杉原学の哲学ブログ「独唱しながら読書しろ!」 -24ページ目

僕たちは虫の気持ちなんてわからない、と思っている。

 

わかろうとすることもあるけれど、全く別の生き物なのだから、きっとわかりようがない、と思っている。

 

バッタの気持ちはわからない。蚊の気持ちはわからない。ミミズの気持ちはわからない。

 

けれども、よくよく考えてみれば、僕たちはかつて精子だった。あのオタマジャクシみたいな、赤ん坊とは似ても似つかない姿だった。僕たちは自分の歴史をさかのぼるとき、そのスタートを赤ん坊の時に設定するけれど、本当はその前に、精子時代の自分がいたのだ。

 

あのオタマジャクシ姿の時の自分のことを考えると、とっても不思議な気持ちになる。アレが自分だったのだ。その時どんなことを感じていたのか。それとも何も感じていなかったのか。

 

少なくとも、何かを「考える」ということはなかっただろう。にもかかわらず、「何をするべきか」ということだけは、明確すぎるほど明確にわかっていたような気がする。それはきっと理屈ではなく、「そうせざるをえない衝動」によってそうするにすぎない。そしてそれが全てなのだ。

 

精子とは、いま僕らが「直感」とか「霊性」とか「生命性」などと呼んでいるものと一体になった身体のことなのかもしれない。彼らは間違うことがない。おのずからのままに生きて、おのずからのままに死んでいくだけだ。そういうルーツを持っていると思うと、人間はもっと自分を信頼できるようになる気がする。

 

いちいち理屈をくっつけないと、自分の直観を信頼できないということは、「時間」という観念に縛られているからなのかもしれない。あるいは「因果関係」に縛られていると言ってもいい。

 

しかし直観は、時間も因果も超越する。「未来」の「結果」のためではない、理屈を超えた「そうせざるをえない衝動」。もちろん、現実社会でそれをそのまま解放してしまうと、生きることが非常にむずかしくなるのだけれど(笑)。

 

哲学者のベルクソンは、『創造的進化』の中で次のように述べている。

 

「私どもを成員とする人類では直観はほぼ完全に知性の犠牲になっている」(ベルクソン著、真方敬道訳『創造的進化』岩波書店、1979年、315頁)

 

「直観は精神そのものだ、ある意味で生命そのものだ。〔中略〕その統一をあるがままに知るためには直観のなかに身をおいて、そこから知性に進むほかない。知性からはけっして直観に移れないであろう」(同316頁)

 

人間が社会の中で健やかに生きていくためには、知性と直観の両方の「居り合い」が求められる。ただし、ベルクソンが言うように、「知性からはけっして直観に移れない」。近年の瞑想ブームは、「直観のなかに身をおいて、そこから知性に進む」ための実践のひとつなのかもしれない。

 

それはもしかすると、「自分が精子だった時代」を思い出すことなのかもしれない。

 

僕はこの「自分が精子だった時代」のことを、「精子ゅん時代」と名づけたいと思う。

 

 

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友人の浅井さんが、「故郷とは目指す場所かもしれない。」というタイトルでブログをアップしていた。そこには次のように書かれている。

 

「故郷やずっと一緒にいた人とは別れる日がいつか来る。

 でも別れたから終わりにする必要はない気が最近している。

 別れたなら、また会える日を夢見てやっていけばいい。

 目指す場所は、決して未知の世界ではない。

 目指す場所や人は、懐かしい故郷であり人なのだ。

 新時代は懐かしい時代なのだ。」

 

これを読んで思い出したのが、寺山修司『書を捨てよ、町へ出よう』(角川書店)である。寺山はこの中で、故郷についてこう書いている。

 

「私は何でも『捨てる』のが好きである。少年時代には親を捨てて、一人で出奔の汽車に乗ったし、長じては故郷を捨て、また一緒にくらしていた女との生活を捨てた。旅するのは、いわば風景を『捨てる』ことだと思うことがある」

 

これに対して、僕は拙著『独唱しながら読書しろ!』の中で、次のように書いた。

 

高度成長期は「豊かさの享受」として語られてきたが、そのような「獲得の時代」の中で、「捨ててきたもの」に意識を向けているところに、寺山の非凡なセンスがある。ただ彼はそれを、「もう二度と拾うことのできないもの」として捉えている。確かにそれは一面において正しい。しかし現代の若者たちは、その捨てられてきたものを、新鮮な眼差しで捉え直し、再び拾い上げようとしているのではないだろうか。「故郷」を単純に「田舎」のようなものとして捉えることもできるが、それをもっとゆるやかに「帰りたい場所」と考えたっていいだろう。それは地理的な場所ではなく、居心地のいい「関係性」そのものかもしれない。

 

寺山が捨てた「故郷」を、「目指す場所」として捉え直した浅井さん。僕はそこに、新しい時代を展望する、瑞々しい感性を見た気がする。

 

僕たちは近代化の中で大切なものを失ってきた。それを「豊かさの享受の代償」として切り捨てようとした時代があった。それで幸せになれると思った。しかし物質的な豊かさは、人間の幸せとイコールではなかった。むしろ人間を退廃させた。その退廃した人間の開き直った姿が、現代のさまざまな不祥事、たとえばモリカケ問題や、不正入試問題などとして現れているのだろう。

 

しかし失ったものがあるのならば、そしてそこにかけがえのないものがあるのならば、もう一度取り戻せばいいではないか。もちろん、それをまるまる同じように回復させることはできないかもしれない。しかしその本質をつかみとることができたならば、今の時代に合った形で、新しい方法を用いて、その本質を回復させることはできるかもしれない。

 

人間は幸福を追及してきたように見えて、どこかでその幸福を犠牲にしてきた。みんなが幸福になることをあきらめて、自分だけが幸せになることで満足しようとした。大きな幸せをあきらめて、小さな幸せで満足する「小人」、それが現代の「退廃した人間」の姿なのかもしれない。誤解をおそれずに言えば、人間はもっと貪欲に大きな「幸福」を求めていいはずなのだ。

僕たちはつい自分と他人を比べてしまう。そうして時に落ち込んだり、時に傲慢になったりする。

 

そんな時は、それぞれの個人を、ロールプレイングゲームでいうジョブ(職業)のように考えるといいのではないだろうか。

 

たとえばドラゴンクエストなんかだと、「勇者」「戦士」「僧侶」「魔法使い」のように、それぞれ特徴を持った職業があり、互いの能力を補いながら冒険を進めていく。

 

勇者には勇者にしか使えない技があり、魔法使いには魔法使いにしか使えない魔法がある。それをマスターするために、それぞれの職業でレベルを上げていくことになる。

 

だからここで、勇者が魔法使いの魔法を使えないからと落ち込んだり、魔法使いが勇者のような技を使えないからと落ち込む必要もない。それぞれの職業でレベルを上げればいいのである。

 

だから、たとえば山田太郎さんは、山田太郎という職業なのだと思って、山田太郎としてのレベルを上げていけばいい。そうすると、いつのまにか、山田太郎にしか使えない技を覚えるかもしれない。

 

たとえば、あるひきこもりの田中太郎さんがいたとする。そのままひきこもりのスキルを上げていけば、「究極のひきこもり」という特殊能力を獲得することになるかもしれない。

 

レベルが低いうちは「ひきこもってる自分なんて……」という葛藤にさいなまれたりするのだが、レベル99とかになると、もはや葛藤などはなくなり、無の境地を獲得する。もしも環境が変わってひきこもる必要がなくなったとしても、圧倒的なスキルで「ひきこもり可能な環境」を自ら創造し、その状態を維持することができるようになる。「自立支援員」などがやってきても、なぜか感銘を受けてそのまま帰っていく。やがて弟子になりたいと人々が殺到し……ということもあるかもしれないのだ!

 

ファイナルファンタジーというゲームで、一番弱いジョブは「たまねぎ剣士」だが、実はそのまま最高レベルまで育てると、あらゆるジョブの中で最強の強さになるという仕掛けがある。実際にもそういうことはあるのかもしれない。

 

そんな話を友人にしたところ、「そういえば、宇宙飛行士に一番必要な能力は、全く外界から遮断された環境の中で、いかに孤独に耐えられるかだそうですよ」という話を聞いた。それ、まさに「ひきこもり能力」ではないか!

 

きのうまで「ただのひきこもり」だった人が、いきなり、「きのうNASAからオファーがあって、火星に行くことになってさ……」ということがあるかもしれない。NASAもびっくりしているだろう。「おい、こんなにたくさん宇宙飛行士の適性が高い人間がいるなんて、日本はなんてクレイジーな国なんだ!!」と。

 

自分のレベルを上げたときに、自分にどんな能力が身に付くのかは、きっと誰にもわからない。でも、だから面白い。他人の能力をコピーしようとしても、その人以上にうまく使いこなすことは多分できないし、そもそも面白くないではないか。

 

 

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友人が講師をつとめるレザークラフトワークショップに参加してきた。

 

会場は王子にあるちいさな本屋、「コ本や」さん。

 

製作メニューは「ブックカバー」か「しおり」なのだが、ちょうど自分のカードケースがボロボロになっていたので、「カードケースを作ってもいいですか?」と言うと、快くOKしてくれた。

 

他の参加者さんともおしゃべりしながら、のんびりと製作開始。少人数なので講師に遠慮なく声をかけられるのもよい。

 

そして完成したのがこちらのカードケース。

 

 

 

いかがだろうか。正直に言って、めちゃくちゃよくできている

 

ちょっとした縫い目のゆがみも、むしろ愛おしいではないか。手作り品は完璧すぎないほうがよい。使っていくうちに、どんな風合いに変化していくのかも楽しみ。

 

「5千円で売ってくれ」と言われても絶対に売りたくない。「5万円で売ってくれ」と言われたらよろこんで売る。

 

 

 

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ウチにはかれこれ5年ほどの付き合いになる観葉植物がいる。

 

しかし特に肥料などはやっていないので、だんだん元気がなくなってきている。

 

そんな時、インターネットか何かで、「米の研ぎ汁が肥料になる」というのを読んだ。

 

「その手があったか!」

 

僕はふだん無洗米を使っているので研ぎ汁は出ないのだが、その時ちょうど頂き物のお米があったので、その研ぎ汁を観葉植物にあげた。すると、明らかに葉っぱが色を取り戻し、元気を回復しつつある。

 

「ビバ研ぎ汁!!」

 

米を研ぐのが面倒で、ずっと無洗米を使っていたのだが、こうなってくると、研ぎ汁が出る普通の米が欲しくて仕方なくなる。米を研ぐのが面倒なことではなく、ひとつの楽しみになるのだ。

 

無洗米はとっても便利で楽チンだ。だがもしかすると、それはただ単に、僕が「研ぎ汁の生かし方」を知らなかったからなのかもしれない。それを知ってしまったいま、逆に米を研ぎたくなっている。

 

実は「便利になる」ということには、万事そういう面があるのかもしれない。

 

いわゆる「田舎の生活」というのは「不便な生活」だと思われがちだし、実際にそういう面はあるだろう。しかし、そこに暮らす人々は、その不便さを「生かす」ための方法を知っているし、それを「楽しむ」ための智慧を持っている。しかもそれらが、循環する世界として展開しているのだ。

 

昔はたぶん、「研ぎ汁を何かに利用する」ということも含めての「米を研ぐ」という行為だったのだろう。しかし今や、研ぎ汁はただの「廃棄物」になっている。研ぎ汁と僕たちとの関係が変わってしまったのだ。

 

哲学者の内山節氏による『続・哲学の冒険』(毎日新聞社)の中で、主人公の少年はこうつぶやく。

 

僕には物が豊かになっていくっていうことは、そういう物がなければ暮らしていけない人間へと僕たち自身が変わっていくことにすぎないと思う。

 

僕たちのことを物が豊かな世代だって言うのは、自分たちがそういう豊かな時代をつくってあげたんだという大人たちの思い上がりにすぎない。大人たちは、僕たちを物で包囲された、物がなければ何もできない人間にしてしまったというもっと大事な面に対して、少しも痛みを感じていない。もっとも物がなければすぐ不便だと感じてしまう僕たちにも問題はあるけれど。

 

便利さとは何だろうと時々思う。パソコンやスマホが普及してから、僕らは人にものを聞くことをしなくなった。ネットで検索すれば、たいていのことはわかってしまう。けれども、僕たちにとって本当に大切なのは、困った時に頼り合ったりする時に生まれる、人との関わりそのものなのではないか。

 

他人に聞かずとも答えがわかってしまうことは、他人に聞くことの面白さを忘れさせてしまう。僕が「米を研ぐのは面倒だ」と思ってきたように、「人に聞くのは面倒だ」と思ってしまうようになる。スマホのCMでは、スマホが擬人化され、本物の人間は背景へと退く。

 

もちろん便利になることは悪いことではないと思うけれど、それはもはや、僕たちの生活をよりよくするためのものではなくなっている。

 

今はむしろ、僕らが求めてもいない便利さを押し付けられ、その結果、「それがなければ生活できない世界」が強引に作り上げられていっているように見える。

 

マイナンバーを作って欲しいなんて、僕は一度も思ったことがない。

 

いずれ「全ての米は無洗米にしなければ出荷できない」なんていう法律ができてしまうかもしれない。それは研ぎ汁を肥料にするという「自由」を失うことでもある。

 

 

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テレビを見ていたら、久々にトルコの「塩振りおじさん」が紹介されていた。沢尻エリカさんがトルコに旅行に行って、彼に会ったらしい。

 

ちなみにこれが「塩振りおじさん」の動画。

 

 

確か、はやみもこみちさんが、めっちゃ高い位置からオリーブオイルをフライパンに垂らしたりするのがウケていた流れで、彼もまた話題になったような気がする。

 

さて、その番組を観た翌日。友人と一緒にカフェでお茶をしている時、ふと気づいた。

 

「あれ? ○○君、塩振りおじさんに似てない?」

 

しかし彼は塩振りおじさんのことは知らないという。さっそくこの動画を見せてあげた。

 

「……似てますね(笑)」

 

というわけで、彼にその場で塩振りおじさんを再現してもらった。それがこの写真。

 

 

かなりいい線いってる気がするのだが、いかがだろうか(笑)。

 

近いうちに、一緒にモノマネショーを開催しようと思っている。

 

 

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パナップを食おうと思ったら、めちゃくちゃ凶悪な顔が登場!!

 

「食えるもんなら食ってみろや……」と言わんばかり。

 

「グヘヘヘヘ……」

 

くっそー!ここまできて引き下がれるかー!おりゃー!!

 

なに? 笑顔……だと!? さらに食ってやろうじゃねーか!!

 

めっちゃ喜んでるやん!! ツンデレだったのか!! よっしゃー!!

 

 

ウィン・ウィン。

 

 

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あまり知られていないが、僕はくだらないエッセイだけでなく、ちょっと真面目な論文も時々書いている(笑)。しかし、それらがたとえ学会誌などに掲載されたとしても、研究者以外の人の目にふれることはほとんどない。

 

誰かがインターネットで検索して、「この論文は役立ちそうだから読んでみたいな」と思っても、それが公開されていないことも多いし、掲載されている雑誌を手に入れるのはけっこう大変だ。しかし、せっかくの研究なのだから、せめて、必要な人が必要な時にアクセスできるようにできないものか。

 

そこで思いついたのが、論文の電子書籍化。

 

アマゾンで出版した場合、無料にできるのは3ヵ月間に5日だけで、最低価格も99円と決まっている。それでも全く誰の目にもふれず、手に入れることもできないよりはマシだろう。

 

というわけで、学会などの許可を得て、実験的に自分の論文のいくつかを電子書籍化してみた。僕の論文を必要としている人なんてほとんどいないだろうけど(笑)、たまたま問題意識を共有している人もいるかもしれない。

 

計6冊のうち、上の4冊がすでに無料になっていて、下の2冊も明日の夕方には無料になる予定。無料の設定をしてもけっこう時間差があって、すぐに反映されるわけではないのだ。しかも無料にできるのは数日間だけなので、関心のある方は先にダウンロードしてしまってから、後でゆっくり読むことをオススメします。

 

表紙のデザインのテキトーさは、どうかご容赦いただきたい(笑)。

 

 

■自殺予防に関する論文

 

 

 

 

 

 

 

■時間に関する論文

 

 

 

 

 

 

 

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街を歩いていると、ふとした違和感に襲われることがある。それはたいてい気のせいではなく、やっぱりそこには「何かある」のだ。

 

たとえば、西東京の保谷を歩いていたとき。お店の看板に違和感を覚えて見てみたら、やっぱり「あった」。

 

普通の看板かと思いきや、そこからは妙なオーラが……。

 

なんか怖いよ!!心霊写真専門!?

 

池袋を歩いていると、ずいぶん小さな100均っぽい店を発見……と思ったら、200円?しかもダイソーっぽく見せかけといて……

 

ミニソー!「大」ではなく「ミニ」ということか。多分ダイソーがやってる会社なのだろうが、「ダイソーっぽい別の店」という可能性もある。そこはあえて調べないのが僕の流儀。

 

街で違和感を覚えたら、決してスルーしてはいけない。そこには必ず、何かがある。

 

 

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朝寝坊をして、ウダウダとテレビを見ている間に、時間が過ぎていく。やらなくてはならないことはあるのだけれど、なんとなく気分が乗らない。とりあえずコーヒーを入れて、メールをチェックして、ネットサーフィンをする。

 

そのうちにテレビが邪魔になり始めて消すと、外からザーザーと音が聞こえる。もしや、と思ってベランダから外を見ると、けっこうな勢いで雨が降っている。なぜかホッとする。

 

たとえばまる一日、家にひきこもって過ごすと、なんとなく罪悪感を感じたりすることがある。特にそれが快晴の日だったりすると、「こんな天気のいい日を無駄に過ごしてしまった……」などと思ってしまったりする。雨は、そんな一日に言い訳を与えてくれる。

 

これはもしかすると、長いあいだ農耕民族として生きてきた歴史が身体化して、そう感じるのかもしれない。「晴耕雨読」という言葉もあるように、晴れの日は畑に出て、雨の日は、まあ読書とは言わずとも、屋内での作業をすることになる。今日は農作業はできないなと、「諦めがつく」のである。そのような天候に合わせた生活の習慣が身体化することによって、僕たちの気分も天候に左右されているのかもしれない。

 

だから、あんまり雨の日が続くと憂鬱な気持ちになるし、晴れの日が続きすぎても、それはそれで、なんだか不安な気持ちになったりもする。それは僕たちの身体が、農耕のリズムと離れていないからなのではないか。

 

逆に言えば、これから千年のあいだに、人間がずっとオフィスビルで働く生活が続いたとすれば(とても続くとは思えないけれど)、そのようなリズムが身体化していくことになるかもしれない。農耕のリズムでは、雨が降ったら「ちょっとのんびりしようか」という気分になっていたのが、晴れの日と変わらず「今日も頑張らなければ……」となっていくかもしれない。ホッとひと息つくのは「雨の日」ではなく、「土曜日」と「日曜日」ということになる。

 

いや、「土曜日」と「日曜日」だって、いまや「充実した休日を過ごさなければならない」という強迫観念に襲われることが多いような気がする。それはおそらく、平日の仕事が自分にとって抑圧的なものであるほどそうだろう。仕事で抑圧されているぶん、それ意外の場所で解放しなければ、自分の中で帳尻が合わなくなる。たとえば忘年会で他の客に迷惑をかけるほどのドンチャン騒ぎをしているのは、そこでなんとか帳尻を合わせようとしている姿なのかもしれない。

 

話が少しずれてしまったけれど、要するに僕たちの気分は天候に左右される面があって、その現れ方は農耕と強い関係があるのではないかということだ。

 

だが一方で、天候とはまた違った、その人固有の「バイオリズム」みたいなものの影響も無視できない。天候と全く関わりがないわけではないけれど、人それぞれの調子の波みたいなものがある。あえて天候にたとえれば、「晴れの気分」の時と「雨の気分」の時がある。

 

それを人は、モチベーションの高さとか、やる気のあるなしという指標に還元してしまったりするけれど、僕はこれも「内なる自然」と思った方がいいんじゃないかと思う。もちろん、明らかに原因が分かっている場合はそれに対処すればいいけれど、全く原因のわからない気分の浮き沈みというものはあるのだ。その原因を追及するのもいいけれど、それで悩むくらいなら、それを「自然」として受け入れて、それに合った活動をするのがよい気がする。つまり、「内なる自然」を対象とした形での「晴耕雨読」の実践である。

 

外的環境としての自然は目に見えるけれど、内的環境としての自然は目に見えない。目に見えないものに対する感受性の喪失は、最も明確な「人間の近代化」の指標だろう。でもそれは目に見えないけれど確かにあるし、そのことを誰もが知っている。ただそれを、社会全体で共有することができなくなっただけで。

 

良くも悪くも、人間は「気分」の生き物である。この「気分」というものは個人の所有物ではなく、全体でひとつのものである。それが一時的に個人に分けられていて、その部分を一人ひとりが感じているにすぎない。だから「気分」なのではないかという気がする。

 

自分の気分が乗らない時も、気分が乗っている他人がせっせとがんばってくれている。気を分け合った全体を意識することができれば、他人とはいろんな自分のことでもあると気づく。気分が乗らない時は、休む順番が回ってきたのだと思える。「気分のままに生きる」ことは、必ずしも「自分勝手に生きる」こととは限らないのである。しかし、「自分の気分を害している」のは、ほとんどの場合、自分自身であることも知らなければならない。矛盾するようだけれど、気分よく生きることで、気分のままに生きられる。それは、原因と結果という因果関係では決して捉えられない次元の話である。

 

 

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