徳島県の1番札所「霊山寺」から33番「雪蹊寺」まで歩いたのは5年前だった。

 翌年、続きを始めようとした時にコロナが全世界に流行,そこで3年間中断となってしまった。結局、歩き遍路が再開できるのに4年も経ってしまった。

 

2回目の続き遍路で高知34番札所「種間寺」から51番「石手寺」まで歩いたが、この時立ち寄った「篠山(ささやま)神社」は今では秘境の地になっていた。標高1064mの篠山神社周辺に民家はなく、泊まるところも無いのでほとんどの歩き遍路は立ち寄るのを諦めているのだった。この時の遍路旅は忘れられない貴重な体験になった。

  (「コロナ後3年振りの四国遍路18日の9」に詳述)

 

そして今回の3回目で私は歩き遍路一周を完結させる予定だった。

 

今回は1か月以上前から52番札所「太山寺」から歩き始める計画を立てていた。3月下旬から歩きはじめる予定だ。

 「しかし、せっかく旅費をかけ四国まで行くのだ。気になっていた最寄りの地にも寄ってみたい」

----と思っていた。なかでも広島市には寄ってみたいと思っていた。「平和記念館」や「原爆ドーム」をテレビで毎年見るが、同じ日本人としてぜひ現地を見ておきたい、いや、義務として見るべきだと思っていた。関東に住む者にとって山陽地域は何かのついででもない限り気安く立ち寄れないのだ。

 

考えた末、四国でお遍路歩きを始める2日前に関東を出発することにした。時間に余裕を持たせれば広島に立ち寄り市内を見ることができるのだ。調べてみると、都合の良いことに広島から松山までフェリーが出ている。松山市で私の2回目の歩き遍路は去年終わっていたので広島からの船便があるのは好都合だ。数時間の船旅も楽しめる。

 

3月24日の日曜、東京から新幹線で広島駅に到着したのは午後3時だった。

私はこの時、初めて「スマートEX」なるものを利用した。「スマートEX」とは、駅の窓口や機械の前に並ばずに新幹線チケットを購入できる仕組みで、スマホがあれば活用できる。これは便利だ、文字通りスマートなやり方だと思った。

「スマートEX」を使うためには事前に①スマホに交通系ICカード(SUICAやPasmo)をセットしている。②クレジットカードをスマホにセットしていることが条件で、この2つが入っていれば新幹線改札にスマホをタッチするだけで入場できるシステムだ。改札を出る時もタッチするだけで終了してしまう。特に新幹線自由席の場合、日付だけ予約すればその日のどの新幹線に乗っても構わない。窓口で購入するより安く済み、かなり便利だ。

 

広島に到着した日は平和大通りに面した東横インホテルに泊まったが平和祈念館までは1Kmほどの距離だった。歩き遍路にとってこれくらいの距離は軽い足慣らしの距離だ。

夕暮れ時にホテル周囲を歩いてみると居酒屋や広島焼の店が何軒かあったがいずれも予約の客で長蛇の列になっていた。仕方なくコンビニでお好み焼きを買ってホテルの部屋に戻り食べることになったのだが、食事が終わりコロナウィルスを調べると検査キット上の赤線は2本から1本に減っていた。私のコロナは陰性になっていたのだ。ああ、これで胸を張って歩き遍路ができる、とやっと晴れ晴れとした気分になったのだった。

 

翌日の広島は朝から快晴だった。幅広い「平和大通り」をリュックを背負いゆっくりと歩きだしたが気を付けて街中を見ていると数百メートルごとに被爆者の記念碑があちらこちらに建っている。女学校の生徒たちの記念碑、演芸慰問で被爆した人たちの記念碑もある。被爆中心地から半径数キロ以内にこれらの記念碑が一体いくつあるのだろうと思いながら一つ一つに足を止め見ることになった。

まもなく訪れた平和記念館は朝早くから開館していた。観光客の半数近くは外国からの団体客である。入場料は大人一般200円と極めて安く、シルバー世代である私は身分証を提示するとその半額になった。ロッカー室にリュックを預け身軽になると館内を歩いたが最初のコーナーに展示されている旧広島市街地のジオラマで観光客は足を停めることになる。

        

 

 

 

原爆が投下された位置、その下に広がる街並みが最新の映像と音響効果によって鳥瞰図的に見られる仕組みになっていたのだが、日本人観光客も幾多の外国人も無言であった。その後に続く遺品展示物、手記、誰も彼も無言で見入るのだった。

 

 

 

 

この時私は、今回のお遍路で祈るのは不幸にして生を全うできなかったこれらの人々の冥福を祈ることだと思った。

 

「原爆ドーム」は「平和記念館」から数百メートルの距離だった。すべてを歩いて観て回り、電車通りに出ると偶然そこに広島焼「みっちゃん・総本店」という店があり開店時間の11時に15分前なのに早くも10人以上の行列ができていた。夕べもコンビニの広島焼を食べたがせっかく広島に来たのだ、本場ものを食べておこう、これも何かの縁だと席を予約し営業時間になるとすぐ店内に案内された。

広島焼は、お好み焼きにキャベツが山のように載せられ、そこに焼きそばが加わっているのが基本形のようだ。庶民の食べ物の代表格という感じでコストパフォーマンスのよい食材で占められている。鉄板の前で何人もの職人が手際よく焼いてくれ一種のショー的要素もある。

 

 

牡蛎入り広島焼を作ってもらったが1700円ほどだった。昨夜もコンビニの広島焼を食べていたので広島焼に私は食傷気味であった。

 

店の脇に路面電車の走る姿が見えたので

「あの路面電車は広島港に行きますか?」

と店の人に尋ねると「行きますよ」という返事だった。車両を確認し電車に乗ると20分ほどで電車は港が真正面に見える地点まで来たので私は下車した。ところが本当はそこから2駅ほど先が宇品港で手前に降りてしまったことになる。間違いに気づき速足で街を歩いたが、昼発のフェリーにはどうにか5分前に乗船することができた。

 

ゆっくりと進むフェリーは広島港を出るとまずは呉港に立ち寄り、次に松山港に向かうのだが呉港では陸上に鯨のようなずんぐりとした潜水艦が展示してあったのには驚いた。航空母艦のような海上自衛隊の艦船も沖合に錨を下ろしている。岸壁には何艘もの潜水艦が係留され、護衛艦の姿も見える。呉港は戦前からの軍港をそのまま引き継いでいるようだ。広島が日本で最初に原爆投下地として狙われた理由がそれで分かった気がした。

 

 

瀬戸内海の穏やかな波間を3時間近くフェリーで走ると夕暮れ前に松山観光港に到着した。天気は晴れ間から曇りと下降気味だった。上陸すると800mほど離れた駅まで歩き、電車を乗り継いで道後温泉駅に向かったが到着は夕暮れ時刻だった。到着してまもなく温泉街には小雨が降りだした。

 

 

 

 

道後温泉・飛鳥の湯近くのホテルに泊まった晩だった。何度か雨の降る物音に目が覚めたが深夜3時近くに突然雷が轟いた。付近に雷が直撃したような激しい爆発音だった。

雷の音に続いて激しく雨が降り始め、今日から歩き遍路を再開するというのに初日から雷雨か、と幸先の悪い予感がしてならなかった。去年の初日も出かけようとしているとテレビではその日の暴風警報と大雨注意報を流していた。

 

雨対策ウエアに身を包み、頭に菅笠をかぶりホテルを出たのは朝7時ころだった。雨の日の対策は一番にまずは足許だと私は思っている。シューズが濡れ、靴の中に雨が侵入すると靴下に水が浸み込み足がふやけ、長い時間そのままの状態で歩くとマメができやすくなる。歩き遍路にとっては足を痛めない気配りが何より大切である。去年は用具選びに失敗し初日から靴の中まで雨でびしょ濡れになり、そのまま無理して歩いたためマメの痛みに苦しむことになったのだ。

私は今回、靴の足首まですっぽり覆うゴム製靴カバーを見つけ用意していた。これがのちに救急車を呼ぶ原因となったのだがこの時点ではこの靴カバーがベストの対策だと考えていた。

このゴム製靴カバーにはしかし欠点があり、これを履くとグレーチングや鉄蓋の上を歩く時に靴底が滑りやすいのだ。靴底の滑り止めの凸凹がゴムカバーに覆われるとフラットになってしまい、滑りやすくなるのだ。出かける数日前の雨の日、傘をさしテストのために歩き回っていたが舗装道路や未舗装の路面なら問題はなかった。雨でつるつると光る鉄蓋やグレーチングにだけ注意して歩けば問題はないようだった。

     

 

 

 

51番「石手寺」から52番「太山寺」までは複数のルートがあった。

その中でも比較的距離のある南側のルートを歩こうと今回考えていた。このルートは松山大学の運動場の中を横断するコースで歩き始めてから何度か振り返ったが他に歩いているお遍路は一人も見かけない遍路道だった。この日、四国の桜はいつもより1週間は遅咲きのようで桜はほとんど見かけなかった。

雨は朝から降り続き、大粒の雨に変わると私はレインウエアーの上にポンチョを重ね着し身体が濡れるのを防いだ。しばらく歩くと少年刑務所の前を通り、右折左折を繰り返すと昨日到着した松山港の看板が路上に見えはじめた。

 

 海を背にして「太山寺」目指し坂を上って行くとゴルフ練習場が道路脇に現れその左に分岐して進む遍路道があった。坂を登ってからやがて下っていくと1番目の山門と次の山門の間の路上に遍路道は合流した。

「太山寺」は1番山門から800m先の山の上に本堂がある奥の深い寺である。参拝人はこの雨で数人しか見かけない寂しさだった。

 この参道で一人だけ歩き遍路とすれ違い、見るからに外国人の男でどこから来たのかとすれ違う時に尋ねると「フレンチ」と答える。彼の日焼けした黒い肌と無精ひげが遍路旅の長さを物語っていた。ここまで歩き通すと最低でも1か月は歩き続けているだろう。「フランスからとはずいぶん遠くの国から来たね、頑張れ」

とすれ違った。

 

その30分後だった。本堂と大師堂を参拝し、納経も済ませ次の寺を目指して坂道を下りていく時だった。2番目の山門を下りようとした時、私は石段で足を滑らせ転倒したのだった。上る時に石段を使ったので同じ石段を戻ろうと三歩ほど踏み出した時、両足が滑り私は転倒した。

 

「何?---どうした?」

 

一瞬私は何が起こったのか分からなかった。背中にリュック、頭には菅笠をかぶっていたのでこれがクッションになり背中も後頭部も石段にぶつからずに済んだのだ。杖を突いて起き上がり身体を点検すると脚にも背中にも後頭部にも痛みはなさそうだ。しかしやけに左手が痛む。階段をおり始める時、杖は左手に持ち替えていた。その左の指全体に突き指した時のジーンとした痛みが残っている。じっと左手を見た時、私は思わず叫んでいた。

「あっ、やっちまった」

杖を握った中指の先があらぬ方向に曲がっているのだ。

「指が折れた! 」

薬指と人差し指はまっすぐなのに、真ん中の中指だけ中ほどから別の方向を向いて曲がっているのだ。それを見た瞬間、血の気が引くと同時に空いていた右手で折れ曲がった指を手のひらで思わず包み込んでいた。こんな時、理屈はいらない。折れ曲がった指を右手がすかさず保護したのだ。

「---すみません、救急車呼んでください!」

石段に佇んだまま階段下にいた老夫婦に私は声をかけた。階段の下はちょうど駐車場になっていて参拝を終え車に乗り込もうとしていた夫婦がいたのだ。

転んで、今、指を骨折してしまったようだ、指が変な方向を向いている。自分で治療ができない

と窮状を訴えた。

 -----すると、この時の老夫婦の反応が妙だった。

何を思ったのかこの夫婦は二人とも、私を見上げ

えっ、それは大変!

と言うと、スマホを取り出すのではなく車の後部ドアを開け、後ろシートの掃除や整理を始めたのだった。救急車の要請をしているのに、何をしているのだろう。車に乗せて、とは言っていないのに私を乗せようと座席を整理し始めているのだ。

 何だろう、事情が分からないのかな?私の言っていることが通じないのだろうか?

そこで

救急車を呼んでください

ともう一度大きな声で言ったが

「あっ、ハイ」

と答えながらスマホを取り出す気配がない。

 

緊急事態になると人は思い込み行動をするものらしい。この夫婦にとって救急車を呼んでくれというお願いは、車に乗せてくれというお願いに聞こえているようなのだ。しかし車で病院に運ばれると一般患者扱いになり救急扱いをしてもらえなくなる。私は片手を怪我しておりスマホを取り出し電話をする余裕はなく、困ってしまった。私のすぐ後ろから石段を降りて来た高齢の男の人がいたがこの人もただぼんやりこの光景を眺めるだけだった。

埒が明かないので私は3度目のお願いをした。

「救急車を呼んで欲しいんです。119番に電話して欲しいんです」

すると、老夫婦は車の整理を中止、やっと自分たちが何をすべきか理解したようで、ポケットからスマホを取り出すと119番に電話を掛けてくれたのだった。

 

 およそ10分後、救急車が到着したのだがそれまでの待っている間に私は手伝ってもらいゴムの靴カバーを外し、リュックを背中から外しポンチョを脱ぎ救急車に乗る準備を終えていた。救急車が到着すると周囲にいた3人に礼を言い72歳にして生まれて初めて救急車に乗ることになったのだった。

 

救急車に乗ると、すぐに車は出発せず容体に応じた搬送先を調べているようだった。そして数分後に

「これから松山市民病院に向かいます」

と私に告げた。

----また松山市内に戻るようだ。

私は救急車が到着するまでいろいろなことを考えていた。-----これ以上歩き遍路は続けられないだろう、と。なにしろ指が曲がっているのだ、明らかに健康な状態ではない。痛みからして全治するのに3週間以上かかる気がする。脚に異常や痛みはないので歩き続ける覚悟はあるが、指が折れ曲がり救急車を呼ぶ事態になっても遍路旅を続けるのはあまりに無茶ではないか。無謀ではないか。どうしよう。このまま続けるか、中断か、自分の中で考えが二転三転していた。

 残り16日分の宿もどうしよう?と考えていた。すべてキャンセルするだけでも時間がかるだろうが、この際仕方がない。いや、診断によっては宿泊予約を何日かずらせば済むかもしれない。いっそ、歩きだけは中止して電車、バスを使っての遍路に変えようか?等々。救急車を待っている間にさまざまな選択肢が浮かんだ。

 結局、遍路旅を続けるか続けないかは医者の診断を受けてからにしよう。

 

 運ばれた松山市民病院はJR松山駅から300m程離れた交通の便の良い所だった。私は救急隊員によって転倒のショックで他にもケガがあるかも知れないと念のため車いすに座ったまま待合室に運ばれた。救急外来のドアが開くと、そこに座っている人たちはみんな救急でやって来た人達であった。

 目の前にいる男は絆創膏を鼻に張り、目は腫れぼったく顔が異様に膨らんだムーンフェイスだった。交通事故で顔面を打ち運ばれてきたらしい。数人の家族に囲まれベンチに座り込んでいる人もいる。私も救急で運ばれて来た一人だがここに居る人たちの中では軽度の部類のようで30分以上誰からも声がかからず余りに放っておかれるので忘れられている感じがしてきた。40分ほどしてレントゲン室にやっと運ばれ指先を上から横から撮影し医者に会えたのは1時間近く経ってからだった。

 40歳前後の男性医師はレントゲンを見ると

「脱臼していますね。第一と第二関節が外れている。----それにちいさい骨のかけらが散っている。倒れた時に骨の一部が飛んだようだ」

と言う。確かに、曲がった中指の骨から離れた場所に、小さな骨の破片が真っ白な点として写っている。一種の骨折なんだろうか?

中指はボッキリと骨が折れた訳ではなかったようだ。ジンジンとする絶え間ない痛みは、突き指の時の筋が伸びた痛みだ。筋や靭帯が伸びきってしまったのだな、と私は納得した。

「小さな骨のかけらが傷口から出て来るか残ってしまうかはまだ判断できない」

と医者は言う。

 中指を見ると関節部分に傷口があり血が固まっていた。石段で倒れた瞬間、杖が中指を打撃し瞬間的に体重が掛かり、それで2か所の関節が脱臼したようだ

「脱臼している部分、どうなるんです?」

私の願いはまっすぐで正常の指に直してほしい事だ。----医者はパソコンに何やら書き込んでいたが振りむくと

「もちろん今から処置しますが」と前置きし、

「ただし麻酔の注射を打ってもそれはそれで痛いんですよ。この程度の脱臼なら麻酔無しで元に戻そうかと思いますが」と私に同意を求めるが私に異存はない。「はい、麻酔無しでやってください」と私は即座に返答した。昔、実践空手を数年間やっていたせいか肉体の痛みには慣れていた。

 

 すると医者は両手で私の曲がった左の手を包み込み、片手は手首を、もう片手は脱臼した指全体を掴むとそのまま一気に引っ張った。その間わずか5秒足らずの時間だった。2か所の関節がグイっと引っ張られグーッと伸びる感覚と痛みがあった。顎を引いて、その数秒の痛みを私はじっと我慢した。医者はまっすぐ指が戻ったか視認すると治療はそれだけで終わった。

 

 昔は突き指をしたら引っ張ってはいけないと言われていたが私のように完全に脱臼した場合は別だ。修復しなければ妙な方向にねじ曲がったまま固まってしまうのだ。治療は本当にほんの一瞬だった。

 指にステンレス製の細い板が添えられ包帯で巻いて固定するとそれで治療は終わった。その後に続く窓口での精算、地元の病院に行く時の紹介状、レントゲンを写したCDが渡され治療費5000円を払うと病院を出た。念のため旅先に保険証を持ってきたがこんなところで役に立つとは、と思わず苦笑いが浮かんだ。

 

 コンビニに立ち寄ると、待ち時間の間に仕分けしていたリュックを自宅に送ることにした。一日分の着替えと身の回り品だけ手許の小型バックにあればよい。荷物は10Kgが2Kgへとたちまち軽くなった。

 骨が一部欠けていると分かった時、お遍路旅の中断を私は決意していた。

時間は午後2時を回っていた。腹は空いているが今日は夕食まで我慢しよう。

 

JR松山駅は去年2回目の歩き遍路が終わって帰郷する時に乗車した駅だった。停まっている駅前の路面電車が懐かしく思い出された。今日はとりあえず予約していた宿まで行って一泊しようと予定を立て直していた。幸いにも予約していた宿はJR松山駅から7つ目の「伊予北条駅」から徒歩数分の場所にあった。「シーバ,MAKOTO」という温泉宿で一ヶ月以上前から予約していた。後から分かったのだが「伊予北条駅」は特急列車も停車する便利な駅だった。

 

 午後4時近く宿に着くとそれからの1時間を翌日からのホテルや宿にキャンセルの電話をかけ続けた。

 この時に気がついたがインターネットで申し込んだホテルはキャンセルもインターネット窓口から入れねばならない事だった。しかしやってみて分かったが特に外資系旅行サイトは申し込みはしやすくしてあるが解約はしずらくしてあるのだった。

 解約しようと改めてサイトの隅々を探しても解約の項目が見当たらなくしてあるのだ。または申し込みと同時に

「この予約の取り消しはできません」

と申し込みの後で通知してきているサイトがある。

 共通するのは同じホテルでも極めて安い価格で客を釣り上げる目立った広告だった。申し込みの時の画面をあちらこちらクリックし何とか解約項目に辿り着いてもキャンセルするにはそこから先は英語表記になっていたりする。

「何故今になってキャンセルするのか理由を述べよ」となっている。

乏しい英語の知識と記憶をたどり「accident」(事故があったから)と回答すると数時間後にキャンセルが受けいれられたのだった。

 その点、国内旅行サイトならほとんどのサイトが容易に解約に応じてくれた。私のように何日も前から何軒も予約を入れる人はagobaだとかの外資系旅行サイトには注意したほうが良い。

 

 この日の夕方だった。

夕食前に冷えた身体を温めようと大風呂に入っていると、サウナから出て来た老人が湯船の脇で腰を下ろし休んでいたのだが、顔をうつむくと同時に音もなく前のめりになって目の前の湯船に倒れこんできたのだった。無言で、静かに、頭から湯船にすべるように倒れこむとお湯の中で身体を回転させ、それはまるで水泳のクイックターンを見せるような回転で、ただ問題はそのまま頭をあげようとせず沈んだままだった。

湯船の向かいで頭にタオルを載せ、私と同じようにその光景を見ていた同年輩の男と私は同時に

「あっ、倒れた」

言うが早いか湯船の中でその老人を二人して両脇から助け上げていた。倒れた老人はそのあいだ気を失っていたらしく両脇を支えていないとそのまま再び沈みこもうとしていた。私はつい数時間前に怪我したばかりの包帯で巻かれた左手をかばい右手だけで抱きあげたが助け上げる時に思わず左手も使ってしまい痛さで顔をしかめることになった。

 何人か他の客も助けに来たので彼らに後を任せたが、もし数分間誰も見ていなければその老人は温泉の湯船で溺死するところだった。家庭風呂で人知れず溺死する事故が毎年どこかでおこるが現実を目の当たりにした日だった。

 

 お遍路を中断した日の最後の最後にこんな現場に出くわすとは何と奇妙なことだろう。----こうして私の3回目の歩き遍路はたった一日で終わってしまったのだが、しかしこの日の体験は私に教訓を与えることになった。

 

 人はああいう風に、ある日突然に死ぬのだ。

お遍路は春がいいと誰が決めたのだ。なぜ毎回私は春の出発にこだわっていたのだろう。生きている時、行ける時、人は自分の望むことをしておくべきなのだ。行ける時に行くべきなのだ。指が完治したら、今度は季節に関係なく秋でも冬でも再チャレンジしよう。そう考えながら翌日新幹線の人となったのだった。