以前自分が書いた言葉に
うんうんと深くうなづいてしまった。













先日、

施設で暮らす祖母に会いに行った。




ずっと面会禁止が続いており

ようやく年末に一度会えたと思ったら

またまた面会禁止になり

約半年ぶりの再会だった。




▼祖母のこと














今回施設への入室が

許可されたのは大人のみ。



5才の娘は

自動ドア越しの面会だった。






ひんやりと冷たいガラス越しに

タッチをする祖母と娘。



娘はとても楽しそうで

祖母はとても嬉しそうで

私はまたまた

喉の奥がぎゅーっと苦しくなった。












幸せっていうのは

切なくて苦しいもの

なのかもしれない。













以前、私は幸せについて



    

「幸せ」は単品でやってくるのではなく

裏っ側に " 陰 " をくっつけてやってくる。

ひっくり返って
" 陰 " のパッケージでもって
現れることもよくある。

パッケージに騙されて
ビリビリに破って捨てたゴミから
「幸せ」が発見されることも
珍しいことではない。


と表現した。











今はもう少しだけ

捉え方が変化してきていて、


幸せの中に含まれる

陽の要素と陰の要素は

いつでも一緒にそこに在る。


…そんな気がしている。















祖母と娘が

ガラス越しにタッチしていた時

ふたりはとても幸せそうに見えた。



たぶん、幸せってのは

現実的に満たされていることとは

イコールではない。





祖母は娘を抱きしめたかったと思う。




娘は祖母にもっといろんなものを

見せて聞かせてあげたかったと思う。




それは数え上げたらキリがなくて

それを言葉に当てはめると

「不満」とかになるのかもしれないけど

私の目に映ったふたりの姿は

ただただ幸せそうだった。




幸せってのは

現実的に満たされていることとは

イコールではない。




現実的には欠けていても
それを超越する何かが
人を幸せにするのだと感じた。



その時の祖母と娘は
これ以上何も望んでないように見えた。



ガラス越しのタッチしかできないふたりは
私からしてみたらとても悲しかったのに
ふたりは心から笑っていたように思えた。











そして、

そんなふたりを見ている私もまた

紛れもなく幸せだった。




現実的に満たされていたわけではない。




思うことも感じることも

数えきれないほどあったけど

それらを全て超越して

涙が溢れそうになるほど

心に何かが満ちていたし

切なくて、苦しくて、幸せだった。









あの時の気持ちを

今振り返ってあえて言葉にするなら



「もっと○○○だったら…」

ではなく、

今ここに祖母が生きていて

世界で一番大好きな娘に会えて

とても嬉しそうにしていることが

私はとてもとても幸福に思う。

…そんな感じ。




夜空に降る流れ星を見た時に感じる

奇跡✨みたいな満足感と

それと同時に感じる

刹那の切なさというか儚さにも

似ている気がする。









 

この感覚は、

幸せの原点なのかもしれないし

幸せのひとつの側面に

過ぎないのかもしれないし

それはまだはっきりはわからない。




ここに

2023年5月11日時点での

私の幸福論として

記しておこうと思う🌷