はじめに
「 コロナ後3年振りの四国遍路18日」を書き終えた後でハタと気付いた。-------その以前、肝心の「霊山寺」から「雪蹊寺」までの体験談をパソコンに保管したままではないか。「コロナ後」を書くなら「コロナ前」も書き残しておかねば釣り合いが取れないではないか、とブログに書き足すことにした。順番が逆になってしまったが、気がついてよかった。
2度目の歩き遍路
2019年、3月も半ばを過ぎると何故か家にじっとしていらなくなってきた。春先に虫が蠢きだすように、私の心の中に
「こうしちゃいられない、行かなければ」
という風が吹き始めていた。
4月になるとますます落ち着いていられなくなった。4月の末になれば連休が重なりどこも混雑するだろう「その頃までに行ってこなければ」という義務とも焦りともつかぬものが胸の中で肥大していた。予約を取ると4月8日に四国行の深夜バスの人となった。自分の意志ではない別の何かが背中を押すような旅立ちだった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/7b/82/j/o0568042615315378955.jpg?caw=800)
1日目
高速バスは到着予定より早く徳島駅に到着した。コンビニで弁当を買い駅の待合室で食べていると同じくらいの年齢の男が
「お遍路ですか」
と話しかけてきた。まだ白衣は着ていなかったがお遍路と判るらしい。
「---私、初めてのお遍路なのですが経験者にちょっと教えてもらいたくて」と。そこで、私は隣の空いている席を指さし、どうぞと勧めた。
彼はつい1週間前に定年を迎えた男だった。再就職を考える前に自由になったこのチャンスを有効に使おうと前から興味があった四国遍路にやってきたのだという。だが遍路をするためには何を用意したら良いのか、どんな手順を踏んで参拝するのか細かいことがわからない。出来れば経験者にアドバイスをもらいたい、誰かいい人がいないだろうか、と探していたのだという。構わなければ1番目札所「霊山寺」へ一緒に行かせてもらいたいが、と申し出るのだった。
「私で良ければどうぞ」
と応え、どこから来たのかと尋ねると「夕べ、新宿から同じバスでずっと一緒でしたよ」という。私がリュックのほかに白い図多袋を持ってバスに乗り込むのを見かけ、お遍路に違いないと見当をつけていたという。
午前7時、「坂東駅」方面への列車に二人で乗り込むと彼は横に座った。発車すると私は図多袋の中にあるロウソク、線香、ライター、輪袈裟 5円硬貨の入った袋、白い納経札、般若心経の経本、この日のために書き溜めていた写経等を見せ一つ一つ説明した。
話しているうち彼は62歳のこの日まで独身だというのが分かった。彼は何でもホーッとうなずき冷静に見ているのだが絶えず一定の距離を置いて私に接するのだった。独身であり続ける理由が話しているうちに納得できた。常に中心になるのは自分で、他の事、それは異性でもそうだが、決して深入りしようとしないバリアーを周囲に張っていた。胸襟を開く姿が感じられない男で、それがこの齢まで彼を独身にしていた。そしてそんな性格は一生変わらないだろうと予想がついた。
坂東駅に着くと朝日の中を霊山寺に向かった。
「ほらっ、矢印や遍路マークが目線の高さで柱に貼ってあるでしょ。これを見逃すと迷子になりやすいんです」
歩きながら目についた遍路マークを彼に指差し、ははぁ、ふんふん、と彼はうなずいた。何だか、彼に「お遍路のいろは」を教えるために四国にやってきたような気になった。一通り、参拝が済むと男とは境内で自然に別れることになった。彼は今日一日だけ歩き遍路を経験し、いったん戻って数週間後に本格的に始めるのだという。言わば一日限りの研修日であり私は講師だった。いろいろな人がいるものだ。
その昼、私は4番目「大日寺」に向かう雑草の茂った道を歩いていた。地図では遍路道沿いに1軒だけポツンと「うどん屋」があり、その店はすぐ近くにある筈だった。時計は昼12時を回り、朝から歩き続けていた私は腹が減っていた。
地図にあるうどん屋付近に差し掛かったが店は見つからなかった。看板を掲げてない店もあるのか、と探しながら歩いていると目の前に女遍路の姿があった。きょろきょろしている後ろ姿から私と同じく店を探していると思い声を掛けた。うどん屋さん探しているんでしょ?と。
「ええっ、さっきから探しているのですが」
と、戸惑った様子で私を振り返った女は私と同じくらいの年齢に見えた。若くないが年寄りでもない。----隣に並ぶと私は話しかけた。
「地図には載っていても実際は廃業しているかもしれません。そんな店、四国に多いんです」。以前に四国遍路をした経験から、実際には廃業した宿や食堂が数年経っても遍路地図に載っているのを知っていた。
「お寺に何か食べもの売っていますかね?」
と女の人から聞かれるが食堂のある寺、食べ物の置いてある寺はほとんど記憶にはなかった。今から向かう「大日寺」もその前後2Kmにお店は一軒もなかったはずだ。
そんなこともあるだろうと、私は30分前、通りかかったコンビニで念のためおにぎりと菓子パンを買っていた。パンを1つとり出すと彼女に
「これは私からのお接待です。この先、1時間はコンビニも何もないので、よかったら食べてください。おにぎりもあります。さっ、どうぞ」
と勧めた。
「いえっ、とんでもない。おなかも空いていないし大丈夫です」
彼女は恐縮し断るのだが、うどん屋をきょろきょろ探していた姿を私は見ていた。私は強い口調で
「四国では『お遍路さんは接待があったら受ける』のが礼儀なんですよ」
と先輩顔で諭すように言った。そうしないと遠慮されるのは分かっていた。すると彼女はすまなそうに受け取るのだった。
「歩き遍路は車に乗りませんかと言う接待は断っても良いが、そのほかの接待は受けるべし」と言われているんです、と。
日陰も無い丁字路で、お地蔵さんの脇に腰を下ろすと私は一緒に食事を勧めさっそくおにぎりをほおばり、彼女はそれにならって隣でパンを食べ始めた。
「---実は私、今日がお遍路の初めての日なんです」
と彼女は自分のことを話し始めた。
彼女は千葉県から来た人だった。母親が昨年亡くなり長年飼っていた犬も今年になって死に、その供養をしたくてお遍路にやってきたのだと言う。
「私はこの3月に67歳になったばかりです」
と自己紹介すると彼女は
「あら、同じ齢です。2月生まれなので私が1か月お姉さんになります」
年齢が判ると気安さが生まれ話が弾むようになった。
どこからきたのかと尋ねられ
「私は茨城県からです。千葉県の隣ですよ」
と言うと彼女は一瞬、じっと私の顔を覗き込みしばらく黙り込んだ。その沈黙が気になった。急に何なんだろう、茨城県と言う言葉を聞くと黙りこくって、と。
二人の会話が聞こえたのだろう、近くの家の門から奥さんが出てくるとおずおずと「あのぅ」と話し掛けてきた。
「そこでは暑いでしょう。よかったら家の中で休んでいきませんか?」
と親切に声を掛けてくれた。
朝から歩き続け、脚もくたびれかけていた。
コンクリートに腰かけていた私は
「ありがとうございます、ご親切に。----よろしいのですか?」
と好意に甘えることにした。女遍路に
「一緒にちょっと休ませてもらいましょう」と誘った。「接待は受けるべしと言われていますから」というと、目の前の家について行くことにした。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/ae/26/j/o0568042615315379441.jpg?caw=800)
広い敷地の奥に家はあった。玄関の上がり間口に腰を下ろすと足の疲れが遠ざかる気がした。運ばれて来た温かい生姜湯は身体に浸み込んで空腹だった小腹を満たしてくれた。お茶菓子も大きなお盆に山になって運ばれてきた。
落ち着いた頃、不意に女遍路は黙っていては申し訳ないと言った口調で「私は結婚して今は千葉県に住んでいますけど、実は私も生まれは茨城県なのです」と私を見るのだった。私の反応を確かめるような話し方に違和感を覚えた。
「私は茨城県の潮来市ですよ」
と言うと彼女は一瞬ごくりとつばを飲み込み又黙りこんだ。出生の秘密を隠そうとする何か曇った表情だった。家の奥さんとの雑談中もしばらく逡巡している様子だったが、ポツンと「私の生まれは牛堀町なのです」と言い出した。
牛堀町は今では潮来市に合併され一つの市になっている。
「えっ、同郷じゃないですか!」
私はその偶然に驚いた。この時になって彼女が時々黙り込んで私をじっと見ている理由が判った。同年代の彼女にとって私は昔の同窓生の誰かかもしれない、自分を知っている同級生ではないか?と私の顔に昔の同級生の面影を探していたのだ。
私の出生地はもともとが潮来町とは隣の町だった。潮来町に移り住んだのは成人になってからだ。小学校も中学校も高校も地元で、彼女は潮来町の商業科のある高校に通い、だから接点は全くなかったことになる。
休憩を接待してくれた家を出て、二人になって遍路道を歩き始めると彼女は次のようなことを告白し始めた。
彼女には弟がいた。しかしある年、その弟が「新聞に大きく載るような事件」を起こし、それ以来家族は離散し今では故郷に誰もいないのだという。身の上話になると口をつぐんだのは弟の起こした事件のためだった。事件についてそれ以上の詳しいことは話さなかった。私にもそれ以上無理に聞き出すつもりは無かった。
互いに違う高校に進んだため、地元同士とはいえ彼女とはこの日が初対面だったことになる。単に同郷だった、と言うだけだ。
雑談の中で、高校時代、クラスにいた牛堀町の同窓生の名を挙げ「〇〇子さんは2年前に亡くなった」というとその顔の特徴まで言い当て「〇○ちゃん、死んだんですか?」と驚きの声を上げ、誰と誰は同じクラスだったと言うと一人一人の顔を思い出すようにうなづくのだった。つくづく不思議な縁だった。
この話には後日談がある。
お遍路から戻ったある日、旧牛堀町で不動産屋を営んでいる同窓生がいるので私は彼を訪ねた。
「偶然、四国であった女の人が牛堀町の出身で、俺たちと同じ齢だと言っていたが、知っている?」
私は彼女に会った経緯を話した。スマホに撮っていた写真も見せた。数十年振りの幼馴染みの容姿を見ることになったのだ。
すると彼は、土地の専門家らしく地番地図を持ち出し、その同級生の家が彼の家から50mほどしか離れていなかった、と地図ページを開き指さすと、
「----俺の、幼なじみだよ」
と詳細を話し始めた。
この女の人の弟は地元に住んでいたが、ある日、奥さんを殺し自分も自殺したのだという。同級生の名前は確か〇〇子さんと彼はいう。彼女からもらった納め札にも確かにその名前が書いてあった。
世間は広いようで狭い。彼女のお遍路は母や愛犬の冥福だけではなく弟夫婦の贖罪も願っての巡礼だったかもしれない、そう思うのだった。
3日目~5日目
四国の歩き遍路を始めて3日目、体力や気力を試される霊場として12番札所「焼山寺」があった。標高600mと745mの2つの山を上り下りし最後に再び700mの山を登ってやっとたどり着く寺が「焼山寺」で勾配のきつい「遍路ころがし」と呼ばれる山道が延々と続くところだった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/72/77/j/o0982068515315379792.jpg?caw=800)
朝の7時に寺の麓の宿「吉野」を出発し12番札所「焼山寺」に到着したのは午後の2時近くになっていた。7時間近く上りと下りを繰り返し脚はガクガクになっていた。寺から一時間ほど下った先にその日の宿「なべいわ荘」があった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/11/makoto0321-1952/6e/9c/j/o0568042615315383737.jpg?caw=800)
宿に到着すると午後の3時を少し過ぎたばかりでまだ陽は高かった。山道は登るより下りが脚にダメージが加わり、玄関にたどり着くと脚や背中に疲労が蓄積していた。
部屋に荷物を置き風呂を済ませると2階の部屋から山の景色を眺めながらビールを飲んだ。周囲にはしだれ桜の木々が満開に開いて、川面に花弁がひらひらと舞い始めていた。
陽が落ちる頃、室内電話で夕食の知らせがあり2階から階段を下りると、たった今たどり着いたばかりの二人連れが玄関の土間にへたり込んでいた。ハァ、ハァと息も絶え絶え、精も根も使い果たした様子でリュックが二人にのしかかっていた。
「大丈夫ですか?」と私は声を掛け、見るとこの二人は前の日に昼食をとった「八幡うどん」で見かけた老夫婦に似ていた。どう見てもこの夫婦はどちらも70歳は過ぎている様子で文字通り倒れ込むようにたどり着いた瞬間だった。
しばらくすると夫婦は手早く風呂を済ませたらしく、浴衣に着替えて夕食の席に加わった。
「藤井寺からの遍路道、歩いて来られたんですか?」思わず私は尋ねた。
この年上に見える二人は途中までバスか電車を利用して来たに違いないと思ったのだが彼らは首を横に振り「歩いてきました」と、その顔には満足そうな笑顔があった。
夫婦の間にはビール瓶が置かれコップに注いだビールはすぐに空になった。夫婦は社交上手な奥さんと口数の少ない旦那の典型だった。どうしてお遍路を、と尋ねると旦那は照れた顔で、何かを思い出すようにぼそぼそと語り出すのだった。
「---1か月前に車でお遍路してたんですがね。---宿に4人の先達さんたちも泊まっていて----」ビールがのどを通る都度、旦那の口も滑らかになってきた。
その先達さんたちに夕食の席で、僕は77歳だから貴男方のように歩き遍路なんか出来ないって言ったんです。その時は連中は静かに聞き流していたんだけど、しばらくして酔いが回ってくるとその先達さんたち、僕に言うんです。
あんたさっき、77歳だから歩き遍路なんか出来ないと言ったな。俺たちはな、あんたよりみんな年上だ。80歳過ぎの人もいる。年齢のせいにするな。77歳が何だ。あんた俺よりガキだ、ひよっこだ。人に齢なんか関係ねえ。---そういわれましてね。いゃ、この齢になって叱られちゃいましたよ。
子が親から叱られ頭を掻いて反省するように、その旦那は先達さんたちから叱られ反省し、今日倒れ込むように山を越えて来たのだ。一緒に付いてきた75歳の奥さんも偉いが、恥ずかしそうに頭を掻き子供のような素直な心を持つ旦那も偉い。遍路にはいろいろな人がいる。素敵な人達に出会えた日だった。
翌日の4日目は、山から平地に向かって下る日となった。
最初に「なべいわ荘」から標高455mの「玉が峰」迄の険しい山道を登るのだが、上りはその最初の1時間だけで、後は淡々と緩やかな坂道を下る日だった。
---昼前の事だった。対面からきた車が私の脇に停まると助手席の窓を開け
「お遍路さん、これどうぞ」
と私にビニール袋を差し出した。ビニール袋の中にはどら焼きが1個入っていた。コンビニも無く空腹感を覚えていた私はありがたく頂き、礼を言って休憩場所を探した。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/74/f6/j/o0568042615315380242.jpg?caw=800)
車からニコッと微笑んだ御婦人は、実ににこやかな笑顔を浮かべ、私の知っている誰かに似ていると思った。人懐こそうな旧知の笑顔だった。
この頃、私と歩調が一緒のお遍路さんが何人かいた。地元徳島県からの50歳代のお遍路もその一人だった。ずっと500mほど先を歩いていたが橋のたもとで休んでいた処で追いつき、このお遍路さんもさっき、どら焼きのお接待にあずかっただろうと
「さっき、『どら焼き』を接待してくれた車がいましたね」と言うと、キョトンとして
「いや、私は貰っていないですよ」と言う。
「そんな車、往き合わなかった」と。
お接待も人によって頂けなかったりするのか、私は恵まれていたな。すると、突然思いだした。「あっ、あの車に乗っていた女の人は鹿嶋市の○○さんにそっくりだ」と
10年前、仕事で営業に通っていたある工務店のおばあちゃんにその笑顔はそっくりだった。あのお遍路さんとも同じようにすれ違っていたはずなのに、なぜか私だけ「どら焼き」をもらった気になっていた、と同時に不意に胸騒ぎがしてきた。
お世話になっていたその人は元気であれば80歳になろうという齢の筈で、私が仕事を辞めて以来、消息は不明だった。人懐っこい女の人の笑顔が鹿嶋市のお世話になったおばあちゃんの顔と重なり「なぜこんなところまで会いに来てくれたのか」と胸騒ぎを覚えた。もちろんそれは他人の空似だったに違いない。しかしこの四国では、お遍路で歩いていると不思議な現象が時々起る。
その午後、ひょっとして、と言う気持ちを抑えることが出来なくなり電話を掛けた。10年ぶりの世話になった鹿嶋市の工務店さんへの電話で、電話口にはたまたま長男が出た。突然の電話と無沙汰を詫び、皆さん元気でいらっしゃるかと問うと、おばあちゃんは健康だがアルツハイマー症になりすっかり子供に還っていると云う話であった。私の胸騒ぎは杞憂に終わった。死んで目の前に現れたのではない。単に似ていただけだ。ほっとして何も考えずに再び歩き始めるのだった。
(途中で渡った沈下橋)
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/b1/ec/j/o0568042615315380304.jpg?caw=800)
その日、4日目の宿は16番『観音寺』先の「鱗楼」という料理旅館を予約していた。普通の民宿より宿泊代が少し高かったが価格以上の素晴らしい料理が舌を楽しませてくれた。人参をすりおろしたポタージュ風スープが和食にマッチして盛り込まれ、料理人の工夫と独自のこだわりが異彩を放っていた。高い安いにはそれなりに理由がある。なるほどとうならせる料理の数々に改めて納得と満足を覚える夜だった。
5日目、大阪から来た樋口さんという方と7時に宿を出ると最初だけ一緒に歩き始めた。この人は歩調が私とほとんど一緒の人だった。年齢は私より4,5歳若いがスピードも歩く距離もほとんど一緒でこの数日、色々な宿やお寺で一緒になっていた。
この方は、いつも他のお遍路さんの後ろを歩き、自身では地図をあまり見ないで前の人を頼りに歩いている感じだった。前の人が間違った道を行くとそれにつられて間違った方向に歩くのを見かけていた。最初の1週間はどこかで他のお遍路さんと一緒になるからいいが、室戸岬を過ぎるとそうはいかない。お遍路の数は半減し前後に誰もいなくなる。誰かの後にという甘えは通じなくなり自身の迷いと判断、決断が必要になる。
宿を出て、私は敢えて彼の50mほど後を歩き、彼が道を間違うと後ろから声を掛けて呼び戻した。丁字路や十字路の先々に印が隠れていて、それを見過ごすとあらぬ方向へ行ってしまうことを身に染みて判ってもらうのだった。二度、三度、私は後ろから声を掛け、『立江寺』を目指した。
「遍路を樋口さんに教えるため私はやってきたのか」
経験者ぶった言い方だが、この日一日、私は樋口さんの教育係りで歩いているのではないかと思われた。
『井戸寺』を終えた後、『眉山』を中心に右側を回るルートを通ってこれまでは『恩山寺』から『立江寺』へと向かっていたが今回は左回りの『地蔵越遍路道』を選んだ。右回りは平坦で舗装された近代的市街地が続くが『地蔵越遍路道』は通ったことがなかった。ここで樋口さんとは左右に別れることにした。歩いてみると車のとおりは格段と少なく、ところどころの峠では昔ながらの遍路ころがしに導かれる山道だった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/f1/4b/j/o0568042615315380429.jpg?caw=800)
「法花(ほっけ)」という地名の十字路では遍路石碑の文字が風雪にさらされ何と書いてあるのか読めず、多分こっちだと左折のところを直進してしまい、しばらく歩いて不安を覚え、家から出てきた人を見つけ尋ねると間違って進んできたことを知らされた。日本人でさえ読めないのだから外国人のお遍路は読める筈もなく、さぞかし迷うことだろう。 峠を越えた後、市街地コースと『地蔵越遍路道』が結局は一つに合流することになる。
夕暮れ前、『立江寺』の手前の赤い橋を渡っていると丁度反対側から道に迷いながらやってきた樋口さんと一緒になった。到着時間はものの見事に一緒だった。
6日目~7日目
雨の中歩いたのは6日目だった。
前の晩、19番「立江寺」宿坊に泊まり次の宿泊先は32Km先の民宿「山茶花」を予約していた。だが19番から21番までの間に2つの山があり20番「鶴林寺」では標高500m 次の21番「太龍寺」は標高520mとそれぞれ山を登って下って、を繰り返さなければならない道だった。おまけに天気予報は昼からの雨を予測、足元をビニール袋で覆い、万全を期して午前5時に宿を出ることにした。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/10/makoto0321-1952/e9/32/j/o0568042615315380479.jpg?caw=800)
『立江寺』前の赤い橋を渡り、立江中学前の舗装路を歩く筈なのだが地元遍路看板は「こちらが昔の遍路道です」と言わんばかりに「遍路みち保存協力会」の発行している地図とは違う山道へと何度も導く。印があるので結局は遠回りをすることになり時間がかかってしまう。
この日、念のために宿を2か所予約していた。雨や体調の変化からもしも「山茶花」までたどり着けない場合を考え手前の『太龍寺』ロープウェー下の民宿「そわか」にも予約していた。どちらにも事前に
「行けるかいけないか昼までに連絡します、その時は申し訳ないがキャンセル願います」と断りを入れていた。宿は午後から夕食の準備にかかるので、昼にはどちらかに予約の中止を知らせる必要があった。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/11/makoto0321-1952/fc/9b/j/o0909068215315380500.jpg?caw=800)
20番「「鶴林寺」を打ち終え、地図と現在地を見比べ21番「太龍寺」到着が午後の1時過ぎになる予想がついた。「山茶花」には夕方には到着できるはず。ここで民宿「そわか」に断りの電話を入れると宿の人は快くキャンセルを受け入れてくれた。二股をかける予約は初めてのことだったが迷惑を掛けなくて済んだ。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/11/makoto0321-1952/12/3e/j/o0568042615315380555.jpg?caw=800)
『太龍寺』を打ち終え、山を下り始める頃、雨が降り始めた。ここから11Km離れた先に宿がある。うまくすれば宿の手前にある22番『平等寺』にも間に合う。
『太龍寺』から下り始めると次第に雨粒も大きくなりレインウェアーを着ていても首筋から雨が入りこんで来た。靴もぬかるみに踏み入れる都度に濡れそぼった。気分も鬱陶しくなり、夕暮れが一段と早くなる気配で「大根峠」では繁った木々が周囲を遮り、ただでさえ暗い雨空が山道をより一層暗くしていた。これ以上山道を歩き続けると足元が見えなくなる気配さえしてくる。
前を歩く青いカッパを羽織った樋口さんが雨の中に見え隠れしていたが、あとで写真を見ると樋口さんが二人重なって歩いて見える。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/11/makoto0321-1952/6e/6b/j/o0568042615315380638.jpg?caw=800)
やっとの思いで峠を下り、舗装の道に出たのは夕方5時になろうという時刻だった。22番「平等寺」に近づいた頃には納経に間に合わない時刻になっていた。『平等寺』の隣に今夜の宿「山茶花」はあった。雨はますます強くなっていった。
夕方5時を過ぎて宿の玄関に全身ずぶ濡れで入ると足元にぽたぽたとしずくが流れ落ちリュックにも雨がしみていた。土間の広間に面して宿泊部屋は並んでいるのだが部屋に入るのがためらわれるほどすべてがずぶ濡れである。
すると炊事場から出てきたおかみさんは様子を見るなり
「荷物、足元に置いといてよろしい。すぐ風呂に行きなさい!」
と開口一番に言うのだった。見かけも肝っ玉母さんそのもので
「風呂で身体温めるのが先! 着替えは後!風呂場に浴衣置いているから裸の上に着て戻ればいい。荷物はその後にしなさい!風邪ひくよ!」
「一番に風呂!」
わが子に言い聞かせるように言うのだった。しかしその命令調の話し方は濡れた体を思いやっての口調でむしろ温かく響いた。遠い昔、母親に叱られた子供に戻った錯覚を覚えた。
「体温めてきなさい!」
その言葉に追われるように私と樋口さんはリュックを土間に置くと濡れた衣類のまま風呂に向かった。風呂は二人が一緒入っても余裕のある広さだった。お風呂の温かさが身体にじんわり染み渡った。
この民宿「山茶花」はお遍路シーズンを迎えると予約がとりづらい民宿として有名だった。予約が集中するのは場所的な要素以外におかみさんの人情があればこそなのかと思った。明け方まで雨は続いていた。
翌朝、食堂のテーブルには泊まったお遍路さん用に朝食のほかに接待のミカン、数種類のお菓子や飴、饅頭が大量に並べられ「自由に持って行ってください」のメモが添えられていた。雨は止んでいた。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20230722/11/makoto0321-1952/51/f8/j/o0568042615315380695.jpg?caw=800)
この宿のトイレはお遍路さん向けの民宿としては他にない快適な装置が備えられていて、ウォッシュレットは水面が泡に覆われ清潔そのもので身体障害者が泊まっても困らないようにカーテン仕切りのバリアフリートイレも備わっていた。
「風邪ひくよ!まずは風呂に入って!!」
昨夜の濡れた体を心配する女将の言葉が蘇った。宿泊者のことを第一に考える宿だった。