ころな・こまる・こもる(2) | すくらんぶるアートヴィレッジ

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・・・そもそもブログ「衣・色・住」は、退職後の生活を象徴するテーマとして掲げたものです。今の時期は外出をひかえて、これまでを振り返るという意味では良い機会になっています。最初のきっかけは、自宅近くにある「蓑の辻」でした。

 

 

《蓑の辻》

https://ameblo.jp/manabunc/entry-11902428947.html?frm=theme

竹内街道と東高野街道との交差点にある嘉永元年建立(1848)の道標、東高野街道向けに「左 大和路、上の太子、たえま/右 大坂 すぐ さかい」と刻まれている。ここが「蓑の辻」と呼ばれている由来についてはわからないが、蓑(みの)と言えば、藁(わら)を編んで作られた雨具であり、雨を防ぐために衣服の上からまとうものである。近隣には以前、江戸時代の両替商の建物「銀屋」があったが、2001年に解体され跡地に建売住宅が並んでいる。

《西琳寺》

北東すぐに、飛鳥時代(7世紀前半)に創建された「西琳寺」がある。寺伝では百済から渡来した王仁(わに)の子孫である西文氏(かわちのふみうじ)が、欽明天皇の頃(6世紀中ごろ)に建てた寺とされている。これまでの発掘調査によれば、東に塔、西に金堂を置いた法起寺式伽藍配置が推定され、境内には舎利孔と添柱穴をもつ巨大な塔心礎が残っている。金堂の棟を飾っていたと考えられる鴟尾は高さが1.3mあり、腹部に宝珠、火焔宝珠、蓮華紋などを浮き彫りにした、類例の無い優品である。鎌倉時代には奈良最大事の僧叡尊が中興し、広い寺領を所有して隆盛をきわめた。この西淋寺には、万が一の時の復興資金として「黄金の平瓦」二枚が蓄えられていました。ところが天正三年(1575)四月、織田信長の河内攻めの際、多くの寺宝と共に黄金の平瓦二枚も井戸に投げ込んで隠し、織田軍の略奪から免れたと言われています。当時の西淋寺には五つの井戸があり、そのうち三つの井戸は発掘されているのですが、残念ながら黄金は発見されませんでした。残る二つの井戸の場所は不明で、古の西淋寺の寺域の大部分が、現在では民家が建ち並び、古市の町の一部となっているところから、この町のどこかに黄金は眠っていると思われます。羽曳野市古市は、まさに埋蔵金の眠る町なのです。

 

・・・このような古代ロマンの、真偽はともあれ楽しいものです。

 

《高屋城》

https://ameblo.jp/manabunc/entry-12386499672.html

東高野街道を進むと高屋城跡がある。あの信長の軍団が集結した場所でもある。天正3年(1575年)4月6日、信長は1万ほどを率いて、秋を待たずに京都を出発し、八幡を経て、7日に若江城へ入城。8日には駒ヶ谷山に布陣し、高屋城攻城に動き出した。三好康長(長慶の叔父)も高屋城の★不動坂口より出撃し、双方激しい合戦となった。織田軍は高屋城の周辺を焼き討ちにし、麦苗も薙ぎ捨て(苅田)にした。12日、織田軍は住吉へ移動。13日には摂津・大和・山城・若狭・美濃、尾張・伊勢・丹後・丹波・播磨根来衆の増援軍が続々と到着し、総勢10万余の大軍となった。信長は天王寺を本陣とし、住吉・遠里小野にも布陣させ、石山本願寺と対峙した。14日に石山本願寺に押し寄せ、ここでも石山本願寺周辺の作物を薙ぎ捨てにした。16日には遠里小野に移動し信長自身も作毛を刈り取り、新堀城周辺に陣を張った。 新堀城には十河(そごう)一行や香西長信が立て篭もっており、高屋城と石山本願寺との中間にある城で両城を支援していた。17日、織田軍はこの城を取り巻き、19日堀草などを入れ埋め立て、夜になって火矢を射かけ大手門、搦手門の両方に突撃し、170余の首級をあげた。十河一行は討ち死にし、香西長信は生け捕りにされ、斬首された。 新堀城が落城すると、三好康長は信長の側近であった、松井友閑を仲介にして降伏を申し出た。信長は康長を赦免し高屋城の戦いは終結した。

 

《参考》嘉永元年

1846年2月21日(弘化3年1月26日)、仁孝天皇が崩御。3月10日(弘化3年2月13日)に践祚(せんそ)し第121代孝明天皇(明治天皇の父)が誕生した。10月31日(旧暦9月23日)、即位の大礼が行われ、11月4日(旧暦9月27日)、将軍である徳川家慶、世子である徳川家定の名代が京都所司代の酒井忠義と参賀した。その代始(だいはじめ)の改元は、1848年4月1日(弘化5年2月28日)に行われ、元号が【嘉永(かえい)】となった。朝廷は「万延」・「明治」などを含めた7つの案のうち、最終的に「天久」と「嘉永」の2案に絞り、朝廷の内意は「天久」であると幕府に伝えた。だが、幕府は「嘉永」を推して譲らず、最終的に朝廷もこれに従った。

【出典】『宋書』楽志の「思皇享多祐、嘉楽永無央。(皇を思い多く享(すすめ)れば、嘉を祐(たす)け、楽永く央(つきる)無し。)」から。

 

 

・・・と、興味がつきません。退職前「原チャリ」を購入していたこともあって、街道巡りが日課となりました。これまで訪問したことのない市町村を通り、「郷土資料館」なども意識して立ち寄り、最終的には府内全域コンプリートを達成しました。

https://ameblo.jp/manabunc/entry-12411169233.html

 

 

・・・さて「竹内街道」は★司馬遼太郎さんとの関係も深く、終着地にはカエルの聖地「長尾神社」があり、スタート地の堺市「大小路」や「宿院」にはいろいろな思い出が詰まっています。北側に通る「長尾街道」には、高校時代の恩師「吉村邸」があるなど、街道巡りは自分探しの旅となりました。

https://ameblo.jp/manabunc/entry-12489277576.html

 

 

・・・「竹内街道」を行き来して、「葛城アート2016」の開催を知りました。「當麻寺」がメイン会場となり、★4年に一度の公開となる茶室にも展示できるということでした。当時、茶室や庭園にも関心があり、この機会を逃してはならないと直感したわけです。

 

 

・・・幸い作品が評価され、生まれて初めて茶室に作品を展示していただくことができました。この頃からすでに「箱」を制作していたんだなあと、今頃気付いた次第です。つづく