子供の頃からの私の友が死んだ。葬式は昨日だった。満72歳、享年73歳。

 

 彼と私は同じ町の生まれで、幼稚園から小学校、中学校、高校までずっと同じだった。大学では彼は土木に、私は文科系の大学に進路は別れたが大学生になっても彼は東京の私の下宿に年に何回か来たものだった。酒の酔いを知るようになると安酒を飲んでは大人の議論をするようになっていた。

 

 大学を卒業すると私は船乗りになった。その当時、21歳の私は思うところがあって人や世間に対し背を向け、大学4年になっても就職の事は考えようとしなかった。人や世間と断絶しそれでも生きていられる所は無いか考えていた。一時はどこか山奥の炭焼き人にでもなろうかと考えていた。炭焼きなら世間とかかわりを持たず山の中でひっそり生きて行けるに違いないと本気で考えていたのだった。

 

 そしていよいよ大学4年の夏が終わろうとする頃、私は船乗りになる決心をした。山でなく海を選んだのだった。

 船に乗って海を見ていれば何もかも忘れられるに違いないと思っていたからだった。そして私は船員となり横浜港から日本を離れ、ある時は貨物船に、ある時は冷凍貨物船に乗り北はロシアから南はインドまで3年間に11か国を船員として廻ったのだがこの初めて船に乗り込む日、彼は横浜まで見送りについて来たのだった。

 年に何度か船乗りに特有の1か月以上の長い休暇が与えられると、私は免税ウィスキーやブランディ―を持ち帰りその都度彼や友人たちを呼び屡々飲み明かしたものだった。

 

 やがて数年後、私は船員を辞め地元に戻り陸の仕事に就く事になったのだが、船を降りてぶらぶらしている時、たまたま彼の兄貴からある会社で人を探していると紹介を受け面接に行ってみると採用され、それ以降35年間もその会社に務めることになったのだから人と人との縁は不思議なものだ。後に、結婚式では互いに招待しあい子供が出来ると家族同士で交流するようになった。そんな間柄は40歳代、50歳代になっても続いた。

 彼の人柄は一言で言えば人間は善であり他人は信じられるという性善説であった。穏やかでおっとりとした寛容さが基調にありそれに対し私は性悪説で人を見る人間で彼とは性格が真逆なところが多い。それなのに友として長く付き合っていられたのは昔から彼とは気心の知れた幼馴染であることと、彼は人を信じやすく他人に対し思いやりをもって接する人物だったからだ。言葉は悪いが彼は「バカ」が付くぐらいお人好しの面があった。

  

 私は定年を機に60歳代に入って会社と言う表舞台から下りたが彼はその年齢になると個人自営業者となって仕事を続けていた。

「自由になった」と定年になり私が喜ぶと

「自営で仕事していると休め無くて大変だ」

会うたびにそう言って彼はボヤくのだった。しかしそう言う彼の姿は可哀そうであり反面で羨ましくも感じるのだった。暇なら暇なりに忙しいなら忙しいなりに人は自分にないものを羨ましく思うようになるものだ。

 

 60歳代になって5,6人だけの高校の時の小さな同窓会を東京で何度か開いたが、この何回目かの時、彼は前後不覚の酩酊状態になった。気心の知れた仲間と会い気分がいいのだろうウィスキーを何杯もストレートで流し込み帰りの御徒町駅では酔いが回り誰か付き添わないとホームから落ちてしまいかねない千鳥足になっていた。

「自営の仕事していると忙しくて」

のストレスがかなり溜まっているようだった。70歳近くなっても酒は強くご機嫌になっていたのだった。

 その翌日心配で私は彼に電話を掛け自宅のある茨城県の石岡駅まで無事に帰れたのか尋ねた。彼は泥酔し御徒町駅で足がもたつき通路で倒れてしまったのだが自分で起き上がろうとせず12月だと言うのにそのまま冷たい通路の上で寝ようとする有様だった。あまりの泥酔振りに○○と言う友人の一人は御徒町駅から上野駅まで彼を連れて行き、列車シートに座らせると付近にいた人に

「石岡駅に着く前に彼を起こしてやって欲しい」と頼んだほどだった。

 受話器の先には彼の無事な声があり私はほっとした。この時、私は彼に前夜の様子を伝えているうち周りがどんなに心配していたか次第に腹が立って、あんな飲み方をするなと説教調になっていた。前後不覚になる飲み方をしていると今に酒が身を亡ぼすぞ、周りを心配させるな。昔からの友だから心配し怒っていた。そしてそれが彼と最後に話した電話になった。その後になってコロナが流行し始めミニ同窓会も中断していたのだった。

 

 令和6年5月17日に同窓生の一人からLINEの連絡が入った。酔いつぶれた彼を御徒町駅から上野駅まで送った○○からだった。

「ご無沙汰しています。○○です。よい連絡ではないのですが●●●の奥さんから●●●が亡くなったと連絡が有りました。19日に家族葬を行い世話になった人たちには改めてとのことでした」と。

 

「死んだらお前の骨を拾いに行ってやるよ」

酒を飲むと、冗談のように言っていた言葉が72歳にして本当になってしまったのだ。とりあえず様子を聞きに行こう、と翌日自宅を訪問することにした。 

 

 彼の家と私の家は同じ茨城県内にあり車で1時間ほどの距離だった。確か以前に訪れたのは15年以上前で、狭かった路地の入口や周囲は以前とはすっかり変わっていた。自宅も外観がリフォームされ入り口で確かめないと他所の家を訪ねてしまいそうだった。

 

 玄関から出てきた奥さんは小柄な体がまた少し小さくなっていた。挨拶も早々に私は家に入ると見当をつけ一番奥の部屋に進んだ。私は廊下に上がると奥さんより先に進んでいた。キッチンには以前会った時に小学生だった長女が時を経て中年女性になり私を迎えたがその顔には彼の面影が宿していた。

 女の子は男親に似るというが彼の二人の女の子は上が父親似で次女は母親似だった。それは数十年振りに会っても同じで、娘たちも数十年振りに会う私の顔を覚えていた。

 

 部屋の奥の間には祭壇と棺が据えられ彼の写真が飾られていた。棺の窓は開いていてビニール越しに彼の顔が見えた。3年振りに会う幼馴染の顔は痩せ、顎がこけていた。数十秒彼の顔を見つめ、間違いなく彼が死んでしまったことを確認すると奥さんから話を聞くことにした。

 

 彼はこの3月21日に病院に検査に行きその日のうちに入院になったのだという。半年近く前から体の不調、疲れを訴えていたが

「忙しくて病院に行く時間がない」

「病院とタイミングが合わない」

を繰り返し、やっと病院で診て貰うとすでに手遅れで診断は大腸癌のステージ4だったという。 

 家族は手術を希望したが既に手術段階ではなく手のつけられない末期になって病院に行ったことになる。家族が相談し、つくば市にある末期患者を看取るホスピスに入所が決まったが、さぁ今日がそのホスピスに移る日と言う5月14日になって病態が急変、呼びだしが掛かり病院に駆け付けた時には亡くなっていたという。私が報せを受け訪れたこの日、亡くなってからすでに5日が経っていた。

「自営で仕事していると忙しくて」

と酒を飲んでは愚痴をこぼしていた彼の顔が浮かんだ。

「バカだなぁお前は。命があっての仕事だろうに」

私は棺に向かって呟くしかなかった。

 

見送りは家族葬でするからと奥さんには言われたが、私はどうしても出席されてもらいます、と申し出た。

 

「死んだらお前の骨を拾ってやるよ」

彼とは酒を飲んでいる時にどちらともなくそう約束していたのだ。

帰り際に、私は四国88寺巡りの時に集めていたご朱印カードを奥さんに渡し、もし差支えが無いなら彼の明日の旅立ちのお守りに一緒に御棺に入れて燃やして欲しいと渡した。

「あの世に行っても、四国88寺のこのカードがあれば地獄には行かずに済むかもしれないからね」と。

 

 

 

 

 翌日の葬儀会場には奥さんと娘さん家族だけ参加し、彼の兄弟や親戚縁者は後日改めて来てもらうことにしたようだった。

 見回すと、私の他には家族以外に2組の人達だけがいたが2組とも同年輩の人たちだった。一組は夫婦連れで近所の飲み仲間だったという人のよさそうな顔立ちの人で奥さんと一緒に参加していた。もう一組は男二人で彼とは仕事上の付き合いもあるがやはり飲み友達で3人して「3人会」と言う飲み仲間を作り年に一回は泊りがけで旅行する仲間だった。結局家族と同列にさせて貰ったのは私を含めこの3組だけで参加者は13名。祭壇も質素で飾り花も最小限度のものに抑え、きっと彼が生前に葬儀内容をそのように指示していたに違いなかった。見栄や義理を嫌う彼らしい葬式だった。

 

 火葬場は葬儀場から車で15分ほどの場所だった。火葬の間に葬儀会場に戻り忌中払いがあり参加している人たちの人間関係がわかったのだが、私は運転があり酒を飲まなかったが他の人達は彼の立派な飲み仲間だったのがよくわかり、なるほど類は友を呼んでいた。

 そこに居るそれぞれの人の関係が自己紹介され彼の思い出話が披露されると私はふいに高校生の頃、彼と二人してサイクリング旅行で福島に行ったことを思い出し皆に披露したのだった。それは3日間掛かって往復した猪苗代湖の思い出の断片だった。幼い頃からの彼を知るのはそのなかでは私だけで、気がつくと奥さんも娘さんたちも興味津々の目で若き日の私の思い出話に目を輝かせ、彼の青春を共にするのだった。よい忌中払いの時間だった。義理で参加していてはこんな話はしないものだ。

 

 

 

 

火葬場に戻ると灰と骨になった彼の亡骸を二人一組になって箸で拾い骨壺に収めた。火葬場で皆さんと解散する頃、時刻は午後4時近くになっていた。2日間続いた晴天もこの夜には雨に変わるようだ。

 

「先に行かれてしまったけれど、いつか、また会おう。あばよ!!」

私はこの日、彼との最後の約束を果たしたのだった。