杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -22ページ目

「歌ネタ王決定戦2018」というイベントが開催されたそうだ。

 

僕も昔から替え歌をよく作っていたし、

くだらないオリジナルソング

いくつか作ってきたこともあり、

ちょっと気になってYouTubeで探してみた。

 

すると優勝者の「メンバー」という

コンビのネタを見ることができた。

 

いやあ、久々に、本当に面白いネタを見た。

 

ただそれだけの話だけれども、

本当に面白いものは、

ちゃんと「本当に面白い」と言っておくのは

けっこう大事な気がするのだ。

 

テレビ番組をYouTubeに上げることが

OKなのかよくわからないので

ここではあえて紹介しませんが、

まだ見てない方は何らかの方法で

ぜひ見てみてください。

 

僕は久々に涙を流して笑いました(笑)

前回のブログで書いたように、9月20日頃から筋トレを再開した。せっかくなのでその過程を、ブログでも報告していくことにした。

 

基本的なプランは、月・水・金の週3日。さすがにブランクが長いので、あまり負荷はかけずに、リハビリ的に始めていくことにする。

 

メニューは次のとおり。

 

  • 「腕立て・腹筋・背筋・スクワット」各25回×2。
  • インターバルダッシュ(ダッシュ→ジョグ→ダッシュ……の繰り返し)20分程度。

 

ふだんトレーニングをしている人からすると超軟弱なメニューだと思うが(笑)、とにかくケガをしないことが第一。ゆっくりゆっくり始めます。

 

今日は午前中にメニューをこなして、人生初のプロテイン摂取(笑)。

 

 

 

 

種類はTestosterone著『筋トレが最強のソリューションである』で紹介されていたホエイプロテイン(ヨーグルト風味)。まず形から入るのが僕の流儀である。

 

午前中にこのメニューをやるだけで、「もう今日のやるべきことは全てやった感」が出てすがすがしい。いや、本当にやるべきことは他にあるのだが(笑)。

 

僕の専門は哲学で、時間論を研究しているので、筋トレの効用を時間論的に少し論じてみようと思う。

 

人間が生きる上で大切なことは「希望」を持つことだと言われる。この「希望」の本質を時間論の観点から言えば、それは「時間の流れを肯定できること」だと僕は思う。

 

未来に希望を持つということは、時間が未来に向って経過していていくことを肯定できることにほかならない。逆に「絶望」とは、「時間の流れを肯定できないこと」だと言うことができる。時間の流れを肯定できないと、自分が存在していること自体が苦しくなってくる。だから絶望が極まれば、そこで自分の人生の時間を終わらせたいとさえ思ってしまう。

 

「時間の流れを肯定できること」が「希望」だとして、その最終地点にあるのは一般的に「死」だと考えられる。その意味で、究極の希望とは「死の肯定」である。死を肯定することができれば、そこに向かうまでのすべての時間をも肯定することができるだろう。

 

さて、前置きが長くなってしまったが、話を筋トレに戻そう。

 

結論から言えば、「筋トレは希望を生む」

 

筋トレをすると、傷つけられた筋繊維が以前を上回る強さに回復する「超回復」が起こる。それにかかる時間は筋肉の部位にもよるが、およそ48〜72時間だと言われる。だから一度筋トレをしておけば、その後自分が何をしていようと、たとえダラダラと怠けているだけであっても、筋肉はせっせと「超回復」に励んでいるのだ。

 

これ以上に「時間の流れを肯定できること」が他にあるだろうか。あると思うけど、これがけっこうな「希望」を生み出してくれるのだ。何かうまくいかないことがあって、「俺の人生うまくいってないんじゃないだろうか……」なんて思う時でも、「だが筋肉はいまも着実に超回復している」と思うと、もはや「時間の流れを肯定せざるをえない」。

 

要するに筋トレは、「希望を体内に内蔵すること」に他ならないのだ。

 

絶望した時こそ、筋トレをしよう。

 

 

Testosterone著『筋トレが最強のソリューションである』

「圧倒的な筋肉さえあれば全ては思いのまま」というのは、僕が以前から主張していることである。その思想から、「上腕三頭筋をきたえろ」「腹筋20回」など、数々の名曲も生まれてきた。

 

しかしその思想が世の中に受け入れられることはほとんどなく、なかば失意の中にあったところに、驚くべき本の存在を知った。それがこれである。

 

 

Testosterone著『筋トレが最強のソリューションである』

 

とりあえず期待せずに読んでみたのだが、結論から言うと、「非常によい」。星五つだ。

 

いくつか引用してみよう。

 

「筋トレとプロテインでこの世の99%の問題は解決します。本当です」

 

「(筋トレは)運動というよりは座禅や礼拝に近い。宗教だ」

 

「筋肉は犬よりも従順で裏切らないし育てるという観点で犬の飼育と似てる」

 

「筋トレは一つの言語」

 

「日本に必要なのは定期検診ではなく定期筋トレ」

 

「考えるな、筋トレしろ」

 

いつくか意味不明に見えるものもあるかもしれないが、真理とはそういうものだ。

 

僕も恥ずかしながらここ20年以上本格的な筋トレから遠ざかっていたので、この本に影響されて筋トレしてみたら、すこぶる調子がいい。心が身体と結びついていることを否応なく実感させられる。

 

近代以降、知性万能主義が世の中を覆っていたが、いよいよ「筋肉万能主義」の時代が近付いているのかもしれない。

 

……備えよ!!

 

 

『筋トレが最強のソリューションである』

 

 

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柳沢の盛り上がりの象徴になっているヤギサワマーケットが、9月23日(日)に開催されます。地元の商店街のお店が多数出展するだけでなく、ステージでは多彩なアーティストが会場を盛り上げてくれます。とってもアットホームな雰囲気のイベントで、遠くからわざわざ足を運ぶ人もしばしば。帰る頃には不思議としあわせ〜な気分に浸れます。

 

僕も遊びにいく予定ですので、会場で見かけたらお声がけください。全力で無視します(うそです)。詳細はブログのいちばん下のホームページをご確認くださいませ。それでは会場でお会いしましょうー!!

 

 

 

■日時:2018年9月23日(日)10時〜16時

■場所:「ほうやちょう保育園園庭」および「保谷第三児童公園」(西武柳沢駅北口から徒歩数分)

■やぎさわマーケットホームページ

http://yagisawa-mkt.weebly.com/

 

 

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雑誌『かがり火』で連載させてもらっている対談記事「そんな生き方あったんや!」。

 

第9回目は、演芸家(動物ものまね芸)の江戸家小猫さんに登場していただきました。そしてその記事を、小猫さんが自身のFacebookページで紹介してくださいました!

 

>江戸家小猫さんのFacebookページ

 

いつもは無名の方々をご紹介している中で、今回は有名な方にご登場いただき、読者の反応が気になっていたのですが、みなさんから「あれは本当に必要な記事です」「面白かったです」と大好評をいただきました。

 

小猫さんの人生哲学が本当に深くて、僕自身、何度も読み返しています。人生において苦しい場所にいる人にも、きっと元気と勇気を与えてくれると思います。

 

よければぜひご一読ください。

 

 

 

 

 

 

『かがり火』ホームページ
http://www.kagaribi.co.jp/index.html

 

 

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知り合いの勧めでぷらっと寄ってみた地酒専門店「三益酒店」。

 

日本酒がメインだけれど、それ意外にも珍しいお酒がズラリ。

 

女将さんが丁寧にお酒とお店の説明をしてくれて、それだけで来た甲斐ありな気分。そして今回購入したのはこの3つ。

 

 

実はなかなか手に入らない一品なのです。しかも真ん中は、このお店のある北区の特産「滝野川ごぼう」を使った発泡酒。こうした商品開発によって、地域活性化にも一役買っているのが、この三益酒店さんなのである。

 

 

月の満ち欠けをモチーフにしたフタもまた一興。

 

 

朝日新聞に取り上げられた記事が店内に貼ってあった。

 

しかも隣には「角打ち」ができるカウンターがあって、なんとランチもやっているらしい。カレーが絶品とのことだったので、こんどぜひ食べに行こうと思う。

 

 

行ってみたい方がおられたらご案内しますよー!

 

三益酒店ホームページ

http://www.mimasu-ya.com/index.html

 

 

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ふらっと近くの公園に行ったら、誰もいないテーブルの上に、こんな本が放置されていた。

 

 

タイトルは、『遅咲きの成功者に学ぶ逆転の法則』

 

誰か知らんけど、この本を読みたくなる気持ち、なんかわかるよ……(笑)。

 

しかしなぜここに放置していったのだろうか。前日の夜に降った雨でシワシワになっていたけれど、まさか早まっていなければよいのだけれど。

 

取りに来るに

遅すぎる

はない

 

 

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「そう思ったら、そうする」

 

この単純なことが、実はなかなかできない。

 

電車でお年寄りが乗ってきたら、「席を譲ろう」と思う。しかしその刹那、「年寄り扱いするなと怒られたらどうしよう」、「いい人ぶりやがってと周りの人に思われたらいやだなあ」、「自分が譲る前に他の人が譲るんじゃないか」、「よく見たらけっこう若いような……」などという思いが湧いてきて、結局動くことができず、席に留まったままになる。

 

何かが「そこに留まっている」とき、二つの力が均衡を保っている。人間が大地に立っているということは、人間にかかる重力と、それを支える大地の反発力が、均衡を保っているということである。席を譲れなかったこの人の場合、「席を譲ろう」という思いと、「席を譲り難い」という思いが均衡を保ち、結局「席に留まる」ことになった、と言える。

 

こうした「均衡」は人生のあらゆる面において発生する。「歌手になりたい」という思いは、「なれるわけがない」という思いと均衡を保ち、結果、現状を維持することになる。しかしその思いがあまりに強い場合、その均衡は崩れるし、あるいは「なれるわけがない」という観念を抱かない場合、そもそも均衡は発生しないだろう。さらには、自分の意志に関係なく、あまりに大きな流れに巻き込まれることによって「均衡のとりようがない」場合もある。

 

太陽系の惑星が太陽の周りを回り続けているのも、ひとつの均衡の形である。そしてひとつの均衡が崩れれば、やがてまた別の均衡へと向かう。人間の心のありようにも、そういうところがある気がする。人間が変わるということは、この均衡のありようが変わるということである。

 

もしかすると、「思う」ということ自体が、ひとつの「均衡の崩壊」なのかもしれない。だから、何かを「思う」とき、それと均衡を保とうとするような、別の「思い」がほぼ同時に発生する。そのことが、「思い」を行為に移すことを阻害する。これにはいい面も悪い面もあるだろう。席を譲れなかった例のように、いい行為を阻害する場合もあれば、逆に悪い行為を阻害してくれる場合もある。良くも悪くも、均衡を保とうとする力が発生する。しかし人間がよりよく生きていこうとするとき、この均衡を破っていかなければならない場合がある。

 

「そう思ったら、そうする」

 

この単純なことが、自分はどれだけできているだろうか。僕の場合はがっかりするほどできていないけれど、もしも完全に実践できたなら、それを悟りというのではないか。晩年の親鸞は、「悟りとは自ずから然り」と考えていたようだが、それは要するに「そう思う」ことと「そうする」ことが、もはや一体となっている状態のことだろう。

 

僕らは、煩悩を欲望と同じように捉えるけれども、「そう思う」ことと「そうする」ことの間を隔てるカウンターとしての「思い」もまた、ひとつの煩悩なのかもしれない。もちろんそれも、何らかの欲望と結びついているといえなくもないけれど。

 

「そう思ったら、そうする」

 

この単純なことを頭の隅っこに置いておくことは、自分がどのような均衡の中に生きているのかを知る手掛かりになる。「そう思っても、そうできない」自分を発見することは、「そうする」ことを阻害する観念を発見することでもある。そのような観念から解放されて、今よりはもうちょっと「スッ」と生きられるようになりたいものである。

 

 

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電子書籍として出版された『「農家のビール」が都内で唯一飲める店 ヤギサワバル』。

 

しかし、電子書籍に馴染みがない方、読み方がよくわからない方もいらっしゃることと思います。

 

そんな方に朗報です!!

 

ヤギサワバルの電子書籍が、紙の本としても発売されましたー!

 

「農家のビール」が都内で唯一飲める店 ヤギサワバル

 

価格は950円。

オンデマンド印刷(注文が入るたびに印刷される)なので少し割高になっていますが、本書をヤギサワバルに持って行くと、クラフトビールをミニグラスで一杯サービスしてくれるそうですので(9月末まで)、よければご利用くださいませ。

 

しっかりした味わいを楽しめる「究極のビール」は、夏だけでなく秋も存分に楽しめますよー!

 

>ヤギサワバル・アクセス

 

 

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リンゴが木から落下する。

 

地面にボトッと落ちて、落下が止まる。

 

そうしてリンゴがそこに留まっているとき、リンゴにかかる重力と、それを支える地面の力が、拮抗しているわけである。この均衡が崩れたとき、またリンゴが落下したり、転がったりするなどの「変化」が起こる。

 

もちろん普段の僕らは、モノをそんなふうに見たりしない。リンゴがそこにあれば、「リンゴがそこにある」と思うだけである。でも、「そこにある」ということは、おそらく何らかの力と力が、均衡を保っているわけである。

 

こういうことを僕らは理科の授業とか、物理学の法則のような文脈で学ぶわけだが、案外、人間の心や行動なんかにも、同じような法則が働いているのかもしれない。

 

自分自身のダメさ加減に嫌気がさして、「自分を変えたい!」なんて思ったことは誰にでもあるだろう。しかし人間はなかなか変わらないもので(笑)、たいていの場合、そのダメな自分と折り合いながら生きる術を学んでいく。そうして、安定した自己を形成していく。

 

この時もおそらく、「変わろうとする力」と拮抗する「別の力」が働くことで、何らかの形で均衡を保っているのだろう。そしてその均衡が崩れるときに「変化」が起こる。では、その均衡を保っている力とは何か。これがわかれば、その均衡を崩す方法もわかるはずである。

 

いわゆる「アンチエイジング」というのは、老化していく自然の力に対して、それに抵抗する力(アンチ)をぶつけることによって、現在のままの均衡を保とうとすることだろう。「変わりたいけど変わらない自分」というのも、意識的にせよ無意識的にせよ、「変わろうとする力」に対して抵抗する力を、何らかの形でぶつけているはずなのだ。それによってようやく、「そのままの自分」にとどまることができる。

 

「変わらない自分」というと何もやっていないように思うけれど、もしかすると、それはそれで、けっこう大変な力を使っているのかもしれない。ただ、本人はそうと気付いていないだけで。とすると、変化を生むために大切なのは「変化しようとする力」を大きくしようとすることよりも、「それに対して別の力をぶつけるのをやめること」なのかもしれない。

 

だがそもそも、僕らが存在していること自体が、自然や他者との均衡の証明にほかならない。大地に立つ人間は、あまねく大地とのバランスの上に存在している。その大地が崩れれば、自分の意志などとは一切関係なく、私たちは変化せざるを得ない。そうしてまた別の均衡へと向かってゆく。これは人間関係においても同じである。

 

自分はいったいどのような関係の中にいて、どのような均衡を成立させているのか。現在の自己とはその均衡のあり方そのものであり、自己の変化とはその均衡の部分的な崩壊にほかならない。「自己」と「他者」との関係。「自己」と「内なる自己」との関係。「他者」と「内なる自己」との関係。その均衡のありようを見直すことができれば、自己の存在のありようも、少しは見えてくるのかもしれない。そして「全く変化しない自分」というのもまた、あり得ないのだということも。

 

 

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