杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -23ページ目

西東京市の西武柳沢駅近くにある『ヤギサワバル』。

 

「究極のビール」と評されるクラフトビールが、東京で唯一飲める店である。

 

それだけでも訪れる価値のある店だが、それ以上に魅力的なのが、この店を経営する大谷氏の生き方だろう。

 

早稲田大学を卒業しながら、就活もせず、自分の好きな道を貫く彼の生き方は、きっと多くの人に勇気を与えてくれるはず。

 

そんな思いから制作されたのがこの本、『「農家のビール」が都内で唯一飲める店 ヤギサワバル』である。

 

 

以下は本書の紹介文。

 

「究極のビール」と評されるビールがある。それは、肥料すら使わない自然栽培が生んだ「農家のクラフトビール」。

クラフトビールがかつてない盛り上がりを見せている昨今だが、このビールのように「すべての材料を自然栽培で育て、しかも加えるスパイスまで自ら手掛けているところはない」(『ダイヤモンド・オンライン』2016年9月7日)。これぞ「究極のビール」と言われるゆえんである。

現在のところ、この「農家のビール」を生(樽)で飲める店は全国で2つしかない。

1つは、このビールを作っている農園「鹿嶋パラダイス」が経営するカフェレストラン「Paradise Beer Factory(パラダイス・ビア・ファクトリー)」。これは茨城県鹿嶋市にある。

そしてもう1つが、2016年に西東京市の西武柳沢駅近くにオープンしたビアバル「ヤギサワバル」である。つまりこの店が、都内で唯一「農家のビール」が飲める店、ということになる。

しかもこのヤギサワバル、単においしいビールを出すだけの店ではない。店主である大谷剛志氏の「志」と「生きざま」が反映された、実に魅力的なバルなのだ。本書はその大谷氏にスポットを当て、彼が登場したラジオ番組、雑誌記事の内容を中心に編集したものである。

地域と共に生きるビール屋「ヤギサワバル」に、あなたもきっと、行きたくなる。

 

ビール好きの方も、そうでもない方も、ぜひ読んでみてくださいませ!

 

 

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電子書籍で出版していた『文筆家の分泌物』を、紙の本でも出版いたしました!

 

文筆家の分泌物 簡単に変態になれる方法

 

注文されてから1冊ずつ印刷されるオンデマンド印刷なので、ちょっと値段が高めになってしまうのがたまにきずですが。

 

電子書籍だと読み方がよくわからなかった方、あるいは電子書籍で読んだけど、ぜひ紙の本で手元に置いておきたい!という奇特な方はぜひご購入ください(笑)。

 

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春、夏、秋、冬という季節があるように、人生にも「季節」というものがある。

 

僕がそのことを最初に意識するようになったのは、意外に思われるかもしれないが、「遊び相手の変化」によってである。

 

まだ広告会社に勤めていた20代後半のころ。不思議と当時は、女友達と遊ぶことが多かった。遊ぶと言ってもせいぜいお茶をしたり飲みに行ったりする程度なので、「遊んでる」というより「話してる」というほうが正確かもしれない。

 

で、会社の先輩は月曜日になると必ず「週末何してたの?」と聞いてくるわけである(笑)。特に他意はなく、会話の糸口にすぎないのだが、そこで僕が女性とお茶をして……という話をすると、「お前、男と遊ばないとダメだぞ」ということを言われるわけである。

 

先輩の言わんとすることはわかる。遊びにもやっぱり「男同士だからできる遊び」というのがあって、それはより子どもっぽくて、ばかばかしい、面白さを追求するような遊びである。そしてコピーライターとしての感性をみずみずしく保ち続けるには、そういう遊びも実は大切なのだ、と(彼が直接そう言ったわけではないけれど)。

 

しかし僕はそのことを理解しながらも、全く現状を変える必要性を感じなかった。なぜなら、今は女友達とよく遊んでいるけれど、やがて男友達とよく遊ぶような時期がやってくることが、なんとなくわかっていたからだ。

 

というのも、男友達と遊ぶことが多い時期も、女友達と遊ぶことが多い時期も、意識的にそうしているわけではなく、自然とそういう時期がやってくるのである。それは論理的な話ではなく、経験的な話である。

 

多くの人がおそらくそうであるように、小、中学生のころは、やっぱり同性と遊ぶことがほとんどだろう。ところが高校生になると、僕の場合はなぜか女子グループの中に混じって遊ぶようになり、時には女子7人の中に男子は僕1人、なんてこともあった。きっとあまり異性として認識されていなかったのだろう(笑)。

 

それから大学生になるとまた男友達らとつるむようになり、そして会社で働くようになってから、また女性と遊ぶことが多くなった。やがて僕はこのような変化を、巡りゆく「季節」のようなものだと思うようになった。つまり遊び相手の傾向はずっと同じではなく、循環するように変化してゆくのだ。

 

このような「季節」の存在は、なにも遊び相手の変化に限らないのだと思う。「今すごくギターにハマッてて……」とか、「この作家の小説ばかりをずっと読んでいる」とか、「時間ができたらとにかく旅行に行きたい」とか、そういう興味関心の変化もまた、ひとつの「季節」なのだろう。幸、不幸というものにも、そういうところがある気がする。

 

しかしそれがその人にとっての「巡りゆく季節の、あるひとつの季節にすぎない」ということを、他人が見て理解することはむずかしい。それを理解するためには、その人の循環する季節の全体を、長期的な視野で俯瞰しなければならないからだ。

 

ものすごく付き合いの長い友人や家族ならそれも可能かもしれないが、つい最近知り合ったような人に、そんなことはわかりようもない。そのひとつの季節だけを見て、「その人は、そういう人なのだ」と思ってしまうのではないか。つまり僕が女友達とよく遊ぶ頃に出会った人は、僕のことを「そういう人」だと思い込んでしまう。ところが別の季節に僕のことを知った人は、全く別の印象を持つだろう。

 

そういう視点からどんな忠告をされても、それがひとつの「季節」にすぎないと知っている当人にとっては、「うーん、まあ、そうなんですけど……」という感じになってしまうだろう。

 

このことを知っているといいのは、他人に対する一面的な理解、それによる決めつけのようなものを、ある程度は予防することができることだ。それだって、けっこう意識しないとむずかしいのだけれど。

 

さらにそのことは、自分自身に対しても言える。つまり自分自身に対する一面的な理解、それによる決めつけを、ある程度は予防できるのだ。人間生きていれば、「こんなことばかりやってて、僕は大丈夫だろうか……」と思うような時期もあるだろう。でも、それもそういう「季節」なんだと知れば、決してその季節が永遠に続くわけではないと思える。じゃあ今はせいぜいこの「季節」を楽しもう、とさえ思えるかもしれない。そして夏に冬を楽しむことはできないし、冬に夏を楽しむことはできない。どうせ季節は巡るのだということを知っていれば、今の季節を楽しめばそれでよいのだとわかる。

 

もちろんそこで忘れてはならないのは、夏には夏にするべきことがあるし、冬には冬にするべきことがあるということである。農業が自然のリズムに逆らっては成立しないように、人生にもどこか逆らうことのできないリズム、いや、逆らう必要のないリズムのようなものがあるのではないだろうか。

 

僕らは人生を「直線的な時間の流れ」として捉えるけれど、そこには同時に「循環する時間の流れ」としての「季節」が存在していて、僕らはその両方の時間を生きている。しかもその季節は1年単位のものもあれば、10年単位のものもある。もしかすると現世を超越して、来世も含んだ季節の循環もあるかもしれない。それを人は輪廻と呼ぶのかもしれないけれど、それはもう個人の認識を超越した次元の話になる。

 

ところが、それを認識可能にするのが「共同体」の存在である。個人の生は有限だけれど、「共同体」の生は無限である。個人の経験が、共同体を通して語り継がれ、それらが積み重なることによって、個人にはなし得ない超長期的な視野を獲得することができる。

 

他者の人生における「季節」を理解するためには、「その人の循環する季節の全体を、長期的な視野で俯瞰しなければならない」と述べたが、共同体という主体は、個人の生を超越した「季節」をも認識することが可能なのである。そしてそのようなものを定式化したものが「神話」とか「迷信」と呼ばれるものなのではないかと僕は思う。

 

だからそれを「個人」の認識で理解できないのは、ある意味で当然なのだ。しかしそこには、個人の生を超えた、超長期的な「季節」に対する認識が含まれている。

 

僕たち一人ひとりの人生を、そのような超長期的な視点から眺めることができたなら、もっと落ち着いた、地に足の着いた生き方ができるような気がするし、まだ伝統的な共同体が生きている時代や地域では、それが可能なのだろう。個人としての僕にそのような認識は不可能だけれど、せめてそういう「季節」の存在くらいは、意識しながら生きていきたいと思う。ちなみに今の僕は、また男ばっかりとつるむ「季節」の最中を生きている(笑)。

 

 

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電子書籍で、新しい本を出版しました。タイトルは、『コピーライターは、時代の穴を埋める』。

 

 

これは、日本広告業協会が主催する「懸賞論文募集」(2003年)の入賞作品。そう、僕がまだ広告会社に勤めていた頃に執筆した論文です。

 

論文と言っても全く小難しいものではなく、お笑い芸人の「あるあるネタ」から議論がスタートします(笑)。

 

当時の論文を改めて読み返してみると、思いがけず、現在につながる問題意識がすでに現れていて、それは自分にとって新鮮な驚きでした。このことが、今回この論文を電子書籍にしようと思ったきっかけでもあります。

 

今ではプロフィールにもあまり書かなくなった、広告会社でのコピーライター時代のエピソードなんかも書いています(笑)。よかったらご一読くださいませ。

 

冒頭の部分を少しだけ公開しておきますー!決して「お笑い論」の論文ではありません(笑)。

 

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■最近のお笑いネタに見る共感性

 

鉄拳、いつもここから、さまぁーず、テツandトモ、ふかわりょうetc……。

彼らお笑い芸人の書いた本が今、爆発的に売れている。これらはいずれも(多少例外もあるが)、短いセンテンスで書かれた言葉をたくさん載せた体裁になっている。
 

例としてそれらのネタをいくつかご紹介しよう。
 

まずは『テツandトモのなんでだろう』から。
 

・昆布が海の中でダシが出ないの なんでだろう♪
・教室のカーテンに巻き付いて遊んでいるヤツ なんでだろう♪
・運動会のリレーで手をまわしながら走るヤツ なんでだろう♪
・山登りをする人はみんなチェックの服なの なんでだろう♪


 続いて、ふかわりょうの『休んだ日に席がえ?!』から。
 

◎気まずい
・親戚そろっての食事
・家族で見ていたドラマがベッドシーンに突入
・寄せ書きまでしてもらったのに、転校延期
◎さみしい
・夏休み、自転車で日本縦断したが、特にフューチャーされなかった
・電車の扉付近にいたため、一旦ホームに降りたのに、誰も降りてこない
・同窓会があったらしい


読んでみると、確かに面白い。「そうそう、そうなんだよな」と身に覚えのある場面や気持ちに共感させられたり、「なるほど、なるほど」と自分と違う視点に驚かされたり。人間が生きている上で感じる小さな心の動き、発見を見事に拾い上げて、読む人を引き込むネタへと昇華させている。そこで、ふと気がついた。「これって、コピーライターの視点だよな」。

私がいつも探しているものを、彼らも探していたのである。

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「幸せになりたい」と思いながら生きている人はたくさんいるだろう。ところが、「その幸せの内容とは一体なんなのか」と問われると、ちょっととまどってしまう人もまた多いような気がする。

 

そこで漠然とイメージされるのは、いわゆる「普通の幸せ」というものかもしれない。特に人生において苦しい局面にある時などは、この「普通の幸せ」がことのほか眩しく見えるものである。

 

しかし、「普通の幸せ」とは一体なんなのだろうか。これもまたよくわからない。それもそのはずで、「普通の幸せ」の「普通」も「幸せ」も、極めて主観的な概念なのである。自分が「普通だ」と思っていることが、他人にとっては全然普通じゃなかったり、自分にとって幸せな状況が、他人にとってはむしろ不幸な状況だったりもする。だから「普通の幸せ」を客観的に定義づけすることなどできないのである。

 

にもかかわらず、僕たちは「普通の幸せ」という言葉を使うし、そういうものを求めていたりする。そこでの「普通の幸せ」とは、ごく一般的な感覚で言えば、結局のところ「平均的な生活」くらいのイメージになってしまうわけである。

 

そしてここに、大きな矛盾が発生することになる。「普通」も「幸せ」も主観的な概念でしかないのに、「普通の幸せ=平均的な生活」となったとたん、それは客観的な「他者との比較」によって決定されるものになってしまう。

 

たとえば、世間一般の人より自分の収入が少ないと、「普通の幸せを得られていない」と感じられてしまう。世間一般の人が結婚するくらいの年齢で自分も結婚していないと、これまた「普通の幸せを得られていない」と感じられてしまう。その項目において「平均以下であるらしい」という「情報」を見て、「自分は普通の幸せを得られていない」と判断するわけである。

 

だがそもそも「幸せ」とは主観的な概念なので、いくら収入があれば幸せかは人によって違うし、結婚することが幸せな人もいればそうでない人もいる。「普通の幸せが得られていない」と嘆いている時、そういう「自分の主観(気持ち)」は蚊帳の外に置かれているわけだ。

 

「普通の幸せ」というのは概念でしかなくて、そんなものは実在しない。だからそれは、「自分の人生とは全く関係がない」。自分の生きてきた人生の文脈から切り離されたもの。それが「普通の幸せ」という概念である。

 

「幸せ」というものが存在するとして、それに内容を与えるのは、自分が生きてきた人生の文脈である。父と母なしに自分の存在はなかった。この人との出会いがなければ今の自分はなかった。あの出来事があったから……。なぜあなたが今そこにいて、この文章を読んでいるのか。それを過去の文脈なしに語ることはできないし、自分の存在を意味付けしているのもまた文脈である。

 

「普通の幸せ」を人生の目的にすることは、人生の文脈から自らを切り離すことになりかねない。それは自らの存在の根拠を失うことを意味している。だから苦しくなる。歴史上、「普通の人生」というものが存在したことなど一度もない。そんなものは「ない」のである。

 

固有の文脈を持った人間が共に生きている。そこにこの世界の面白さがある。そんな中で、「普通の幸せ」なんていうものは本当に薄っぺらい概念にすぎない。もちろん、「健康で文化的な最低限度の生活」という意味での「普通の幸せ」なら、それはみんなでできるだけ保障していかなければならないけれど、他者との比較の上に築かれる「普通の幸せ」なんていうものは砂上の楼閣にすぎない。「そんなものはない」と思って、自分らしく生きて、死ぬべき時に死んでいけばいいのである。死を前提にしない幸せもまた存在しないのだから。

 

 

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パナソニックエイジフリーさんが発行している無料情報誌『はぴとび』。その8月号と9月号に、「『何もしない』練習」というエッセイが前編・後編で掲載されることになりました。

 

実はこのエッセイ、かつて『PHPスペシャル』という雑誌の2014年4月号にも掲載されたのですが、その原稿を編集の方が気に入ってくださって、ありがたいことに再掲されることとなりました。やっぱり自分が書いたものを多くの人に読んでもらえるのは、本当にうれしいものです。

 

毎月12,000部程度配布されているというこの『はぴとび』。名前の由来は「ハッピーへの扉」だそう。「人生をより楽しく生きるヒントをお届けする」をテーマに、読者の方に気づきを与え、毎日を豊かにする話をお届けする情報誌、とのこと。まさに今回のエッセイにぴったりのコンセプトなのです。

 

これを発行しているパナソニックエイジフリーさんは、全国約120箇所で介護ショップのフランチャイズ事業や、介護サービスなどを行っているそう。僕も特別養護老人ホームで宿直の仕事を2年ほど経験しているので、特に介護や福祉に関わる方に読んでもらえるのは、いちだんとうれしいことなのです。これを読んで、少しでもゆったりした気分になってもらえたらありがたいなあと思っています。

 

 

 

 

 

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僕はトマトが苦手だ。

 

だから外食をするときも、トマトがついてくるようなものは極力注文しない。それは自分のためであり、トマトのためでもある。

 

ところが、全く予想しない形で、トマトが目の前に現れることがある。

 

先日、知り合いと一緒にそば屋に入った。

 

とっても暑い日で、「ここは涼やかなものが食べたいなあ」と思い、そうめんを注文した。

 

「お待たせしました〜」と運ばれてきたそうめんの上には……

 

 

 

 

真っ赤なトマトが鎮座していた。

 

「おい!なんでお前がこんなとこにおるねん!!」

 

しかしヤツを見ていると、冷たい水にひたって、とっても気持ちよさそうだ。

 

「そうか、お前も暑かったんやな。それでそんなところに……」

 

トマトの気持ちを理解した上で、さっそく知り合いにトマトを食ってもらった。

 

素麺は最高に美味しかった。

 

 

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ウチでは、そのへんに生えてる野草を花器にかざっている。お金がかからないし、部屋の中にいても季節を感じられていいのだ。

 

つい先日も、近所の空き地に生えていた野草を摘んできた。

 

 

うん、いい感じだ。花器に挿してすぐの時はシナッとなっていたが、しばらくするとどちらもシャンと元気を取り戻した。

 

ところがである。

それから外出して、夜に帰ってくると、ヤツらは驚くべき状態になっていた。

 

 

「ウェーイ」みたいになってるけど、それハイタッチ?

てかお前ら絶対仲いいやろ!もしかして付き合ってる?

 

確かに近くに生えていた野草同士なので、もともと顔見知りなのかもしれない。

 

それにしても、こっちが見てないと思ってイチャイチャしやがって……。

 

過ちを犯さないように、今後しっかり監視しておくつもりだ。

 

 

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