我が家には妻と私用に車がある。電車やバスの便の少ない田舎では車は必需品で妻は年1万キロ前後走る。一方、2年前に下取りで私がプリウスを売った時、メーターは12年間で5万6千キロを超えた程度でこれは定年後に車をあまり乗らなくなった証拠だ。

 車は維持費もかかるし一台でいいとも思うがそれぞれ車があると互いに気兼ねする必要もないし自由さが違う。近所を見渡しても夫婦それぞれで車を持つ家が大半だ。おそらく70歳代後半か80歳になって運転に自信がなくなる頃に車を手放すことになるだろう。

 

 2年前から車とオートバイに「エアタグ」を取り付けている。我が家の数軒先で何年か前に車が盗まれ、盗難が他人事ではないとエアタグを取り付けたのだが「エアタグ」は500円玉硬貨大の円盤形をした位置発信装置で薄型電池が入っていてその分だけ厚みがある。エアタグが今どこにあるかアイホンがあれば無料で探すことができ、もしスーツケースや車が盗難されても場所を特定できる優れモノだ。エアタグまでの道案内までしてくれるが欠点は厚みだ。硬貨の薄さなら財布にも入るが直径32ミリに8ミリの厚さがあり財布に入れるには厚すぎる。それが唯一の欠点だった。

 

 そのエアタグも今では薄いクレジットカード型が各社から発売されているのを知り購入を検討した。クレジットカードタイプなら財布に入り違和感もない。

 ネットで「カード型GPS」で検索すると数年で使い捨てる「電池内臓タイプ」と繰り返し利用できる「充電タイプ」の2種類があり販売元は相変わらずC国が大半のようだった。

 充電タイプは3~4月ごとに充電が必要で充電を忘れるとただのカードになってしまう危険性がある。使い捨てタイプは3年間限度をうたっている製品が多く一長一短だ。

 

 探していると10年間もちますというものを見つけこれを選ぶことにした。話半分として5年持てば十分だと思った。レビューを見ても少人数だが最高評価点の5点ばかりでそれが決め手になった。ちなみに私がこの製品を選んだ時、実際に使ってみての感想は寄せられていた3件のレビューの中にはなかった。3件とも製品の到着が早いとか、セットが簡単だったという本来のレビューではない「お褒め言葉」だけで何日か試してみてのレビューではなかったことを付け加えておく。

 夕方に注文を入れると翌日午前中到着というスピーディーさだった。中国の製品は到着まで5,6日かかるが異例な速さに驚いたものだった。一部の人たちのレビュー通りである。しかし問題は箱を開けてからだった。

 

 レビューで「最高点5点評価をしてくれれば1500円分還元します」というカードが入っていたのだ。

 これは評価を金で買っているのと同じではないか、と愕然とした。「レビュー人数が少ないな」と選ぶ前に不思議に思っていたがこれで理由が分かった。そこで反骨心が芽生えた。お金はどうでもいいから忖度のない感想を書いてやろうと。

 

 2枚購入しその日のうちにセットアップしたが作業は10分内でできる簡単さだった。エアタグをセットしたことのある人なら誰にでもできる操作だ。ここまではレビューにある通りだ。問題は電池の持続期間だがこればかりは10年使ってみないとわからない。私は現在72歳で検証できるのは82歳になってだが果たしてその歳になると健康で生存しているかもわからない。話半分として5年もてば十分であとは精度の問題だ。

 

(左がクレジットカード型GPS ・ 右側がエアタグ)

 

 

 セットアップした翌日、妻が10Kmほど離れた実家に寄るというのでGPSの精度をテストしてみることにした。

 車のダッシュボードに「エアタグ」、財布に「カード型GPS」で妻は出発し1時間が経つ頃アイホンの画面を開き『探す』で妻の現在地を探してみると実家の位置をほぼ正確に指示していた。カード型のほうも同じ位置を示す筈であるが、しかしカード型GPSはタイムラグがあり実家へ向かう途中で立ち寄ったらしい20分前のコンビニを示している。これでは正確な位置情報にならない。緊急時には混乱のもとだ。

 

 この実験を基に私はレビューで

①    「現在地点を示すエアタグと比べ、カード型はタイムラグがあり数十分前の位置のままで誤差がある」

②    「同地点での位置もエアタグとカード型では数十メートルの誤差があった」

と減点理由を書き4点を入れレビューを送った。お金のことはどうでもいい。他の人達の為にも正確な情報をレビューとして載せて欲しいだけだ。

 

 

 レビューを送信するといつもより少し時間がかかり翌日になってやっと連絡が返ってきたがそれは次の英語文章だった。

 

We couldn't post your review because it doesn't meet our community guidelines.

Please edit and resubmit your review. Before you do, make sure it meets all of our guidelines.

 

自分なりに訳してみると 

「私共としては貴方のレビューは掲載することができません。その理由は当方のガイドラインに沿わない内容になっているからで、私どもの基本路線をよくご理解の上修正し再提出してください。」

---と言う内容だ。

 

 それまで日本語で対応していたのに急に英語で返してくるとは何だろう?と不思議でしょうがない。「こいつは英語が判らないだろうから英語で適当にあしらっておこう」という魂胆かと思ってしまう。どうも私のレビューが気に入らないようだ。5点満点ばかりの中に4点評価レビューを入れるとマイナスイメージが付き困るのだろうか。

 

 ガイドラインのどの項目にそぐわない、という説明でもあれば納得するかしれないが正直なことを書いて没にされるのは合点がいかない。

 

 彼の国の人は、金券を目の前にぶら下げればどんな奴でも自分たちの都合の良いように操作できると思っていたようだが、しかしそれは彼の国の人の常識で日本人は違うのをご存じないようだ。そしてそんな日本人は彼の国からは煙たがられ無視されるようだ。駄目なものは駄目と認める素直さが改善のカギとして必要なのに欠点を指摘されるとガイドラインを盾に英語で返してくるとはどういうことだろう? その神経が分からない。

 

ついでに言うと彼の国は国家を上げて賄賂撲滅に躍起になっているがこの商品のレビュー報酬も一種の賄賂である。国民全体に賄賂習慣が抜けていない証としか言いようがない。レビュー評価は全て満点だった?いや、満点以外のレビューは受け付けないのだ。

 

日本人なら「忌憚のないご意見を」と書くところだが「1500円あげるから満点評価して頂戴」とはイカサマである。なんと自分勝手なガイドラインを設けていることだろう、この会社、そしてこの国は。

 

 皆さんも彼の国の製品の評価レビューには眉に唾をつけてみるようにしてください。ちなみに私がAmazonで買った商品名はFinder Card、ブランド名はDyoacでした。

 

 

 昨年の2023年の秋、種から育ててみようと「ゴボウ」の種を買って来ると庭の小さな畑を耕した。

 買ってきた種の袋には収穫まで100日かかると書いてある。ジャガイモが植わっていた畑に、電動耕運機を引っ張り出し、表面に石灰を撒いてから一度耕し、残滓なども一緒にかき混ぜると2回目は数種類の肥料、米ぬか、牛糞、鶏糞、燻炭を混ぜて耕した。これで種まきの準備完了である。

 私は、畑の土は出来るだけ柔らかく攪拌し出来るだけホクホクの状態、足で踏んだら踝(くるぶし)まで沈み込むくらい柔らかくしたいと思っている。その方が土の中に酸素も行きわたり根を深く土の中に伸ばせるはずだ。

 

 今回初めて挑戦するゴボウは特に土の中に深く伸びていく野菜で、土が柔らかいほど成長するに違いないと考えた。スーパーで売っているゴボウを見ると長さが50から70センチくらいのものが売っているので最低でも70センチくらいは柔らかな地層にしたい。

 しかし考えてみると、種をまくのはいいが収穫で70センチは掘らなければならない。これはかなりの重労働である。手や脚だけでなく腰に大きな負担がかかる。今までそんなに深く畑を掘って収穫した野菜はない。せいぜいジャガイモ位のもので30センチ掘ればほぼ収穫できるものばかりだった。

 

 話はさかのぼるが私は退職後、軽い気持ちで畑作りを始めたが農業で一番大変なのは土づくりだと気がつくようになったものだ。植物が育ち生まれる土台になるものは土なのだ。土が固く貧しく栄養が無ければ植物は立派に育たない、と言う自然の法則を学んだのは畑仕事を始めてからだった。土があれば何でも育つだろうと思っていたのは大間違いで、そういう意味で退職後に農業のまねごとを始めたのは良い勉強だった。

 人間も、親や環境が悪ければそれを見て育つ子の多くは、例外を除いてほとんど碌な子にならないのと一緒で、親が背中で見本となり手塩にかけて育てればそれなりに子は育つのと似ている。

 

さてこのゴボウだが、種をまく時考えた。畑の地層を2段構えにして深さを上に伸ばそう、と。

 

 

耕運機で耕した深さ40センチほどの地層の上に、工夫して30センチほど更に地層を積み上げれば合計70センチの高さが確保できるようになる。そのためにビニールの飼料袋を利用し土の層を上に継ぎ足せばよい。こうすれば収穫する時に40センチだけ掘れば残りの上の部分はビニール袋を切り裂くだけで済む。無駄な労力を使わなくて済むと言うものだ。比較のために平場にもタネを撒いてみた。

 

2023年10月20日にゴボウの種をまくと100日後を楽しみに待つことになった。計算では翌年2024年1月の末が収穫時期である。

 

 そして翌年になったがゴボウの成長の具合がどの程度かは土の中に埋もれているので分からなかった。種袋の説明によると収穫時期、しかし、どう見ても土の上に顔をだしている葉は100日経っても小さなままでこんなに葉が小さいのにもう掘ってもいいのだろうか?初めてのゴボウ挑戦なのでまるで勝手がわからない。経験がないので葉を見ただけでは判らないのだ。

 

ただ

「今掘ったら未熟な状態に違いない」

という勘が働いた。玉ネギやジャガイモの経験があるからまだ収穫時期ではないだろうとなんとなく思ったのだ。あと数週間待ってみよう、を何度も繰り返し3月になっても葉っぱはまだ小さかった。4月になって葉は大きくなり始めたがそれでもまだ未熟と思えた。

 

 一般に野菜類で実が土の中にあるものは収穫期が近づくと葉が黄色くなり始め茎も一部枯れ始める。それが収穫期のサインだ。ところがゴボウの葉は150日過ぎてもきれいな緑色のままで葉はまだ成長しているようだ。どうも袋に書いてある成長期間と我が家の畑ではズレがあり過ぎる。

 5月中旬になってやっと葉の一番下の葉が少し黄色くなり始めた。種をまいてから予定期間の倍の200日も経っていた。このへんが収穫時期かもしれないと205日目の5月24日にスコップで土を掘り始めた。成長し過ぎると実に「 鬆 (す) 」が入るというので時間を置き過ぎのも駄目である。少し早いかもしれないがこの辺で採ってみよう。

 

 

 

 

 地表から40センチほど掘り下げ、次に地表部に乗っているビニールを切り開くと初めてのゴボウ君が姿を現した。計ってみると実の部分の長さ60センチはあるものが5本獲れた。ビニールを使わず平植えしたゴボウは深い土中から引っ張り上げる途中で先が切れたり未熟だったりしたものが多かった。ゴボウづくりはビニール袋を使ったものがベストだと判ったのでした。

(写真、下5本が嵩上げビニール袋使用のゴボウ)

ゴボウを育てるには土の柔らかさ、深さがどんなに大事かよく分かった初挑戦だった。

 

 

皆さんの参考にでもなれば幸いです。

 

 

 

 子供の頃からの私の友が死んだ。葬式は昨日だった。満72歳、享年73歳。

 

 彼と私は同じ町の生まれで、幼稚園から小学校、中学校、高校までずっと同じだった。大学では彼は土木に、私は文科系の大学に進路は別れたが大学生になっても彼は東京の私の下宿に年に何回か来たものだった。酒の酔いを知るようになると安酒を飲んでは大人の議論をするようになっていた。

 

 大学を卒業すると私は船乗りになった。その当時、21歳の私は思うところがあって人や世間に対し背を向け、大学4年になっても就職の事は考えようとしなかった。人や世間と断絶しそれでも生きていられる所は無いか考えていた。一時はどこか山奥の炭焼き人にでもなろうかと考えていた。炭焼きなら世間とかかわりを持たず山の中でひっそり生きて行けるに違いないと本気で考えていたのだった。

 

 そしていよいよ大学4年の夏が終わろうとする頃、私は船乗りになる決心をした。山でなく海を選んだのだった。

 船に乗って海を見ていれば何もかも忘れられるに違いないと思っていたからだった。そして私は船員となり横浜港から日本を離れ、ある時は貨物船に、ある時は冷凍貨物船に乗り北はロシアから南はインドまで3年間に11か国を船員として廻ったのだがこの初めて船に乗り込む日、彼は横浜まで見送りについて来たのだった。

 年に何度か船乗りに特有の1か月以上の長い休暇が与えられると、私は免税ウィスキーやブランディ―を持ち帰りその都度彼や友人たちを呼び屡々飲み明かしたものだった。

 

 やがて数年後、私は船員を辞め地元に戻り陸の仕事に就く事になったのだが、船を降りてぶらぶらしている時、たまたま彼の兄貴からある会社で人を探していると紹介を受け面接に行ってみると採用され、それ以降35年間もその会社に務めることになったのだから人と人との縁は不思議なものだ。後に、結婚式では互いに招待しあい子供が出来ると家族同士で交流するようになった。そんな間柄は40歳代、50歳代になっても続いた。

 彼の人柄は一言で言えば人間は善であり他人は信じられるという性善説であった。穏やかでおっとりとした寛容さが基調にありそれに対し私は性悪説で人を見る人間で彼とは性格が真逆なところが多い。それなのに友として長く付き合っていられたのは昔から彼とは気心の知れた幼馴染であることと、彼は人を信じやすく他人に対し思いやりをもって接する人物だったからだ。言葉は悪いが彼は「バカ」が付くぐらいお人好しの面があった。

  

 私は定年を機に60歳代に入って会社と言う表舞台から下りたが彼はその年齢になると個人自営業者となって仕事を続けていた。

「自由になった」と定年になり私が喜ぶと

「自営で仕事していると休め無くて大変だ」

会うたびにそう言って彼はボヤくのだった。しかしそう言う彼の姿は可哀そうであり反面で羨ましくも感じるのだった。暇なら暇なりに忙しいなら忙しいなりに人は自分にないものを羨ましく思うようになるものだ。

 

 60歳代になって5,6人だけの高校の時の小さな同窓会を東京で何度か開いたが、この何回目かの時、彼は前後不覚の酩酊状態になった。気心の知れた仲間と会い気分がいいのだろうウィスキーを何杯もストレートで流し込み帰りの御徒町駅では酔いが回り誰か付き添わないとホームから落ちてしまいかねない千鳥足になっていた。

「自営の仕事していると忙しくて」

のストレスがかなり溜まっているようだった。70歳近くなっても酒は強くご機嫌になっていたのだった。

 その翌日心配で私は彼に電話を掛け自宅のある茨城県の石岡駅まで無事に帰れたのか尋ねた。彼は泥酔し御徒町駅で足がもたつき通路で倒れてしまったのだが自分で起き上がろうとせず12月だと言うのにそのまま冷たい通路の上で寝ようとする有様だった。あまりの泥酔振りに○○と言う友人の一人は御徒町駅から上野駅まで彼を連れて行き、列車シートに座らせると付近にいた人に

「石岡駅に着く前に彼を起こしてやって欲しい」と頼んだほどだった。

 受話器の先には彼の無事な声があり私はほっとした。この時、私は彼に前夜の様子を伝えているうち周りがどんなに心配していたか次第に腹が立って、あんな飲み方をするなと説教調になっていた。前後不覚になる飲み方をしていると今に酒が身を亡ぼすぞ、周りを心配させるな。昔からの友だから心配し怒っていた。そしてそれが彼と最後に話した電話になった。その後になってコロナが流行し始めミニ同窓会も中断していたのだった。

 

 令和6年5月17日に同窓生の一人からLINEの連絡が入った。酔いつぶれた彼を御徒町駅から上野駅まで送った○○からだった。

「ご無沙汰しています。○○です。よい連絡ではないのですが●●●の奥さんから●●●が亡くなったと連絡が有りました。19日に家族葬を行い世話になった人たちには改めてとのことでした」と。

 

「死んだらお前の骨を拾いに行ってやるよ」

酒を飲むと、冗談のように言っていた言葉が72歳にして本当になってしまったのだ。とりあえず様子を聞きに行こう、と翌日自宅を訪問することにした。 

 

 彼の家と私の家は同じ茨城県内にあり車で1時間ほどの距離だった。確か以前に訪れたのは15年以上前で、狭かった路地の入口や周囲は以前とはすっかり変わっていた。自宅も外観がリフォームされ入り口で確かめないと他所の家を訪ねてしまいそうだった。

 

 玄関から出てきた奥さんは小柄な体がまた少し小さくなっていた。挨拶も早々に私は家に入ると見当をつけ一番奥の部屋に進んだ。私は廊下に上がると奥さんより先に進んでいた。キッチンには以前会った時に小学生だった長女が時を経て中年女性になり私を迎えたがその顔には彼の面影が宿していた。

 女の子は男親に似るというが彼の二人の女の子は上が父親似で次女は母親似だった。それは数十年振りに会っても同じで、娘たちも数十年振りに会う私の顔を覚えていた。

 

 部屋の奥の間には祭壇と棺が据えられ彼の写真が飾られていた。棺の窓は開いていてビニール越しに彼の顔が見えた。3年振りに会う幼馴染の顔は痩せ、顎がこけていた。数十秒彼の顔を見つめ、間違いなく彼が死んでしまったことを確認すると奥さんから話を聞くことにした。

 

 彼はこの3月21日に病院に検査に行きその日のうちに入院になったのだという。半年近く前から体の不調、疲れを訴えていたが

「忙しくて病院に行く時間がない」

「病院とタイミングが合わない」

を繰り返し、やっと病院で診て貰うとすでに手遅れで診断は大腸癌のステージ4だったという。 

 家族は手術を希望したが既に手術段階ではなく手のつけられない末期になって病院に行ったことになる。家族が相談し、つくば市にある末期患者を看取るホスピスに入所が決まったが、さぁ今日がそのホスピスに移る日と言う5月14日になって病態が急変、呼びだしが掛かり病院に駆け付けた時には亡くなっていたという。私が報せを受け訪れたこの日、亡くなってからすでに5日が経っていた。

「自営で仕事していると忙しくて」

と酒を飲んでは愚痴をこぼしていた彼の顔が浮かんだ。

「バカだなぁお前は。命があっての仕事だろうに」

私は棺に向かって呟くしかなかった。

 

見送りは家族葬でするからと奥さんには言われたが、私はどうしても出席されてもらいます、と申し出た。

 

「死んだらお前の骨を拾ってやるよ」

彼とは酒を飲んでいる時にどちらともなくそう約束していたのだ。

帰り際に、私は四国88寺巡りの時に集めていたご朱印カードを奥さんに渡し、もし差支えが無いなら彼の明日の旅立ちのお守りに一緒に御棺に入れて燃やして欲しいと渡した。

「あの世に行っても、四国88寺のこのカードがあれば地獄には行かずに済むかもしれないからね」と。

 

 

 

 

 翌日の葬儀会場には奥さんと娘さん家族だけ参加し、彼の兄弟や親戚縁者は後日改めて来てもらうことにしたようだった。

 見回すと、私の他には家族以外に2組の人達だけがいたが2組とも同年輩の人たちだった。一組は夫婦連れで近所の飲み仲間だったという人のよさそうな顔立ちの人で奥さんと一緒に参加していた。もう一組は男二人で彼とは仕事上の付き合いもあるがやはり飲み友達で3人して「3人会」と言う飲み仲間を作り年に一回は泊りがけで旅行する仲間だった。結局家族と同列にさせて貰ったのは私を含めこの3組だけで参加者は13名。祭壇も質素で飾り花も最小限度のものに抑え、きっと彼が生前に葬儀内容をそのように指示していたに違いなかった。見栄や義理を嫌う彼らしい葬式だった。

 

 火葬場は葬儀場から車で15分ほどの場所だった。火葬の間に葬儀会場に戻り忌中払いがあり参加している人たちの人間関係がわかったのだが、私は運転があり酒を飲まなかったが他の人達は彼の立派な飲み仲間だったのがよくわかり、なるほど類は友を呼んでいた。

 そこに居るそれぞれの人の関係が自己紹介され彼の思い出話が披露されると私はふいに高校生の頃、彼と二人してサイクリング旅行で福島に行ったことを思い出し皆に披露したのだった。それは3日間掛かって往復した猪苗代湖の思い出の断片だった。幼い頃からの彼を知るのはそのなかでは私だけで、気がつくと奥さんも娘さんたちも興味津々の目で若き日の私の思い出話に目を輝かせ、彼の青春を共にするのだった。よい忌中払いの時間だった。義理で参加していてはこんな話はしないものだ。

 

 

 

 

火葬場に戻ると灰と骨になった彼の亡骸を二人一組になって箸で拾い骨壺に収めた。火葬場で皆さんと解散する頃、時刻は午後4時近くになっていた。2日間続いた晴天もこの夜には雨に変わるようだ。

 

「先に行かれてしまったけれど、いつか、また会おう。あばよ!!」

私はこの日、彼との最後の約束を果たしたのだった。

 

 

              

 徳島県の1番札所「霊山寺」から33番「雪蹊寺」まで歩いたのは5年前だった。

 翌年、続きを始めようとした時にコロナが全世界に流行,そこで3年間中断となってしまった。結局、歩き遍路が再開できるのに4年も経ってしまった。

 

2回目の続き遍路で高知34番札所「種間寺」から51番「石手寺」まで歩いたが、この時立ち寄った「篠山(ささやま)神社」は今では秘境の地になっていた。標高1064mの篠山神社周辺に民家はなく、泊まるところも無いのでほとんどの歩き遍路は立ち寄るのを諦めているのだった。この時の遍路旅は忘れられない貴重な体験になった。

  (「コロナ後3年振りの四国遍路18日の9」に詳述)

 

そして今回の3回目で私は歩き遍路一周を完結させる予定だった。

 

今回は1か月以上前から52番札所「太山寺」から歩き始める計画を立てていた。3月下旬から歩きはじめる予定だ。

 「しかし、せっかく旅費をかけ四国まで行くのだ。気になっていた最寄りの地にも寄ってみたい」

----と思っていた。なかでも広島市には寄ってみたいと思っていた。「平和記念館」や「原爆ドーム」をテレビで毎年見るが、同じ日本人としてぜひ現地を見ておきたい、いや、義務として見るべきだと思っていた。関東に住む者にとって山陽地域は何かのついででもない限り気安く立ち寄れないのだ。

 

考えた末、四国でお遍路歩きを始める2日前に関東を出発することにした。時間に余裕を持たせれば広島に立ち寄り市内を見ることができるのだ。調べてみると、都合の良いことに広島から松山までフェリーが出ている。松山市で私の2回目の歩き遍路は去年終わっていたので広島からの船便があるのは好都合だ。数時間の船旅も楽しめる。

 

3月24日の日曜、東京から新幹線で広島駅に到着したのは午後3時だった。

私はこの時、初めて「スマートEX」なるものを利用した。「スマートEX」とは、駅の窓口や機械の前に並ばずに新幹線チケットを購入できる仕組みで、スマホがあれば活用できる。これは便利だ、文字通りスマートなやり方だと思った。

「スマートEX」を使うためには事前に①スマホに交通系ICカード(SUICAやPasmo)をセットしている。②クレジットカードをスマホにセットしていることが条件で、この2つが入っていれば新幹線改札にスマホをタッチするだけで入場できるシステムだ。改札を出る時もタッチするだけで終了してしまう。特に新幹線自由席の場合、日付だけ予約すればその日のどの新幹線に乗っても構わない。窓口で購入するより安く済み、かなり便利だ。

 

広島に到着した日は平和大通りに面した東横インホテルに泊まったが平和祈念館までは1Kmほどの距離だった。歩き遍路にとってこれくらいの距離は軽い足慣らしの距離だ。

夕暮れ時にホテル周囲を歩いてみると居酒屋や広島焼の店が何軒かあったがいずれも予約の客で長蛇の列になっていた。仕方なくコンビニでお好み焼きを買ってホテルの部屋に戻り食べることになったのだが、食事が終わりコロナウィルスを調べると検査キット上の赤線は2本から1本に減っていた。私のコロナは陰性になっていたのだ。ああ、これで胸を張って歩き遍路ができる、とやっと晴れ晴れとした気分になったのだった。

 

翌日の広島は朝から快晴だった。幅広い「平和大通り」をリュックを背負いゆっくりと歩きだしたが気を付けて街中を見ていると数百メートルごとに被爆者の記念碑があちらこちらに建っている。女学校の生徒たちの記念碑、演芸慰問で被爆した人たちの記念碑もある。被爆中心地から半径数キロ以内にこれらの記念碑が一体いくつあるのだろうと思いながら一つ一つに足を止め見ることになった。

まもなく訪れた平和記念館は朝早くから開館していた。観光客の半数近くは外国からの団体客である。入場料は大人一般200円と極めて安く、シルバー世代である私は身分証を提示するとその半額になった。ロッカー室にリュックを預け身軽になると館内を歩いたが最初のコーナーに展示されている旧広島市街地のジオラマで観光客は足を停めることになる。

        

 

 

 

原爆が投下された位置、その下に広がる街並みが最新の映像と音響効果によって鳥瞰図的に見られる仕組みになっていたのだが、日本人観光客も幾多の外国人も無言であった。その後に続く遺品展示物、手記、誰も彼も無言で見入るのだった。

 

 

 

 

この時私は、今回のお遍路で祈るのは不幸にして生を全うできなかったこれらの人々の冥福を祈ることだと思った。

 

「原爆ドーム」は「平和記念館」から数百メートルの距離だった。すべてを歩いて観て回り、電車通りに出ると偶然そこに広島焼「みっちゃん・総本店」という店があり開店時間の11時に15分前なのに早くも10人以上の行列ができていた。夕べもコンビニの広島焼を食べたがせっかく広島に来たのだ、本場ものを食べておこう、これも何かの縁だと席を予約し営業時間になるとすぐ店内に案内された。

広島焼は、お好み焼きにキャベツが山のように載せられ、そこに焼きそばが加わっているのが基本形のようだ。庶民の食べ物の代表格という感じでコストパフォーマンスのよい食材で占められている。鉄板の前で何人もの職人が手際よく焼いてくれ一種のショー的要素もある。

 

 

牡蛎入り広島焼を作ってもらったが1700円ほどだった。昨夜もコンビニの広島焼を食べていたので広島焼に私は食傷気味であった。

 

店の脇に路面電車の走る姿が見えたので

「あの路面電車は広島港に行きますか?」

と店の人に尋ねると「行きますよ」という返事だった。車両を確認し電車に乗ると20分ほどで電車は港が真正面に見える地点まで来たので私は下車した。ところが本当はそこから2駅ほど先が宇品港で手前に降りてしまったことになる。間違いに気づき速足で街を歩いたが、昼発のフェリーにはどうにか5分前に乗船することができた。

 

ゆっくりと進むフェリーは広島港を出るとまずは呉港に立ち寄り、次に松山港に向かうのだが呉港では陸上に鯨のようなずんぐりとした潜水艦が展示してあったのには驚いた。航空母艦のような海上自衛隊の艦船も沖合に錨を下ろしている。岸壁には何艘もの潜水艦が係留され、護衛艦の姿も見える。呉港は戦前からの軍港をそのまま引き継いでいるようだ。広島が日本で最初に原爆投下地として狙われた理由がそれで分かった気がした。

 

 

瀬戸内海の穏やかな波間を3時間近くフェリーで走ると夕暮れ前に松山観光港に到着した。天気は晴れ間から曇りと下降気味だった。上陸すると800mほど離れた駅まで歩き、電車を乗り継いで道後温泉駅に向かったが到着は夕暮れ時刻だった。到着してまもなく温泉街には小雨が降りだした。

 

 

 

 

道後温泉・飛鳥の湯近くのホテルに泊まった晩だった。何度か雨の降る物音に目が覚めたが深夜3時近くに突然雷が轟いた。付近に雷が直撃したような激しい爆発音だった。

雷の音に続いて激しく雨が降り始め、今日から歩き遍路を再開するというのに初日から雷雨か、と幸先の悪い予感がしてならなかった。去年の初日も出かけようとしているとテレビではその日の暴風警報と大雨注意報を流していた。

 

雨対策ウエアに身を包み、頭に菅笠をかぶりホテルを出たのは朝7時ころだった。雨の日の対策は一番にまずは足許だと私は思っている。シューズが濡れ、靴の中に雨が侵入すると靴下に水が浸み込み足がふやけ、長い時間そのままの状態で歩くとマメができやすくなる。歩き遍路にとっては足を痛めない気配りが何より大切である。去年は用具選びに失敗し初日から靴の中まで雨でびしょ濡れになり、そのまま無理して歩いたためマメの痛みに苦しむことになったのだ。

私は今回、靴の足首まですっぽり覆うゴム製靴カバーを見つけ用意していた。これがのちに救急車を呼ぶ原因となったのだがこの時点ではこの靴カバーがベストの対策だと考えていた。

このゴム製靴カバーにはしかし欠点があり、これを履くとグレーチングや鉄蓋の上を歩く時に靴底が滑りやすいのだ。靴底の滑り止めの凸凹がゴムカバーに覆われるとフラットになってしまい、滑りやすくなるのだ。出かける数日前の雨の日、傘をさしテストのために歩き回っていたが舗装道路や未舗装の路面なら問題はなかった。雨でつるつると光る鉄蓋やグレーチングにだけ注意して歩けば問題はないようだった。

     

 

 

 

51番「石手寺」から52番「太山寺」までは複数のルートがあった。

その中でも比較的距離のある南側のルートを歩こうと今回考えていた。このルートは松山大学の運動場の中を横断するコースで歩き始めてから何度か振り返ったが他に歩いているお遍路は一人も見かけない遍路道だった。この日、四国の桜はいつもより1週間は遅咲きのようで桜はほとんど見かけなかった。

雨は朝から降り続き、大粒の雨に変わると私はレインウエアーの上にポンチョを重ね着し身体が濡れるのを防いだ。しばらく歩くと少年刑務所の前を通り、右折左折を繰り返すと昨日到着した松山港の看板が路上に見えはじめた。

 

 海を背にして「太山寺」目指し坂を上って行くとゴルフ練習場が道路脇に現れその左に分岐して進む遍路道があった。坂を登ってからやがて下っていくと1番目の山門と次の山門の間の路上に遍路道は合流した。

「太山寺」は1番山門から800m先の山の上に本堂がある奥の深い寺である。参拝人はこの雨で数人しか見かけない寂しさだった。

 この参道で一人だけ歩き遍路とすれ違い、見るからに外国人の男でどこから来たのかとすれ違う時に尋ねると「フレンチ」と答える。彼の日焼けした黒い肌と無精ひげが遍路旅の長さを物語っていた。ここまで歩き通すと最低でも1か月は歩き続けているだろう。「フランスからとはずいぶん遠くの国から来たね、頑張れ」

とすれ違った。

 

その30分後だった。本堂と大師堂を参拝し、納経も済ませ次の寺を目指して坂道を下りていく時だった。2番目の山門を下りようとした時、私は石段で足を滑らせ転倒したのだった。上る時に石段を使ったので同じ石段を戻ろうと三歩ほど踏み出した時、両足が滑り私は転倒した。

 

「何?---どうした?」

 

一瞬私は何が起こったのか分からなかった。背中にリュック、頭には菅笠をかぶっていたのでこれがクッションになり背中も後頭部も石段にぶつからずに済んだのだ。杖を突いて起き上がり身体を点検すると脚にも背中にも後頭部にも痛みはなさそうだ。しかしやけに左手が痛む。階段をおり始める時、杖は左手に持ち替えていた。その左の指全体に突き指した時のジーンとした痛みが残っている。じっと左手を見た時、私は思わず叫んでいた。

「あっ、やっちまった」

杖を握った中指の先があらぬ方向に曲がっているのだ。

「指が折れた! 」

薬指と人差し指はまっすぐなのに、真ん中の中指だけ中ほどから別の方向を向いて曲がっているのだ。それを見た瞬間、血の気が引くと同時に空いていた右手で折れ曲がった指を手のひらで思わず包み込んでいた。こんな時、理屈はいらない。折れ曲がった指を右手がすかさず保護したのだ。

「---すみません、救急車呼んでください!」

石段に佇んだまま階段下にいた老夫婦に私は声をかけた。階段の下はちょうど駐車場になっていて参拝を終え車に乗り込もうとしていた夫婦がいたのだ。

転んで、今、指を骨折してしまったようだ、指が変な方向を向いている。自分で治療ができない

と窮状を訴えた。

 -----すると、この時の老夫婦の反応が妙だった。

何を思ったのかこの夫婦は二人とも、私を見上げ

えっ、それは大変!

と言うと、スマホを取り出すのではなく車の後部ドアを開け、後ろシートの掃除や整理を始めたのだった。救急車の要請をしているのに、何をしているのだろう。車に乗せて、とは言っていないのに私を乗せようと座席を整理し始めているのだ。

 何だろう、事情が分からないのかな?私の言っていることが通じないのだろうか?

そこで

救急車を呼んでください

ともう一度大きな声で言ったが

「あっ、ハイ」

と答えながらスマホを取り出す気配がない。

 

緊急事態になると人は思い込み行動をするものらしい。この夫婦にとって救急車を呼んでくれというお願いは、車に乗せてくれというお願いに聞こえているようなのだ。しかし車で病院に運ばれると一般患者扱いになり救急扱いをしてもらえなくなる。私は片手を怪我しておりスマホを取り出し電話をする余裕はなく、困ってしまった。私のすぐ後ろから石段を降りて来た高齢の男の人がいたがこの人もただぼんやりこの光景を眺めるだけだった。

埒が明かないので私は3度目のお願いをした。

「救急車を呼んで欲しいんです。119番に電話して欲しいんです」

すると、老夫婦は車の整理を中止、やっと自分たちが何をすべきか理解したようで、ポケットからスマホを取り出すと119番に電話を掛けてくれたのだった。

 

 およそ10分後、救急車が到着したのだがそれまでの待っている間に私は手伝ってもらいゴムの靴カバーを外し、リュックを背中から外しポンチョを脱ぎ救急車に乗る準備を終えていた。救急車が到着すると周囲にいた3人に礼を言い72歳にして生まれて初めて救急車に乗ることになったのだった。

 

救急車に乗ると、すぐに車は出発せず容体に応じた搬送先を調べているようだった。そして数分後に

「これから松山市民病院に向かいます」

と私に告げた。

----また松山市内に戻るようだ。

私は救急車が到着するまでいろいろなことを考えていた。-----これ以上歩き遍路は続けられないだろう、と。なにしろ指が曲がっているのだ、明らかに健康な状態ではない。痛みからして全治するのに3週間以上かかる気がする。脚に異常や痛みはないので歩き続ける覚悟はあるが、指が折れ曲がり救急車を呼ぶ事態になっても遍路旅を続けるのはあまりに無茶ではないか。無謀ではないか。どうしよう。このまま続けるか、中断か、自分の中で考えが二転三転していた。

 残り16日分の宿もどうしよう?と考えていた。すべてキャンセルするだけでも時間がかるだろうが、この際仕方がない。いや、診断によっては宿泊予約を何日かずらせば済むかもしれない。いっそ、歩きだけは中止して電車、バスを使っての遍路に変えようか?等々。救急車を待っている間にさまざまな選択肢が浮かんだ。

 結局、遍路旅を続けるか続けないかは医者の診断を受けてからにしよう。

 

 運ばれた松山市民病院はJR松山駅から300m程離れた交通の便の良い所だった。私は救急隊員によって転倒のショックで他にもケガがあるかも知れないと念のため車いすに座ったまま待合室に運ばれた。救急外来のドアが開くと、そこに座っている人たちはみんな救急でやって来た人達であった。

 目の前にいる男は絆創膏を鼻に張り、目は腫れぼったく顔が異様に膨らんだムーンフェイスだった。交通事故で顔面を打ち運ばれてきたらしい。数人の家族に囲まれベンチに座り込んでいる人もいる。私も救急で運ばれて来た一人だがここに居る人たちの中では軽度の部類のようで30分以上誰からも声がかからず余りに放っておかれるので忘れられている感じがしてきた。40分ほどしてレントゲン室にやっと運ばれ指先を上から横から撮影し医者に会えたのは1時間近く経ってからだった。

 40歳前後の男性医師はレントゲンを見ると

「脱臼していますね。第一と第二関節が外れている。----それにちいさい骨のかけらが散っている。倒れた時に骨の一部が飛んだようだ」

と言う。確かに、曲がった中指の骨から離れた場所に、小さな骨の破片が真っ白な点として写っている。一種の骨折なんだろうか?

中指はボッキリと骨が折れた訳ではなかったようだ。ジンジンとする絶え間ない痛みは、突き指の時の筋が伸びた痛みだ。筋や靭帯が伸びきってしまったのだな、と私は納得した。

「小さな骨のかけらが傷口から出て来るか残ってしまうかはまだ判断できない」

と医者は言う。

 中指を見ると関節部分に傷口があり血が固まっていた。石段で倒れた瞬間、杖が中指を打撃し瞬間的に体重が掛かり、それで2か所の関節が脱臼したようだ

「脱臼している部分、どうなるんです?」

私の願いはまっすぐで正常の指に直してほしい事だ。----医者はパソコンに何やら書き込んでいたが振りむくと

「もちろん今から処置しますが」と前置きし、

「ただし麻酔の注射を打ってもそれはそれで痛いんですよ。この程度の脱臼なら麻酔無しで元に戻そうかと思いますが」と私に同意を求めるが私に異存はない。「はい、麻酔無しでやってください」と私は即座に返答した。昔、実践空手を数年間やっていたせいか肉体の痛みには慣れていた。

 

 すると医者は両手で私の曲がった左の手を包み込み、片手は手首を、もう片手は脱臼した指全体を掴むとそのまま一気に引っ張った。その間わずか5秒足らずの時間だった。2か所の関節がグイっと引っ張られグーッと伸びる感覚と痛みがあった。顎を引いて、その数秒の痛みを私はじっと我慢した。医者はまっすぐ指が戻ったか視認すると治療はそれだけで終わった。

 

 昔は突き指をしたら引っ張ってはいけないと言われていたが私のように完全に脱臼した場合は別だ。修復しなければ妙な方向にねじ曲がったまま固まってしまうのだ。治療は本当にほんの一瞬だった。

 指にステンレス製の細い板が添えられ包帯で巻いて固定するとそれで治療は終わった。その後に続く窓口での精算、地元の病院に行く時の紹介状、レントゲンを写したCDが渡され治療費5000円を払うと病院を出た。念のため旅先に保険証を持ってきたがこんなところで役に立つとは、と思わず苦笑いが浮かんだ。

 

 コンビニに立ち寄ると、待ち時間の間に仕分けしていたリュックを自宅に送ることにした。一日分の着替えと身の回り品だけ手許の小型バックにあればよい。荷物は10Kgが2Kgへとたちまち軽くなった。

 骨が一部欠けていると分かった時、お遍路旅の中断を私は決意していた。

時間は午後2時を回っていた。腹は空いているが今日は夕食まで我慢しよう。

 

JR松山駅は去年2回目の歩き遍路が終わって帰郷する時に乗車した駅だった。停まっている駅前の路面電車が懐かしく思い出された。今日はとりあえず予約していた宿まで行って一泊しようと予定を立て直していた。幸いにも予約していた宿はJR松山駅から7つ目の「伊予北条駅」から徒歩数分の場所にあった。「シーバ,MAKOTO」という温泉宿で一ヶ月以上前から予約していた。後から分かったのだが「伊予北条駅」は特急列車も停車する便利な駅だった。

 

 午後4時近く宿に着くとそれからの1時間を翌日からのホテルや宿にキャンセルの電話をかけ続けた。

 この時に気がついたがインターネットで申し込んだホテルはキャンセルもインターネット窓口から入れねばならない事だった。しかしやってみて分かったが特に外資系旅行サイトは申し込みはしやすくしてあるが解約はしずらくしてあるのだった。

 解約しようと改めてサイトの隅々を探しても解約の項目が見当たらなくしてあるのだ。または申し込みと同時に

「この予約の取り消しはできません」

と申し込みの後で通知してきているサイトがある。

 共通するのは同じホテルでも極めて安い価格で客を釣り上げる目立った広告だった。申し込みの時の画面をあちらこちらクリックし何とか解約項目に辿り着いてもキャンセルするにはそこから先は英語表記になっていたりする。

「何故今になってキャンセルするのか理由を述べよ」となっている。

乏しい英語の知識と記憶をたどり「accident」(事故があったから)と回答すると数時間後にキャンセルが受けいれられたのだった。

 その点、国内旅行サイトならほとんどのサイトが容易に解約に応じてくれた。私のように何日も前から何軒も予約を入れる人はagobaだとかの外資系旅行サイトには注意したほうが良い。

 

 この日の夕方だった。

夕食前に冷えた身体を温めようと大風呂に入っていると、サウナから出て来た老人が湯船の脇で腰を下ろし休んでいたのだが、顔をうつむくと同時に音もなく前のめりになって目の前の湯船に倒れこんできたのだった。無言で、静かに、頭から湯船にすべるように倒れこむとお湯の中で身体を回転させ、それはまるで水泳のクイックターンを見せるような回転で、ただ問題はそのまま頭をあげようとせず沈んだままだった。

湯船の向かいで頭にタオルを載せ、私と同じようにその光景を見ていた同年輩の男と私は同時に

「あっ、倒れた」

言うが早いか湯船の中でその老人を二人して両脇から助け上げていた。倒れた老人はそのあいだ気を失っていたらしく両脇を支えていないとそのまま再び沈みこもうとしていた。私はつい数時間前に怪我したばかりの包帯で巻かれた左手をかばい右手だけで抱きあげたが助け上げる時に思わず左手も使ってしまい痛さで顔をしかめることになった。

 何人か他の客も助けに来たので彼らに後を任せたが、もし数分間誰も見ていなければその老人は温泉の湯船で溺死するところだった。家庭風呂で人知れず溺死する事故が毎年どこかでおこるが現実を目の当たりにした日だった。

 

 お遍路を中断した日の最後の最後にこんな現場に出くわすとは何と奇妙なことだろう。----こうして私の3回目の歩き遍路はたった一日で終わってしまったのだが、しかしこの日の体験は私に教訓を与えることになった。

 

 人はああいう風に、ある日突然に死ぬのだ。

お遍路は春がいいと誰が決めたのだ。なぜ毎回私は春の出発にこだわっていたのだろう。生きている時、行ける時、人は自分の望むことをしておくべきなのだ。行ける時に行くべきなのだ。指が完治したら、今度は季節に関係なく秋でも冬でも再チャレンジしよう。そう考えながら翌日新幹線の人となったのだった。

    

 

 

 

  この3月中旬過ぎ、妻がコロナに感染した。

土曜の夕方、自覚症状があり自ら近くの医者に行って診てもらうと「コロナ」と判定された。

 妻は予防接種を5回受けていたが、その都度特有の後遺症に悩まされていた。またコロナが5類に移行したこともあって最近一年は予防接種を中断していた。それが感染した原因だろう。それに比べ私は毎回接種を怠らないでいた。

 

 妻が発症し2日後の夜、今度は私が全身に違和感を覚えるようになった。

 夜中、何度か体温を測ると、普段は36度になるかならないかの低体温なのに測るたびに38度前後を指しているのだ。

「しまった、----感染してしまったか?」

いつもと違った違和感を感じるのは咽喉の痛みであり、熱であり、倦怠感である。これはコロナに感染したに違いない。

 

翌朝になって、妻が受診した病院に電話すると「夕方検査に来てくれ」と言う。発症したばかりだと検査でウイルスが見つからないことがあるらしい。そのために午後遅く来てほしいというので指定された夕方に検査に行くと意外なことに結果は陰性で

「コロナでもインフルエンザでもなく、ただの風邪ですよ」

とニッコリ笑顔で医者は言う。

 しかしこんな発熱は数年体験したことが無く診断に疑問を抱き帰宅することになった。

 

-----翌朝、簡易検査キットを買ってあるのを思い出し、綿棒を鼻腔の奥に押し当てて調べると検査キットは「陽性」を示していた。 

 

 

検査キット上に「赤線が2本」入ると陽性である。

一体何が本当なのだ?と日頃通っている別の医院に診断を仰ぎ調べてもらうことにした。

「発熱外来」という専用通路から病室に入り調べて貰うとこちらのかかりつけ医は

「コロナになっていますね」

との診断だ。医者によりこんなに診たてが違うのか、と唖然としたのだった。

 

平均して発熱後5日経つとコロナウイルスは消滅するというが、妻は簡易キットで調べてみると6日後に赤線一本の陰性になっていた。私の発症は妻の2日後なので週末か週明けに陰性になるはずで、悶々とした日々を過ごすことになった。

 

何故悶々としていたかと言えば週明けの日曜日に私は四国遍路に出かける予定を立てていたからだった。コロナが治るか、治らないか、ぎりぎりの期間なのだ。

 

実は一か月以上前から、松山市から始まり香川県、大阪市のホテルまで18日分のホテルや民宿の予約をとっていたのだ。日曜出発にギリギリ治るかどうかの境だ。

「治れ、治れ」

と、毎晩眠る前に心の中で祈る日が続いた。

 

金曜、土曜と体調は日ごと回復していた。回復は時間の問題である。

一日ごとに、からだが元に戻る感覚があった。ウイルスは日曜日には消えるに違いない、と妙な確信、自信があった。日曜日になりマスクをして私はリュックを背負い新幹線の人となった。

 泊まったホテルで調べると検査キットの赤線はその夜1本になっていた。陰性である。 

 

 

もう他人様に感染させる恐れはなくなった、明日から安心して遍路旅を続けられる、とほっとしたのだった。

-----ところが、この2日後、私は52番札所「太山寺」で救急車を呼ぶ事になったのだった。

 

 

 

トヨタの「シェンタ」の空間を活かそうと「ターンナット」を取りつけたブログから半年以上が経った。

今年一月に書いたブログ

『ターンナットは外せる』

はたくさんの人の関心を集め2023年10月末時点で閲覧者は300人を超えた。これは、「ターンナットの外し方」に悩んでいた人が如何に多かったかを物語っている。

 

今回はトヨタ「シェンタ」のアシストグリップにターンナットとイレクターパイプを取り付けた後、広い空間をどう活用したかを語ってみたい。-----外出先で突発的な理由から自宅に戻れず、宿にも泊まれない場合もあるだろう。そんな時は乗っている車を活用するのが一番良い。車なら車体が風雨から身を守ってくれるし冷暖房も効く。その点「シェンタ」は広い居住空間があり棚を設ければ荷物も積め、空間を活用しキャンプ仕様に出来る。私が「プリウス」から「シェンタ」に乗り換えた理由はこの空間の魅力だった。

 

さて「シェンタ」の車中泊改造だが、まずはアシストグリップの取り外しとターンナットの取りつけから始まった。

 

 

ターンナットにイレクターパイプを丁字グリップで取り付け、ここを手掛かりにして室内にパイプ骨組みを組み始めた。

 

(写真はアシストグリップの箇所に2個の丁字グリップでパイプをとり付けた状態)

  

   

後部トランクルームの左右にはネジ穴があったので、アシストグリップと同じ要領でここにもパイプを縦と横、更に上下に延ばしアシストグリップからのパイプを強度確保のため下からも支え連結、トランクルームもパイプを利用し専用棚を設けた。

    

 

 

この後部の立ち上がりパイプは、取り外しできるようソケットはルーズなままにした。(写真・シルバーの金具とパイプはソケットで繋げているだけ)

スチールネット利用の天上棚には寝袋、マット、テント等の宿泊セットを収容しバックミラーの視界の妨げにならないよう、また後部座席に座る人の頭上にも圧迫感を与えない高さにしたが「シェンタ」の室内高のお陰で可能になったと言える。バックミラーを覗いても棚は視界の妨げにならず、後部シートに座っても圧迫感はなかった。

 

第二段階として「棚」の他に、後部全面をフラットな「床面」にしたかった。床面に小さな凸凹や隙間が無くなれば違和感なく車中泊が出来る筈だ。------これはキャンプの経験があるから言えるのだが意外に人の背中は敏感でちょっとした凸凹があると気になって眠れないものだ。そのためキャンプする人はほとんど寝袋の下にマットを敷き寝心地をよくしている。小石混じりの地面の上でもマットを敷くとゴツゴツ感は遮断される。

そこで後部席をすべて倒し、シートとシートの隙間やちょっとした段差があるか寝心地を試してみた。

 ちなみにシェンタの場合「7人乗り」だと後部座席を倒して全長1525mmの空間しか確保できないので購入候補からはずしていた。1525mmでは大人が足を伸ばして寝られない。

その点、5人乗りだと室内長が2045mmあって足が伸ばせる。寝泊まり用にシエンタを使うなら5人乗り一択となる。

 実際に倒したシートで寝返りすると微妙な段差が気になった。軋む箇所も感じる。-----そこで7mm厚の合板を切断加工し、幾つかのパーツに分け、各パーツはクッション性のある素材でカバーし表面はレザーシートで覆う「床板」を作ることにした。一体物の床板が理想だが一体ものだと大きすぎて車への出し入れが非現実的、そこで8つのパーツに分けることにした。小さく分解できればトランクに収納できて邪魔にならないし、組み立ても楽だ。

    

 

 

合成木材、クッション材、保温シート、レザーシートはホームセンターで調達、試行錯誤して8枚に板をカットし組み合わせて後部席全面を覆うようにした。

 ちなみに余談ではあるが、私が合板を購入したホームセンター「パワー・コメリ館」は購入板のカットをしてくれるので、あらかじめ設計図を描き、一枚の板のどことどこをどのようにカットするか、寸法を書いて持って行った。しかし、意外なことに曲線のカットは機械では出来ないという。機械による切断は直線のみだという。-----タイヤハウス周辺の微妙な出っ張り、曲線迄お店任せで切断してもらおうと思っていたが、そうはいかなかった。細かで微妙なところは最終的に人任せになるのだ。

 

合板の切断面角にヤスリを掛け、丸みを持たせ、板の上にはアルミの保温マットとクッション材を重ねて敷き、一番上をレザーシートで覆うとホチキスの親玉のような「タッカー」でシートと板を針で留め完成させた。

------材料費や加工にと何かと手間や金がかかるものだがこれを業者に頼むのではなく自分で考え、自分で作ってみることに意味がある。多分これを業者に特注で頼めば実費の5倍以上は確実にかかったことだろう。いや、10倍かかっても不思議ではない。

 しかし、この作業をしている数日間は、オートバイのVストロームを北海道ツーリング向けに荷台やサイドボックスを工夫改造している時と同じ楽しさがあった。-------出来上がってしまうと、とたんに腑抜けになったように気が抜けてしまうのだから人間とは面白いものだ。辛くて大変な思いでいる時が修行なのだ。目の前の困難に知恵と工夫で克服していく時、いつか道は開けるものだ。

 

 

 8枚に板を細かく分けた理由は特定の2枚の板を外すと後部左シートだけを起こすことが出来るようになるからだった。後部シートの一つが生きると、そこで座って食事も出来るし乗り降りにも便利、足元に靴も置ける。乗り降りを考えるとこれが一番良い選択だと思った。

 

 

後部、助手席後ろのシートを立てると足元はだいぶ広く、靴を置く空間も生まれる。一人で寝る場合、このままで十分な室内空間になる。二人で寝る場合、シートを倒し、2枚の板を敷けばフルフラットになり並んで寝られる。

 

 

余った残材を利用し助手席後ろに茶色に塗った折りたたみテーブルも取り付ける事にした。

 

 

 

 

この茶色のテーブルがあると物を置くにも便利だ。テーブルは助手席背中にバンドを巻いて固定するので安定感もある。  

 テーブルや8枚の分割した板をトランクスペースに収納しても空きスペースはあり普段もこの状態で乗っている。大荷物を載せる日には板を下ろせばいい。  

 

 

 

 

ブログには失敗談もあるが自慢話も多い。「こんな美味しいものを食べたが、どう?おいしそうでしょう」的な写真を実によく見かける。

 

 

 

 

しかし一方で「こんなものを作ってみたが、皆さんの役にも立つかもしれない」と呟くブログもあっていいし本当はそっちの方が大事だと思っている。------工夫したものが人の役に立つ、そんな輪が広がれば世の中はもっと素敵で住みやすい世の中になる、と思っている。

 

 

6日目

   

午前7時、バイクに荷物を装着すると、キャンプ場から知床横断道路に出たが、このキャンプ場の出入り口は左右の見通しが悪い上に勾配が急で丁字路もかなりの鋭角になっている。事故や接触が起きそうな危険な分岐路だ。今朝、温泉掃除から戻る時も路面の様子を観察していたがその慎重さのためだろう無事左折すると羅臼の街に向かって走り出した。

数分後には「道の駅羅臼」の手前で海が目の前に開けた。これからはずっと左側に海岸線を見ながら走る事になる。道の駅で駐車して今日最初の中継地、野付半島にカーナビをセットした。野付半島は年に1.5Cmずつ沈下し、近い将来にこの半島は姿を消すであろうと言われている場所である。サロマ湖と似たような地形で海岸陸地の中に海が侵食し海岸線に細く残った陸とに分離した半島だ。サロマ湖には8年前に立ち寄ったが野付半島は初めてだった。 

 北海道は集落を離れると何もない自然と大地が延々と広がり行きかう車さえ極端に少なくなる。今日も時間があるので以前に寄った根室半島にも立ち寄ろかとも考えたが調べてみると根室半島を回るとかなりの時間がかかりそうだ。それならゆっくりと時間を掛け、野付半島を見ておこうと計画を変更した。

 

野付半島の分岐路で左折し走っているとサロマ湖を走ったのと同じ感覚を覚えた。地形が似ているので光景も感覚も似ている。右と左から海が道路を挟んでいて舗装道路が一直線に伸びている。

 

北海道での走行中、Vストロームはその95パーセントの時間がギヤを6速に入れた状態だ。時速70km 以上で走る時間が大半で、たまに市街地で時速50Km以下になるくらいだ。平均燃費も高速走行も含めてリッター当たり32Km前後と言う感じだ。市街地でもリッター当たり31Kmは走っている。走り終えた後で疲れがあまり残っていないのが何よりのこのバイクの良さだ。野付半島の先端近くまで走ると右側に「ネイチャーセンター」があったのでここでゆっくりと時間を費やすことにした。

この日の宿はまだ決めていなかった。出来れば霧多布岬の近辺、キャンプ場以外の場所に予約をとっておきたかった。連日キャンプだとどこか身体が疲れるので民宿かホテル、それも禁煙室の宿に泊まりたかった。2日前、網走市で泊まったニコチンが浸みた部屋には絶対に泊まりたくなかった。タバコの浸みついた部屋に泊まるくらいならテントで寝たほうがましである。それくらいに煙草のニコチンには心身ともに拒絶反応を示していた。

スマホで捜してみると「霧多布里(きりたっぷり)」と言う民宿が霧多布岬の手前にあり「全室禁煙」とあったのでネイチャーセンターから予約を入れた。2食付きで7875円、「全室禁煙」の文字に吸い寄せられるように決めた。別料金で夕食に「牡蠣」料理でも特別にお願いしたいが、とリクエストすると当日の予約では揃えられないと断られ、結局普通の一泊二食付きでお願いすることにした。これは私なりの考えだがキャンプ場に泊まって旅行代を安上がりにする分、食事に回し贅沢するのは決して「贅沢」ではない。お金を節約する時には節約し、活かす時には活かす、これこそ意味のある倹約と言うものだ。どこかで存分にお金を有効利用するかどうかがケチと倹約の違いだ。------チェックインは午後4時と言われたがここネイチャーセンターからだと100Kmほどの距離で2時間もあれば着くだろう。他に寄る場所もないのでここでゆっくり時間を掛けて過ごそうと決めた。

ヘルメットとウェアーをバイクに括り付け身軽になると館内を見て歩いた。ここから見学ツアーの「トラクターバス」が出ているというので参加することにした。野付半島の沈みかけている現状が見られる所までトラクター牽引車両が往復するツアーである。チケット売り場に行ってみるとちょうど参加者が集まり出発するところだった。1000円のチケットを購入するとバスに乗り込んだが他に7,8人の乗客が参加していた.人数がある程度集まると出発する不定期なツアーである。このツアーはトラクターが引っ張るくらいで路面は未舗装の凸凹した道、乗車時間7,8分ほどで、ここから先は人が歩いてしか通れません、と言うところまでトラクターに牽かれて行く。行った先でトラクターは40分間ツアー客たちを待ち、その間に見学者は最果ての場所まで歩ける限り歩いて沈みゆく大地を見学してくるという内容だ。

 

 

ノロノロ走るトラクターの脇を歩いて行く人もいる。距離は700メートル位なので運動不足の人は歩いたほうが良いだろう。先端に行くと昔からあったトド松が迫りくる海水に根から浸食され枯れ始めている光景が広がる。「トド原」と言うこの最果ての地の奇妙な名前の由来は、たぶん海獣の「トド」が冬場はここにやって来るから「トド」と言う名がついているのだろうと思っていた。が実際は「トド松」がその名の所以であった。------北海道には「青い池」と言う観光地がありそこはやはりアルミニウムを含んだ水流で枯れ果てた白樺の木が青い池のなかに不気味に林立して有名だが、この野付半島も似ている。共に枯れて消えゆく寸前の木々だ。

 

 

ネイチャーセンターに戻ると昼食にホタテハンバーガーとミルクのセットを摂ったが、セットで付いて来るミルクが350ccも500ccでも同じ料金で、このおおらかさがいかにも乳牛大国の北海道らしい。ツーリング旅をしていると牛乳を飲むチャンスが少ないので久しぶりにミルクを堪能できる日となった。

 

 

天気予報を見ると、霧多布方面には数時間内に雨雲が通過しそうな予報になっていた。雨の中をバイクで走りたくはないが宿を予約しているので中止と言うわけにはいかない。

車とオートバイでは自然に立ち向かう心構えに大きな違いが出来る。車は極端に言うと屋根のある小部屋の移動で、風も雨も体に直接降りかかることはない。しかしオートバイでは正面から雨風が情け容赦なく吹き付けてくる。温度もエアコンで調整されない。寒ければ寒いなりに暑ければ暑いなりにすべてを受け止めて走らなければならない。自然の醍醐味と危険とは表裏一体なのだ。

 

午後になって野付半島を後にして霧多布方面に走り出すと徐々に空が曇りだしてきた。西から東に薄黒い雲が勢力を広げ、上空を覆うのは時間の問題のようだ。決断は早いほど良い、と道路端にバイクを停車すると雨具を取り出し上下に身に着けた。靴にもバイク用雨カバーを取付け、そうしないとブーツの中に雨粒が次第に浸透し数分も経つと足先全体に雨水が浸透し不快になるのを何度も経験していた。ブーツの中に一度入り込んだ雨水は足裏から指の間にまわり、ペダルを踏む時にブーツの中でジトッとした不快を味わうことになる。ブーツは脱いで中を乾かさない限りその不快感は運転している間ずっと付きまとう。雨具を整え、あらためて走り出すと予報通りしばらくしてポツリポツリとヘルメットのシールドに雨粒が当たり始めた。周囲に風が吹き始め、草木や樹木が風で揺れ始めた。まとまった雨になるかな、と不安になっていると雨雲の中心が頭上に掛かり始め、一挙に雨粒が大きくなった。遠くに雷の音さえ聞こえ濡れた道路に雨粒が激しく当たり始めた。うっすらと水溜まりが道路を覆い始め、走るのに危険な状況だ。しかし周囲にはほとんど建物はなく雨宿りできそうな場所がない。カーナビでは今日の宿があと数十キロ先を示している。

スマホを見る余裕もなく、いつになったらこの雨が止むのか見当がつかない。時速50km程にスピードを落とし、前を走る車の後ろを走る事にした。一番前で走っていると対向車がすれ違う際に水しぶきがもろにぶつかって来るのだ。車の後ろで走っていれば少しは波しぶきがカバーされるような気がする。この時、前を走っている自家用車には高齢の人が運転しているのか、追い抜きを掛けたいほどの慎重さでノロノロの速度になっていた。時速40Km位だろうか水溜りが路面に浮いているとブレーキを踏み、飛び散る波しぶきを押さえる慎重運転である。だからと言って車を抜き去り先頭に立って走ると対向車からの水しぶきが怖い。20分ほどその車の後を走ったが分岐路でその車と左右に離れると下り坂でスピードを早め宿を目指した。

突然に坂を下る途中で路面が乾き周囲に雨の降って無い地域が出現した。雨雲の境から出たようだ。頭の中は疑問詞だらけで「??????」キョトンとしながら数分走ると予約した民宿に着いた。大雨だったのに、狐に化かされたような気分だ。ずぶ濡れで玄関に入ると奥さんが出て来て部屋に案内してくれた。まだ午後の4時前だった。

「宿・霧多布里」は厚岸郡浜中町の民宿で、亭主は東京に元々住んでいた方のようだ。若いころに旅行でこの街にブラリと立ち寄ったのが縁で移り住み今では地元に根ざした住民となっている。年齢は60歳代後半で発酵食品に凝り、家の中の風呂やトイレ用の水に迄こだわりを持つ一風変わった人だった。

 

 

この晩の夕食には、一枚の大きな電気ホットプレートの上に「鮭」の兜焼きや野菜が山盛りに並べられ、それをご亭主だけでなく奥さんと私ともう一人の客との4人全員で食べたが、それがこの宿の食事スタイルなのだという。鮭の頭の部分を半身に開いて食べることはなかったので珍しかったが、開いた頭の骨の所々に砂が入っていて、途端に2日前に網走から斜里町へ走っている間に見かけた浜辺の釣竿の放列、釣り上げられた鮭が浜でのたうつ光景を思い出した。友達から今日釣ったばかりの浜釣りの鮭が届いたので、の言葉になるほど海岸の砂が混じる訳だ、と納得がいったものだった。

 

7日目

朝食を終え、出発間際に玄関にパックされた土産物昆布が幾種類も並べられていたので手に取ってみると「この浜中町は北海道で一番の昆布生産地なんですよ」と亭主がいう。利尻とか日高、羅臼の昆布が名高いが生産量北海道一がこの浜中町とは知らなかった。土産に一袋購入しリヤバックに収めると霧多布岬を目指して走り始めた。この日は幸いにも雨の予報はなかった。

私はその地域の端っこに行くのが好きで、中間はあまり興味がない。北海道では知床半島、積丹半島、稚内、といつも目指して行くところはその地域の端っこがやたらと多い。ここ迄来たがもうこれ以上は行けない、と限界を征服した気になるのだろう。一種の自己満足だが数えてみると確かに端っこばかり好んで行って中央部はあまり関心がない、というかいつでもそんなところは行けるじゃないか、と斜に構えている部分がある。-------山に登るのも同じ理由だろう。これ以上「上」はない、ここが最高地点だ、とこれまでに富士山に32回登頂している馬鹿である。今回せっかく北海道にやって来たのに天気が良くないからと十勝岳に登れなかった、いや、登らなかったのは残念な話だった。

10分も走ると霧多布の街に入り、青空を背景にした坂を上り霧多布岬の先端にある駐車場に着いた。この先は歩いて行くコースになっていて観光バスの団体客はいない。先に行くほど陸幅は狭まって行き、やがて手すりが行く手を阻み最果ての場所を示している。この先端からは左右に海面を眺められる。漁船が相次いで沖合から陸路に戻りかけている処だ。

「あれ、ひょっとしてラッコじゃない?」沖合を何気なく眺めていると、双眼鏡を目に当てていた隣の人の声が聞こえて来た。「何処?」「ほらあそこ」斜め下を指差し二人で騒いでいる。そう言えばこの岬入り口にラッコの生息地と言う看板があったのを思い出した。すれ違った何人かの人が双眼鏡を用意していたので観察に来ている人もいるようだ。しかし海原は広くどこにいるかわからない。じっとその人達の見ている方向に目を凝らすと波頭の間に時々ポカっと頭を出す何かがあるのに気がついた。ラッコはずっと波間に浮かんでいるわけではなく、海中に潜っては数秒、数十秒後に顔を出しこちらの陸地に向かって泳いで来るのだ。茶色っぽい中型犬ほどの大きさの動物で水中からポッカリ海面に顔を出す瞬間を運よく見られたので分かったが、大半は潜っていてじっと目を凝らしていないと見つけられないものだ。この先端の展望からでないとラッコは見られなかった。まさか本物のラッコを見ようとは思ってもいなかったので、不精せずにここまで足を伸ばしてよかったと思うのだった。

 

 

この霧多布岬駐車場のすぐ隣にはキャンプ場が併設されていた。今回のツーリンクでは3か所のテント生活を予定していた。最初が十勝岳白銀荘隣のキャンプ場、次が羅臼温泉野営場、そして3番目にこの霧多布キャンプ場だったのだが、前の2か所は計画どおりだった。最後のこの霧多布岬は連日キャンプでは洗濯物も溜まり、テントの中では睡眠不足になるだろうと中止していたのだが-------バイクにまたがる前に念の為キャンプ場に寄ってトイレや管理棟周辺を歩いてみた。海面を見晴らせるなだらかな草原に10張ほどのテントが設営されている。ここには地形的な問題もあり樹々が周囲を覆っていない。時計を見ると午前9時近くで、テントを撤収し始めた人たちのグループがいる。眺めの良い場所だが、それは同時に海岸に突き出た場所では海風がまともに当たる場所でもある気がした。テント暮らしは天候次第で快適さが大きく左右される。

岬から坂を下りて市街地に入り今日の2番目の中継地、厚岸町にカーナビをセットした。今日は厚岸町までずっと海岸線・太平洋シーサイドラインに沿って走るつもりだ。この海岸線の距離は約40Kmで、適当に道は左右に曲がりオートバイのツーリング向きの道路だ。空には晴れ間が広がっている。------ナビをセットして走り出すと道路脇に鹿が一頭佇んで草を食んでいる。脇を走り過ぎても逃げようせず悠々と食べ続けている。このへんを走る時には特に鹿の飛び出しに注意してくださいねと昨夜、民宿で言われたことを思い出した。この地域では熊はほとんど出没しないがその代わり鹿はあちこちに生息し、珍しくないという。-----「火散布沼」の橋を通ると橋の左右でこの沼の養殖漁なのだろう小船が収穫作業をしている処だった。ちなみに「火散布沼」は「ヒチリップト―」と読むらしい。北海道には後の時代になってアイヌ語の言葉を無理に漢字を当てはめたのだろうか難読地名、難読文字が多い。

 

今日の走行予定は帯広市までで、この区間は高速道路を使う予定だ。泊まった宿からだと全行程220Km程のツーリングになる。霧多布から一気に苫小牧港まで行くのも無理すれば可能だが予約している船便は明日夕方の出港でまだ一日が残っている。早く着き過ぎると明日の時間が余り過ぎてしまうのだ。今日と明日の2日間で走るには帯広市周辺が中間地点としていいだろうと決定していた。たまには市街地にあるこぎれいなホテルにも泊まりたい。ホテルなら禁煙室がある。安く質素な旅ばかりでなく、安心してゆったり神経を休める宿も必要だ、とこの日の朝にスマホでシティホテルを予約していた。

厚岸町に着き「道の駅厚岸」で小休止することにした。ここは「グルメ評価で連続日本一になった道の駅」とある。昼にはまだ早かったが建物の中には幾つかのレストランがあり既に予約待ちの行列が出来ている。厚岸町は牡蠣養殖で有名な地域で、地形的にも穏やかな入り江に囲まれ波は静かで養殖に適している。店頭の予約リストに名前を書き入れたが1時間近くの待ち時間である。しかし並ぶだけの価値のあるレストランで、そうだ昨日の夜は牡蠣が食べたかった、とメニューをひろげた。昼食はこのツーリング中はコンビニ食かせいぜい1000円以内のものばかりだった。しかし、明日には北海道のツーリングも終わるのだから、と2800円の「カキテキ御膳」を奮発した。生牡蠣、蒸し牡蠣、牡蠣フライと内容は牡蠣尽くしでこれを選んで置けば牡蠣料理に関しあれを食べたかったと後悔はしないだろう。運ばれてきた料理は今まで食べたことのない新鮮さとボリュームの牡蠣尽くしで、ああ、ここに立ち寄って良かった、1時間待っていた甲斐があると満足「グルメ評価で連続日本一になった道の駅」の呼び名に納得したのだった。

 

 

国道に出るとガソリンを満タンにしてしばらく走ったのちに道東自動車道に入った。山間部を突き抜けるこの自動車専用道路は一部無料で、もし下の一般道路を走ったらどれだけ時間がかかるのかと思う快適な道であった。北海道の自動車道はインターチェンジもサービスエリアもかなりの間隔を置いて点在している印象を受ける。ガソリンスタンドもそうで、何処にもガソリンスタンドがある訳ではない。見つけた時が利用できる数少ないチャンスだ。-----Vストロームは安定した走りで制限速度時速70Kmの処を時速80~90Km前後のスピードを維持した。時速70Kmで走ると後続車が列をなしてしまうのだ。こうして午後の4時前に帯広市に入った。到着したのは「帯広ホテルグランテラス」で繁華街のほぼ中心だった。ホテルは1階の一部が駐車場になっていてバイクを雨で濡らさなくて済むうえ全館禁煙だ。ニコチンの臭いを気にせず眠れるのは何よりありがたい。チェックインを済ませ部屋に入るとシティホテルらしい清潔さと広さで、荷物を置くと近辺の様子を探りに出かけた。------フロントで尋ねると徒歩五分の所にお菓子作りで有名な「六花亭」の本店があるという。居酒屋もどんな店があるのか散歩がてら歩いてこよう、とぐるりと近辺を一周した。バイクにはまだ荷物を積み込めるスペースがある、と六花亭で何種類かお菓子を買い込んだ。細い路地裏を歩いていると、夕暮れがもうすぐなのに思いのほか暖簾を出していない店が多い。シャッターを閉めたままの店もあり、そうか今日は日曜日だった、と気がついた。半分近くの飲食店が日曜休業である。2,3の店にあたりを付けておいてから一旦ホテルに戻り風呂を済ませた。------気分がさっぱりとなり、再度ホテルの玄関を出る頃には赤ちょうちんが光の度合いを増していた。居酒屋を求め歩きまわる観光客で路地もにぎわっている。目星をつけていた店に入ろうとすると「一杯で入れません」と言う店が続出だ。誰しも、おいしそうな店構えには敏感のようで、さっき歩き回った路地を一周しても気に入った店は客で一杯だった。開店している店が半分なので必然的に空きのある処に客は集中する。結局、居酒屋は諦めレストランに入ったがここはメインとなるものが丼物やスパゲティと言った食べものばかりで、家族客は多いが酒の肴に乏しい店だった。最後の晩なので北海道らしい海産物と辛口の酒が飲みたかったのに、と残念でしかしここには帯広で有名な豚丼もやって居たので最後の晩はこれで締めるか、と日本酒片手に豚丼を頬張ることになった。酒飲みにとつて、日本酒と甘い豚丼は奇妙な組み合わせで、熱燗一本を飲むとそれ以上飲み気はしなかった。

 

8日目

 

この「帯広ホテルグランテラス」は朝食付きで宿泊代7825円、駐車場600円と地方のこの都市部としては価格の安い方だった。朝食も付き、バイキング形式で質も高く充実している。------オートバイのエンジンをかけ駐車場から出て今日のルートをカーナビに設定しようとするがいつまでも現在地が表示されない。2日前の午後、霧多布への豪雨の中を走ったのが悪かったのか5分経っても現在地が表示されないので困った。スマホで現在地を出し頭に残っていた地図を頼りに走り出すことにした。結局カーナビ「ゴリラ」は回復しないままだった。苫小牧までたどり着けるかと心細いことこの上ない。道を間違っては今日中に港に着けなくなってしまう。仕方がないので、今まで使ったことの無いスマホで地図を表示し現在地と目的地を入力してみよう、とやってみると簡単にルートが表示される。実に見やすい。なんだ。これで良かったんじゃないか。ヤフーマップでもグーグルマップでもどちらでも道順を案内してくれる。カーナビゴリラはパーキングでバイクから外すことにした。メーター周りに余分な機械がなくなるとスッキリした。スマホがあれば何の不自由もない。大切なのは、やろうとしたか、やる気が無かったのかだ。必然に迫られるとなんでも出来るものだ。

 

この日の苫小牧発カーフェリーの出港時間は午後6時45分だった。途中の道東自動車道で、事故なのか道路工事中なのか「夕張インターチェンジ」手前ですべての車が自動車道から下車させられるハプニングがあったが余裕を持って帯広市を出ていたので出港の2時間前にはターミナルに着いていた。しかし、旅では途中で何があるかわからないものだ。出港の30分前にバイクがカーフェリーに吸い込まれていくとライダーたちは三々五々、荷物片手に部屋に散って行った。-----よかった、バイクを倒すこともなく無事に北海道の各地を巡ることが出来た。こうして私のバイクツーリングは終了した。北海道での走行距離は1480Km程だった。月に平均で100Kmも走らない私にとって一気に一年分を北海道で走ってきたことになる。

 

------出かける時「多分今回の北海道ツーリングでもうオートバイはやめる」と私は妻に話していた。妻も「もう歳なんだからいい加減にしたら」と、バイクに乗るたび心配させていたのだ。

 ここまで幸いにもバイクで怪我無く過ごしたが70歳代になるとさすがに手放す潮時だろう、と思っての妻への宣言だった。ところがこうして無事に戻ってみると、また次の夏にはどこか長期のバイク旅をしてみようかと思うのだからほんとに懲りない男だな、と我ながらに思うのだ。

                                              (終)

 

 

 

4日目



朝食でコンロを使って湯を沸かそうとガス缶をセットするが何度試してもガス缶がセットできない。コンロは日本製の「サトー」製品でキャンプ向けコンロだ。ガスボンベが仕様に合わない違うものを持って来てしまったのか時間ばかりが過ぎていくので諦めパン代わりに持ってきた「ナン」に冷たいレトルトシチューで朝食とした。調理器具のガスコンロだけ事前に試していなかったのをこの時ほど後悔したことはなかった。テントや寝袋はちゃんと設営し点検したのにガスだけが迂闊だった。

北海道でせっかくここまで来たのだからと「青い池」にも立ち寄ってみることにした。

 

 

 

ここに来るのはこれで3度か4度目になる。駐車場に管理棟が設置され今では有料になっていたがその前は管理棟もなく無料だった。青い池は以前と全く変わらないままだった。ここで今日の宿をどこにしようかと地図で網走市やサロマ湖周辺を探すがなかなかホテルが見つからない。連日テント暮らしだと身体が休まらないので今日は民宿かホテルをと探すが予約で一杯のところが多い。以前泊まったライダー向けの宿「サロマニアン」も予約で一杯だった。空いているところがあれば即決しなければと焦り始め、網走市の入り口にホテルを見つけネットで申し込むことにしたがここは以前ラブホテルだったホテルで名前が「ホテルアラン」という。とにかく空いていればそこにしようと決定。食事なしで6679円と格安でもあった。宿が決まると気分も楽になり高速道路に向かった。

 

バイクで下道を走ったほうが安上がりなのは百も承知だが、北海道では下道を通っていては目的地に着くのに倍以上の時間がかかってしまう。特に山間部では高速だとトンネルを突き進み一直線に進めるが下道だと山裾の曲がりくねった迂回路を延々と走ることになり確実に倍以上の時間、距離を走る事になる。ETCを取り付けたメリットは距離のある北海道だからこそ生きるというものだ

この日の午後、まだ明るい4時過ぎにセブンイレブンに立ち寄り夕食と朝食、ついでビールと酎ハイも買って予約したホテルに着いたが、ここは郊外のラブホテルが幾つも並んでいる特別な地域だった。「ラブホ集中地帯」と言った感じで本道から脇道に入ると相次いで2軒も廃業したラブホテルが並んでおり、予約したホテルは3軒目だった。広い駐車場には車が一台も無く、ガレージと建物が一体になった棟が横並びになっている。ガレージにはシャッターが下がっていて車でここに着いたらそのままガレージに車を入れるシステムだ。駐車場に車が停まっていない理由がそれで分かった。つまりまったくのラブホテルなのだ。こんなところに来るのは初めてでバイクを広い駐車場に停めたままガラス戸を訪ねチャイムを押した。すると年輩の女の方が出て来て、予約した者ですが、と名前を言うと部屋番号が告げられ、そのシャッターを開けるように言われバイクを入れると別の出口伝いにドアが続いていてそこが今夜の宿だった。部屋にはダブルベッドが中央にデンとおかれ20畳はある広さだが明かりが微妙に暗い。健康的な明るい光でないところがラブホテルらしい気遣いと言ったところだ。枕元には灰皿が置いてあり今時堂々と喫煙を認めるような宿は少ないのではないかと思う。小さな小皿が枕元に置いてあり「今度産む」(コンドームの語源は今度産むから来ている、なんてね)が2個置いてある。間違いなくラブラブさん向けホテルである。一人で泊まるのにこんなものを用意されてもなぁ、とため息が出る。風呂も二人向けの大きなバスでゆったりとできる空間は独り身にはもったいないほどだ。

 

 

ところが数時間して頭痛を感じるようになった。体が重くなるようなどんよりとした不快な気分である。この感覚は以前も旅先で感じた不快感で、それがどんな時だったか思い出し、はっと我に返った。この部屋に染みついているだろう煙草のニコチンのせいに違いなかった。

私は大の嫌煙家でニコチンにはかなり敏感である。タバコを吸う人が近くにいると敏感にニコチンをその人から感じる。消臭剤で誤魔化され、部屋に入った時には気がつかなかったが時間が経ち壁や天井に染みついているニコチンが皮膚や呼吸器官から徐々に体内に入り込んできたらしい。電話で管理室にその旨を話したが空いているほかの部屋はないという。さっきの受付の女の人が空気の浄化装置を持って来て煙草の臭いを除去するのに1時間はかかります、その間は人体に影響するので部屋の外に出てもらわなきゃなりませんと言うのでモーテルの管理事務室に避難させてもらうことにした。ラブホテルの管理人室はどうなっているのか好奇心が途端に芽生えた。管理室にはモニターカメラが4台セットされ駐車場を中心に出入り口が白黒で映っていた。部屋ごとに秘密のカメラでもセットされ映っているのかと思ったがさすがにそんなことはなかった。結局、再び元の部屋に戻ったがベッド周辺にいると頭痛がひどくなり風呂の近くに避難すると不快感は軽くなった。察するところベッドとその周辺がニコチンの染みつく密集地帯となっていたようだ。布団もベッドのものを使うのが気持ち悪くなり、ガレージに戻ってバイクに積んでいた寝袋を持って来て風呂場近くの板の間に寝たのだが何のためにホテルに泊まったのか分からない日になった。板の間で寝ると周囲にニコチンの浸み込む布地や壁紙が無いためだろうぐっすりと眠れた.全室禁煙の宿以外に自分は泊まれない体質だと気がつく日となった。

 

5日目

部屋でおにぎりやパンを食べ、午前8時に快晴の空のもとを出発した。今日の目的地は知床半島の「羅臼温泉野営場」で移動距離は115Km前後とたいしたことはない。途中の斜里町で、時間に余裕があるのでコインランドリーに立ち寄っていく予定にした。調べてみるとキャンプ場に洗濯機はない。途中の大きな街以外コインランドリーを見つけるのは難しいだろう、と調べると斜里町には何軒かありそうだ。

 

相変わらずカーナビ「ゴリラ」の調子が悪い。防水カバーの隙間から雨水が浸みこんだせい、としか考えられない。現在地の把握に数分の時間がかかってしまい、だいたいの地図が頭に入っていたのでよかったがもしこれが見知らぬ土地だったら数分の間にとんでもない方向に行ってしまうだろう。車用のポータブルカーナビを取り付けるのはもうやめよう。スマホも防水とはいえ電源部とイヤホンの差込口から雨が浸み込んでくるのでは?と不安な面がある。しかしほとんどのライダーが使っているので問題はないのだろう------。 こうして網走市に入り、市街地を抜け海辺の道を走った。ところどころに長い海岸線が連なり、砂浜では竿を砂浜に突き立てている光景を頻繁に見るようになった。 

 

一人で10本以上も竿を立てている、そんな光景が砂浜ごとに見られ、何だろう、何が釣れるのかな、と道路脇にバイクを停めると砂浜迄見学に行った。 おびただしい数の竿が延々と連なり、数十メートルごとにその所有者は違うようで砂浜にクーラーボックスやパラソル、椅子を拠点にして沖合を眺めている。「何が釣れるんですか?」一人の男性に尋ねると、その人は20本近くの竿を立てている人だったが立てた竿の先端を指差し「鮭がとれるんだよ。針に鮭がかかると竿先が海の方に引っ張られ分かるんだ」と教えてくれた。数分間一緒に竿を眺めていると一本の竿の先端がグイッとしなって海に引っ張られていく。『おっ、来た。掛かったみたいだ』と言うが早いか竿のもとに走った。海岸に突き立てた竿立てから竿を掴むと、手早くリールを巻きあげ竿全体を何度か引くと満面に笑顔を浮かべ「掛かった!今日最初の鮭だ」と白い歯を見せた。手応えで鮭と分かるらしい。いや、浜辺にはこの時期鮭しかいないのか、ぐいぐい竿を引き寄せると近くの波間に魚の影が一瞬躍り上がった。打ち寄せる波に運ばれるように姿を現したのはまぎれもなく鮭だった。浜辺まで引き上げられると鮭はニ度、三度身体を砂浜に弾ませ、砂にまみれると動かなくなった。まるで、もう駄目だ、と覚悟したかのようだ。近寄ってみると鮭はオスで体長50~60Cmはありそうだ。

 

 

「これって、買うとどれくらいするんです?」と思わず下世話なことを尋ねると「これぐらいの大きさだとオスだから5000円ぐらいかな。メスだと卵があるんでもっと価値がある」と用意していたクーラーボックスに鮭を頭から突っ込んだ。だが鮭の尾っぽ部分までは入りきれないほどの大きさだ。いいタイミングで鮭の投げ釣りを見られたものだ、と再びバイクに跨り斜里町を目指した。

 

涛沸 (とうふつ) 湖を右に、オホーツク海を左に見ながら軽快にバイクツーリングは続いた。やがて16Km一直線道路が続く通称「天に続く道」の斜里国道に入り、この直線道路の中程を過ぎたところで左折すると「道の駅斜里」に到着するはずである。念のためにこの付近でガソリンスタンドに立ち寄りタンクを満タンにしていくことにした。中継地点である「道の駅斜里」へは看板が出ていて迷うことはなかった。道の駅でバイクを停め休憩時間に充て、案内所で付近のコインランドリーとキャンプ用品の売っている店を尋ねた。立ち寄ったついでにここでお土産も買うことにし冷凍のホタテを何種類か宅急便で手配しトイレも済ませ、コインランドリーへ。ところが困ったことにスーパーの脇に併設してあるコインランドリー付近には歩いて行ける食堂が無いのに気がついた。バイクで行くと乗り降りのたびに荷物を括り付け直すので面倒で仕方ないのだ。私はかなり不精な人間で、少なくともこまめなタイプの人間ではない。そのために持っていたおにぎりとパンをかじりながらランドリーの中で洗濯の終わるまでの1時間近くを過ごす羽目になったのだった。これは自分の性格のなせる業で、自業自得だ。

洗濯が済み、ホームセンターに立ち寄ったがキャンプ用品のガスボンベが一種類しか置いてない。キャンプシーズンも9月の末となると終わりかけのようだ。サトーのガスコンロと適合するのか分からないが今持っているガスボンベが使えない以上これに賭けるしかない、と800円ぐらいで購入した。朝晩の自炊料理はせめて温かいものが食べたいものだ。これでもう不足はないはずだ。

次の経由地に「道の駅ウトロ」をカーナビにセットして斜里町を後にした。よくよく見渡してみると斜里町は海岸線の延長のような平たい街である。山はないし坂道もほとんどない街だ。オホーツク海にもし津波が押し寄せたら壊滅的な打撃を受けることになるだろう。いや、斜里町だけではない、北海道のほとんどの主要な町は海岸線にあり、釧路、苫小牧、室蘭から函館も港を主体として発展した町は津波に対し危険この上ない場所にあると言える。津波が起こらないことを祈るばかりだ。

走っていると「オシンコシンの滝」が右側に見え、まもなく「道の駅ウトロ」に着いた。土産はさっき斜里町で買って送ったばかりでどんなものがあるのか見て歩くと海岸線で午前中に見かけた釣りあがったばかりの鮭、それと同じ大きさのものが5000円で売られていて、なるほどそれだけの価値があるのかと思った。

これから先は「知床縦断道路」である。鹿やクマが出ても何ら不思議ではない峠だ。霧が気になった。これまで何度かこの峠を走ったが頂上近くになると周囲は雲の中に入ったと同じガスで覆われた世界に豹変するのだ。視界が悪くなり、突然動物が目の前に出て来ると衝突する恐れがある。10分も走ると標高が高くなり次第にガスが掛かり始める。スピードを落とさないと、と万が一の場合を考え慎重な走りになる。頂上駐車場に到着すると数分ごとにガスが覆って景色が霧の中に囲まれ、と思うと次には霧が消え去り、を繰り返していた。チラッと見えた羅臼岳は完全に雲の中だった。ここを過ぎれば下り坂で、後ろについてくる車もバイクもなく気分も楽になった。マイペースで連続するカーブを降りられる。右に左に体を傾けていると羅臼温泉に着いた。この温泉の道路を渡った向かいが今日の宿「羅臼温泉野営場」で時間はまだ3時になったばかりである。

このままさらに道を下って羅臼のコンビニで酒やつまみ、食べ物を調達してこようと思った。テントを設営するのはその後で良い。いちいち乗り降りするたびにバイクに跨る準備をするのが面倒なのだ。7、8分も走るとコンビニ「サンクス」にたどり着きいつものようにビールとチューハイ、更に夜と朝の弁当二つを買い込んだ。「サンクス」は北海道に古くからある老舗のコンビニで弁当類はかなりうまい。ハズレがないと言っていいくらい何でもおいしい。-------私の乗っているスズキVストロームは250ccの割に大柄の車体で、この日のようにコンビニで買った食料を積むのにも余裕があった。皆さんが絶賛するように荷物を積める長所を持っているバイクだ。ヤマハの「ボルト」から乗り換える時、このバイクに決めた理由の一つも積載量だった。購入後、自分なりに工夫して後輪両サイドには自家製サイドボックスを取付けていた。ボックス片側には登山靴、もう片側には雨具や充電器具セットを入れている。リヤには容量60Lのボックスを取付けキャンプ用品をすべて納めている、更に防水加工のしてあるオルトリーブ製のバッグを括り付け着替えなどホテルに持ち込む荷物を収納している。これだけ旅用の荷物を積み込めると不満はない。この装備で高速道路を時速100Km前後で走り続けても特に問題ない走りを見せてくれたのだから、改めてよいバイクだなと思うようになった。

「羅臼温泉野営場」入り口は、羅臼方面から坂を上って向かうと逆ヘアピンカーブに入るようなかなりの鋭角で進入することになる。しかも道は狭く登り坂も急である。路面に車のバンパーが擦ったのだろう擦り傷跡が何か所かあって、慎重にハンドルを切って行かないとコケそうな坂道だ。幸いキャンプ場から下りてくる対向車もなく無事にキャンプ駐車場に着いた。駐車場の端にバイクを停め、荷物を下ろすと車体カバーで覆った。夜露で朝になるとバイクが雨に濡れたようにびしょ濡れになるのが目に見えるようだった。受付を済ませると利用料金は500円だった。安いがちゃんと水洗のトイレは付いているし屋根の付いた水場もある。一輪車にリヤボックスと手荷物バックを積むと選んだキャンプ区画に向かった。一輪車を押しながら周囲を眺めるとキャンプ場内に鹿が3頭うろついている。ここはキャンパーと野生の鹿とが一体になったキャンプ場のようだ。人が近づいても鹿は逃げようとしない。人に触られる距離になると体をかわす程度でかなり人間慣れしているようだ。

 

 

後にこの鹿との距離感は深夜になって身に染みて分かることになったのだが、その晩深夜2時ごろテントのすぐ外1メートルほどの手を伸ばせば届くような頭の近くで不意に「バリバリ」と音を立てて草を食む音がして目が覚めた。鹿がテント脇の草を食べている音だ。テントには人がいるのでクマは人を恐れ寄ってこない、と鹿が安心しているのだろう。いわば鹿と人との共存空間になっている。------明け方周囲には鹿の放った真っ黒いころころした糞が至る所に落ちていた。

 

バイクで到着した午後、野営場にテントを設営すると歩いて坂を下った。向かうのは道路を渡った先にある「熊の湯温泉」である。テントから歩いて数分の近さで周囲はまだ十分に明るい時刻だった。この温泉に入るのが今回の旅の目的の一つでもあったが、どうもかなりの高温の温泉らしい。漁師の人たちが主になって自主的に運営し一般の人にも開放されている露天風呂だ。ただしマナーが悪い利用者には直ちに古参の利用者から注意の言葉が浴びせられる。下半身を最初によく洗いもせずいきなり湯に入ったり石けんをよく洗い流さず湯に入るなど、つまりはみんなで温泉をきれいな状態に保とうとしない者は荒々しい漁師言葉の注意が浴びせられる。しかしこれは考えてみれば常識的な話であって誰もが守るべきマナーなのだ。これまでの利用者の中には自分さえよければ他人のことはどうでもいいという身勝手な利用者がいたことの裏返しでもある。川に掛かった橋を渡り階段を下りていくと女湯と男湯が隣り合わせにあってここは混浴ではない。ちゃんと男女の仕切りがあって脱衣カゴ、手桶が用意されている。脱衣棚の上に小さな箱が置いてあったので協力金として200円を入れさせてもらったが管理人がいるわけではない。あくまでも自主的な気持ちの問題だ。裸になってタオルだけ持って入ろうとすると後から来た人が「おい、ここにある桶を持って入りな」と注意してくれたので、風呂場に手桶が置いていないのが分かって助かった。温泉によってそれぞれシステムが違い、2日前の白銀温泉では湯船の脇に手桶があって共同利用するようになっていた。7~8人が入れそうな湯舟は周囲がコンクリートで固められ、赤い火照った肌を冷ましに周囲に座り込んでいる人が多い。漁師仲間が多いようで互いに大きな声で話に花を咲かせている。ここは一種の社交場であり情報交換の場なのだ。

私は十勝岳に湧き上がる自然の白銀温泉の経験があったので、まずは手桶で二度三度と湯を身体にかけ温度を確かめた。熱いのは熱いが「アチチッチ」と言うほどの熱湯ではない。脇の下、股の間にも何杯か手桶でお湯をかけ流し、タオルでこすり、そしてまたお湯をかけてゆっくりと湯船に入ると何とか我慢できる温度である。白銀温泉の熱湯の風呂と一般風呂の中間の温度と言った感じだ。それでも44度か45度はある気がする。30秒ほど身体を沈め、我慢が出来なくなると外に出て体の火照りを冷ました。身体が熱さを忘れ涼しく感じるようになるころ又入る、を繰り返した。地元の人たちはほとんど顔馴染みなのだろう「おお、しばらくぶりだな」「昨日は漁に出たのか」など老いも若きも仲間のようだ。火照った体でテントまで戻ると缶ビールを喉に流し込んだ。

テントから10メートル先には、何日か泊まり続けている様子の同年代のキャンパーがいた。テントの上を覆うタープ(シート状の屋根)を広く張っていてベテランキャンパーの雰囲気を醸し出している。テントの軒先迄も屋根が覆っているので雨が降って来ても気にせずに調理が出来そうだ。チョロチョロ燃えている焚火、缶ビールの載ったテーブル、ゆったりとした椅子がありランプが周囲を照らしている。一方でタープを持たないテントだけの私は空間に余裕はなく出入り口のほんの少しだけが夜露を凌ぐだけだ。荷物を全てテントの中に入れておかないと夜露で濡れてしまう。キャンプ場に来てみるといろいろな生活の知恵を皆さん持っていることに気がつく。話してみるとこの人はテントをここに張って3日目だという。魚を近くで買って来てはキャンプ場で調理し、焼いたり干し魚に加工したりと毎食を楽しんでいる様子だ。見回してみるとこの夜、私の周囲には10張前後のテントが立てられていたがこの人のようにタープを張って住み心地よく過ごしている人が何人かいた。旅のベテランの人もいればキャンプ場が長期生活の場になっている人もいる。

 

この晩、夕食の支度にお湯を沸かそうと今日買ったばかりのガスボンベをサトーのバーナーに取り付けようとしたが何度やってみてもやはりボンベがセットできない。合わない。どうもサトーのガス器具には専用ボンベが必要らしい。やり方が間違っているのか、念のためさっきの人に尋ねると「専用ボンベじゃないと合わない構造になっているみたいですね」と言い「よかったら余分に用意しているのでこれ使ってみてください」と小さなガスコンロを貸してくれた。それはイワタニ製の卓上ガスコンロのミニチュア版である。好意に甘えて使わせてもらったが火力も強くお湯はすぐに沸いた。ミニラーメンをみそ汁代わりに弁当も加え夕食としたが食事に温かいものがあるとどんなに体がほっとするかが改めて分かるのだった。

後日談になるがこのサトーのガス器具はよく注意書きを読んで見ると指定のガスボンベがありそれを買って試してみると確かに使用することが出来た。ちょっと見ただけではガスの缶はどれも同じと判断しがちだが差込にネジの付いてあるものとネジのないもの、形状の違うもの、と微妙に違いがあった。失敗は後の良い教訓になるが、あらかじめ試していれば失敗は起こらなかったものを、と反省した。

 

翌朝5時になると再び温泉に向かった.温泉に入るには朝は掃除があるので7時過ぎからと注意書きがあったが「キャンプ場を利用している方でお手伝いできる方は協力してください」と脱衣場に書いてあった。温泉のお世話になったのだから風呂掃除くらい手伝おうという気になっていた。掃除が終わった後に一番風呂に入れたらいいなと念のためタオルも持っていた。橋には人の出入りを閉鎖するように車が一台停まっていて「清掃中につき進入禁止」の看板が掛かっていた。

私は風呂掃除にボランティアで参加するつもりだったのでロープの隙間から入って行った。風呂場に近づくと高水圧機で風呂場を「シャー、シャー」と洗う音がした。近づいてみると一人の男がビニール前掛け姿で高圧スプレーを片手に露天の湯船やら床を清掃中であった。私が近くに来ても水の弾ける音で気づかない様子で、ふとした瞬間にチラッとこちらを見るとビクッリした表情で手を休め「なんだ?ここは掃除中で入れないぞ」と大きな声でたしなめるように言う。一般の利用者と思ったらしい。「いや、掃除の手伝いに来たんです」と言うと「はぁ?」と驚いた顔でこちらを見る。「昨日風呂に入りに来たら、壁に協力する人は手伝ってくれと貼ってあったので来たんです」と言うと掃除を手伝うなんて奴には今までお目にかかったことない、と目を丸くしている。冗談だろうと言った怒った顔である。「なら、その辺のゴミでも拾っとけ」ぶっきらぼうに言うと再び清掃を続けている。湯船の掃除はこの電動スプレーさえあれば一人で十分だろう。かえって周りに人がいると邪魔なのだ。私も同じ電動スプレーを持っているのでその便利さは知っていた。私は指示されたとおりに周囲の落ち葉を拾い始めた。周囲は木々に囲まれ拾っているそばから枯葉が落ちてくる。砂利の地表が隠れるほどだ。しばらくして落ち葉を両手いっぱいに拾って「これはどこに捨てたらいいですか?」と男に尋ね指示されたとおりに隅に行って葉の束を捨てたが、なんだ、お前さん、まだ居たのかと言った表情である。「ここのゴミが終わったら、今度は橋のたもと迄、歩くところをきれいにしてくれ」と竹箒を渡される。10段ほどの板の階段にはここにも枯葉が積もっている。葉っぱの一枚残さずきれいにしてやろうと箒を掛けた。一番上まで掃きながら上って行き、下に戻る間にも落ち葉が降って来たが目に付く落ち葉は全て払い清めた。木目がはっきりと見える階段を歩くのは気持ちの良いものだった。風呂場に戻ると男は「男湯も今掃除が終わったところだ、今、男風呂に湯を入れ始めたばかりだ。女湯は先に掃除を済ませ、お湯を入れていたからもう一杯になる頃だ、ご苦労さんだった。あんたのように最後まで指示通りに掃除を手伝う奴はいなかった。『ゴミを拾っておけ』と言うと全員が逃げて行ったもんだが、あんたは珍しい人だ。言われたとおり手伝う奴なんていなかった」と感心している。一緒に風呂に入っていけと言うと彼は女風呂の戸を開け脱衣所で裸になると、「さぁ遠慮なく入りな、一番風呂だ」と何杯も桶で身体を洗い流し先頭切って湯船に入った。それに倣って私も風呂に入った。

 

女湯は男湯より少しだけ小さめだが二人で入るには広すぎる程だ。男は私と同年輩に見えた。頭をツルツルに剃った目玉のギョロとした迫力のある表情の持ち主でいかにも漁師らしいずんぐり体躯である。話によると風呂掃除の担当は毎日交代制で、今日は息子に昆布漁の仕事を任せ、代わりに現役を退いた自分が掃除をしに来たという。私が石鹼を持っていないのに気づくと「よかったらこれ使え」と自分の石鹸を貸してくれた。「お湯、ぬるいかな?もっと湯を入れようか?」と調整ハンドルを回した。近くに源泉が出ていてボンプでここまで引っ張っているが水で薄めないと80度くらいの熱さだという。この温泉も自分が子供の頃はもっと山の中にあったが湯の噴出量が減ったので移ったのだという。数分間よもやま話をしながら朝湯を味わった。よい経験をさせてもらった。

 

                                             

北海道へのバイクツーリングは63歳の時に始め今年で4回目になる。その都度大洗港からフェリーに乗り苫小牧港で下船し、時には時計まわり、時には北を目指し走り始めた。

 

 1回目は苫小牧から反時計回りに海岸線を一周し、途中「羅臼岳」にも登頂し悔いの残らないよう「天売島」「焼尻島」そして「奥尻島」にも立ち寄ったのだった。これが最初で最後になるだろうと思ったバイクツーリングで、10日以上かかった思い出深いツーリング旅となった。

 それがきっかけで懲りずに2回目も北海道ツーリングに出た。走るついでだ、どうせ行くなら北海道にある百名山もついでに登ってやろうと2回目のツーリングでは「旭岳」に登頂し下山道でたまたま「中岳温泉」に入れたのは幸運だった。登山道にスコップで掘られた温泉が道の脇に湧き出していて、気を付けないと見過ごしてしまう「湯溜まり」であった。脱衣所も何もない登山道わきにスコップが立て掛けてあったので「何だろう?」と水溜りに指を入れ、あっ、温泉だと気づいた。中岳温泉ってここなのかと気がついたが気を付けていないと見過ごしそうであった。

 3度目は「利尻岳」登頂を目指し、稚内港にバイクを停め利尻島に着くとテント暮らしの2泊だった。雨の中を利尻岳に登頂したのはよかったが周囲は雲に覆われ何も見えなかった。この時は一挙に二つの百名山をと欲をかき「斜里岳」も登ろうとしたが道を誤りヒグマの出そうな斜里岳の麓に入り込みバイクが立ち往生、今思い起こしても冷や汗ものの旅だった。

 この3回ともツーリング相棒はヤマハの950cc「ボルト」だった。ボルトは車重が250Kgと重い上、小回りの利かないバイクだった。ハンドルグリップの太さ、クラッチレバーの重いのも疲れの要因になっていたのだろうが一日の走行を終える頃には腕全体、指も腱鞘炎になるほど疲れるバイクだった。

 そして今回、4回目はスズキの「Vストローム250」に乗り換えての旅となった。アドベンチャータイプのバイクに乗り替えるとどんな違いがあるのか興味津々の旅だった。

 

 

 出港は2023年9月17日でバイクで大洗港に到着したのは午後4時近く、実に4年振りだった。中断していたのはコロナ禍の為である。受付窓口で以前と違っていたのは車検証を提出する必要が無くなったことだった。これは車検のいらない250ccにバイクが変わったせいかもしれない。WEBで事前に車両ナンバーを申請しておけば乗船カードとバイクの積み込みカードが自動的に受付の機械から出て来るようになっていた。

 「今回こそわが生涯で最後のバイクツーリングになるだろう」と思っていた。苫小牧からまずは積丹半島に向かい西からスタート、次に道央の十勝岳に登山しその後は網走を抜け知床半島経由、野付半島、霧多布岬へ。西から東へ横断するコースである。計画では北海道に入ってから7泊8日、往復の船中泊を加えると9泊10日の旅である。きっとこれが最後のツーリングになる、だからこれぐらいのゆったりした日程で走りたい、と思っていた。

 

 

1日目

 

 

苫小牧港到着は午後1時半だった。その後の下船の順番がありフェリーからバイクで港に降り立ったのは午後2時ちょうどだった。

この時期、ロシアのウクライナ侵略の尾が引き、ガソリンが日ごとに高くなっている時で立ち寄ったガソリンスタンドのレギュラーガソリン価格は167円/Lで大洗より2~3円安かったのは助かった。 そして積丹半島の先端「カムイタップ岬」を目指し高速道路に入ることにしたが実はVストロームに買い換えて高速道路を走るのはこれが初めてだった。ETCが無事に作動するのかも初体験でゲートでは万が一を考えゆっくり進入し無事にゲートが開くと後はアクセルを回しギヤを上げ70Km、80Kmと加速し本線に合流して行った。

これまで一般道しか走ったことが無かったので果たして250ccのエンジンだとどれくらいのスピードが出せるのだろうか、エンジン回転数もどれぐらい廻るか気になっていた。ユーチューブを見ているとVストロームは低中速向きバイクで高速道路だと辛いものがありギヤ比を高速向けに「スプロケット」と呼ばれる歯車を一段上のものに交換する人がいるのを知っていた。そうすれば同じ回転数で何パーセントかスピードが上がるらしい。----しかし私はそんなにしてまでスピードを上げたいとは思わないタイプの人間だ。せめて100Kmの巡航速度が出せればよいと思っていた。

道央自動車道に入り、前後に車がないのを確かめると80Kmから90Kmへと徐々にアクセルを回し、6速100Kmに達するとタコメーターは7800回転を指していた。

「意外にスピードが出るじゃないか」

それが最初の印象だった。ノロノロ走りで周りに迷惑をかける程ではない。高速性能はそれなりにある。試しにさらに回してみると時速110Km迄伸びるがエンジンが悲鳴を上げている様子もない。これぐらいスピードを出せれば問題ない。車体も安定している。これ以上スピードを上げると風圧で身体が揺れ、橋の上で横風に吹かれると危ないかもしれない、と無理にスピードアップしないことにした。950ccのボルトの時より高速で安定している気がする。風よけのシールドが小さい割に高速で防風効果を発揮している。こうして「札幌インターチェンジ」を通過し積丹半島に近づく頃、空が暗くなりポツリポツリと雨粒が降り始めた。「金山パーキング」に差し掛かる頃、雨雲の密度が濃くなり始めたのでバイクを停めると雨具を装着した。この時バイク停車場には関西ナンバーの若い男女3人のライダーが雨宿りをしていたが彼らは雨具の用意無しでやって来たらしく、何時になったら出発できるか途方に暮れていた。雨の中でも走る覚悟と準備が無いと駄目じゃないか、と要らぬ心配をしたが何事も最悪を想定し準備だけはしておくものだ。この後も雨は数時間降り続いた。

バイクは札幌自動車道、後志自動車道と進み余市で終点を迎えたがこの自動車道の大半が長いトンネルだった。時速70Km 制限の箇所が大半だが90Km前後で走りサイドミラーをのぞくと後続車両が列をなしている。トンネルの終わったところで左に寄りスピードを緩め道を譲ると後続車両は一斉に脇を追い越していく。ほとんどの車は時速100Km 前後で通過していく。関東だと制限速度にせいぜい10~15Kmを超えるスピードで走るかどうかだが、ここまでスピードを上げて走るのか、これが北海道の暗黙の交通ルールなのかと思いながら走り続けた。

海岸を右に見ながら「雷電国道」を走り続けるが雨は一向に止む気配がない。古平町を通過し積丹町に入ったころ周囲は薄暗くなりかけていた。やがて左側に建物が目に入りそこが予約していた宿「ニャー助のホテルん」だった。ここは数年前まで「温泉旅館北斗」の名前で営業していたがコロナ禍の影響もあり経営者が替わっていた。時刻は午後5時頃だった。今日の宿泊者としては最初の到着らしく狭い軒下にバイクを停めさせてもらうと荷物を下ろし二階の部屋に案内された。昨日は予約で一杯だったが今日は空室があるので海の見える部屋を利用くださいと山側だった予定が好意で海側に変えられていた。濡れた雨具を玄関脇に広げ内側まで濡れてしまった靴には古新聞紙を突っ込み乾燥に努めた。風呂は湯船の周囲が赤黒く染まる鉄分を含んだ温泉で24時間使用可能になっていた。

夕食の時間になり一階広間に行くと一人一テーブルが用意され毛ガニの半身と刺身の盛り合わせが用意されていた。

 

刺身はホンマグロの中トロや甘えびがメインだった。近頃の異常気象で積丹の海でもホンマグロが獲れ食卓に普通に並ぶのだという。ここで私は瓶ビールと日本酒を飲んだ。肉と野菜の小鍋や天ぷら、煮物をつまんでいると腹一杯になり1時間もすると部屋に戻り早めにベッドに入ることにした。予報では明日の朝のうちに積丹半島には雨雲が再びやって来るらしい。出来れば晴れ間の日にカムイタップ岬の先端まで行きたいが天気だけはなるようにしかならない。カムイ岬の後は十勝岳の麓にある山小屋「吹上温保養センター」にたどり着かねばならない。

 

 

2日目

 

早く目覚め天気予報を見ると午前中に積丹半島に雨雲が通過しそうだった。雨雲のやってくる前に、と朝食を少し早めて貰ったのだがいざ出発の用意をしているうちに雨がポツンポツンと落ちて来た。走り始めると雨は次第に間断なく降り始め回復の兆しはない。

カムイ岬に到着すると先に並んでいたバイク列の脇にVストロームも駐車した。バイクはバイクを呼ぶ。一種の仲間意識だ。そして雨合羽とブーツのまま岬に向かって丘を登り始める。

まだ朝の9時前なので観光バスもなく数台の乗用車があるだけで岬に向かう人もポツリポツリと人影が少ない。コース案内板を見ると岬の先端まで20分くらいで歩き着くようだ。散策コースは雨で所々水溜りになっている。突風で人が吹き飛ばされる危険があるのだろうか道の両側に頑丈な柵が続いている。台湾人観光客やヨーロッパ系の観光客もこの岬の先端まで足を運んでいる。

 

 

途中に灯台があってここが中間地点、明治の時代につくられた日本でもかなり古い灯台の一つだと説明には書いてある。見回すと360度、薄緑色「積丹ブルー」の海面だ。海風に浸食された山肌は北海道の自然の厳しさを誇示するように粗野に荒れて地層をむき出しにしている。先端に行くと数人の人が雨具で完全武装し周囲を見やっている。雨なのが惜しくてならない。晴天なら独自の色の積丹ブルーが鮮明にみられたことだろう、と岬を後にした。

 昨日と同じ道を戻ると再び自動車専用道路に入った、この頃からハンドルにつけていたカーナビの調子がおかしくなってきた。一応雨対策としてカーナビの「ゴリラ」は専用のビニールカバーで覆っているのだがどこからか雨が浸みこむのか現在位置を表示するのに時間がかかるようになっていた。下手すると走り始めて5分もかかってやっと現在位置を表示するほどだ。この時も表示に時間がかかり現在位置を示したのはトンネル続きの自動車専用道路に入ってからだった。

それにしてもVストロームは疲れの少ないバイクだと思う。シート位置とハンドル位置が関係し姿勢を正す乗車姿勢にするのが大きく関係していると思う。そのほかにハンドルが握りやすい細さであることも大きく影響している。クラッチレバーもヤマハ「ボルト」と較べ格段に軽く握れる。走行中何度も手足で使うこれらの部分の操作が実に楽なのだ。ストレスが溜まりにくいと言っていい。なるほど長距離にマッチしたオートバイだなと改めて気がつくのだった。そのほかに、今回ひょっとして使わずに終わるかもしれないと思っていたがグリップヒーターが役に立った。高速で走っているとどうしても向かい風に晒され、Vストロームにはグリップカバーがついているとは言っても風が巻き込んできて手先部分が冷えてしまう。次第に指先が冷たくなるのに気が付きヒーターのスイッチを入れる機会が何度かあった。多分、高速走行をしなければあまり必要はないかもしれないがグリップヒーターを付けていてよかった、やはり万が一に備え準備だけはしておくものだ。

道央自動車道「旭川鷹栖」インターチェンジで降り一般道に入ったのは午後2時過ぎだった。富良野国道を走り「美瑛」を通過、途中のコンビニで夕食と翌日の朝食、昼食とまとめ買いし、懐かしい「青い池」前を素通りして「吹上温保養センター」に着いたのはまだ明るい午後4時を少し過ぎた時刻だった。

 

 

一応、事前に宿泊予約する時にネットで調べていたのでどんな山小屋なのか知ってはいたが現実の建物は写真よりはるかに立派な建物だった。何と言っても温泉の設備が今まで泊まったどのホテルより大きな造りで露天風呂も併設され豊富な湯量が際立っていた。自然に湧き上がる源湯を利用するとこうも違うものかという迫力さえ感じられた。宿泊部屋に案内され、ゆったりした2段ベッドが左右4組並んでいて、フェリーに乗っていて利用した2段ベッドより余裕のある空間だった。これぐらいの広さがあれば個室に泊まらなくても不自由はない。カーテンでちゃんとプライバシーも保たれる。これで素泊まり3100円と言うからかなり安い。温泉は入り放題、トイレは水洗のウォッシュレット、スリッパの使用は禁止なので足音もほとんど聞こえない静かさだ、といっぺんに気に入ってしまった。洗濯機も有料だが2セット揃えてある。食べものだけ待ちこめばよい。その食べ物も素材をもってくればしっかりした広いキッチン、冷蔵庫が備えられていて食器、調理器具付きで料理可能となっている。これほど充実しているとはと改めて公共の建物の充実ぶりに感嘆詞を連発したものだった。缶ビールも自販機で適当な価格で売っているし冷凍食品も自販機で売っていて備え付けの電子レンジでチンすれば五目焼きそばでもピザでも食べられる。

 

3日目

この日は今回のツーリング旅で一番の目的にしていた十勝岳を登る日だった。ツーリングの間に十勝岳登山である。管理人に尋ねると、ここからだと一旦アスファルト道路を4Km行き「望岳台」と言うところから登り始めるのが良いだろうとの話だった。しかし私はバイクなのでヘルメットやバイクスーツ、バイクシューズと余計な装備が多く荷物を積むのが簡単ではない。「望岳台」に立ち寄らず直接行く道はないかと尋ねると、登山道にここから合流する道があるにはあるがそのルートだと途中に沢を渡る箇所があり道を間違える場合もあり安全を考えるとやはりアスファルトの道で行った方が良い、時間もそんなに違わないと気遣ってくれる。

----私は忠告に従うことにした。昨日バイクでやって来た舗装道を約4Km今日は歩いて戻り始める。周囲は人の気配も人家も何もない自然の中を突っ切るアスファルト道路である。いつクマが出てもおかしくない。クマ除けの鈴を持っていないので大きな声を出し鼻歌を歌いながらステッキの音を響かせ歩いた。やがてY字路があり「望岳台」の標識が見え建物にたどり着くのに1時間が経っていた。ここまで歩いている私の脇を数台の車が行き来したが山小屋からここまで歩いてくる人は他に居なかった。

「望岳台」は「十勝岳を望む見晴台」と言う意味だろう、勾配の先に雨雲を背にして十勝岳がそびえている筈なのだが曇天で十勝岳の中ほどから上は雲にすっぽりと包まれている。全体の山の形が見えない。建物の中には十勝岳近辺の地形図が床に大きく描かれているのでコースが確認できる。

 

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トイレを済ませペットボトルを2本買って出発した。ここでは登山者は設置された箱の中に登山届けも出すようになっていた。

前後を見回しても他に登山者がいないので「この道が登山道で間違いないはずだが」と不安をいだいたまま山に向かい歩き出す。こぶし大のゴロゴロした岩が前後を囲んでいて歩きにくいことこの上ない。山によって足元の状況はかなり違うが視線を下にしていないと歩けない石ころだらけの登山道である。

 

 

 

「望岳台」で標高930m、十勝岳が標高2077mで高低差は1147mになる。見上げると十勝岳は途中から上が雲のカーテンで覆われている。この天候のままだとおそらく頂上に登ったとしても景色は何も見えないだろう、と早くも意気がそがれてくる。楽しい、希望を持たせる要素が無いと登山はたちまち苦痛に満ちた荒行になってしまう。登るほどに風が強く感じられ、雨がポツリポツリト体に当たり始めたので岩陰に着くと雨具を取り出し上下に身に着け、ついでにと一休みしていると私より年長の細身の男性の方が下からゆっくり登って来て笑顔を見せながら追い抜いて行った。

登山のベテランの方と言うのは体形ではわからないものだ。ただ共通しているのは、常にマイペースでゆっくり歩いている人にベテランの登山者が多い。早そうではないがペースを守り無理をしないで休まず進む方が多い。この年長者もその一人に違いなかった。休憩している私に笑顔を向ける余裕がある。こちらも「こんにちは」と笑顔で返したが私はバテバテ状態だった。この数年、山と呼ばれる山には登っていない。暫くして下山してくる男の方がいたのですれ違う時「上はどうでした?周囲が見えました?」と尋ねると「いや、山頂近くの尾根で風が強くて戻ってきました」とガスの中の様子を話してくれた。山頂近くになると狭い尾根を歩くコースになるがその辺で横風が強くなる。身体が風に揺さぶられるほどなので安全を期し戻って来たという。

しばらくしてまた別の下山者がいたので同じことを尋ねるとこの男の人は「せっかく埼玉県から来ているので無理して頂上に辿り着き戻って来たが何も見えなかった。すぐ後ろを歩いている別の男の人がいたが途中で見えなくなってしまった」と心配していた。「青いアノラックを着た人ですか?」と尋ねるとそうだと言う。「その人ならさっき下りて行きましたよ。尾根になって危険を感じ引きかえして来たと言っていました」というとああ、その人だ、無事だったのかよかった、急に姿が見えなくなったのでどうしたんだろうと気にかけていたと言う。

避難小屋があったので中に入り早めの昼食にした。パンとおにぎりを食べ水分を補給したが窓から前後を見ると登ってくる人も下りてくる人もいない。天候が回復するのは午後遅くなる見込みだ。昼食を済ませ外に出ると、ガスで覆われた登山道に進んだ。初めて登る十勝岳だが、ここから先で新しい登山コースに最近変わったばかりのようだ。正面ではなく左側斜面に向かってコース案内のロープが張られていてそちらに真新しい文字の看板が行き先を誘導している。正面に向かう従来のコースで岩崩でも発生したのだろうか。山肌の襞からつぎの襞にと数百メートル横歩きをすることになった。すると周囲はガスに包まれ始め、下から見上げた時に見ていた中腹の雲に入ったようだ。シトシトと穏やかだった雨粒も大粒のものに変わり始めた。色彩も視界数十メートルの白黒の世界に変わり風も強くなってきた。斜面は次第に一方向に導かれていく気配で尾根道に収れんされていくようだ。30分ほど前に笑顔と共に追い越して行った年長の人の影は全く見えない。周囲は見通しの悪いガスと風の強さだけである。腕時計の高度計を見ると1,580mを指していた。2時間前に下から見上げた時、雨傘が山を白く覆っていたがその傘の中に入ったことは間違いない。数分登り続けたが立ち止まると「ここで中断しよう」と決断した。

 

 

 

これ以上登っても雨風が強くなるだけだ。頂上に行けたとしても景色は見えない。進むほどに危険が増すばかりでスマホで調べても天候回復の見込みはない、とくるりと向きを変え下山を開始した。危険に対する回避決断は早かった。明るい可能性が苦労の先に何も無いことが決断を早めたのだ。

さっきの避難小屋に戻るとその辺が山を覆う雲傘の境界点らしく雨はやんでいた。そのまま「望岳台」に下ろうかと思ったがまた単調なアスファルト道路を歩くより途中で左折し白銀荘コースで戻りたい、と分岐点でコースを変えた。

このコースは変化に富んだ山道で山襞を上り下りするコースや水溜りの沼地を回るコースが待ち受け、最後に音を立てて流れる沢に出ると流れの間にところどころ露出している岩に飛び移り清流を渡るコースになっていた。子供では越えられないかもしれない岩幅で、飛び石でバランスを崩すと清流に落ちてしまう危険性があるコースだ。山小屋の管理人がこのコースを勧めない理由がこの時分かった。無事に吹上温泉白銀荘に到着してみると、人間とは現金なものでこれはこれで面白いコースだったと思うのだった。

吹上温泉白銀荘に到着すると、今朝移動したキャンプ場のテントで荷物を整理した。実はこの日の朝、キャンプ場が白銀荘と目の前の近さで移動も楽なのでテント泊に変え設営を完了していた。キャンプ場にテントを張ると500円、別に温泉入場代金が350円になる。せっかくこんな場所に来たのだから自然を体験しない手はないとキャンプ場に寝床を替えていた。

十勝岳登山を中断して戻ったので時間はまだ午後の2時過ぎだった。タオルと着替えを持ち昨日の温泉に汗を流しに行こうかとも考えたが、いや待てよ、確かこの近くに昔からの自然の露天温泉があったはず、と受付の人に尋ねると200mぐらい道を左に進むとすぐわかりますよと教えてくれた。屋根も脱衣所もない男女混浴の温泉風呂だという。歩いて行くと車が4台ほど停まっている。10台くらいは駐車できそうな広場だ。簡易トイレが2基設置してあり広場からさらに林道を200m位歩いて行くと湯煙が木々の間に立ち昇り川の音が聞こえ、裸の男数人の肌がチラチラと見え隠れしている。階段を下りていくと7,8人がゆったり入れそうな風呂と3,4人が入れそうな小ぶりの岩風呂とが並んでいる。小さなベンチが湯船脇にありそれだけだ。壁もロッカーも屋根も何もない。

小さめの方の風呂は高温の湯らしく肌が真っ赤に茹で上がった年長者が岩にドカッと尻を下ろし身体を冷ましていた。まずは大きめの風呂に入ってみるとそこは適温で42度前と言ったところだ。こちらだといつまでも入っていられる温度だ。試しにと小さな温泉に入ってみようと湯船に近づくと先輩入浴者から「入る前に足を洗い流しな」と注意が飛ぶ。風呂から風呂に移動している間に枯葉や砂が足裏に付くのでそのまま入ると風呂にゴミが浮いて来る。「みんなが入る温泉は誰もがきれいに洗った体で入る事、誰もお湯を汚してはならない」これが入浴者の守る共通のルールだ。     

 

   

 

そっと湯船に足を入れてみると3秒も経たないうちに「アチチッ」と飛び出てしまった。熱めの湯の温度と言えば43度とか44度だがそのレベルではない。45、46度以上は確実にありヤケドしそうな熱湯だ。どうりで皆さん真っ赤に茹だっている訳だ。身体を慣れさせるコツはまず足や身体に何度もお湯をかけ流し足先から徐々に温度に慣れさせること。そうしないと入浴は無理のようだ。3度、4度と足先から膝にかけて温泉に入ろうとしては飛び出すのを繰り返しているうち数秒間だが身体全体を湯に慣れさせることが出来るようになった。身体の中で特に熱に敏感なのは足先から膝の部分で、5,6回目で首まで入ってみると耐えようとすれば10秒くらい耐えられる。手先、足先の末端ほどセンサーが効いている、と改めて人間の体の敏感部分を知るのだった。やがて同年輩の夫婦連れもやって来てご主人は素裸だが奥さんはタオル地の上半身を覆う入浴着を用意していて夫婦とも温泉ベテランらしい。男女の混浴は初めてだが互いに意識することもなかった。ごく自然に世間話が出来るから不思議だ

十分に温まり帰りがけの道で外国の若い男女の6人連れとすれ違った。皆さん20歳前後の若者でタオルや着替え持参である。この人たちも温泉に向かう処だった。彼らもあの熱い温泉に入れるだろうか。この、知る人ぞ知る露天風呂・吹上温泉が日本だけでなく世界でも有名な温泉になるのは近い気がした。

それまで異常気象が続き北海道でも夜に10度を下回ることはなかったはずだがこの夜、気温は急激に下がり10度以下になった。場所は北海道、季節は9月下旬、キャンプ場の標高950mとなれば寒いのは当たり前だ。昨日は山小屋の中なので感じなかったが昨日と違ってテントの中はかなり冷え込んできている。寝袋にくるまっていたが余りの寒さに雨具迄着込んで寒さをしのいだ。-----私の寝袋はモンベル製のマイナス5度まで耐えられる羽毛だがもしこれが夏用の寝袋だと身の危険を感じたことだろう。万が一に備え寒さに耐える寝袋を買っていてよかった、としみじみと感じたものだった。重ね着をすると震えも止まり眠りにつけた。

 

                                              

 

はじめに

 

「 コロナ後3年振りの四国遍路18日」を書き終えた後でハタと気付いた。-------その以前、肝心の「霊山寺」から「雪蹊寺」までの体験談をパソコンに保管したままではないか。「コロナ後」を書くなら「コロナ前」も書き残しておかねば釣り合いが取れないではないか、とブログに書き足すことにした。順番が逆になってしまったが、気がついてよかった。

 

2度目の歩き遍路

 2019年、3月も半ばを過ぎると何故か家にじっとしていらなくなってきた。春先に虫が蠢きだすように、私の心の中に

「こうしちゃいられない、行かなければ」

という風が吹き始めていた。

4月になるとますます落ち着いていられなくなった。4月の末になれば連休が重なりどこも混雑するだろう「その頃までに行ってこなければ」という義務とも焦りともつかぬものが胸の中で肥大していた。予約を取ると4月8日に四国行の深夜バスの人となった。自分の意志ではない別の何かが背中を押すような旅立ちだった。

 

 

1日目

高速バスは到着予定より早く徳島駅に到着した。コンビニで弁当を買い駅の待合室で食べていると同じくらいの年齢の男が

「お遍路ですか」

と話しかけてきた。まだ白衣は着ていなかったがお遍路と判るらしい。

「---私、初めてのお遍路なのですが経験者にちょっと教えてもらいたくて」と。そこで、私は隣の空いている席を指さし、どうぞと勧めた。

 

彼はつい1週間前に定年を迎えた男だった。再就職を考える前に自由になったこのチャンスを有効に使おうと前から興味があった四国遍路にやってきたのだという。だが遍路をするためには何を用意したら良いのか、どんな手順を踏んで参拝するのか細かいことがわからない。出来れば経験者にアドバイスをもらいたい、誰かいい人がいないだろうか、と探していたのだという。構わなければ1番目札所「霊山寺」へ一緒に行かせてもらいたいが、と申し出るのだった。

「私で良ければどうぞ」

と応え、どこから来たのかと尋ねると「夕べ、新宿から同じバスでずっと一緒でしたよ」という。私がリュックのほかに白い図多袋を持ってバスに乗り込むのを見かけ、お遍路に違いないと見当をつけていたという。

午前7時、「坂東駅」方面への列車に二人で乗り込むと彼は横に座った。発車すると私は図多袋の中にあるロウソク、線香、ライター、輪袈裟 5円硬貨の入った袋、白い納経札、般若心経の経本、この日のために書き溜めていた写経等を見せ一つ一つ説明した。

 

話しているうち彼は62歳のこの日まで独身だというのが分かった。彼は何でもホーッとうなずき冷静に見ているのだが絶えず一定の距離を置いて私に接するのだった。独身であり続ける理由が話しているうちに納得できた。常に中心になるのは自分で、他の事、それは異性でもそうだが、決して深入りしようとしないバリアーを周囲に張っていた。胸襟を開く姿が感じられない男で、それがこの齢まで彼を独身にしていた。そしてそんな性格は一生変わらないだろうと予想がついた。

 

坂東駅に着くと朝日の中を霊山寺に向かった。

「ほらっ、矢印や遍路マークが目線の高さで柱に貼ってあるでしょ。これを見逃すと迷子になりやすいんです」

歩きながら目についた遍路マークを彼に指差し、ははぁ、ふんふん、と彼はうなずいた。何だか、彼に「お遍路のいろは」を教えるために四国にやってきたような気になった。一通り、参拝が済むと男とは境内で自然に別れることになった。彼は今日一日だけ歩き遍路を経験し、いったん戻って数週間後に本格的に始めるのだという。言わば一日限りの研修日であり私は講師だった。いろいろな人がいるものだ。

 

その昼、私は4番目「大日寺」に向かう雑草の茂った道を歩いていた。地図では遍路道沿いに1軒だけポツンと「うどん屋」があり、その店はすぐ近くにある筈だった。時計は昼12時を回り、朝から歩き続けていた私は腹が減っていた。

        

 

地図にあるうどん屋付近に差し掛かったが店は見つからなかった。看板を掲げてない店もあるのか、と探しながら歩いていると目の前に女遍路の姿があった。きょろきょろしている後ろ姿から私と同じく店を探していると思い声を掛けた。うどん屋さん探しているんでしょ?と。

「ええっ、さっきから探しているのですが」

と、戸惑った様子で私を振り返った女は私と同じくらいの年齢に見えた。若くないが年寄りでもない。----隣に並ぶと私は話しかけた。

「地図には載っていても実際は廃業しているかもしれません。そんな店、四国に多いんです」。以前に四国遍路をした経験から、実際には廃業した宿や食堂が数年経っても遍路地図に載っているのを知っていた。

「お寺に何か食べもの売っていますかね?」

と女の人から聞かれるが食堂のある寺、食べ物の置いてある寺はほとんど記憶にはなかった。今から向かう「大日寺」もその前後2Kmにお店は一軒もなかったはずだ。

 そんなこともあるだろうと、私は30分前、通りかかったコンビニで念のためおにぎりと菓子パンを買っていた。パンを1つとり出すと彼女に

「これは私からのお接待です。この先、1時間はコンビニも何もないので、よかったら食べてください。おにぎりもあります。さっ、どうぞ」

と勧めた。

「いえっ、とんでもない。おなかも空いていないし大丈夫です」

彼女は恐縮し断るのだが、うどん屋をきょろきょろ探していた姿を私は見ていた。私は強い口調で

「四国では『お遍路さんは接待があったら受ける』のが礼儀なんですよ」

と先輩顔で諭すように言った。そうしないと遠慮されるのは分かっていた。すると彼女はすまなそうに受け取るのだった。

「歩き遍路は車に乗りませんかと言う接待は断っても良いが、そのほかの接待は受けるべし」と言われているんです、と。

日陰も無い丁字路で、お地蔵さんの脇に腰を下ろすと私は一緒に食事を勧めさっそくおにぎりをほおばり、彼女はそれにならって隣でパンを食べ始めた。

「---実は私、今日がお遍路の初めての日なんです」

と彼女は自分のことを話し始めた。

彼女は千葉県から来た人だった。母親が昨年亡くなり長年飼っていた犬も今年になって死に、その供養をしたくてお遍路にやってきたのだと言う。

「私はこの3月に67歳になったばかりです」

と自己紹介すると彼女は

「あら、同じ齢です。2月生まれなので私が1か月お姉さんになります」

年齢が判ると気安さが生まれ話が弾むようになった。

どこからきたのかと尋ねられ

「私は茨城県からです。千葉県の隣ですよ」

と言うと彼女は一瞬、じっと私の顔を覗き込みしばらく黙り込んだ。その沈黙が気になった。急に何なんだろう、茨城県と言う言葉を聞くと黙りこくって、と。

二人の会話が聞こえたのだろう、近くの家の門から奥さんが出てくるとおずおずと「あのぅ」と話し掛けてきた。

「そこでは暑いでしょう。よかったら家の中で休んでいきませんか?」

と親切に声を掛けてくれた。

朝から歩き続け、脚もくたびれかけていた。

 

コンクリートに腰かけていた私は

「ありがとうございます、ご親切に。----よろしいのですか?」

と好意に甘えることにした。女遍路に

「一緒にちょっと休ませてもらいましょう」と誘った。「接待は受けるべしと言われていますから」というと、目の前の家について行くことにした。

 

広い敷地の奥に家はあった。玄関の上がり間口に腰を下ろすと足の疲れが遠ざかる気がした。運ばれて来た温かい生姜湯は身体に浸み込んで空腹だった小腹を満たしてくれた。お茶菓子も大きなお盆に山になって運ばれてきた。

落ち着いた頃、不意に女遍路は黙っていては申し訳ないと言った口調で「私は結婚して今は千葉県に住んでいますけど、実は私も生まれは茨城県なのです」と私を見るのだった。私の反応を確かめるような話し方に違和感を覚えた。

「私は茨城県の潮来市ですよ」

と言うと彼女は一瞬ごくりとつばを飲み込み又黙りこんだ。出生の秘密を隠そうとする何か曇った表情だった。家の奥さんとの雑談中もしばらく逡巡している様子だったが、ポツンと「私の生まれは牛堀町なのです」と言い出した。

牛堀町は今では潮来市に合併され一つの市になっている。

「えっ、同郷じゃないですか!」

私はその偶然に驚いた。この時になって彼女が時々黙り込んで私をじっと見ている理由が判った。同年代の彼女にとって私は昔の同窓生の誰かかもしれない、自分を知っている同級生ではないか?と私の顔に昔の同級生の面影を探していたのだ。

 私の出生地はもともとが潮来町とは隣の町だった。潮来町に移り住んだのは成人になってからだ。小学校も中学校も高校も地元で、彼女は潮来町の商業科のある高校に通い、だから接点は全くなかったことになる。

 

 休憩を接待してくれた家を出て、二人になって遍路道を歩き始めると彼女は次のようなことを告白し始めた。

彼女には弟がいた。しかしある年、その弟が「新聞に大きく載るような事件」を起こし、それ以来家族は離散し今では故郷に誰もいないのだという。身の上話になると口をつぐんだのは弟の起こした事件のためだった。事件についてそれ以上の詳しいことは話さなかった。私にもそれ以上無理に聞き出すつもりは無かった。

互いに違う高校に進んだため、地元同士とはいえ彼女とはこの日が初対面だったことになる。単に同郷だった、と言うだけだ。

 

雑談の中で、高校時代、クラスにいた牛堀町の同窓生の名を挙げ「〇〇子さんは2年前に亡くなった」というとその顔の特徴まで言い当て「〇○ちゃん、死んだんですか?」と驚きの声を上げ、誰と誰は同じクラスだったと言うと一人一人の顔を思い出すようにうなづくのだった。つくづく不思議な縁だった。

 

この話には後日談がある。

お遍路から戻ったある日、旧牛堀町で不動産屋を営んでいる同窓生がいるので私は彼を訪ねた。

「偶然、四国であった女の人が牛堀町の出身で、俺たちと同じ齢だと言っていたが、知っている?」

私は彼女に会った経緯を話した。スマホに撮っていた写真も見せた。数十年振りの幼馴染みの容姿を見ることになったのだ。

すると彼は、土地の専門家らしく地番地図を持ち出し、その同級生の家が彼の家から50mほどしか離れていなかった、と地図ページを開き指さすと、

「----俺の、幼なじみだよ」

と詳細を話し始めた。

この女の人の弟は地元に住んでいたが、ある日、奥さんを殺し自分も自殺したのだという。同級生の名前は確か〇〇子さんと彼はいう。彼女からもらった納め札にも確かにその名前が書いてあった。

世間は広いようで狭い。彼女のお遍路は母や愛犬の冥福だけではなく弟夫婦の贖罪も願っての巡礼だったかもしれない、そう思うのだった。

 

3日目~5日目

四国の歩き遍路を始めて3日目、体力や気力を試される霊場として12番札所「焼山寺」があった。標高600mと745mの2つの山を上り下りし最後に再び700mの山を登ってやっとたどり着く寺が「焼山寺」で勾配のきつい「遍路ころがし」と呼ばれる山道が延々と続くところだった。 

 

 

朝の7時に寺の麓の宿「吉野」を出発し12番札所「焼山寺」に到着したのは午後の2時近くになっていた。7時間近く上りと下りを繰り返し脚はガクガクになっていた。寺から一時間ほど下った先にその日の宿「なべいわ荘」があった。  

        

宿に到着すると午後の3時を少し過ぎたばかりでまだ陽は高かった。山道は登るより下りが脚にダメージが加わり、玄関にたどり着くと脚や背中に疲労が蓄積していた。

部屋に荷物を置き風呂を済ませると2階の部屋から山の景色を眺めながらビールを飲んだ。周囲にはしだれ桜の木々が満開に開いて、川面に花弁がひらひらと舞い始めていた。

 

陽が落ちる頃、室内電話で夕食の知らせがあり2階から階段を下りると、たった今たどり着いたばかりの二人連れが玄関の土間にへたり込んでいた。ハァ、ハァと息も絶え絶え、精も根も使い果たした様子でリュックが二人にのしかかっていた。

「大丈夫ですか?」と私は声を掛け、見るとこの二人は前の日に昼食をとった「八幡うどん」で見かけた老夫婦に似ていた。どう見てもこの夫婦はどちらも70歳は過ぎている様子で文字通り倒れ込むようにたどり着いた瞬間だった。

 

しばらくすると夫婦は手早く風呂を済ませたらしく、浴衣に着替えて夕食の席に加わった。

「藤井寺からの遍路道、歩いて来られたんですか?」思わず私は尋ねた。

この年上に見える二人は途中までバスか電車を利用して来たに違いないと思ったのだが彼らは首を横に振り「歩いてきました」と、その顔には満足そうな笑顔があった。

 

夫婦の間にはビール瓶が置かれコップに注いだビールはすぐに空になった。夫婦は社交上手な奥さんと口数の少ない旦那の典型だった。どうしてお遍路を、と尋ねると旦那は照れた顔で、何かを思い出すようにぼそぼそと語り出すのだった。

「---1か月前に車でお遍路してたんですがね。---宿に4人の先達さんたちも泊まっていて----」ビールがのどを通る都度、旦那の口も滑らかになってきた。

その先達さんたちに夕食の席で、僕は77歳だから貴男方のように歩き遍路なんか出来ないって言ったんです。その時は連中は静かに聞き流していたんだけど、しばらくして酔いが回ってくるとその先達さんたち、僕に言うんです。

あんたさっき、77歳だから歩き遍路なんか出来ないと言ったな。俺たちはな、あんたよりみんな年上だ。80歳過ぎの人もいる。年齢のせいにするな。77歳が何だ。あんた俺よりガキだ、ひよっこだ。人に齢なんか関係ねえ。---そういわれましてね。いゃ、この齢になって叱られちゃいましたよ。

子が親から叱られ頭を掻いて反省するように、その旦那は先達さんたちから叱られ反省し、今日倒れ込むように山を越えて来たのだ。一緒に付いてきた75歳の奥さんも偉いが、恥ずかしそうに頭を掻き子供のような素直な心を持つ旦那も偉い。遍路にはいろいろな人がいる。素敵な人達に出会えた日だった。

 

翌日の4日目は、山から平地に向かって下る日となった。

最初に「なべいわ荘」から標高455mの「玉が峰」迄の険しい山道を登るのだが、上りはその最初の1時間だけで、後は淡々と緩やかな坂道を下る日だった。

---昼前の事だった。対面からきた車が私の脇に停まると助手席の窓を開け

「お遍路さん、これどうぞ」

と私にビニール袋を差し出した。ビニール袋の中にはどら焼きが1個入っていた。コンビニも無く空腹感を覚えていた私はありがたく頂き、礼を言って休憩場所を探した。

           

車からニコッと微笑んだ御婦人は、実ににこやかな笑顔を浮かべ、私の知っている誰かに似ていると思った。人懐こそうな旧知の笑顔だった。

 

 

この頃、私と歩調が一緒のお遍路さんが何人かいた。地元徳島県からの50歳代のお遍路もその一人だった。ずっと500mほど先を歩いていたが橋のたもとで休んでいた処で追いつき、このお遍路さんもさっき、どら焼きのお接待にあずかっただろうと

「さっき、『どら焼き』を接待してくれた車がいましたね」と言うと、キョトンとして

「いや、私は貰っていないですよ」と言う。

「そんな車、往き合わなかった」と。

お接待も人によって頂けなかったりするのか、私は恵まれていたな。すると、突然思いだした。「あっ、あの車に乗っていた女の人は鹿嶋市の○○さんにそっくりだ」と

10年前、仕事で営業に通っていたある工務店のおばあちゃんにその笑顔はそっくりだった。あのお遍路さんとも同じようにすれ違っていたはずなのに、なぜか私だけ「どら焼き」をもらった気になっていた、と同時に不意に胸騒ぎがしてきた。

お世話になっていたその人は元気であれば80歳になろうという齢の筈で、私が仕事を辞めて以来、消息は不明だった。人懐っこい女の人の笑顔が鹿嶋市のお世話になったおばあちゃんの顔と重なり「なぜこんなところまで会いに来てくれたのか」と胸騒ぎを覚えた。もちろんそれは他人の空似だったに違いない。しかしこの四国では、お遍路で歩いていると不思議な現象が時々起る。

その午後、ひょっとして、と言う気持ちを抑えることが出来なくなり電話を掛けた。10年ぶりの世話になった鹿嶋市の工務店さんへの電話で、電話口にはたまたま長男が出た。突然の電話と無沙汰を詫び、皆さん元気でいらっしゃるかと問うと、おばあちゃんは健康だがアルツハイマー症になりすっかり子供に還っていると云う話であった。私の胸騒ぎは杞憂に終わった。死んで目の前に現れたのではない。単に似ていただけだ。ほっとして何も考えずに再び歩き始めるのだった。       

        

                                             (途中で渡った沈下橋)


その日、4日目の宿は16番『観音寺』先の「鱗楼」という料理旅館を予約していた。普通の民宿より宿泊代が少し高かったが価格以上の素晴らしい料理が舌を楽しませてくれた。人参をすりおろしたポタージュ風スープが和食にマッチして盛り込まれ、料理人の工夫と独自のこだわりが異彩を放っていた。高い安いにはそれなりに理由がある。なるほどとうならせる料理の数々に改めて納得と満足を覚える夜だった。

                 

 

5日目、大阪から来た樋口さんという方と7時に宿を出ると最初だけ一緒に歩き始めた。この人は歩調が私とほとんど一緒の人だった。年齢は私より4,5歳若いがスピードも歩く距離もほとんど一緒でこの数日、色々な宿やお寺で一緒になっていた。

      

 

この方は、いつも他のお遍路さんの後ろを歩き、自身では地図をあまり見ないで前の人を頼りに歩いている感じだった。前の人が間違った道を行くとそれにつられて間違った方向に歩くのを見かけていた。最初の1週間はどこかで他のお遍路さんと一緒になるからいいが、室戸岬を過ぎるとそうはいかない。お遍路の数は半減し前後に誰もいなくなる。誰かの後にという甘えは通じなくなり自身の迷いと判断、決断が必要になる。

宿を出て、私は敢えて彼の50mほど後を歩き、彼が道を間違うと後ろから声を掛けて呼び戻した。丁字路や十字路の先々に印が隠れていて、それを見過ごすとあらぬ方向へ行ってしまうことを身に染みて判ってもらうのだった。二度、三度、私は後ろから声を掛け、『立江寺』を目指した。

「遍路を樋口さんに教えるため私はやってきたのか」

経験者ぶった言い方だが、この日一日、私は樋口さんの教育係りで歩いているのではないかと思われた。

 

『井戸寺』を終えた後、『眉山』を中心に右側を回るルートを通ってこれまでは『恩山寺』から『立江寺』へと向かっていたが今回は左回りの『地蔵越遍路道』を選んだ。右回りは平坦で舗装された近代的市街地が続くが『地蔵越遍路道』は通ったことがなかった。ここで樋口さんとは左右に別れることにした。歩いてみると車のとおりは格段と少なく、ところどころの峠では昔ながらの遍路ころがしに導かれる山道だった。

        

 

「法花(ほっけ)」という地名の十字路では遍路石碑の文字が風雪にさらされ何と書いてあるのか読めず、多分こっちだと左折のところを直進してしまい、しばらく歩いて不安を覚え、家から出てきた人を見つけ尋ねると間違って進んできたことを知らされた。日本人でさえ読めないのだから外国人のお遍路は読める筈もなく、さぞかし迷うことだろう。 峠を越えた後、市街地コースと『地蔵越遍路道』が結局は一つに合流することになる。

夕暮れ前、『立江寺』の手前の赤い橋を渡っていると丁度反対側から道に迷いながらやってきた樋口さんと一緒になった。到着時間はものの見事に一緒だった。

 

6日目~7日目

雨の中歩いたのは6日目だった。

前の晩、19番「立江寺」宿坊に泊まり次の宿泊先は32Km先の民宿「山茶花」を予約していた。だが19番から21番までの間に2つの山があり20番「鶴林寺」では標高500m 次の21番「太龍寺」は標高520mとそれぞれ山を登って下って、を繰り返さなければならない道だった。おまけに天気予報は昼からの雨を予測、足元をビニール袋で覆い、万全を期して午前5時に宿を出ることにした。 

          

 『立江寺』前の赤い橋を渡り、立江中学前の舗装路を歩く筈なのだが地元遍路看板は「こちらが昔の遍路道です」と言わんばかりに「遍路みち保存協力会」の発行している地図とは違う山道へと何度も導く。印があるので結局は遠回りをすることになり時間がかかってしまう。

 

 

 この日、念のために宿を2か所予約していた。雨や体調の変化からもしも「山茶花」までたどり着けない場合を考え手前の『太龍寺』ロープウェー下の民宿「そわか」にも予約していた。どちらにも事前に

「行けるかいけないか昼までに連絡します、その時は申し訳ないがキャンセル願います」と断りを入れていた。宿は午後から夕食の準備にかかるので、昼にはどちらかに予約の中止を知らせる必要があった。

        

 

20番「「鶴林寺」を打ち終え、地図と現在地を見比べ21番「太龍寺」到着が午後の1時過ぎになる予想がついた。「山茶花」には夕方には到着できるはず。ここで民宿「そわか」に断りの電話を入れると宿の人は快くキャンセルを受け入れてくれた。二股をかける予約は初めてのことだったが迷惑を掛けなくて済んだ。

 

 

『太龍寺』を打ち終え、山を下り始める頃、雨が降り始めた。ここから11Km離れた先に宿がある。うまくすれば宿の手前にある22番『平等寺』にも間に合う。

『太龍寺』から下り始めると次第に雨粒も大きくなりレインウェアーを着ていても首筋から雨が入りこんで来た。靴もぬかるみに踏み入れる都度に濡れそぼった。気分も鬱陶しくなり、夕暮れが一段と早くなる気配で「大根峠」では繁った木々が周囲を遮り、ただでさえ暗い雨空が山道をより一層暗くしていた。これ以上山道を歩き続けると足元が見えなくなる気配さえしてくる。

前を歩く青いカッパを羽織った樋口さんが雨の中に見え隠れしていたが、あとで写真を見ると樋口さんが二人重なって歩いて見える。

 

やっとの思いで峠を下り、舗装の道に出たのは夕方5時になろうという時刻だった。22番「平等寺」に近づいた頃には納経に間に合わない時刻になっていた。『平等寺』の隣に今夜の宿「山茶花」はあった。雨はますます強くなっていった。

夕方5時を過ぎて宿の玄関に全身ずぶ濡れで入ると足元にぽたぽたとしずくが流れ落ちリュックにも雨がしみていた。土間の広間に面して宿泊部屋は並んでいるのだが部屋に入るのがためらわれるほどすべてがずぶ濡れである。

すると炊事場から出てきたおかみさんは様子を見るなり

「荷物、足元に置いといてよろしい。すぐ風呂に行きなさい!」

と開口一番に言うのだった。見かけも肝っ玉母さんそのもので

「風呂で身体温めるのが先! 着替えは後!風呂場に浴衣置いているから裸の上に着て戻ればいい。荷物はその後にしなさい!風邪ひくよ!」

「一番に風呂!」

わが子に言い聞かせるように言うのだった。しかしその命令調の話し方は濡れた体を思いやっての口調でむしろ温かく響いた。遠い昔、母親に叱られた子供に戻った錯覚を覚えた。
「体温めてきなさい!」

その言葉に追われるように私と樋口さんはリュックを土間に置くと濡れた衣類のまま風呂に向かった。風呂は二人が一緒入っても余裕のある広さだった。お風呂の温かさが身体にじんわり染み渡った。

この民宿「山茶花」はお遍路シーズンを迎えると予約がとりづらい民宿として有名だった。予約が集中するのは場所的な要素以外におかみさんの人情があればこそなのかと思った。明け方まで雨は続いていた。

翌朝、食堂のテーブルには泊まったお遍路さん用に朝食のほかに接待のミカン、数種類のお菓子や飴、饅頭が大量に並べられ「自由に持って行ってください」のメモが添えられていた。雨は止んでいた。

 

この宿のトイレはお遍路さん向けの民宿としては他にない快適な装置が備えられていて、ウォッシュレットは水面が泡に覆われ清潔そのもので身体障害者が泊まっても困らないようにカーテン仕切りのバリアフリートイレも備わっていた。

「風邪ひくよ!まずは風呂に入って!!」
昨夜の濡れた体を心配する女将の言葉が蘇った。宿泊者のことを第一に考える宿だった。