・・・1月「氣になる玉手箱展」において、ギャラリー内防空壕で「記憶の玉手箱」ピースアクションを実施して以来ですが、ギャラリーから次のような連絡が入りました。
《悲しいけれど嬉しい電話を頂きました。堺美術協会の写真部の会員で★98歳のKさんの奥様からの電話でした。防空壕での展示に、階段を降りていかれたあの最高齢の御老人です。特攻機の整備をしていて、大浦基地も知っておられました。奥様の話では、「転んで車椅子生活になってしまい、日ごとにわからなくなっています。すっかり前と変わってしまいましたの。それでね、いろはにに行く、いろはにに行くと毎日言ってきかないのです。息子には車で連れて行くことを断られるし、私が車椅子を押して歩いて連れて行こうと思います。今、開けておられますか?」と言うお電話でした。》
・・・本当に、悲しいけれど嬉しいお電話です。「記憶の玉手箱」を開いてしまったわけです。5月にギャラリーまで来られることになりそうですが、お会いできたら嬉しいです。さてこの機会に、防空壕にまつわる情報をいくつか紹介しておきます。
《NEWS》2020。4。26日刊スポーツより
張本氏「防空壕で何日も…」上原氏「コロナに喝!」
張本勲氏と上原浩治氏が26日、TBS系テレビ「サンデーモーニング」にオンライン出演した。上原氏はプロ野球の開幕が延期されていることについて「いつ始まるかっていうのを早く決めて欲しいなと。その方が選手も調整しやすいですしね」とコメント。関口宏MCから「でも、それが言えないんだもの」と振られると「そうですね。だから、コロナに喝!です」とやるせない思いを語った。注目のルーキー、ロッテ佐々木朗希投手についてもコメント。フリー打撃登板を視察し「とんでもない球を投げていました」と話した。さらに古巣レッドソックスがサイン盗みで処分されたことにも「喝!入れといてください。機械を使って伝達してたってことですよね。グラウンド内でやる分には構わないと思うんですけど機械を使って伝達というのはやってはいけない。もうセカンドランナーは何も伝達してはいけないっていうルールをつくって欲しいですね。ピッチャーとバッターの真剣勝負をそのまま楽しんで欲しいですね」と訴えた。張本氏も「疑問符ですね。サインを盗むんじゃなくて解読なんですよ。バント、盗塁だって分かったら(投球を)外すでしょ。戦略の一つ。日本だって何年も前からやってるんだから。センターから望遠鏡使って。セカンドからバッターに教えるのは、ルールよりもエチケットとしてやめた方がいい」と話した。最後に新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言で自宅にいる時間が長いことについてもコメント。上原氏は「家にいるっていうことが一番の安全策なのかなっていうのをすごく感じます」。関口MCから「ずっと家にいてイライラしませんか?」と問われると「めちゃくちゃイライラしてます。どうストレスを発散するかというのも考えないといけない」と話した。一方、張本氏は「イライラしませんね。私らの時代は(戦争中の)★防空壕で何日も過ごしてるから。イライラしたってしょうがないもん。ビデオ見たり楽しんでますよ」とコメントしていた。続けて「まあビデオを見たりね、楽しんでることは楽しんでる」と話す。関口は「ほとんど、上原さんと同じだと思うよ。ハリさんみたいな人は珍しい」とコメントした。緊急事態宣言に伴う外出自粛要請で、自宅待機を迫られている現状を「戦争時代よりはマシ」と表現した張本勲氏。普段は炎上も多いがこの発言には「戦中派は強い。さすが」「戦争時代に比べれば自分たちは恵まれていると感じる」「経験値が違う」など称賛や納得の声が相次ぐ。一方で「イライラ」を強調した関口宏には「何を煽っているのか」「外に出せといいたいのか」と一部から批判の声が上がった。今回多くの人に納得を与えた張本勲氏。新型コロナウイルス関連の話題では一貫して視聴者に注意を呼びかけている。なにかと批判されがちな張本氏だが、この日のゲスト上原浩治氏も番組の最後に「またスタジオで会いたい」と呼びかけており、慕う後輩は多い。緊急事態のなかでスポーツ選手や国民の生命を守ろうとする姿勢が、慕われ、愛されている理由なのかもしれない。
《NEWS》2020.2.22毎日新聞より
張本勲さん/守ってきた暗黙の約束、今「お袋、語るよ。あの日を」
https://mainichi.jp/articles/20200221/org/00m/040/001000d
「残して、思い出して、懐かしむ。涙ぐむ。そんな人がいるかもしれないけれど、お袋は忘れたかった。『あの日』の記憶は一切を消したかったんだろうね」 5歳のとき広島で原爆に遭ったプロ野球評論家の張本勲さん(79)は、東京都内にある自宅のソファに深々と腰掛け、宙を仰いだ。傍らのテーブルに、家族ら5人が納まるモノクロームの写真がある。野球帽をかぶった小学生の張本さんの隣に、民族衣装のチマ・チョゴリを着た母朴順分(パク・スンブン)さん(1985年に83歳で死去)が座っていた。母は日本統治下の朝鮮半島に育ち、40歳を前に海を越えた。病気で夫を失い、原爆に長女を奪われ、残されたわが子3人のため働いた。国民学校高等科(現在の中学校)に通っていた長女は、張本さんにとって「色白で背が高く、自慢の姉」だったが、母は長女の写真を焼き、遺髪の一本も残さず、ただ、沈黙を貫いた。戦後に撮影された写真で母は3人の子どもらに囲まれ、口元に微笑をたたえている。張本さんが言った。「お袋は苦しかったでしょうね。つらい記憶を抱えながら、体一つで私たちを育てたのだから」 張本勲さん(79)がその半生を振り返るとき、家族は欠かせぬ登場人物となる。「お袋を中心に、それはもう、強い絆で結ばれた家族でしたよ」東京都内の自宅で、そう語り始めた。張勲(チャン・フン)の韓国名がある広島生まれの在日2世。母は爆風に傷つきながらもわが子を守り、戦後は身を粉にして働いた。兄は亡き父に代わり、広島を離れて野球に打ち込んだ弟に仕送りを続けた。色白で優しかった上の姉は原爆で帰らぬ人となったが、原子野をともに逃げた2番目の姉とは今も支え合う。両親が日本統治下の朝鮮半島から海を渡ったのは、1939年ごろだった。父張尊禎(チャン・サンジュン)さんは財産整理のため戻った故郷で病死し、母朴順分(パク・スンブン)さん(85年に83歳で死去)は4人の子と異境に残った。運命の45年8月6日は広島市の自宅で迎えた。家には5歳だった末っ子の張本さんに、二つ上の2番目の姉もいた。
張本さんが玄関先で浴びた閃光(せんこう)に目を閉じた次の瞬間、飛び込んできた光景は母の服を伝う血だった。「赤いんだよ。赤かったのを覚えている」猛烈な爆風で自宅は倒壊し、幼い姉弟を守るように母は覆いかぶさっていた。張本さんが目を開けたとき、ガラス片が突き刺さった母の背から赤い血がにじんでいた。前後の記憶はまだら模様だが、張本さんは脳裏にその色を刻んでいた。
名刺の表には「広島原爆被爆者かたりべ」、裏には「張本勲の姉」とある。張本さんの2番目の姉、小林愛子さん(81)=兵庫県加古川市=は身を乗り出して記者に聞いた。「母のこと、『あの日』のこと、勲は何て言ってますか」。20年ほど前から小学校などで被爆証言を続けるが、姉弟の間で原爆の話題が上ることはない。「勲を連れ、早く逃げなさい」。あの日、上着を鮮血に染めて言った母に、国民学校(現在の小学校)に通う7歳だった小林さんは戸惑った。兄と姉は空襲に備えて家屋をまびく建物疎開などに動員されていた。母は2人の帰りを待つという。自宅の周辺は比治山(ひじやま)(標高71メートル)が壁となって火災こそ免れたが、爆風で倒れた木造家屋が道を塞いでいた。衣服か、肌か、判別のつかぬほど「どろどろした」人たちがいた。弟の手を引き、その一団に行き先を委ねた。川があった。焼けただれた人々がうめき声を上げて沈んでゆく。河原に下りて、黒ずむ水をすくい、弟のシャツに付いた母の血を洗い流した。自分の服に付いた赤い染みは乾いて異臭を放っていた。日暮れも近い頃、橋のたもとで見た市中心部は赤く渦を巻いていた。見知らぬ男性から真っ白な塩むすびをもらった。「おじちゃん、ありがとう」。弟が言葉を絞り出した。その2日後か3日後だ。どこかのブドウ畑で再会した母は体からガラス片を抜きもせず、兄はやけどした腕にちぎった布を巻いていた。上の姉の点子(てんこ)さんはいなかった。小林さんは、弟を連れて点子さんを捜した。収容された負傷者らが異臭を放つ、学校の講堂かどこかだ。「点子姉ちゃん」の呼びかけに応じる低いうめき声が耳に届いた。姉の面影はなかった。「点子姉ちゃん」。再度尋ねると、熱線で溶けた口元から「うん」と聞こえた。母と兄の待つブドウ畑に、運んでもらった。母は泣いた。点子さんは「熱い、熱い」とうわ言を繰り返すばかりで、手の施しようがなかった。張本さんは小さな手でブドウの粒をもぎ、口元で搾ってやった。翌朝、母の泣き声は大きくなり、張本さんは戦後十数年もたって「あのとき、息を引き取った」と聞かされた。別々の機会に、張本さんと小林さんは同じ言葉を発した。「一度も母の寝顔を見たことがない」。原爆投下の9日後、広島の戦後は始まる。母は残された3人の子を育てるため寝食を忘れて働いた。移り住んだバラック建て長屋住宅で、母はホルモン焼きの屋台を始めた。張本さんはいつも、包丁がまな板をたたく音で目を覚ました。母は広島駅前にできたヤミ市までの道のりを歩いた。小林さんが床に就いても、細々とした明かりの下で繕い物をした。姉弟の父親役は、年齢の離れた兄世烈さん(96年に64歳で死去)が担った。家族4人で支え合ったが、56年に張本さんは16歳で広島を離れた。母の反対を押し切り、地元の高校から大阪の野球強豪校・浪華商業高校(浪商、現大体大浪商)に移った。「スパイクもユニホームもやぶれたと言って居たが、現状ではどうにもならない。早めに給料をもらって送ってやる。誰にも負けずにがんばってくれ」「昭和33年7月」の消印が残る手紙には、細かな字でそう書かれていた。「父の字です」。広島市南区で不動産業を営む張本さんのおい、英治さん(56)が言った。張本さんが大阪の高校で野球に打ち込んだ18歳のころ、父世烈さんが送った手紙だ。張本さんから保管を頼まれた封書や写真の束には「張本勲様」の宛名がある現金書留も交じる。張本さんは小学5年のとき、友人に誘われて野球を始めた。広島に遠征した巨人の選手らが利用する宿舎をのぞくと、選手たちが皿からこぼれんばかりのステーキを食べていた。「あんなものを、お袋にも食わせてやりたい」。プロを志した。(以下略)
《がけっぷちの防空壕》
2020年3月6日(金)~29日(日)金土日のみ開室13:00~20:00
会場:東北リサーチとアートセンター(TRAC)
980-0804仙台市青葉区大町2-3-22第五菊水ビル3階
https://artnode.smt.jp/event/20200116_7170
企画制作★伊達伸明/美術家(1964~)
https://www.kyoto-art.ac.jp/info/teacher/detail.php?memberId=03103
兵庫県生まれ、大阪育ち。美術家。取り壊される建物から生活痕の残る材料を用いてウクレレを制作し、元の住人に手渡す「建築物ウクレレ化保存計画」を主宰。仙台では2012~2015年に「亜炭香古学」、2017年~「しらべの細道」を実施。戦時中仙台市内に造られた防空壕のほとんどは、戦後復興とともに使命を終えて姿を消しましたが、崖面に掘られた横穴式防空壕の一部は、時計の針を止めたまま今も人知れず残存しています。本展ではそれらを、仙台・空襲研究会の新妻博子氏の資料とオリジナル写真でご紹介します。
《参考》
「せんだい・アート・ノード・プロジェクト」
「きのうよりワクワクしてきてHPできちゃいました」
http://www.brico-art.com/top.htm
※「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議」ブログより
仙台市のTRAC(東北リサーチとアートセンター)で行われている標記の展覧会をご紹介します。せんだいメディアテークの主催で、私たち「仙台・空襲研究会」もこれまで調べてきた防空壕資料を提供いたしました。今回は、「しらべの細道」第5回目です。企画者の美術家★伊達伸明氏によると、「しらべの細道」とは研究や事業の準備段階とされる「しらべること」自体の魅力に着目し、必ずしも自己表現を目的としないながらも、着眼点や圧倒的な蓄積ゆえに社会性を持つに至ったさまざまな活動の中から、その魅力やプロセス、記録方法などを紹介するシリーズとのこと。写真家による防空壕写真は、岩肌の質感や壕内の空気感までもが色鮮やかに表現されており、これらの展示物から来館者それぞれが何かを受けとめてくだされば幸いです。防空壕に関心のある方の他、空襲戦災と関係なく訪れた方々が、別室に配した資料を熱心に読んでくださる姿もあり、★多様な伝え方の一つとして大きな可能性を感じました。