第328号2017年05月号「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話
皆様 好天に恵まれ気持ちの良い大型連休をいかがお過ごしでしょうか。私は昨日、ソラマメの種を見つけまして、苗床に植えました。数か月後を楽しみにしています。ニュースをお届けします。まだ、昭和20年前後の思い出話です。おつきあい下さい。
1945(昭和20)年5月、英米露中等連合軍の攻撃によりベルリン陥落、ドイツ降伏、そして、ヒットラーは自殺しました。その後、日本への攻撃は激しさを増しました。
その年の5月25日、米軍は新潟、仙台などを上空から撮影し、それを組み合わせて「リト・モザイク」といわれる図を作製し、仙台爆撃の準備をしました。爆撃中心点は新伝馬町(現クリスロード)と東三番丁の交点で、そこを中心にした1.2キロの範囲が爆撃目標でした。
それで、今月は、「私の8月15日(25)仙台空襲と防空壕」の話です。
1945(昭和20)年7月10日未明、米爆撃機B29、123機が仙台の上空に飛来し、午前0時3分から2時5分まで、約2時間にわたり爆撃目標地点に911.1トンの焼夷弾を投下しました。仙台市街は火の海となり、多くの家が焼け、死者、怪我人が出ました。
1937(昭和12)年、既に国は、空襲を想定して防空訓練や、灯火管制の必要性を認識しましたが、隣組が「国土防衛の第一戦」と、その任を担うことになりました。
翌年に出された要綱では「防空壕とは空襲を受けた際に爆弾の破片や爆発物、爆風等を避けるための応急的な施設で、焼夷弾が落下してきたら直ぐに飛び出して消火するために、各自の庭や空き地に壕を堀り、そこから庭や屋内を見やすいようにしなければならない」と説明されました。つまり、防空壕は一般国民が信じていた爆弾から身を守るための構造物ではなく、単なる待機所に過ぎなかったのです。そのために、国は少人数用の壕を多数分散させる方針をとり、原則、地下式、なるべく蓋を付ける等、設置方法を指導しました。
1942(昭和17)年、日本本土(東京、神戸など)が始めて米軍機により攻撃を受けました。軍は国民に軍への不信感が生まれることを恐れました。防空壕を待避所と呼ぶとし、床下などに簡単な待避所を自発的に作るように周知しました。これは、国民が空襲を恐れて逃げることで街の消火活動に支障を来すことがないよう、また、壕の設置に材料や費用がかからぬように採られた方針でした。この方針によって空襲当時、仙台では質はどうであれ、ほぼ一家に一つの防空壕がありました。
被災者(11歳少年A)の証言「警戒警報で起こされて一旦、母達と庭の防空壕に入った。父が危ないと言ったので、焼夷弾が降る中を濡らした布団をかぶって大橋の下に逃げた。橋の上を炎上する町へ向かって軍馬が何頭も駆け抜ける音を聞いた」
被災者(11歳少年B)の証言「今夜、空襲があると聞き、早くから評定河原の防空壕に避難した。空襲が終わって家に帰ると家は全焼していたので、片平丁小学校に避難した。そこに川内の兵隊さんが炊き出しを持ってきてくれた。兵隊さん達は空襲中はどこにもいなかった」
被災者(31歳、女性)の証言「空襲が始まると勤務先の学校へ行き、重要書類を持って校庭の防空壕に入った。間髪を入れず雨のように焼夷弾が落とされた。翌朝、河原や街中で家族を捜した。結局、夫と息子、娘の3人は自宅の防空壕の中で息を引き取っていた。みんなに棺箱を作って貰い3人を入れて焼き場に運んだ。そこには足の踏み場もない程、むき出しの死体が横たわっていた」
ベルリンやローマでは人命を第一とし、緊急時には堅牢な地下鉄やシェルターに避難する政策が取られており、国はこれらの都市を視察はしましたが、それを実際の政策に生かすことはありませんでした。多くの市民は防空壕の中で命を失い、または逃げ遅れて被爆し、命を落としました。
東京を始め他の大都市が連日のように空襲を受け、夥しい人々が倒れていく現実の前にも、国は正確な情報を国民に伝えず「敢闘精神と水、砂があれば焼夷弾は怖くない」という安全神話を流布し、人命を守ることを二の次にしました。「知らしむべからず。寄らしむべし」という国民軽視の考えは、現在も日本国の政策決定の底流に脈々と流れているように感じます。
小田眼科医院理事長 小田泰子
Produced by *J.O.Y.
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