲の体験談を聞いた。11日は東二番丁小の児童が防空壕を見学する。
《参考》
●小田眼科ニュース「医心伝信」/理事長・小田泰子
第328号2017年05月号「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話
https://ameblo.jp/eyeoda/entry-12270885569.html
●宮城の戦争遺跡「防空壕」(仙台市青葉区★御嶽三吉神社)
981-0931仙台市青葉区北山三丁目六番十八号/022-234-4543
http://ontakejinja.sakura.ne.jp/index.html
https://tohoku360.com/boukugou/
●国立歴史民俗博物館研究報告第147集2008年12月「戦争の民族」文:佐藤雅也(仙台市歴史民俗資料館)
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun6/index.html
http://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/~rekimin/index.html
・・・一般に「箱もの」と呼ばれますが、その管理・保存は難しいことです。形あるものは、いつか「風化」していきますが、だからこそ工夫が必要で、どのように維持し開くか考えていかなければなりません。