8日目~11日目

今回の歩き遍路では万が一に備えマット、寝袋を用意していた。

テントは「ツェルト」タイプのコンパクトサイズにしたが、マットやシュラフ一式で荷物の半分近くを占めた。歩き始めて7日目にそれを利用する日がきた。場所は「鯖大師」から3Km先の「まぜの丘キャンプ場」だった。

 

           

 

                 

この日、歩く距離は全長25Kmでそれまでのような険しい道はない筈だった。日和佐市内「弘陽荘」を出たのはゆっくりの7時過ぎだった。『薬王寺』を参拝し、アスファルトの道が続くコースになった。

 

 

途中の無人ドライブインではサルの親子が姿を現し、トンネルに差し掛かると地図に従い律儀に山を遠回りに迂回したが無人の山裾には奇怪な岩肌が荒々しく立ち並んでいた。

 

 

「鯖大師」を過ぎてコンビニに立ち寄ると早目に夕食を買うことにした。キャンプ場には食糧が置いてあるのかどうかはわからなかった。やがて16時にはキャンプ場に到着し受付で利用料、テント設営場所代1800円を支払うと設営広場に向かったがサッカー場3面ほどの広大な芝生に利用者は私一人だけだった。

「夜はテントに灯りをつけるかラジオ点けていた方がいいです」

と管理人からのアドバイスがあり、その理由を尋ねると夜中にシカやイノシシが出るので光か音でバリアーを張っておいた方が安全だと言う。

 コイン温水シャワー、水洗トイレが別棟に独立していてその近くにテントを張ったが利用者が誰も他にいないので不気味だった。夜露に濡れないようにテントの中にリュックや靴を入れると狭いツェルトの中は一杯になった。

 

 一度夜中にトイレに行ったが蛍光灯に照らされた建物には私の外に利用者はなくシカでもイノシシでも近くにいた方が淋しくないとさえ思うのだった。

 

 

 9日目は明け方5時にキャンプ場を出たが、まだ薄暗かったせいか間違った方向に

1km以上進み、この方向じゃないと気がついて戻り、と、これまでの最高記録63000歩を歩き、夕暮れにやっと「ロッジ尾崎」に着いた。海を見ながらひたすら歩きとおす日になった。

 

 

続く10日目は『金剛頂寺』宿坊までの短い距離だったが、と言っても25Kmは歩くのだが「ジオバーク」や「青年大師像」に立ち寄っての道草遍路となった。

   

 

今回のお遍路の最終日は、高知市内の寺を打ち終えた時点にしよう、と計画していた。

計算すると4月第2週から歩き始めれば連休前には高知市内に着くはずだった。高知市は区切りによい場所と計画していた。

11日目、前日に泊まった宿「唐の浜」に荷物を預け27番札所「神峯寺」を目指し朝の静けさの中を歩いていた。海岸線から標高430mの「神峯寺」までの距離は3.4Km。「まったて」と呼ばれる勾配の急な山道の先に寺は位置していた。歩き遍路にとって一直線に山に向かって登る難所のひとつだ。

「まったて」のゆるいカーブの先に一人のお遍路が歩いていた。彼のスピードは私と同じペースで30分経ってもその差は縮まりもせず離れもしなかった。やがて、彼の姿の先にもう一人の人物が見えその男はどうもお遍路とは違うようで白衣を着ていなかった。

 

大きなリュックを背負い、しっかりと道を踏みしめる足取りから背中の重さが思いやられた。しばらくするとグリーンのシャツの男は疲れたらしくリュックを外すと腰を下ろした。追い越し際に見るとリュックの後ろには黄色い細長の看板に「日本一周」の文字があった。日焼けした男の顔は若々しく、笑顔で目礼を送った。リュックの中はテントも入っているのだろう20Kg近い重さに見えた。リュックを背負ってこの坂道を上り下りするのは容易なことではない。

 

27番「神峯寺」の参拝を終えた帰りの坂道でアメリカ人遍路と歩調が一緒になった。テキサス出身の男で数日前から時々宿で顔を合わせ、行く先々の寺でもすれ違っていた。彼も前の日に泊まった宿に荷物を預けこの朝、坂道を手ぶらで上っていた。アメリカ人と言っても背丈は私より低いくらいで60歳と言うが年上に見えた。そして中学生程度の私のつたない英語に付き合ってくれるのだった。

彼が日本行きを決めたのはつい2ヶ月前だという。お遍路の地図も準備し万が一に備えテントも背負いお箸の使い方も練習してきたという。家族はどうしているのかと尋ねると奥さんは10年前に癌で、一人息子も数年前交通事故で亡くなり天涯孤独だという。淋しそうに言うので、私は彼の背中をポンとたたき、あなたの背中には二人が一緒に付いてきているよ、と言うと初めてにっこり笑うのだった。

「---お遍路の時間と金があれば、海外パックツアーに行って豪華な料理が食える。そっちの方が楽なのはわかっている。-----だけど重い荷物を背負い汗を流し苦労してこそ得られる体験や思いというものがある。歩き遍路にはどんな豪華旅行にもかなわない何かがあるよ」

日頃、歩きながら心の片隅で思っていたことが、ポロリと言葉に出た。テキサス男も無口な奴で、私の幼稚な英語に時々頷いて相槌を打っている。

「容易な道より困難な道を選んだ方が、かけがえのないものを得るんじゃないかな。そう思うんだ」

(a man should be select difficult way better than easy way、it will make us great) 」

 

と話すとミスターテキサスは

「いい言葉だね。私もそう思うよ」

とうなずくのだった。

「私の家にはベッドルームが4つもある。一人暮らしだからどれも使っていない。もしアメリカに来たら家に泊まっていきな」と彼は言ってくれた。それがテキサス男との最後の会話になった。彼は妻と息子の冥福を祈りに四国に来ていたのだろうか。

 

      金剛頂寺宿坊・オランダ人教師(左) とアメリカのテキサス男(右)

 

その晩、夜須町の民宿「住吉荘」に泊まると「神峯寺」の坂で前を歩いていた遍路、樋口さんと一緒になった。

「今日、『神峯寺』で日本一周している男がいましたね。あの男、茨城県から来ているって言っていましたよ」

私が茨城から来ているのを知ってそう教えてくれた。その晩、きっとあの男とはどこかで会うだろう、と思った。

 

 ちなみにこの大阪からやってきた樋口さんは結願を果たした晩、私の携帯に電話を掛けてきた。私が区切り打ちを終えて1か月も経った晩だった。

「-----今日、最後の『大窪寺』を打ち終えました。今、民宿「八十八窪(やそくぼ)」に泊まっている処です」

と現在地を知らせてきた。

出発して45日目でようやく結願を果たしました、という報告だった。

 民宿「八十八窪(やそくぼ)」は四国八十八寺の最終のお寺、その門前にある宿で、お遍路さんたちの結願祝いに赤飯を炊いて祝ってくれる宿として有名だ。私もその数年前、自転車で四国を回った時、暗くなって到着すると夕食を頼んでいないのに無料で赤飯や蕎麦を出していただき感激したのを覚えている。その宿からの電話だった。その声は酔いと興奮が混じって感極まっている様子だった。

「今でも思い返すと、内田さんと一緒に暗いうちから立江寺を出て、鶴林寺と太龍寺の2つの寺を超えた日が一番きつかったです。午後に雨が降りだし、峠では足もとが暗くなるし、ずぶ濡れで歩いたのが忘れられません。-----あそこを一人で歩いていたら、と思うと」というと、その日のことを思い起こすのだろう、声が詰まっていた。「----一緒に歩いていただいてありがとうございました。お陰様で無事結願しました-----」

樋口さんの喜びは私の喜びでもあった。

 

12日目~13日最終日

12日目、高知市内に入り28番「大日寺」の参拝を終えてしばらく歩いていると暑さのせいなのか疲れのせいか地図を読み間違えてしまった。29番「国分寺」へ行く十字路のところを北に向かわず東方向に歩きだしてしまったのだ。遍路印が見つけられずそのうちに出てくるだろう、こっちでいいはずだと進み、レストランに入り食事を済ませたのだが、念のために店の人に尋ねると違う方向に歩いて来た事を知らされた。3Kmの無駄足。往復を考えると大幅なロスをした事になる。注意散漫になっていた自分に落胆し道を戻りながら気力が落ちるのを感じていた。往復で1時間半は無駄に歩いたことになる。

29番「国分寺」を終え30番「善楽寺」へ向かう道で、地図の上では家並みがあるので自販機位あるだろうと油断していると持っていたペットボトルの水が底をついて来た。初夏のような暑さに、まさかこんなところで脱水症状?と危険を感じながら歩いていた。30番「善楽寺」は思ったより遠かった。いくら進んでも自販機は見つからない。目の前を通りかかった車が自宅に入るのを見つけ、車から降りた人に私は声を掛けた。

「飲み物の自販機、この辺にありませんか?」と。

しかし自販機は2Km先にしかないという。私は頭がくらくらしかけていた。

「済みませんが、水道の水、飲ませてませてもらいたいのですが」とその人に

言った。喉が乾き切ってなりふり構っていられる状態ではなかった、だからといっ

て黙って他人の敷地に入り蛇口から水を飲むと不法侵入になる。我慢し歩

いていたが喉の渇きは限度を迎えていた。

その男の人は玄関から家に入ると冷えたペットボトルのお茶を持ってきて、こ

 れ差し上げますから、どうぞ、と渡してくれた。頭は熱を帯びていた。ありがた

く受け取ると音を立てて飲んだ。冷たさが身体に一気に広まり細胞がグングンと水分を吸収していくのが分かった。ありがたかった。こんなにもうまいお茶はなかった。命のお茶だ。

       

 

礼を言い、又歩き出した。午後の4時近くになっていたが日差しは強く、『善楽寺』近くまで来ている筈だが夕暮れまでにたどり着けないのでは、と弱気になっていた。また道を間違えたら5時の納経時間までに辿り着けなくなる。---昼に道を間違えてからと云うもの、一日の歯車が狂い続けているのを感じていた。ああ、今日は厄日だ。

 

        

---午後4時半になる頃やっと私は30番『善楽寺』に着いた。参拝人は少なかった。納経を済ませ寺を背にする頃にはさすがに日差しは弱まっていた。

 

その日の宿は「サンピアセリーズ」ホテルだった。最後に参拝した30番「善楽寺」と明日の31番「竹林寺」との中間地点にあってお遍路道に面していた。

ホテルに着くと受付で私は2連泊に変更した。明日参拝を終えたらこのホテルに戻って最後の晩はゆっくり寝ようと考えていた。連泊にすれば明日はホテルに荷物も置いて歩ける。途中のコンビニで仕入れた夕食と缶ビールとで背中のリュックは満杯だった。

ああっ、やっと今日という日がこれで終わる。残るは明日の「竹林寺」「禅師峰寺」二つだけだ。たぶん、明日の午前中には2つとも終わる。それで区切りをつけ体を休められる。安心すると久しぶりのベッドで私は眠りについた。

 

 

翌日も朝から快晴だった。最後の区切りの日だ。

振り返ってみると雨具を身に着けて歩いたのはこの2週間で2日ほどしかなかった。天候には恵まれていた。連泊となるとリュックを背負って歩く必要はない。図多袋を肩に下げ参拝に必要な納経帳一式を入れて歩けば良い。リュックを背負って歩くのとなしで歩くのでは雲泥の差だ。

朝のレストランには数人の客しかいなかった。食べ終わろうとしていると外人お遍路が入って来て私の後ろのテーブルに座った。

そのオランダから来た青年は39歳の高校教師で歩き遍路をしていた。教師らしい聡明そうな青年で北欧人にしては小柄なのだろう背丈は私と同じ位だった。

「『お遍路』は海外では有名ですよ」4日前に26番「金剛頂寺」の宿坊で一緒になった時、夕食の席で彼はそう語った。その後も彼とは何度かすれ違っていた。

私は食事を済ませると後ろの席を振り返り「その席に座ってかまわない? 」とオランダ青年に尋ねた。

「お遍路を何度か経験しているので幾つかアドバイスをしようと思う。よろしいか?」

「オーっ、モチロン。アリガトウ、ドウゾ」

彼は箸をおいて目の前の席を勧め地図とメモを取り出した。

「まず、31番の竹林寺だけど」

と私は話し始めた。遍路道を歩いて行くと、ちょっと急な山道を登ることになる。その道は『牧野植物園』へ山裾から入る特別ルートだ。出口に着くと、そこは有料入り口になっていて、君はいつの間にか無料で入って歩いていた、と気が付くだろう。

 

 

だが心配することはない。一般の人は有料で入るけどお遍路は無料だ。遍路道がたまたま植物園を通過するだけなんだ。だからお金は払わなくていい。そういうと彼は「成るほど」とうなずいた。

 33番「雪蹊寺」に行くのには高知港にかかる橋を渡る方法と、渡し船と2つの方法があることも伝えた。高所恐怖症にとって高さ50m のあの橋を渡るのは大変なことだ。かくいう私が高所恐怖症で最初に知らずに渡り始めると、身体がすくんでしまったからだ。

 しかし、彼は遠回りでも橋を渡る予定だという。彼にとって歩き遍路は早さではなく日本をじっくり味わう旅であり手段だった。彼も旅の本質を知っている男だった。

別れ際「オランダから来た君のために、最後にジョークを進呈したい」

 彼はオランダ出身の数学教師なのでアムステルダムに関したジョークをふと思いだしたのだ。

 

「---ある日ある時、元気溢れる青年が両手をケガして入院した。

最初の晩、年寄りの看護婦が彼のベッドにやって来て手の不自由な彼に代わって下着を替え、タオルで身体をきれいにした後、ふと男性のシンボルに入墨(タトー)が彫ってあるのに気付いた。何が彫ってあるのか老看護婦が目を凝らすと「ams」と読める。---何のことだろう? ams って? ナースセンターに戻ると彼女は他の看護婦たちに見てきたことを報告した。

---次の日、看護婦は替わった。看護婦は美人でグラマー、若さに溢れたブロンド娘だった。前の日の老看護婦がしたように、同じように下着を替え、身体を拭いた後でナースセンターに戻ると、他のナースたちに彼女は次のように報告するのだった。

「確かにあそこにタトーが彫ってあったわ。でも、amsじゃなく、とっても大きな入墨で----」

頬を赤く染め、思い出すように言うのだった。

---そそり立つように『AMSTERDAM 』って彫ってあったわ」

 

 

オランダの教師は真面目な顔で話を聞いていたが、話し終えると天井を向いて声を出し笑いだした。英語でジョークが通じた事に満足を覚え、私は付け加えた。

「君も、ちぢこまった『ams』じゃなく元気な『AMSTERDAM』で!」

日本人だってこれぐらいのジョークは言えるのだ。その会話が彼との最後となった。

 この男からは、数週間後に写真入りメールが届いた。

「-----On the image you see my walking stick compared to a new one a Temple 1. It is now 5 cm shorter...」

        

 

        

無事結願した時の記念写真で一本の杖は新品、もう一本は彼が40数日使った杖、長さが5センチ以上短くなっていた、とある。歩き切ったお遍路だけが持つ勲章だった。

 

「おめでとう!AMSTERDAM!」

の返信を送ったのは言うまでもない。これも歩き遍路の面白さだった。

 

31番「竹林寺」では長く続く石段の上から一人のお遍路が降りてくるところだった。階段の途中ですれ違う時、私は彼の杖に見入った。杖にはツタが絡まるほどこしがしてあり既成の売り物の杖では決してまねのできない重厚さがあった。

すれ違い際に

「立派な杖ですね」

私の口から思わず言葉が出た。そのお遍路さんはにこやかに笑顔を向けコクリと頭を下げた。菅笠もひときわ大きな笠で体全体を覆うような大きさである。すれ違うその時、笠の表面が何かしら色が褪せたようなまだら模様になっているのが見えた。

私はその瞬間、3年前にすれ違ったお遍路のことを思い出した。

 

(これが3年前に鴇田峠(ひわたとうげ)を通過する時に何気なくスマホに撮った「ミヤマ」と名乗るお遍路さんの姿)

 

大洲市の橋の上で、表面を金色に染めた菅笠をかぶり雲の上を歩くようにすれ違ったお遍路がいた。その同じお遍路が数日後「大寶寺」手前の鴇田峠(ひわたとうげ)山中で一人黙々と遍路道の修復に鍬を振り上げていて、奇特な方だなと通りすがりに名前を訪ねると「お遍路のミヤマと言います」と答えた。3年前のことである。

 その人にまたこんなところで遭う訳がない。しかし菅笠に塗料の剥げかかっている跡があり、いや、そもそも菅笠に色を塗る人はまずいないのだ。ひょっとしてあの時のお遍路さんじゃないのか。確かあの時、ミヤマと名乗っていたが、しかしまさかまた会うなんてありえない話だ。もしそうだとしたら、ありえない偶然だ。

 しかし、遠ざかるお遍路さんの背中に向かって、気になって仕方が無く「お名前は?」と尋ねると、彼は階段中腹で振り返りぽつりと答えた。

「ミヤマと言います」

とあの時に答えたお遍路の同じ名前が返ってきた。私の胸はどきりとした。

 

やはりあの時の人だ。私は思わず3年前にもお見かけしたと伝え、彼はにこやかな顔でそれを聞くだけだった。遠ざかるその「ミヤマ」と言う遍路の背中を見送りながら私は慌ててシャッターを切り、弘法大師は今も歩き続けているのかと驚き奇跡だと思った。

         

何とも劇的なすれ違いだった。早朝誰も他に居ない境内の石段。中段ですれ違う2人の遍路。見覚えのある色褪せた菅笠、声を掛け確かめると3年前の同じ名前を名乗る遍路。最後の日に誰がこんな再会を演出できるだろう。何か、自分以外の何者かが時間と空間を支配し二人を引き合わせている。何なのだ、これは?

 

 その「ミヤマ」と名乗る男にも後日談がある。

3年振りのこの再会が余りに偶然なので「すれ違った男」と言う題でしばらくしてからブログに短編小説風に掲載したのだが、するとそれを見たある人から日を置かずして次のコメントが寄せられたのだ。

 

「その方は歩き遍路を109回、車遍路を50回されてます。
83歳でご高齢の為に遍路を引退しました。
持っていた杖は松山在住の人が譲り承けたと本人から聞きました。
もうミヤマさんは四国に来ることは無いと思います。ミヤマさんは深山無行と名乗ってました。
関西在住ですね」

 

どうもミヤマさんの遍路仲間が偶然に私のブログを読み、知らせてくれたようだ。-----これまでブログは私にとって独り言的な備忘録要素が大部分だったが、疑問に対し回答してくれる方がいたのには驚きだった。同時に私が会った人が決して夢の中の話ではなく現実だったことが証明された。世間は広いようで狭い。

 

 

32番「禅師峰寺」から海岸線を眺めると景勝地「桂浜」が見えた。ここで区切る予定だったが欲が出た。まだ昼前で、次の33番「雪蹊寺」までは十分に行ける距離で夕暮れにはホテルに戻れる筈だ。33番に行くには橋を歩いて渡る以外に渡し船に乗る方法があり私は今まで船を一度も利用したことが無かった。その渡船ルートを体験してみたいと思った。

 途中の食堂で昼食を済ませ強い日差しの中を歩き始め、ああ、この道を今まで歩いたことが無かったと気付いた。遍路地図には大雑把なところがあり赤い点線や赤い線が地図の道に沿って引かれているが車道なのか旧道なのか判らない所にその赤い線が入り混じっていたりする。今まで何回か通った道はすべて車道だったことに気がついた。結局、車幅の広い現在の道路は明治以降に出来た現代道路で、空海の時代、1200年前の大昔の道のほとんどは旧道か廃道になっているのだ。路地であり草深い田圃道、それが本来の遍路が通っていた道だ。

 時計を見ると午後1時だった。渡し船の出る時間は1時10分発になっていて1時間に1回しか出ない。地図を見ると丁字路を右折すると100mほどで発着場があると書いてあるが直線があと600mでとても間に合いそうもない。1時間後の便になるかも知れないと半分あきらめ半分は急ぎ足になった。やれるだけやってみよう、私は歩調を緩めなかった。丁字路に着いた時に出発の時間になった。角を曲がると道路の真ん中に仁王立ちした男が一人こちらを向いて立っていた。そして私を見つけると大きく手を挙げて、こっちだ、早く来いと合図をしている。渡し船は綱を外しエンジンの音が響いていた。出発寸前、この遅れてきたお遍路を待っていてくれたのだ。全力で走り跳び乗ると同時に船は岸壁を離れた。

        

チケットは買っていなかったが尋ねると無料だという。左右の岸壁を眺めていると小さな船は全力で対岸に向かっているようで景色は後ろへ後ろへと流れて行った。

  10分ほどで到着すると乗っていた数台のスクーターや自転車は扉があくと同時に降りて行った。橋を歩いて行けば1時間はかかっただろう。

「ここをまっすぐ15分歩くと『雪蹊寺』です」

船の人がそう教えてくれた。

左側に運河が流れその左右を民家が取り囲む町だった。数分歩いていると民家の並びに遍路休憩所のあるのに気が付いた。小屋の中から「休んでいきませんか?」と女の人の声がかかった。さっき渡し船に全力疾走したので喉も乾き休憩したかった。誘いの言葉に甘え建物に入れさせてもらったのだが、---そこで日本一周中の男にバッタリと会ったのだから不思議としか言いようがなかった。渡りに船とはこのことだ。

建物の中には広いテーブルがあり接待役の女の人、お遍路らしい若者がいた。男は白衣を着ていなかったが日焼けした顔が旅の長さを物語っていた。

「こちら、日本一周中の方ですって」と女の人が一人の男を紹介したので私は途端にピンときた。神峯寺で重いリュックを背負い坂を上っていた男を思い出したのだ。そういえばあの時のグリーンの服装そのままだ。どこかで遭うだろうと思っていたがここで遭ったか。

 

「茨城県からですね?」

私がそういうと若者はなぜ知っているのか、とびっくりした顔で私を見た。「数日前にマッ縦の神峯寺の急坂で貴方の休憩している時に脇を通った。」と言い「実は私も茨城県から来た」と言うと彼の顔に驚きが重なった。

彼はまだ20歳の若者だった。家業の工務店を継ぐ前に日本を一周して来たいと2年間歩いているという。あと3か月したら戻る予定だという。

「旅に出させてくれた親に感謝しろよ」私は先輩らしいことを言い、しかし自分にそんなことを言う資格があるかと心の中で苦笑した。

 この若者にも後日談がある。------この数日後に私は茨城に戻りお遍路中の写真を整理していると「神峯寺」の画像が出てきた。坂道でリュックを背負うこの若者の姿が映っていた。

 

        

若者はあと3か月しないと日本一周から戻らない工程の筈で、彼の故郷は竜ヶ崎市だった。名刺も貰っていたので同じ竜ヶ崎市の姉の処に寄るついでに写真を若者の親に届けてあげたいと思っていた。親としてどんなに心配しているだろう。私が四国で出会った経緯や彼の歩いていた様子など話すだけでもどんなにか安心させられるだろうか。

 数日後訪ねると、彼の実家は立派な甘味喫茶を奥さんが営み、旦那さんは工務店経営の方だった。写真を渡すとその後姿をひとめ見ただけで「あっ、うちの息子です」と奥さんの顔がパッとほころんだのだった。

 

この休憩所を運営している女の人も身の上話を語り始めた。夫が昨年急死したこと、悲しみから立ち上がろうと何か新しいものが見つけられるかこの休憩所を始めたことなどしんみりとした時間が過ぎた。

彼女は不思議な話もしてくれた。夫が死んでしばらくしたある日夫の夢を見たという。夫は「達磨大師」の絵を彼女に示し、大切にしてくれと語りかける夢だったという。後日この遍路休憩所の運営をすることになり建物に入ると、夢に出て来た「達磨大師」が壁に掲げられていて

「あっ、夢に出て来た絵だ」

と奇妙な巡り合わせを感じたことを語っていた。

 

見ず知らずの人同志が世代を超え偶然に触れ合った時間だった。渡し船が待っていてくれなければ、そして「雪蹊寺」に行こうと思わなければ決して実現しない時間だった。青年とも別れ休憩所を出ると10分ほどで寺に着いた。

33番「雪蹊寺」の参拝を終えると用意してきた納め札も線香も無くなった。ここで、初めてバスを利用することになった。もう歩き遍路はここまでだ。バスで「はりまや橋」へ。次に路上電車で「文殊通り」駅に着くとコンビニで食料とビールを買いホテルに戻った。夕方前でまだ陽は高かった。これで2週間の歩き遍路旅が終わったのだった。

 

今回の歩き遍路で、今までと違った持参品に「写経」があった。治験入院をしていた時、字がきれいになりたいという昔からの希望を叶えるため病院に「写経」を持ち込み、暇に任せて書き溜めていたものだった。写経は書き溜めた後で世話になっている寺に奉納するのもいいが、どうせならお遍路で四国を歩く時、行く先々の寺で納めさせてもらった方が良いと考え80枚ほど用意していた。

徳島から高知まで32から33の寺があり、一つの寺で本堂と大師堂に2枚納めるので多く見積もっても80枚あれば足りる筈と用意していた。最初の幾つかの寺では納め札と写経に家族の健康や父母の冥福を願う言葉を書いていた。しかし今祈らなければならないのはなにより娘の健康回復だと気付いた。

 娘は半年前から「パニック症候」と言う精神的病になり外出がままならなくなっていた。列車のラッシュアワーで身動きの取れない経験に遭い、それ以来、人込みや狭い空間に恐怖心を覚えるようになった。秋に結婚したばかりだったがそれが原因で飛行機に乗ることも出来ず新婚旅行は取りやめた。その病気からの回復を願うのが最優先だ。お遍路を初めて2日目からは娘の健康回復だけを祈って歩いた。

---お遍路から帰って10日が経つ頃、娘から電話があった。4月の半ばごろから薬の量が減ってきたという知らせだった。気分も違って行けなかったショッピングにも行けるようになった。嬉しそうに妻に回復ぶりを知らせるのだった。

指折り数えると私がこの遍路で娘の健康祈願に絞って歩きだしたころと娘の回復期は奇妙に一致した。私は決して奇跡が起こることを念じて遍路を始めた訳ではなかった。むしろ誰かに背中を押されるように家を出たのだった。はっきり言って私を四国に導いたのは春のせいだ、とさえ思うのだ。しかしそれにしてもどこかで私の願いが娘に通じていたのはありがたい事だった。お遍路が無駄ではなかったと思うとうれしかった。2週間の歩き遍路は、弘法大師が願いを聞き入れるため私を呼んだのかもしれない。

 

 

こう書き進めて来て、私は初日に宿坊「安楽寺」で会った老婆の言葉を突然思い起こした。---奈良県から来ていた73歳の歩き遍路のおばあちゃんは夕食で向かいに座ると周囲の人を見回してこう言った。

         

「お遍路はね、呼ばれた人しか来られないのよ。いくらお金があったって時間があったって、呼ばれなきゃ来られない」

呼ばれたから、か。なるほど、と合点がいくのだった。

松山ユースホステル~石手寺 ~山頭火・「一草庵」~JR松山駅 ~東京~自宅

 

なんていうことだ!

----納経所に寄るの忘れてた!

 

缶ビールを飲んでいるどころじゃない、と呆然とした。時刻は午後7時近く、もう、納経所は閉まっている。万事休す、だ。

とにかく今日はもうどうしようもない。しかしどうにかしなければ。考えた挙句に2つ案が浮かんだ。

 

1.    明日の朝、納経所が開く一番の時間に記帳してもらう。

2.    次回の参拝の時、松山市に泊まるだろうからその時納経所に行く。

 

誰よりも、自分で自分が情けなかった。迂闊にも程がある。

考えた末、朝早くお寺まで歩いて行こうと決めた。納経を次回の遍路まで持ち越したくはない。今出来ることは今やっておこう。幸いなことに今回の宿、松山ユースホステルは石手寺迄歩いて30分ほどの距離だ。往復でも1時間前後。朝7時に納経所が開けば8時迄には戻って来られる、よし、明日の朝は6時には出かけよう。

考えがまとまるとやっと気持ちがほぐれた。一時は自分を責め苛み、自分自身にがっかりしていた。

 

ヤッター ! これで最後だ ! 

もう歩かなくていい !

 

 石手寺に到着した時、心の中には浮かれた解放感しかなかった。弘法大師はしかし、そんな私を見て懲らしめようとしたのだろう。参拝をやり直せ!と。

 

翌朝、白衣に身を整え納経袋を肩に掛けると舗装道路を時計回りに歩いた。リユックは部屋に置いて来た。松山ユースホステルはこの街の中でも高台にあり、石手寺には下るだけの坂道となった。昨日の遍路道は朝露で滑りやすいだろうと山道を避け舗装道路を歩いた。この勾配のきつい坂道を散歩する人は誰も見かけなかった。下り坂で、納経所が開く時間より早く着いてしまいそうで、道路の向かいに妙な建物があるので立ち寄ってみた。

ここは、石手寺の境内コースからは外れた五百羅漢堂のようだが展示してある像の多くは日本的作風と違ったインド風の作品が多かった。

          

   

   

   

納経所が始まるにはまだ早かったが山門をくぐり境内を一回りした。朝の7時前だと寺の関係者は庭の掃除に大忙しの最中で、納経所だけでなく線香の灰やロウソク棚の掃除に何人もの人が手分けして動いている処だった。

 寺によっては朝8時から納経のところもあると聞いたので、

「納経所は7時からオープンですか?」

納経所の前で拭き掃除をしている高齢の女の方に時間を確かめた。するとその人はニッコリ笑って

「ええっ、そうなんですけど、かまいませんよ。------少し待ってくださいね」

というと納経所に向かい窓を開けると墨や筆、印鑑箱を並べはじめた。

「さあ、----どうぞ、受付けいたしますよ」

と、15分前なのに納経所を開いてくれた。お遍路は時間に追われ、時間を惜しんで歩いているのを知っているのだろう、納経帳を受け取るとサッサッと手慣れた筆さばきで記帳し、これまた手慣れた手順で印を押してくれた。

 

 

 

 

「申し訳ない、----時間前なのにありがとうございます」

一日遅れの納経を済ませ、昨日の歩き遍路道は避けて舗装道路を選んだ。時計回りにそのまま早朝の街を歩いた。ユースホステルと石手寺をグルっと一周したことになる。汗をにじませユースホステルに戻ると、ちょうど宿泊人たちの朝ごはんが始まったところだった。

 

この最後の日に、お遍路と直接関係はないが松山市内で一か所立ち寄りたい場所があった。地図を眺めていた時「一草庵」と言う俳人・山頭火が晩年を過ごした家の跡があるのに気づいていた。

 

 

山頭火は、彼自身四国遍路を歩き続けた人で、道中で浮かんだ光景や言葉が俳句の中随所にみられる。ひとりで山や野を歩いた者の経験する辛さ、己の弱さを見つめる言葉が伺える。

 

どうしやうもないわたしが歩いてゐる

 

 雨の日、杖を突きビッコを引きながら歩いた「焼坂峠」や「そえみみず遍路道」が思い出されてならなかった。痛くて辛くて、しかし立ち止まったところで誰も助けに来ない山の中、頼りにするのは杖だけだった。

 

うしろすがたのしぐれてゆくか

 

 初めて通る野井坂遍路道で「遭難」の一歩手前だった夜が蘇ってくる。山頭火も遍路歩きをしながら幾たびも地獄を見ただろう。

 

 調べてみると、この記念館が開くのは土曜、日曜の朝10時からで平日は門が閉ざされていた。今回の歩き遍路を計画した時、何曜日に松山市内に到着するか計算してみると偶然に日曜日に区切りが付けられる予定で、それなら最終日にぜひ立ち寄ってみよう、と計画していた。

 

朝食が済むと「一草庵」へリュックを背負って歩くことにした。これまでの毎日からすれば2Kmや3Kmの距離は準備運動のようなものだった。   

  この日も朝から青空が広がり、歩いていて気持ちがいい日だった。護国神社と言う大きな神社を目印にして行けばその隣にひっそりと建っていると言うが訪れてみるとまさにその通りで、もし看板が無ければ見過ごしそうな山裾の家だった。家の入口には小さな展示小屋と看板があった。壁に山頭火の写真や経歴が飾られ、それを眺めていると山頭火の境遇、時代背景が見えてくる。

 

 

 

    

定刻の10時前にボランティアの人がやって来て、家の戸を全開し中を見せてくれたが新しく建て替えられ間取りだけが生前の建物と同じという。昔はここの廊下から松山城が見えたが今では高い建物が周囲に建ち、庭先に行かなければお城が見えくなっています、と説明して頂いたが昔はさぞかし眺めも良かっただろう。

 

     

近くの市電の駅「赤十字病院前」を教えてもらい電車に20分ほど乗り、JR松山駅に着いたのは11時前だった。この後は特急列車で神戸駅へ、さらに乗り換えて東京に向かうだけだ。私は四国にいる間はお遍路であり白衣を着ることにしていた。

 

   

 

JR松山駅1番ホームのベンチに座っていると、停車した列車からどっと人が降りて来て、その中の一人の女が私が座っているベンチに一直線に駆け寄って来た。新しい杖を持った30歳代の白衣の女で同じ遍路同士という気安さから話しかけてきたようだ。

----私、お遍路は初心者で今から『岩屋寺』に行く予定なんです。数日前に「長珍屋」に泊まる予約をしたんですが、よく考えると遠いかしら?宿を替えた方がいいですかね?場所的に、どう思います?-----判断を委ねたくて、遍路の人を探していたという。

彼女は休日がまとまると寺の密集している地域を中心に電車で来てお遍路巡りをしている人だった。数ヶ月ぶりで愛知県から四国にやって来たのだという。自分の脚の力を知り地図を見れば計画はおのずと決められる筈だが、思いつきを優先する人らしい。

岩屋寺に行くならレンタカーを借りなければ到底「長珍屋」に着くのは無理だろう、とアドバイスさせてもらったが杜撰で計画性の無いお遍路もいるものだ。

 

 神戸行き特急の座席に座ると、中国だか韓国らしい40歳前後の男が空いている私の隣の席にやって来ると

「ナンバーシックスティシックス、ウンペン--ウンペン---」

と、私の顔をのぞき何か訴えかけている。白衣を着ていないので判らなかったが「○○スミダ」「○○セヨ」の語尾、アクセントから韓国人のお遍路で日本語が話せないようだ。彼の手にはメモ用紙があり「66番・雲辺寺」の漢字が書いてある。菅笠に白衣姿の私は一目でお遍路仲間と映ったようだ。

----66番の雲辺寺に行きたいが、どの駅で降りてどうしたらいいか教えてくれ-----、と言う事らしい。私は韓国語も中国語も分らない。英語は中学生レベルの単語がほんの少し記憶に残っている程度。この韓国人も英語は少し解かるようで互いに片言だけの英会話となった。

 

「私はこれから遍路を終わって帰るところです。今まで、電車で寺を廻ったことが無い歩き遍路です。雲辺寺にはどの駅で降りたらいいか残念だが分からない」

と言うと、えっ?歩きで廻る?電車、使わないのか?と驚いた表情で私を上から下まで改めて見回すのだった。自分たちと同じように電車を利用して雲辺寺に行くと思っていたようだ。

 雲辺寺には今までに遍路で3度行ったが1度目が自転車、2度目が歩き、3度目はオートバイ。電車では何処の駅で降りるか分からない。韓国人は夫婦で歩いているようで、がっかりした表情で後ろの席に戻って行った。

 

 しかし困っている外国人に何もアドバイスできなくては日本人として、いや、同じお遍路として情けない。遍路地図を広げ、更にスマホでインターネットを使って調べると「観音寺駅」が雲辺寺には一番近い駅のようだ。しかしそこから先の雲辺寺ロープウェーまでのバスは日祭日は休みだった。観音寺駅からタクシーより方法が無いと判ったので彼らの席に行ってその調べた結果を説明すると、二人は「フーンそうなのか」といった表情で頷いた。この人たちは最短の日時で納経帖に朱印を満たすことが目的のようだ。結果に重きを置くか過程に重きを置くか、それによって電車利用か歩くかに分かれる。

 

数十分後「観音寺駅」に到着すると半数の乗客が降りるために座席から立ち上がった。観音寺駅を過ぎると次は瀬戸内海を渡って列車は四国を離れるのだ。降りていく乗客の中に、今から雲辺寺に向かうこの韓国人夫婦もいたが二人は私の脇を通る時、こちらを見向きもせず降りて行った。

 この国の人の礼儀はこの程度のものか、と二人の背中を見送った。人を頼り人を利用しても、人に感謝の気持ちを持たない国民のようだ。

 --------話は脱線するが、この国の政治を見ていると時の権力者が失墜すると、新しい権力者によって奈落に堕とされ鞭打つ立場が鞭打たれる側に転落する。権力の有り無しで大統領も翌月には犯罪者の烙印を押され、その繰り返しだ。この国の人達は、人としての思いやりや優しさより利用し得になるか否かで人と接している気がする。情けない人たちだ、と日本とこの国の人の違いを見た気がした。

 

 

特急は瀬戸内海を渡り、最終の神戸駅に到着した。数分後に新幹線が発車すると車窓から見る街の景色が後方に流れ去って、ああっ、本当に区切り遍路が終わったんだ、と実感がわいて来た。

 

 18日間、いろいろな出来事が毎日のように待ち構えていたものだ。

その中でも、最初の日に大雨注意報と暴風警報に見舞われた中を歩いた時は、何か自分が嫌われている気がしてならなかった。その雨は3日続き、帰れ!と足蹴りされている気さえした。足裏の皮膚がふやけマメが広範囲に広がり、痛みがついて回った。針でマメに穴を開け、朝晩溜まった水を抜く日が続き、いい加減に降参して帰れ!と責められる日々が続いた。

 何度も道に迷い11日目には遭難の二文字が頭に浮かんだ程で、その晩にやっとたどり着いた民家では白塗顔の妖怪の家に来てしまった!と恐怖で身体が固まった。思い返すと楽しい日は一日としてなく、篠山神社に行ってみよう!などと無謀なことを計画したのがそもそも間違いのもとだったのかと何処に不満をぶつければいいのか、しかし、すべては自分の好奇心から始まったもので矛先は結局自分に返って来た。

 毎日のように妙な人に巡り合い、さまざまな言葉が胸に残った。3日目に安和駅トイレで「ゲストハウス恵」へのコピー地図を拾い、焼坂峠からその予約していたゲストハウスに到着すると地図を落とした当人と同宿で、おまけに隣り合わせの部屋に寝るとは何と不思議なあり得ない偶然だろう。しかも同じ茨城県の女の人だったとは。

 柏峠の中腹では、71歳になって体力の衰えを痛感していると後からやってきた元気な老人から「僕はまだ86歳です」と言われた時の驚きは強烈だった。「もう86才」ではない。「まだ86歳」と仰る人がいるのだ。また、ある処では足の速い町田市のお遍路から「71才だって?71才なんて、まだまだ若い!俺は77歳だよ」と鼻で笑われたのだった。

 内子町では実に不思議な出会いがあった。亡くなった直後のノーベル賞作家の大江健三郎の生家を気にかけていると、休憩していた遍路小屋で大江健三郎兄弟と同級生だという方に突然出くわし、しかもその方が私の街の知り合いと幼馴染であったという二重にも三重にも不思議な出会いが待っていた。狙いすまし待っていたかのような出会いだった。

 

ここまで書いてきて、思い出したことがある。以前、8年前に自転車でお遍路旅をした時

「地獄と天国と道が目の前に分かれていたら、あなたはどちらを通りたいですか?」

と問われたことがあった。松山ユースホステルのマスターが夜開催する、スピリチュアルで奇妙なセミナーでのひと時だった。その時、3人の好奇心に満ちた参加者がいて私もその1人だった。全員年齢も性別もばらばらのお遍路だった。すると2人が即答で「地獄」を選んだ。マスターは誰もが天国を選ぶだろうと待ち構えていたようで「むっ」とした戸惑った表情を浮かべ、私は質問の意図が分からず天国とも地獄とも答えられなかった。しかし今、同じことを問われれば私はあの時の2人の遍路のように答える。「地獄!」と。

 

 きっと、こういう日々があったからお遍路を止められなくなっているのだ。私はコロナではなく「四国病」に感染しているらしい。

 

 長珍屋〜46番・浄瑠璃寺〜47番・八坂寺〜文殊院〜札始大師堂〜杖の淵〜48番・西林寺〜49番・浄土寺〜50番・蘩多寺〜51番・石出寺〜松山ユースホステル

 

高知空港に降り立ってから松山の道後温泉まで、歩き遍路もいよいよ最終日になった。

足の裏を痛め歩けなくなって何か所かバスを利用することもあったが今日でやっと終わる。室戸岬や足摺岬では3日も歩いて到着する寺があるが、ここでは20Km足らずの間に6カ所も寺が点在している特異な地域だ。

 

畳敷きの朝食会場に入ると、お遍路さん6,7人が食事中でオランダ人女遍路さんの隣に席が空いていた。テーブル上には大きな業務用ご飯ジャーが二つ用意され一つはすでに空で、もう一つもほとんど底が見え歩き遍路たちのすさまじい食欲を見る思いだった。最後に席に着いた私はご飯を茶碗に盛り付け、ご飯ジャーが空になったと店主にお替りを頼んだが

「----すみません。今朝炊いたご飯、これで全部です」と申し訳なさそうに詫びるのだった。

宿泊者の中にバスや車の遍路が混じっていれば普通なら業務用ジャーに2杯分炊いておけば余るのだろう。が、全員が歩き遍路だと足りなくなっていた。普通は朝飯1杯の私でも歩き遍路になると2杯や3杯のご飯を食べるようになっていた。歩いてエネルギーを消費する遍路たちには車のガソリンと朝ご飯は同じなのだ。

しかし、宿の調理人は昨夜の泊り客全員が歩き遍路だと想像していなかったようだ。米粒を一粒残らず茶碗に盛り付けると2つのジャーは見事に空になった。

 

隣の席のオランダ人「マルチエ」という女遍路さんも数週間から四国遍路を歩き続けていて、お箸の持ち方もご飯の食べ方も上手だった。しかし、茶碗についたご飯粒には悪戦苦闘している様子だった。私は教えるべきかどうか迷ったが

「ご飯はこんな食べ方もありますよ」と前置きし残ったご飯に味噌汁をかけ「猫まんま」にして見せた。彼女は初めてそんなご飯の食べ方を見たのだろう、おゃッ、と驚きの表情を浮かべた。

「水が大切な山小屋や寺の宿坊ではこういう食べ方が礼儀にかなっているのです。器が味噌汁で洗われ食器洗いの人も楽になる。だけどレストランや旅館ではバッドマナーになる。」と説明すると、フンフンと頷いて真似をした。お遍路相手の民宿ではこの食べ方でも別に問題はあるまい。猫飯にしてでもご飯を食べなければエネルギー不足になる。

 

尋ねると、彼女は日本の文化と歴史に興味を持ち一人で四国遍路を歩いている女性だった。5日前に観自在寺を参拝した時にすれ違った人の中に随分と背の高い外国人女性がいるなと彼女のことは覚えていた。が、白衣を着ていないのでこの宿で一緒になる迄、お遍路だとは思いもよらなかった。

確かに、白衣を着ないお遍路もたまに見かける。外人が特にそうだ。ステッキを突きリュックを背負い歩いているが単なる旅行者か遍路か判断のしようがない。今回の旅で3日目に出会ったオーストラリア人の男は「僕は寺に入ってから白衣を着る。歩いている時は着ない」と言っていたが四国にいる間の道中すべてが修行だと思うかどうかの違いだろう。

 

私は日本には歴史や文化だけでなく自然でも素晴らしいところがあることを伝えたかった。数年前、北海道バイクツーリングをした時に見た広い大地や海岸線、山々と自然に湧き出る温泉を思い出して話すと、彼女も興味を持った様子で

「日本にまた来る時には今度は北海道に行ってみたい」と語っていた。

彼女は四国遍路を終えると、大阪と京都を回り帰国する予定を語っていた。

 

 朝食を終えた後、今日のコースを地図で確認して玄関を出ると時刻は7時半になっていた。下駄箱には他に靴は残っていなかった。歩き遍路のほとんどは朝の7時前に出て7時半に出発する人はほとんどいない。だが今日の私の歩きコースは20Km弱と短い距離で道中に山も峠もなくこの時間でも十分に余裕があった。6つの寺の他に数か所の寄り道も予定に入れていたほどだった。

          

これまでの経験から、今日は夕方までに宿に着き明るいうちに道後温泉に行ける筈だった。宿は道後温泉まで徒歩10分ほどの松山ユースホステルを予約していた。宿泊のみのユースホステルが多い中で、ここは2食付きで泊まれる数少ないユースホステルだった。ここのオーナーは夜になると希望者にスプーン曲げやスピリチュアルな教室を開催し自ら「大統領」を名乗る一風変わった人物で松山に泊まる時はこのユースホステルを利用するようになっていた。一部屋に数人が押し込まれるユースホステルもあるなかここでは個室が提供され設備も充実し気に入っていた。

 

46番・浄瑠璃寺は宿の道路向かいで庭先のような近さだ。

          

 

この寺には「仏足石」や「仏手石」という石板が置かれ、そのご利益を求め参拝人が自分の手や足を重ねるのだろう、すり減った跡が伺えた。8時前のお寺の参拝者は少なく他に一組の車の遍路がいただけだった。

       

 

浄瑠璃時から約1Km離れた地点に47番・八坂寺はあり、朝出発してから1時間も経たない間に2つの寺を打ち終わってしまった。

         

今日は何と順調にお寺を参拝できることだろう。納経バックに入っている線香やロウソク、納札、写経もあと何枚、あと何本と数えられる位になった。写経は1枚書くのに1時間近く時間を要し、一つの寺で本堂と大師堂とに2枚必要になる。今回の区切り遍路で18寺36枚を用意してきたが、出発の時に全部書き終えることが出来ず、四国に来てから宿で書いた写経も数枚あったがそれも今日ですべて納め終える。

    

48番・西林寺に行く前、番外「文殊院」にも立ち寄ることにした。ここは四国遍路の始まりと言われる伝説的物語、その中心人物となる「衛門三郎」と深いかかわりを持つ寺だ。  

衛門三郎の人となりや資料を見ておきたいと納経所に入って資料を見回した。壁に掛けてある絵を見ているとガイド役の女性から

「ご説明しましょうか?」

と声が掛かったのでお願いすることにした。

空海と衛門三郎の話は、お遍路を考えた時に幾つかの本を読み、だいたいの話は知っていた。

-----貪欲な豪商として悪名高かった衛門三郎は、毎日のように訪れてくる空海を追い返し、ついには竹箒で殴りつけ空海の持っていた托鉢の器を八つに割ってしまった。その罰がたたって八人の子供全員が病にかかり日ごとに死んでいった。やがて衛門三郎は自分の悪業を改心し空海に懺悔しようと後を追い四国中を探し歩いたのが四国遍路の始まりだという。壁にかかっていた絵の中に『杖杉庵』で倒れた衛門三郎に空海が手を差し伸べている絵があった。そこには空海の弟子もいた。------私は当時の空海は一人で修行に出ていた修行僧とばかり思いこんでいたので意外だった。

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へぇ、空海は一人で歩いていたんじゃなかったのか?と思わずスマホで写真を撮ると、シャッター音に気づいた納経所の男が舌打ちと共に

「ここは撮影禁止です」

と不機嫌そうに大きな声で注意した。私は撮影禁止とは気付かず

「あっ、そうでしたか、済みません」とスマホをしまったが飾られている絵は無造作に壁に掛けられ大切に保管されている状態とはとても思えなかった。ガイドの人も写真を撮ろうとして咎めようとしなかったのに、と少し不快な気持ちになった。

 

30分ほど歩いて『札始大師堂』にも今回初めて立ち寄ったが48番・西林寺までの約10kmの間にこれら四国遍路の始まりに関係する建物が幾つも密集している地域だ。

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『札始大師堂』は空海がこの地の修行の仮の拠点として作った草庵だったらしい。空海はここを発つ時に自分の分身を像として残したが、そこに衛門三郎が追いかけるようにやって来ると空海はすでに去った後だった。衛門三郎は会いにきた証に木札に名を書き釘で打ちつけ空海の後を追った。ちなみにその昔、紙は一般にまだ普及せず木札が主流、願い事を書いたものを寺の柱や壁板に釘で打ち付けたことから「寺を打つ」と言う表現が残ったようだ。小屋の中は野宿の人でも泊まれるような空間がありトイレも併設されていた。

 

大通りに出て48番・西林寺に向かったが西林寺のすぐ手前に「杖の淵」という場所が地図に書いてあるのでここもどんな所か寄ってみようと探したが、公園の周りをぐるりと一周してしまい見つからない。15分ほどウロウロ歩いて変だな、この辺なのに、と佇んでいるとこの公園がまさしく捜している「杖の淵」だった。

          

 

 歴史跡としてではなく今では「杖の淵公園」として整備され史跡は公園にある池だけのようだ。特に説明も見当たらず、空海が杖で地面を突くと水が噴き出て来たというよくある伝説話の一つのようだ。この日は土曜日と言う事もあり親子連れで公演は賑わいお遍路の姿は他に見なかった。

 

         

 「杖の淵」と48番・西林寺は目と鼻の先の近さだった。先ほど「杖の淵」を探していた時に人の並んだ繁盛しているうどん屋さんがあるのに気付いていたが、そこで早めに昼食を摂ることにした。『瓢月』という地元の人気店らしい。駐車場にはひっきりなしに車が出入りしている。順番待ちノートに名前を書くと幸運にもカウンターが空いていて早く席に着いて休憩することが出来た。うどんは出汁の効いたさっぱりした美味しさで汁まで頂いた。

 

48番・西林寺の境内に入ると小さな子を連れた外人の親子連れが来ていてここでも四国遍路の国際化が伺える。午後になると次の寺に向かう足どりも重くなってきた。あと残り3か所だ。それが終わったら温泉にゆったり浸かろう。

   西林寺を出ると大通りから横道に入り「松山リハビリテーション病院」を目印に歩き始めた。大通りには狭い歩道が続き車に気を配るので疲れも重なるのだ。小さな通りに入るだけで歩き遍路の良さを感じるのだから妙なものだ。

    

しばらく歩いて線路を渡り、更に大通りを渡ると49番・浄土寺が正面に見えた。

この寺は9年前に訪れた時に数年に一度の秘宝御開帳がされていて、何も知らずに訪れた私は偶然その恩恵を受けたのだった。

  

そのなかの一つは木像の口から数体の阿弥陀像が出ている像で、教科書で昔見たことのある像だった。まさか本物をこの目で見られるとは、と驚いたものだ。 

                                 次をクリックするとその時の動画に飛びます

                    ↓

 

 参拝する寺はあと2つになった。歩きながら参拝が終わってからの事ばかり頭に浮かび気がそぞろになりかけていた。

 -----この調子だと夕方5時前には松山ユースホステルにつくだろう。まだ夕焼けまでに時間もあり宿に着いたらすぐに高台下にある道後温泉で久しぶりに温泉を楽しもう。二度、三度ゆっくり湯につかり溜まっていた体の疲れをほぐそう。そうだ、宿泊先で毎日のように貰っていた旅行クーポン券もこの愛媛県にいる間に全部使ってしまおう。地元クーポンを活用できる今日が最後の日だ。全部お土産に変えてしまおう。道後温泉周辺には土産物のアーケード街があったはずだ。それが終わったらビールとチューハイ、おつまみでささやかな打ち上げの宴を一人で開こう。今日ですべて終わる、と頭の中は半分遍路を終え、浮かれた気分になっていた。-----この浮いた気持ちが、失敗の原因になろうとはこの時は知る由もなかった。

 

 50番・繁多寺に着くまでのほんの2Kmほどの距離は、午後の日差しに照らされ倍近い距離に感じられた。この間は民家と民家の間をすり抜ける狭い空間の続く遍路道を矢印に導かれるように歩いていると坂の上の繁多寺に到着した。

この寺は背後に山を控えた広大な敷地にあり、市街地を睥睨する眺めの良い立地にある。

桜の樹々はこの数日で花吹雪を散らし始め、新緑の枝が新しくその下に芽吹き始めていた。

 

変な、と言おうか妙な草花の動きを今回の遍路で何回も見た。峠で休んでいる時に何度か見た奇妙な光景だった。腰を下ろしお茶や水を飲み付近の雑草に目をやると二カ所の草が何か合図を送るように、それはまるで人が手を振っているように草がユラユラ揺れるのを見たのだった。それも一カ所ではなく数メーター離れた二カ所なのだ。最初は、風の通り道なのだろうな、と揺れる草を見ていたがいつまでも揺れが止まらずそこだけ動き続けるのだ。ある時その不思議な現象に気がつき、それから気にかけて見ていると毎回休憩の度にすぐ身近で「草揺れ現象」が起こっている。いや、それまで気にかけていなかったのに気づくようになった、という方が正解かもしれない。その内に歩いている時にも通りすがりの草が手を振ってる感じがして、これはたまたま風の通り道なのだろう、いや、そうに違いないとは思うのだが不思議な光景に何度も巡り合った。

 

 今回の区切り遍路、最後の寺である51番・石出寺へは大通りを歩くだけになった。歩道の隣りを車がひっきりなしに通り過ぎ違和感を覚える。誰もいない草木に覆われた峠道が愛おしくなってくる。

頭の中は、まだ参拝もしてないのに終わった後の街歩きの楽しみで一杯だ。まだあの温泉はやっているだろうかと、リニューアル噂のあった木造の大きな温泉を頭に描いた。小説坊ちゃんに登場した道後温泉だ。広い銭湯のような独特の味わいのある温泉が良かった。土産物屋の連なったアーケード街が近くにあった。土産はあそこで買おう、など考えているうちに石出寺に着いた。石出寺に着いたのは午後の四時前だった。門前通りの店は何割か閉じたままでコロナの影響からまだ完全には回復していない。

 境内に入ると本堂に向かいロウソクを灯し線香をあげ、お賽銭と納め札、写経を納め般若心経を唱える。最後に大師堂の前にたたずみ同じ工程を繰り返すと残ったのは数本のロウソクと線香、数枚の納め札でそれ以外は全部使い切っていた。計画道理だ。これで終わった。一区切りついた。お疲れ様とホッとした挙句、自分を支えていた張り詰めたものがたちまちのうちにしぼみ氷解していった。

 

 境内の左側の山の方向を見ると、天に向かって上がっていくように何十段と石段が続いている。以前こっちの方から遍路道を進んだが、こんな急な石段だったか?と以前の記憶が飛んでいる。

 参拝の後で山道に入ったのは確かだ。歩いているうちに窪地に足を取られ背中から転倒した記憶がある。7年も前のことだ。幸いにもその時は背負っていたリュックがクッションになって背骨を衝撃から防いでくれた。あの時、下手すると大変なケガを負っていたところだ。-----そんな記憶が残っていた。

 多分100段以上の石段が続いていたのではないだろうか、石段を上り詰めると割と平らな遍路道になった。やはり足元は草木交じりの凸凹の未舗装路だ。松林だろうか暗い樹木の影の坂道を下り、竹に覆われた地帯を通り、下り一方の道を歩いていると舗装道路に道が連なり、杖の音がコンコンと足元から響き始めた。広々としたテニスコートがあり、分岐路で左に曲がると派手なイエロー壁の松山ユースホステルがあった。最後の宿だ。

 

 宿に着くと時刻は夕方5時前だった。早速宿泊の手続きを済ませ、夕食の時間を確かめると部屋に荷物を置き、着替えだけ小さな簡易リュックに詰め替え道後温泉に向かった。徒歩10分ぐらいだったはずだ。夕食は7時で予約した。2時間はたっぷりとある。その間に温泉につかり土産物屋をうろつき溜まっていたクーポン券を土産に替えよう。今日使わなければ紙くずになってしまう。旅行支援金等、もともとが期待していなかったもので全部きれいに使ってしまおう。心は弾んだ。

 坂道を降りた先に、あの古びた道後温泉の建物があるはずだが、数年ぶりに来たせいか右だったか左だったか、と街中に入ると一瞬佇んだ。うろついていれば判るはずだが、と周りを見回すと斑模様のテントに覆われた建物があり、残念なことに道後温泉は改装中であった。

 

 

 

 しかし、古い温泉のリニューアルに備えて新たな温泉も作られていた筈で、すぐ近くに建てられていた記憶があった。アーケード街の先に出来立ての温泉があった筈だ、と観光客で賑わう人混みの流れに乗って歩いていると新しい温泉はすぐに見つかった。建物の外観は新しいが中に入ってみると温泉の作りは以前の古い道後温泉そのままだった。古典的で古めかしい道後温泉の踏襲すべき良さが受け継がれていたのは驚きだった。が、温泉目当ての観光客が多くひどい混雑ぶりで、湯に入るのも洗い場もともに順番待ちの混み様だった。二度も湯船に浸かりじっくりと疲れをほぐし満足を覚えると早々と風呂を出ることにした。

 

 温泉で身体がほてったままアーケード街を観光客の流れとともにうろついた。お土産屋さんだけを覗き歩きし、一万円近く残っていたクーポン券を土産に変えるのだ。土産を選ぶ基準はリュックにコンパクトに入るかどうかで、重いものや嵩張る包装は対象外。私は小さなお菓子がパッケージされた土産を七つ購入するとクーポンは全部使い切っていた。観光地に行っても土産物をあまり買わない方だが、こんなに無理して買ったのはおそらく初めてだった。アーケード街は土曜日のせいもあって観光客で溢れかえっていた。

 コンパクトリュックは着替えとお土産で一杯になった。コンビニで缶ビールやつまみを買い足すと、宿に戻ろうと急な坂道を戻った。坂の頂点には大きな神社が鎮座していてここをお参りする観光客も何人かいた。

夕暮れの頃に松山ユースホステルに戻ると、部屋で早速缶ビールを開け、独り言のように「乾杯」の声をあげた。

17日間もよく歩き通したものだ。足の裏は、マメの潰れた後に新たな皮が生まれ、古い傷口に重なり違和感がつきまとったが痛みはなく、靴下と靴の間に異物が挟まっている感覚だ。あと十日もすると完全に新しい皮膚と入れ替わるだろう。足の爪も5箇所の色が変わって死んでいる。2箇所は既に剥がれて取れた。数ヶ月以内に残りの爪も皆生え変わるだろう。感慨深くじっと両足を眺めた。これが私の四国遍路の勲章だ。

 

 明日の帰りに備え、荷物の整理を始めた時だった。納経バッグを逆さにして残った線香やロウソクをひとまとめにし今日歩いたお寺のお札を数えると、6枚あるはずが一枚足りない。変だな、一枚どこにやったかと数えているとやはり5枚しかない。浄瑠璃寺、八坂寺、と銘打ったお札を順に数え、西林寺、浄土寺、繁多寺と五枚数えたところで最後の石出寺が見つからない。なんだろ、石出寺がない。

「あーっ、石出寺を忘れた」

突然記憶が甦った。最後の最後に大師堂の参拝を終えた時、

「もう終わった」

という思いが募り、大師堂を参拝終了の時点ですべて終えたつもになってしまった。納経所に行くのを忘れてしまったのだ。

なんていうことだ!

 

癒しの宿「八丁坂」~45番・岩屋寺 ~(バス乗車)久万高原伊予鉄バスセンター ~ 民宿「長珍屋」

 

朝方、庇からこぼれ落ちる雨だれの音に目覚める程の大雨になっていた。

この「癒しの宿・八丁坂」に泊まるのは3回目になる。一度目は歩き、二度目がオートバイ、そして今回が歩きだ。今までこの宿に泊まるたびによく面倒を見て頂いた奥さんは全く見かけなかった。が、以前通り親切心がそのままスタッフに引き継がれていた。

支払いを済ませ、

「岩屋寺に行って戻る間、リユックを預かって欲しい」とお願いすると、反対にこんな方法もありますよと提案された。

------その提案とは、こんな悪天候の日は荷物を持たず遍路道を片道だけ歩き、帰りは寺の停留所からバスを利用したほうがいいという内容で、バスの運転手に『八丁坂バス停で荷物を預けてあるから立ち寄って欲しい』と言えばバスは寄ってくれるし、この地方独特のサービスで荷物だけ途中でバスに載せる事も、下ろすことも出来るのだという。参拝を終わって寺を出発する時に電話をくれればバスが来る頃にリュックをバス停で渡してあげます、お客さんはバスから降りずに受け取れる。こんな雨の日は県道も水溜りが多く最終バスターミナルまで行った方がいい、と言う。

私はこの日の大雨で八丁坂からの遍路道が崩れはしまいかと心配していたところだった。そしてこの旅の初日、大雨に降られた事を思い出していた。

靴の中がびしょ濡れになり、それが原因で翌日マメが出来たのがひどいトラウマになって残っていた、どうしても歩く必要があるなら最低限にする事、マメができては元も子も無くなる。

----今日の様な日はバス利用も候補に入れていいかもしれない。歩きに固執し無理をした挙句にまともな歩き遍路が出来なかった今回の旅だった。臨機応変、色々な方法を考えるキッカケになったのがこの雨だった。

 この日も、あの日と変わらない豪雨だ。レインウェアーのズボン裾で靴をカバーしても川の流れのような路面ではどんな靴も水浸しになる。宿のスタッフが一遍路客の身になって考えてくれているのがありがたかった。

 

宿の電話番号とバスの時刻表をメモすると準備完了となった。朝7時過ぎ、雨具を厳重に重ね着すると玄関を出た。数百メートル歩いて舗装道路から右の脇道に入り遍路道へと入ったが予想通り足元は水浸しになっていて長靴が欲しかった。

大粒の雨が情け容赦なく降り続き、道と道との間の段差を渡りそこなうと靴が踝(くるぶし)まで水の中に入りそうになる。舗装道路を歩いたとしたら、車が通るたびに大量の飛沫が襲いかかってくるに違いない。------どちらを行こうと地獄が待っている日だ、同じ地獄ならより辛い方を選ぼう。

 徳島県の阿波踊りに、踊る阿呆に見る阿呆 同じ阿呆なら踊らにゃ損、損🎵という歌があったが同じ地獄なら味わにゃ損、損。

 

峠に入り傾斜を登ると、上流から小川が流れて来るようだ。平地のように水溜まりがないだけマシだ。その坂の続く道も平らになり、下り始めると大きな岩の壁がそびえていた。文字通り岩屋根の寺が近づき、修行の岩登り場があった。

 

危険がいっぱいの修行の岩場に挑戦する人も多いのだろう、入り口には鍵が掛けられていた。

峠を下ると山門、この立派な山門が昔からの正規の玄関口ではないかと思う。団体さんや車遍路が登ってくる県道からの門は風格からいって出口に見えてしまう。

本堂、大師堂と般若心経を唱えロウソクと線香をささげたが参拝した人の跡は一人だけだった。峠で人の姿を見なかったので車の遍路の方だろう。時刻は午前9時半で調べていたバスの時刻に1時間近くあるので大きな岩屋根の下にある「穴禅定」を参拝してみることにした。ここに入るには納経所で申し込む必要がある。

穴禅定は番外「慈眼寺」ほどの恐怖や漆黒の闇は無かった。ちなみに「慈眼寺」の穴禅定は安易な気持ちで入る場所では無い。観光気分で入ったらパニックに陥る自然の岩の割れ目だ。観光客が「穴禅定」に入ったはいいが体験したことのない漆黒の闇と狭さとでパニック状態になり身動き取れずレスキュー隊に救出された例が少なくない。それに比べれば気安く入れる洞穴だった。

 

7年前には工事中だった展望休憩所が完成していた。この岩屋寺は県道から数百段の階段を登るしか方法がない寺で、こういった休める場所はありがたい。併設してつくられたトイレもきれいに清掃されていた。

こんなにゆっくりと岩屋寺を見て回れたのは初めてだった。そしてこんなに人のいない岩屋寺を見るのも初めてだった。バスを利用するからこそ生まれる余裕で、なんと今までせわしない旅をしていたのだろう。時間に追われるのと時間を利用するでは余裕がまるで違う。

 

バス停小屋で待っていると予定通り正確にバスはやって来た。手を挙げ乗り込むと他に乗客は誰もいない。こんな大雨の日は参拝を中止する人が多いのだろう。さっそく運転手に「八丁坂バス停に寄って欲しい」と告げ、車内から宿に電話をかけ、バス停でリュックを入れて頂くように依頼した。宿の前が「八丁坂」バス停だった。途中で乗り込んできた人は国民宿舎に泊まっていた2人連れの夫婦だけだった。道路が雨で覆われ、時折車同士が行きかうと互いに大きな水しぶきをかけあっている。歩いている人は誰一人見かけない。お遍路の皆さんは朝早くから早々と歩き遍路道に姿を消してしまったようだ。やがてバスは八丁坂バス停に着くと荷物を持ったスタッフが傘をさして待っていて、ドアが開くと同時にリュックを手渡してくれた。自分は雨に濡れてもバスの中の客は濡れさせない気配り。ありがたいことだ。何と親切なスタッフだろう。こんな配慮をしてくれる国が他にあるのだろうか?と思う。

 昼前にバスはターミナルに着き、時間は早かったが道の駅で昼食にした。温かいものが食べたくて「かき揚げうどん」におにぎりを追加した。雨に打たれ続けると体温も奪われるものだ。

  

久万高原街内の標高が486m、約6Km離れた三坂峠が標高710m、ここまで緩い坂道の舗装を登り、通り過ぎればあとは標高85mの宿「長珍屋」まで下るだけだ。

 

三坂峠に入ると森の先が幻想的にかすんでぼんやり煙っていた。先が見えないと不安になるものだ。道を見失わないよう矢印や記号、地図に集中して歩いていた。

    

  峠の下り、見晴らし地点に立ってみた松山市内は今日は雲の中だった。

 

    

     

    

 

雨は夕方近く、小止みになったがあちこちに幻の滝が出現していた。

     

弘法大師が引き揚げた謂れをもつ「網掛石」のベンチで数分の休憩をとった。

7年前は同じその場所で、当時は今より足が速かったのだろうがベンチで頬杖を突き昼寝をして宿到着の時間調整をし今回と同じ「長珍屋」に向かったのを思い出した。

 しかし、今回はそんな余裕はなく数分間休憩するだけだった。夕暮れ前に宿に着くかどうかも怪しくなっていた。

      

  遍路宿「長珍屋」は46番・浄瑠璃寺の真向かいにある。納経締め切りの時間、午後5時に遅れそうだ。その時に思った。もしバスに乗っていなかったら、とてもじゃないが宿に夕方に着くなんてできなかった、と。なんだか全て、「癒しの宿八丁坂」スタッフの提案と言いバスに乗ったことも、一日が無事に過ごせるための「予定調和」で運ばれている気がした。

      

 

宿に着く頃、街全体にチャイムが鳴り響き夕方5時の時刻を知らせていた。宿に着いたのはその直後だった。

 

この日の夕食の席だった。指定された席に座ると斜め前に40歳前後のオランダ人の女遍路が座った。4、5日くらい前にどこかのお寺で見たことのある顔だった。えらく背の高い女の人で、その飛び抜けた身長ゆえに記憶に残っていた。バレーボールの選手かと思うほどのスラーと伸びた身体、手脚だった。片言の英語で尋ねると身長は183Cmあるという。母国では法律関係の仕事をしているという。この人の真ん前に日本人の小柄な70歳前後の女遍路が座り、二人は一緒に行きましょうと誘い合わないながら至る所で顔を合わせるらしく片言の英語で充分に互いの意志が通じ合う仲になっていた。この日の「長珍屋」も偶然一緒になったという。国籍も年齢も関係ない人同士が言葉を越え人と人とが結びつき信頼関係を培っている。これが歩き遍路ならではの体験、つながりだと隣でビールを飲みながら思うのだった。身長差40センチはありそうな珍妙な凸凹コンビお遍路さんたちだった。

 

食後、売店で店主に

「外人遍路を私もお遍路で見かけましたが、この宿に泊まる方で外人の割合ってどのくらいですか ?」と尋ねると、一瞬目が宙をさまよったが

「半分以上-----が外国の方です。最近ますますその傾向が強くなってます」

と答え、なるほど私が予想していた通りだ、と思った。

 四国遍路を歩きで巡る人はきっと数年しないうち外人だらけになるだろう。灯台元暗し、と言うが外国人ほど日本の持っている文化、光のすばらしさに気が付いている。

 

昨日今日と続いた雨は夜になってあがった。明日以降は晴天がしばらく続くでしょう、と天気予報は言っている。明日で、計画していた46番以降、51番までのお寺を回れるはずだ。どの寺も数キロごと点在していて途中に山も峠道もない。きっと明日中にすべて終わる、と安ど感が胸中に広がった。

 

  この日の歩数 37745歩     歩行距離 28.54Km      歩行時間  8時間9分

 

すす 

 

 

 

 

内子町小田「ふじや旅館」~新真弓トンネル~農祖峠~44番・大寶寺~癒しの宿「八丁坂」

 

 夜明けに目を覚ましたが雨雲で外は薄暗いままだった。6時半の朝食を済ませるとレインウェアーの上下を身に着けその上に白のポンチョを被って出発した。時刻はちょうど7時になっていた。背中のコンパクトな折り畳みリュックは納経用具一式と飲み物、お菓子だけで一杯になった。

 

 天気予報を見てこの日のコースを変更していた。晴れなら当初の計画で歩く予定だったが、足元の悪い雨の中、人のいない峠道をいくつか越えるのは避けた。

最初の「農祖峠」だけは是非とも歩く予定だが「越ノ峠」や「槙の谷」の情報がない。地図には自然災害の起こりやすい地域らしく「当地点を通過するには斜面落石に注意、自己責任で通行を」と呼びかけているからだ。

晴れの日なら危険個所に近づいてから自己判断できるが、雨となると途中でも突発的に災害発生の危険が増す。悪天候の時に滑落や落石事故は発生しやすいので当初の計画は中止していた。

最初に「農祖峠」を越えたら44番・大寶寺を参拝した後で癒しの宿「八丁坂」に行く。時間があれば45番・岩屋寺に参拝する、という一日に変更した。

 

出発地の標高200mから「新真弓トンネル」に入るまでの約6Kmで高度差370mを登って行かなければならない。よく整備された舗装道路が右側の「太平川」に沿って徐々に登っていくと、ここでも通過していく車は非常に少ない。

 

 

 

 

車は数分に一台の割合で脇を通り抜けていくだけだ。歩き始めて1時間過ぎた頃に「三島神社」が見えてきた。この神社は四国遍路の道中で主要な寺と寺の間で見かける。

 

   

 

 

 この辺から、舗装道路は急坂になりヘアピンカーブが続く。歩き遍路道は自動車道の舗装と舗装の急斜面を貫く近道を行く。この近道斜面が脚にこたえ、汗が滲み出てくる。

 

 
やがて国道手前で分岐点があらわれ「畑峠遍路道」へは左の矢印に向かう、とあるが今日通る道はこちらでは無い。因みに「畑峠遍路道」を行くと「鴇田(ひわた)峠」に連絡する路になっている。この辺で標高510m、トンネル入り口が570mであと少しの辛抱だ。

 

 

平らな国道380号に戻って数百メートル歩くとトンネル入り口になった。

入り口手前に広場と休憩小屋があったのでここで初めて大休憩をとった。雨は小降り続きで晴れ間は望めそうになかった。広場にはトイレがありこの道中で唯一の休憩場所でもある。「新真弓トンネル」に入ると時折通り過ぎる車の音が、まるで津波が押し寄せる轟音となって後ろから追いかけて来る。何度通ってもトンネルは嫌なものだ。

 

この頃になると靴の中に雨が侵入しないように予防措置をとっていた。レインウェアのズボンの裾を広げ、靴紐の開口部を上から目隠しするように覆っていたのだ。雨用ズボンの裾の部にゴム紐が足首を絞るようについていた。ゴムを靴紐に絡め、上から降りかかる雨を塞ぐように工夫したのだ。今あるもので雨対策をしなければ初日のような失敗を繰り返す、と知恵を絞りやってみると雨粒は侵入しなくなった。以前、登山用スパッツを用意して靴を覆ったがスパッツは砂や小石は防ぐが雨にはたいした効果がなかった。こちらの方が効果がある。

 靴の表面だけ覆う雨よけグッズというものは探しても見つからないもので、あるものといえば靴底まで包み込む形になってしまう。靴底まで覆うものは山道や岩場を歩き続けると破れるのは確実で使う気になれない。誰か、お遍路さん向けの便利な靴カバー、靴底以外を覆うカバーを発明し作ってくれないものだろうか、と切に思った。

 

 

国道380号に沿って旧道に進んでいくと分岐点に昔の常夜灯があった。現代で言えば陸の灯台、といったところだろうか。ここから県道42号線に入ると1Km先に「農祖峠」の入り口があるはずだ、と方向を変えた。

 

 

 

 

 

 山あいの道を進んでいると山肌のあちらこちらから、まるで湯気がたちのぼるように靄が湧き上がっていた。

 その光景は森の息吹、厳粛な自然界の生命の営みのように私の目に映った。「龍」の生命体分子が「靄」となって地表から立ち昇り、風に揺られ上空で結合し「龍」になるかのようだ。

「龍を見た」という人はこの立ち昇って大きくなった雲を見たのでは、と思えてくるのだった。

 

山肌から立ち昇る雲、靄、の光景にしばらくの時間見入った。この光景を見られただけでも「農祖峠」を選んでよかったな、と心から思っていた。

 

 

農祖峠は入り口だけは舗装されていた。昔の主要道路の一つだったのだろうが、予想していたより険しい箇所は少なく足元の優しい峠道だった。ここはきっと険しくて大変な山道だろうと身構えると、じつはそれほど急では無い峠道の一つだった。

 

峠の標高は651mで、並行している鴇田峠より100m以上低いが、頂点を越してからの街中までの距離が随分長い気がした。

 

 

疲れがそう感じさせるのか、延々と終わらない山道にうんざりして来ていた。ああ、峠を越えた、という達成感が浮かぶと同時に覇気が消えそうになっていた。燃え尽き症候群という奴だろうか、気分が落ちこみふいに「鬱」に近い状態になった。

 

 

 徐々に歩くのも嫌になって来た。------駄々っ子が首を振り、もう歩きたくない、とわがまま一杯に叫んでいるような気分だ。

今日はもう終わろう、やめよう。

 エネルギーが枯れかけている気がした。肉体も、心も。-----車のエンジンがガス欠で停止するように、ストンと何かが停まってしまった。下り坂と惰性でやっと脚が前に動いているだけだ。

 久万高原に着くと雨がやみ昼の時間になっていた。今朝の予定通り、まずは43番・大寶寺に向かい、それから昼ご飯にしよう。肉体よ、それまでの辛抱だ!司令官になって身体に命令を繰り返し、励ましの言葉をかけ続けている。

 

 国道から一本入った久万高原町役場前を歩きながら、寺に行く前にラーメンがどうしても食べたくなったが、それらしい店が見つからない。

どうしてもラーメンが食べたい!

温かいスープで身体を癒したい。------頭の中にラーメンが浮かぶと、考えることはラーメンばかりになった。食い「意地」というより「執念」だ。

 スマホで調べると「道の駅」にラーメン店があるので方向を変えた。遠回りだが執念に取り憑かれた状態で自身の抑制が効かない。しかし、たどり着くとこの日は臨時休業の看板が掛かっていて、ガックリと来てしまった。おい、本当に休みなのか、と疑って店のドアを押してみる程に執着していた。

 

覇気が抜けた状態に、ラーメンが食べられないがっかり感が重なり、寺に着くまでのあいだ足がひどく重い。-------このまま何も食べず寺に行き、納経を済ませたら寺の裏側からの遍路道を歩いて行こう。その山道は以前通ったことがあり、峠を下りて行くと山肌を縫ってトンネル出口に合流するはずだ。トンネル先の集落には家街が並んでいた記憶があり、その辺で何か温かいものを食べよう、と気を取り直していた。

 しかし寺の裏側に回ると遍路入り口にロープが掛かっていて

この先の歩き遍路道は数年前の台風で崩れた箇所があり通行は危険。県道12号線「峠御堂トンネル」経由ルートに変更してください。

-------という主旨の看板がある。

 

えっ?通れないって?駄目なのか?

 

看板の前で呆然とした。雨で今日の予定を変更していたが、またここでも変更しなければならないのか?変更に次ぐ変更。他にルートはないのか。お遍路道以外を歩く事に困惑した。

お遍路道は地図に沿って忠実に歩く。困難でも歩き通す。

それが自分の遍路の歩き方だ、とこの2週間歩いて来た。足裏を痛め満足に歩けない日もあったが歩けるところは忠実に道をたどって来たつもりだ。それなのにここに来て違うルートを歩けと言うのか、とがっかりしてしまう。これじゃ、今までの苦労が水の泡だ。汚点になってしまう。

 

しかし、地図を見る限り、ここがダメならトンネルを進む以外に道はない。選択肢は他にないのだ。

 何故こんなに予定外の事が起こるのだろう、と暗澹たる気分になっていた。素直に頭の切り替えが出来ない。わがままな自分に固執し、忠実に遍路道を歩かせてくれ、野獣が吠えるようにわがままな自分が吠えている。

 

それからの約2時間、市街地で出会った人に道を尋ね、トンネル方面への道へ向かうと今日の宿を目標に歩いた。坂の途中ですれ違う女お遍路さんがいた。45番・岩屋寺を終え松山市内に向かうお遍路らしかった。そのスラリとしたスタイルに見覚えがあった。真念庵休憩所で出会った台湾人の女の人に違いなかった。右と左の車線ですれ違ったが互いに無言で頭を下げた。菅笠をかぶっているので誰だか見分けがつかないのかもしれない。私はなぜか自分が恥ずかしかった。遍路道以外の道を歩いている自分が恥ずかしかった。

 仕方ないだろう、という言い訳が自分には通じない。初志貫徹でなく初志屈折している自分が恥かしい。宿が見える頃になって、今日はもう止めだ、と決めた。宿に着くと届いていたリユックを手に部屋に入った。

 

この日の夕食の時だった。数人の歩き遍路と今日のこと話していると、44番・大寶寺の裏を通る峠道が話題になった。

「通行禁止の看板が出ていて残念だった」と私が思わず言うと、それを聞いた別のお遍路は

「いや、あそこは通れますよ。危険だとオーバーに書いているが実際はそんなことはない、通ってきました」と言う。私は驚くと同時に、チャレンジしなかった自分を後悔した。

その晩、遅くになって再び雨が音を立てて降りだした。布団の中で、明日は雨だろうと何だろうと岩屋寺には遍路道を歩いて行く、と決心していた。

 

この日の歩数 39807歩  距離 30.09Km   歩行時間 7時間38分

   内子町・ホテルA-Z  ~水戸森峠~大瀬地区・国道379号線 ~内子町小田・ふじや旅館

この3月初旬、ちょうど歩き遍路予定を立てていた時、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎が亡くなった。大江健三郎の作品は学生時代に幾つか読んでいた。大江は内子町の出身だとニュースが伝えていた。遍路旅のスケジュールでは内子町に泊まる予定だったので

「ついでに彼の生家を見ておきたい」

と思っていた。記念館があれば彼の直筆原稿を目にする事も出来るかもしれない、と思っていたのだ。

 ----私が通っているプールで月に数回顔を合わせる年上の方がいたが、たまたま彼もその内子町の出身だった。年に一、二度、地元に帰るというのでこの旅に出る前、大江健三郎の生家をご存じだろうか?来週から四国に行くので、もし知っていたら場所を教えて欲しいと話すと

「ケンちゃんのこと、知りたいって?」

と大江健三郎のことを「ケンちゃん」と呼び

「私の生まれた家は彼の3軒隣なんだよ。小さい時からよく知っているよ。-----僕はケンちゃんの弟と同級でね」と親し気に呼ぶのだった。

 大江健三郎は、小さい時から木に登って難しそうな本を読んでいた、とか子供のころから非凡なところの目立つ少年だったようだ。しかし生家は内子町のなかでも遠く離れた山奥の集落で市街地ではないという。知り合いの方も、年に一度墓参りには行くが実家はもう取り壊しており今は何もなくなっていると言うのだった。ついでに寄れるような場所ではないというので諦めざるを得なかった。

 

 この日は内子町の駅前から同じ内子町の小田という地区までの19.2Kmが地図の上での移動距離だった。ほとんど小田川という川沿いを歩く道でこれぐらいの距離なら軽く夕方には到着できるだろうと考えていた。

 朝の市街地には落ち着いた雰囲気の街並みが復元されていた。旧屋敷町の保存と維持に努め、培われてきた歴史をここを通る歩き遍路に見せるかのようにコースが組まれていた。

 

 

見たことのない景色が一杯で、確か以前は国道56号線が遍路道だったが今では旧市街地が遍路道に加わっている。 

 

街中の丘の上に立つ水戸森大師堂を下って行くとコンビニがあり、そこで念のために「水戸森峠」というのはコンビニの後ろの丘を指すのか確認した。しかし地元の人でもこの遍路地図は見にくいようで、地図を右に左に向きを変え、そもそも「水戸森峠」が判らない様子で、どうもそうらしいと答えるので丘に向かった。

 舗装の坂道を登り始めるとすぐ左へ向かう矢印が建ててあったので向かうと下り道になり、あれよあれよと石段を下っているとまたコンビニに一回りしてしまった。何故坂の途中で矢印があるのか理解できない。これで30分以上時間と体力を浪費したことになる。気を取り直して来た道を登り、元の坂道を先に進んでいくと今度は遍路矢印があって脇道を指している。今度こそ「水戸森峠」で間違いないようだ。歩き出すと次第に車の音が聞こえなくなった。

 数分も歩くとイノシシ除けの柵があるので開閉して進んでいくと「水戸森峠」の看板がありこの道で間違いないことを確信した。ここから先がイノシシ出没地帯なのだろう。

 

 

 

峠の周辺は伐採が進み、展望が効く眺めとなっていた。頂上付近で草刈り作業をしている人がいたので声を掛け地図を見せて進む方向を確認することにした。分岐路になっていて頂上から違う方向に向かってしまうと戻るのも大変な距離になってしまう。

  

作業していた方によると、かなり以前は別の方向へ向かうのが遍路道で、遍路さんはあっちに向かったがこの地図では今じゃ違う道が遍路道になっていますね、という事だった。

 

  

 

周辺には自動車専用道路が新たに開発されている。かつての遍路道は自動車道開発優先で変更を余儀なくされている。

 過去の歴史を重視するか、今の便利を尊重するか。歴史は現在の生活に直接の影響はないが、道路は生きている現代人に直接効果をもたらす。-----天秤にかければ答えは現代人の意見の方に軍配が上がる。過去は物言わぬ存在だ。

 峠を下りると出口に古い祠があり出入りするたびにイノシシ除けの柵の開け閉めが必要になる。この水戸森峠だけでなく四国全体、至るところにイノシシが跋扈しているようだ。

 

 

舗装道路に出ると、たまに通過する車があるだけで、いたってのんびりした風景が周囲に広がっていた。歩き遍路はここまで前後に一人も見かけなかった。

 

2か所ほどトンネルがあり通過するとそれぞれの出口に小さな作業小屋のような建物が建っていたが、時期によっては野菜の販売所でありそれ以外の時にはお遍路さんが泊まれるようになっていた。同じ四国でも地域によって迎え方も色々と違いがあるものだ。

 性善説でお遍路を見る人もおり性悪説でお遍路を見る人もいる。お遍路にも心が善なる人と悪の人がいるのか。

 

 

 朝から4時間ほど歩いて大瀬という集落を通過する時、たまたま橋の曲がり角に遍路休憩小屋があり昼食にしようとベンチに腰を下ろしていると小屋の脇には地区の案内板があり何気なく目を通すとそこに大江健三郎の生家という文字が書き込んでありここからすぐ近くのようだ。よくも偶然にここを通りかかったもんだ、とおにぎりを食べ始めた。ちょうど昼の時刻だった。

 するとそこへ年老いた男の人が手押し車(シルバーカー)で身体を支えながらやって来た。手助けに付いて来た高校生くらいの孫娘と共にやって来たのだ。孫娘が祖父を脇から支え、散歩と足の訓練に付き添う姿を見てこんな光景はまずお目にかかれないものだ、とほほえましく見ていた。

 二人がテーブルを挟んだ正面に腰を下ろしたので、私は話しかけた。大江健三郎の生家がこの近くらしいが、ここから見えますかと尋ねると、老人は丁字路の先を指差し、あの細い通りを入った3軒目が大江健三郎の生家ですよ、と教えた。そして、僕は大江健三郎の兄貴と同窓生なんだと、自慢げにほほ笑むのだった。

 -----驚いた。潮来市に住む私のプールの知り合いは大江健三郎の生家の3軒隣で弟の方と同級生、こちらの人は兄貴と同級生。念のため名前を伺い、後日プールに行ったときにその話をした。こんな偶然があった、と。

「その人は、歩いていたから橋のすぐ近くの人みたいで、名前は何て言ったかな、姓が何だったか忘れたけど、苗字は清いという字と数字の数と書いて『清数』って言ってましたが」

と言うと

       

「あっ、それは材木屋の〇〇清数だ」

と即答、幼馴染のフルネームを言った。確かにその時にメモに残していたものを読むと苗字もまさしくその名前だった。  

 ------不思議な偶然だった。大江健三郎が縁で、潮来市に住む内子町出身の人のその幼馴染が現地を通りかかった時に結びつくのだ。遍路歩きをしているとこんなことがよくある。誰もこんな話は信じないだろうと、橋のたもとにある地区の案内板の前で記念にその方の写真を撮らせて頂き、こころよく被写体になっていただいた。写真奥の中央の建物の裏通りで大江健三郎は育ったようだ。

 弘法大師は、何の関係も無い場所と場所、見ず知らずの人と人に縁を結びつけるようだ。四国に来て感じた不思議な一期一会だった。

 

  「昼ご飯だから家に帰ろう。ばあちゃんが待っているよ」

そう孫娘に促されると、とぼとぼ立ち去って行ったが、入れ替えるように二人連れの歩き遍路がやって来ると慌ただしく昼食を始めた。ずっとこの遍路道を歩く人を見なかったが同じルートでやって来たようだ。

「『水戸森峠}』の入り口で迷わなかったですか』と尋ねると、

「そんな道は通らなかったな。ずっと舗装した道だけ歩いて来ました」

という。東京から来た男同士の二人連れだった。一人は72才の遍路経験2度目、もう一人は退職したばかりの元会社の先輩と後輩の間柄だという。私が『飲むヨーグルト』を飲んでいると退職したばかりの方の人が振り向いて

「おやっ、『○○〇ヨーグルト』を飲んでいるんですか、ありがとうございます」

と、感謝の言葉を言うので不思議に思い「なんですか?」と尋ねると、社員時代にその乳製品メーカーに勤めそのヨーグルトの開発者だったという。彼らは食事を終えると先を急ぐように歩きだしたが曲がり角で後姿を見るたび次第に小さくなっていった。今夜の宿は同じ内子町の別の宿らしかったが明日またどこかで会うだろうと思った。

 

     

 

       

    

       

     

午後4時までに今日の宿「ふじや旅館」に着きたかった。リュックを今日中に宅急便で明日の宿まで送る手配をしておきたかったのだ。明日は出来る限り身軽な体で2か所の寺を打ち終わりたい、そのためには背中の大きなリュックは無い方がいい。納経帖と飲食物だけ小さな折り畳みバッグに移し替えれば身軽に動ける、と午前中に宿に相談の電話を入れていた。宅急便の集荷時間がその宿だと午後4時が目安だった。

 道の駅「小田の里せせらぎ」に着いたのは午後4時になっていた。宿はそこから歩いて5分のところだった。道の駅に着くとさっきの二人連れお遍路が迎えに来た民宿の車に乗り込むところだった。10分ほど早く着いていたようだ。3時間歩いてそれぐらいの差ならマイペースで歩いたほうがいい。やはり遍路歩きは一人のペースが一番いい、他人に合わせるとストレスがたまるか、無理して足を痛めるかのどちらかだ。

 

    

宿に着くと宅急便はすでに集荷時間を終え去った後だった。この旅館の隣りが郵便局でユーパックだとまだ間に合うと言うのでとりあえず急いで着替えた。汗になった衣類はビニール袋に入れると他のものと一緒にリユックに詰め込んだ。隣の郵便局に持って行って計量すると1160円で明日の宿「八丁坂」へ夕方までには届くというので一安心した。歩き遍路で辛いのは脚の痛みと疲れ、それと背中に背負ったリュクの重さだろう。

 

 7年前に夫婦で歩いていたお遍路がいた。いつも手ぶらで軽快に歩いているので不思議に思っていたが今考えれば夫婦は毎日荷物を次の宿に送っていたのだろう。費用は掛かるが疲労はその分軽減される。痛みと辛さに耐える、という意味では修行にはならないが物は考えようで無駄な金遣いではない。むしろ有効なお金の遣い方だ。

 私は今回、自分の脚力が以前と比べ落ちているのが判っていた。歩き通せるかわからない峠が明日控えている。せめて背中の荷物だけ軽くしよう。自分なりに有効な金の使い方をしようと思っていた。

 

 宿泊名簿に名前を記帳し、今日は他に何人泊まっているのか尋ねると一人だけだという。旅館はかなり昭和の面影が色濃く残っている典型的な和風旅館だった。映画の寅さんがひょっこり階段から下りてくるようなどちらかと言えば場末の寂れた造りだった。二階に案内されたが入り口が襖開きの4畳の間、更に障子で仕切られて8畳の和室になっている。畳がだいぶ色あせ畳床が体重の移動で所々沈むのには驚いた。通路も回廊風になっているが雨が板廊下を直撃するのだろう雨浸みの跡が滲んでいる。

 夕暮れになると小雨が降り出した。風呂に入り缶ビールで疲れをいやし夕食の時間を待つ間、明日向かうコースを反復した。

 

 宿を出て「新真弓トンネル」に入る迄が6Km。さらに5.2Km歩いて農祖峠の入り口。

標高650mの農祖峠を上り下りし県道33号線に合流。44番・大寶寺は翌日回しにして立ち寄らずに45番・岩屋寺へ直行する計画だった。

 農祖峠入り口から岩屋寺までで約13Kmの距離があり途中「槙ノ谷」と呼ばれる落石で危険な箇所を通過する。その道の様子がさっぱりわからない。参拝を終え6Km先の民宿「八丁坂」に一泊。それが明日の計画だ。総距離で30Kmになる。

 地図にある標高、峠の様子を想像すると無理ではないかと自信がなくなる。夕食を終える頃には雨が音を立てていた。峠はこの雨でぬかるみ滑りやすくなるだろう。計画は4年前に歩いた時の体力を元に考えていたものだった。計画を変えなければ事故を起こすかもしれないと自制心が働いた。峠に入ってから決断では遅い。よし、明日起きて決断しようと眠りについた。今晩中に雨が止めばいいが、と。

 

  この日の歩数 43429歩   距離 32.83Km   歩行時間 7時間41分

 

     西予市「宇和パークホテル」~(鳥坂峠経由)~内子町「ホテルA-Z」

 

 宿泊した宇和パークホテルでは朝も入浴可能だったので、たまには贅沢しようと朝6時からゆっくり大浴場で体を温めた。溜まっていた脚の疲れをリフレッシュしたかったのだ。

 足摺岬の民宿「大岐の浜」に泊まった時、風呂に貼ってあったある人のメッセージで知ったのだが、------ある山登りの男が、脚の疲れをとる方法をお遍路さんたちにメッセージで残していたのだが、そのメモによると酷使した脚の疲れをとるには、まず温かい湯に5分以上全身を沈め温めた後、湯船の中で数分間「正座」をすると言うものだった。正座をすると脚の各関節がほぐれ翌日に疲れを持ち越さない、ぜひ試してみてください、というものだった。毎日、長距離を歩くお遍路さんにも効き目はあるはずだ、と漫画入りメッセージで残した人がいた。自分に厳しく、他人に親切な人がお遍路さんの中にはいるものだ。

 

 物は試しとやってみると、普段から正座をしたことが無いので両膝を折り曲げ、足の裏を尻にピタッと当てるだけで私は悲鳴を上げそうになった。が、これも修行だと自分に言い聞かせ、痛みを我慢し、正座した姿勢で次第に足の裏に全体重をかけていくと固まった筋肉がジワリと伸びていくのがわかった。筋肉表層部分が伸びると、同時に関節と筋が引っ張られジワリ伸びてくるのだ。あれほど疲労で硬直しかかっていた脚が風呂を出る時にほぐれているのだから不思議だった。

 これは、収縮を繰り返す筋肉に、収縮とは反対の伸展を与えることで疲労が偏らないように、溜まらないように拡散させる、という事だろうか。理屈は判らないが事実効果があり風呂場での習慣になった。パークホテルのような大浴場は正座するにはおあつらえ向きだった。

 

 予定していた18日間の歩きお遍路は今日で13日目、後半になっていた。

私にとってまだ通ったことのない44番・大寶寺への途中にある「農祖峠」であり、45番・岩屋寺へ向かう「槙の谷」を通る遍路道、この2か所は辛い道のりになる気がしていた。46番以降のお寺は歩くルートは限られているし経験があったので問題はこの2か所だけだ、と踏んでいた。

 

 今日は宿から宿へ遍路道を歩くだけの日なので納経袋をリュックの中に仕舞い込んだ。お寺を回る日は肩から下げているが参拝の無い日はリュックに収めたほうが身軽だ。

 国道56号線をまずは「鳥坂峠」を目指して歩き始めた。真っすぐに伸びるアスファルト道路の脇道が遍路道になっていて、以前通った時、ほとんど国道だけ歩いた記憶があったのでここでも以前とルートが違っているのが判った。

 前後を見渡すとお遍路さんの歩く姿がポツリポツリと見受けられる。        

   

     

前の日、明石寺を打ち終わって歩いていると寺の周辺に遍路宿を何軒か見たが、そこに泊まっていたお遍路なのだろう夫婦のお遍路も見かけた。さて、いよいよこの先1Kmで山を越えることになる、というトンネル手前で酒六冷蔵(株)という会社があり「接待所」の看板があった。 

      

 これから峠に向かう遍路にとって清潔なトイレを使える最後のチャンスだ、と立ち寄ることにした。まだコロナの終息が宣言されていないのに、見ず知らずのお遍路を迎え入れてくれるとは、と寛大な経営者の姿勢を感じた。

 

    

トイレ借用の礼を言って出ようとすると、建物の中にいた女子事務員にペットボトルのお茶を接待していただいた。水分は峠越えでは余分にあった方が安心なのでリッュクに詰め込むことにした。こういうご接待を頂くと朝から気分が良い。

 しばらく歩いてトンネル前のお遍路休憩小屋を左折、国道から外れると山に向かった。

  

トンネルに入れば短時間で行けるのは百も承知だが、今日の歩行距離は峠道を登っても地図上で26.3Kmの計算だった。余裕を持って歩くのにほどよい距離だ。私のユックリな歩行でも昼には多分、大洲市内に到着できるだろうと計算していた。

-----街中でたまには昼に温かい中華料理でも食べたいものだ。空腹になるぐらい歩いたほうがいい、と歩き続けると峠の入り口に差し掛かった。この鳥坂峠は入り口に番所跡が残っていて、昔の関所なのだろうが復元された建物は現在では地元の人達の再活用の場になっていた。

   

   

 

足元が未舗装の坂道を登り始めると杉の木立が何か所か伐採され、光の通る明るい峠になっていた。何か所か機械が入って作業中で、この峠も何年か先は新しい峠道として整備し直される予感がした。

         

     

 

          

  峠道でしか見られない社が峠道の奥にひっそりと佇んでいたが、台風がやってくれば廃墟になりそうな廃れ方で近い将来には遺跡だけになる気がした。

 この峠で同年代の歩き遍路と出会ったが、この人とは近すぎず離れ過ぎずの距離を保ったまま大洲市内まで長い坂道を下ることになった。 訊ねると、彼の今夜の宿は大洲市内だというが大洲市内だと昼には着いてしまうだろう。遠すぎる宿も困るが、近すぎる宿も時間の効率が悪く困るものだ。

   

    


    

 ここでも山中に舗装道路があり下界まで続いたが車が見事に一台も通らない静まり返った遍路道だった。

      

 


      

国道56号線に出ると時刻は午前11時を過ぎていた。同じ峠道でも明るくなだらかな山道は距離が短く感じられる。

 

もう少し頑張れば大洲市内に入る。市内に入れば中華料理屋があるはず。汁がたっぷりの中華麺類が食べたい。久しぶりに餃子も食べたい、と頭の中は食欲と煩悩の渦と化していた。

遍路道は大洲市内の「肘川」沿いの道に入った。だいぶ前「おはなはん」というNHKの朝のドラマが放映されていたが、その記念街並みを歩いて行くと肱川大橋があり7年前の橋は新しく架け替えられていた。この肘川はつい2年前に氾濫し街が水浸しになった川だ。

    

 


    

 大橋を越える頃には昼1時を過ぎていた。国道から見えるところに中華料理屋の看板を見つけると一直線に迷うことなく店に入った。身体が塩気のある汁と脂分を欲しがっている。

 

     

     

客はまばらで席は空いていた。何故だかこの時にひどく天津麺が食べたくなっていた。

しかし、ざっと探しても看板メニューに天津麺が載っていないので『天津麵は出来ますか?』と店主に尋ねると、いかにも中華料理のこちらはプロだ、という顔つきで

『天津麺なんてね、あれは賄い料理として食べるもので、客に出す料理じゃないんだ、うちはあんなもの作らないんだ』と言う。頑固職人一筋で生きてきた人のようだ。どうしようか一瞬迷った。ここを出ても、何処に他に中華料理店があるか分からないし腹は空いている。タイミングを逃すと食べ損なうことはよくあるものだ。仕方がない、と五目中華ラーメンと餃子を頼んだ。遍路旅に出てからおにぎりとパンの昼飯が続いていたがお遍路をしながら贅沢は言っていられない。今日は豪華な昼食じゃないか、とここでゆっくり昼を過ごすことにした。

    

ここから予約している内子駅前の「ホテルA-Z」迄は13Kmの距離だった。午前中で今日一日の距離の半分を歩き残り半分だ。国道に戻って歩きはじめると日差しがかなり強くなっていた。じりじりと首が菅笠の隙間から入り込む太陽で焼かれる感覚だ。

 

 通りかかった番外の「十夜が橋」で対岸から橋の下を見たが低さからいって2年前の川の氾濫ではすっかり水に浸かっていたのだろうと想像した。ちなみに中華料理店で聞いた話では、その当時国道の周囲だけは水を被らずに済んだが国道から遠く離れるに従って被害は大きかったという話だった。

 

 

大洲市から内子町に入った。夕方暗くなる前にはホテルに着くだろう、と油断していると時間が思いのほか掛かってしまうことがよくある。ここでもそうだった。舗装道路から道が外れ、足元が草むらになるとどれだけ歩いたのか時間感覚が薄れて来る。じっと足元を見て歩いているためかもしれない。建物があると近づいて来た感覚、遠のいてきた感覚が視覚から分かるが何もない草道を見ているとどれだけ歩いたのか実感がない。

    

 やがて自然の沼池が見え広々とした運動公園が連なり、テニスコートやサッカー広場が展開し始めた。ああ、ここは内子町の運動公園だな、ということは外れから中心部に向かって進んでいると分かった。地図の上でもあと数キロ以内で中心部だ。

     

 

内子町には『内子座』という地方にしては珍しい大正時代からの劇場がある。明日の朝は立ち寄る時間もないだろうと寄り道をすることにした。街並みに溶け込んだ時代がかった芝居小屋である。文化面で発展した街は財政も豊かな街の証拠で施設の有無で街の歴史も判る。反対に財政に余裕のない街は食う、寝る、暮らすが最優先で文化施設まで手が回らず発展しずらい。

         

        

      


            

 夕方6時半に内子駅前の「ホテルA-Z」に到着したがこのホテルに泊まるのは3度目になる。ほとんどがビジネス客だ。部屋で着替えを済ませ洗濯しようとしたが5台ほどある洗濯機はフル回転状態で翌朝早い時間に利用することにした。衣類乾燥器があるので朝の洗濯でも大丈夫だ。

-----この洗濯だが、四国に関する限り全部の宿、民宿、ビジネスホテル、ゲストハウスに洗濯機は備え付けられていた。使用料が無料のところが半分、残り半分が200円前後で利用可能だった。ただし衣類乾燥機になるとほとんどが有料になり30分で300円のところが多かった。洗濯機を利用できるのは長期旅のお遍路を受け入れる文化も影響しているのかもしれない。私は今回、その日着ている服や下着の他に2日分余分に用意したが1日分は万が一乾かなかった時の保険であった。稀に乾燥機の備えていない宿があると生乾きのまま着替えを持ち運ぶことになるがそれは10軒に1軒程度だった。値段の安い民宿ほど乾燥機を備えていない傾向が多かった。

 5分ほど離れた駅前のスーパーに夕食の買い出しに行き、部屋のバスルームで入浴を済ませると久しぶりにテレビを見ながら夕食を摂った。缶ビール500mm1本とチューハイ350mm1本の晩酌が体をほぐし、夜9時を過ぎると眠気がやってくるパターンが続くようになっていた。

 

 この日の歩数 50733歩   距離 38.35Km     歩行時間 9時間49分

 宇和島市・リージェントホテル~41番・龍光寺~42番・仏木寺~(歯長峠経由)43番・明石寺~宇和町・宇和パークホテル

 

朝7時にホテルを出ると宇和島駅前を41番・龍光寺へ向かった。

リージェントホテルから県道に出るまで遍路道案内の標識に従い右折左折を何度か繰り返したが目にする街並みや景色が7年前と違うのに気付いた。

 

      

 

「こんな処、通ったかな----??」

不思議に思い後になって確認すると、ここでも7年前のルートと最新版地図でコースが違っている。街角や景色に見覚えがないのは当然だ。

 おそらく地元の歴史研究家が古い文献を詳しく調べ

「この道は明治以後創られた道で、遍路道とするのは間違い。狭い旧道が昔の主要道路だった」

と増版のたび修正が加えられているのだろう。

 しかし遍路道をあまり史実に厳格にし過ぎると、例えば県道や国道のトンネルは明治以後、文明の力で作られたものでありトンネルは山越えで登らなければならなくなる。川を渡るのもスクリューを使った舟は駄目で手漕ぎ、または泳いで渡れという事になってしまう。

    

この日は全国統一選挙開幕の日で龍光寺までの県道や農道で何台かの選挙カーとすれ違った。被選挙人から見れば歩き遍路は票にならないのは百も承知だろうが、かと言って無視する訳にもいかないのだろう車窓から鉢巻をしたウグイス嬢たちが両手を振り「お遍路お疲れ様です」「頑張ってください」と励まされ対応に困った。

 

           

 

41番・龍光寺に到着したのは11時を過ぎていた。快晴の日でじわりじわりと肌が焼けてくる実感がする。次の42番・仏木寺へは県道をまっすぐ約3Km足らずの筈だったがここでも脇道にそれるのを何度か繰り返し到着したのは昼12時を過ぎていた。------よく

「四国八十八寺巡礼は徒歩で45~46日かかる」

と言われるが遍路地図に忠実に歩くと多分それより数日多くなる。寄り道せず舗装道路だけ歩けば可能だろうがすべての古くからの遍路道、峠道を歩く場合それでは済むまい。 

 

         

 

42番・仏木寺に到着すると観光客が半分混じってテレビカメラも取材中、何なのだろうと参拝し終えてチラリと人の集まっている処を見ると地元高校生たちがお遍路さんへの接待に独自料理を作って振舞っている処だった。私以外はみな車での遍路だった。

 ポツンと離れた道路際の休憩所で昼のおにぎりを食べていると、一人の女子高生が休憩所までわざわざ1個を持ってきてくれた。ライスバーガーと言うらしい。人が群れている処が苦手なので休憩小屋で昼ご飯をとっていたが、歩き遍路がいるのに気が付いたのだろう、わざわざ持って来て頂いたのには感激した。魚のフライをライスでサンドイッチに調理したものだった。本当に人のお接待が有難く、美味しさを噛みしめた。

 

                  

 昼食の後でゆっくり休憩したいところだったが今日の予定に43番・明石寺が残っていた。地図上ではここから10.6Km先で、途中に「歯長峠」が控えている。

  歯長峠は7年前に通った時、途中の山道が崩れ、通行不可になっていた。しかしその時私はあまりにその年に通行止めの峠道が多く、一体どうなっているのかこの目で確かめようと警告無視でその崖崩れ現場まで行ってみた。通れなかったら戻ろうと思っていた。-------確かに危険だった。幅1mに満たない山道は崖下が80度近い急こう配で台風により幅がその半分崩れ落ち残り半分がかろうじて斜面にくっついているという状態だった。その残りも次の大雨が来たら流され落ちるだろうという状態だ。そろりそろりと山肌に体を寄せ、どうにか通り抜けたがあの時の危険個所が今ではどうなっているのか確かめたかった。

 

  崩落の手前にある規制柵と写真中央の上の梯子を伝って一旦安全な上側に抜け、次に左側に迂回していくようになっていた。

      

  通過して振り返った遍路道。木の陰に渡って来た規制柵が見える。

       

長い年月の間には、このように消えて行った遍路道が無数あるに違いない。

ここでも歩き遍路は一人も見かけなかった。

     

登り区間を区切るようにいったん舗装道路上に出たので、ホッとしたのもつかの間、再び森の中に進みこの峠の頂点まで登っていく。緩急の混ざった峠道だが日差しが入り暗さが無い。同じ峠道でも雨の日に暗く日差しの無い道を歩くと精神的な負担は違う。「焼坂峠」を思い出した。あの日の峠は暗く、日差しはなく、足はマメで痛み、鬱々として歩いていた。ところがこの峠は反対だ。同じ疲れでも明るい疲れがある。

 頂上近くの休憩所に到着し一休み。

   

 足元に凸凹とした石や岩は少なく、木の根の出た悪路は少ないように感じたが、これは足の裏の傷が回復し、これまでのように思わずのけぞるような痛みを感じなくなったせいかもしれない。

  

     

  アンテナの建つ電波中継所から下りだけの道になった。

    

 分岐路では「倒木多数、右側への通行禁止」になっていて左の道に進んだが、普段あまり利用されない道らしく足元はだいぶ荒れていた。

  

 やっと舗装道路に着いたが、見覚えないルートを通ったので着いた地点がどの辺か全くピンとこない。歩き遍路の案内に従って進むだけだ。

   

 

   

 「歯長峠」を歩き終え、県道31号線に合流したのは午後3時半だった。2時間あれば「明石寺」に着けるがこの時間だとギリギリだ。ここで、以前のように歯長峠口にかかる橋を渡って県道29号線を左折しようとしたが念のため橋の手前で地図を見ると最新版では橋を渡らず手前の川沿いを歩くことになっている。こういう小さな違いが重なると計画に影響してくるがそれが正しい道なら仕方がない、と対岸を眺めて歩き出す。

 やがて橋を渡り以前の遍路道に合流したがそこでも通ったことのない方向を矢印が示している。時計を見ながら次第に不安が増してくる。納経時間にひょっとして間に合わないかもしれないと早足になった。

念の為にと考えた。もし4時30分になって時間に間に合いそうもなかったら、その時は寺に電話し少しの時間納経所を開けて待っていただけないか、と頼んでみよう、と。

 

やがて目の前に松山自動車道の高架下が見え始めた。「西予宇和インターチェンジ」の下を遍路道は指し示すのだが、この辺は自転車でお遍路をした時も前回の歩き遍路の時にも何度か立ち止まる迷いやすい処だ。ここでも歩きのコースが以前と違っている。半信半疑で付近にあった矢印方向に向かったが二股のところで案内板が無く、方向違いに歩いている気がして通りかかった車を呼び止め、明石寺はこの方向でいいのかと尋ねると、違う、という。

 時計を見るとあと30分で午後5時、納経所が閉まる時間だ。正規の方向に向かいながら寺に電話を掛けた。

「今そちらに歩きで向かっているが、道に迷い数分遅れそうだが、数分間窓口を待っていただけないか」

と話すと

「今どの辺を歩いてますか?」と言うので右に見えた葬儀場の看板を読み上げると、「ああ、そこなら時間内に着けるかもしれませんね」と言うのだが「大丈夫、待っています」とは言わなかった。-----私は、待ってくれる、に賭けることにした。

 夕暮れが確実に周囲を覆い始めていた。これ以上の速足は無理だという歩きで前方に見えてきた山並みに向かった。その一角に明石寺はあるはずだった。

 やがて寺の看板が路上に見え、確実にあの山の中に寺があるのだが一直線に伸びる道路が恨めしく見えてくる。車やオートバイなら何でもないがこの明石寺は歩きだと直線になってからが時間のかかる道なのだ。それを今までの経験から知っていた。

 腕時計を見ると午後の5時が近づいていた。駐車場が見える。しかし遠い。あと3~4百メートルも彼方だ。その時、後ろから車のエンジン音が近づき、左に寄って道をあけるとマイクロバスが脇を追い抜いて行った。なんだろう、今の車は参拝者かな?息を弾ませ地面を見つめながら杖を突き、コン、コンという音が周囲に響いた。無理か、間に合わないか。時計の針は午後5時を指し石段下の売店はシャッターを下ろし始めているのが見えた。

「これは賭けだ」

と私は思った。時間に対する掛けでは負けてしまった。が、人に対する賭けはどうだ。果たして電話でお願いしたように納経所の人は窓口を開け、まだ私を待っていてくれるだろうか。駐車場に入り一気に階段を上がろうとしたが早足を続けていたので途中で立ち止まり数回深呼吸せざるを得なかった。これ以上階段を駆け上れない。

 ふと顔を上げると、薄暗い境内からは10人ほどの集団の般若心経を唱える唱和が聞こえてきた。ついさっき私を追い抜いて行ったマイクロバスがあったが彼らも納経時間ギリギリになってやって来たのだと判った。気を取り直し、石段を上がって納経所を見るとそこには一人の人影がありその向かいに納経所の明かりがあった。近づくと男の脇に10冊ほどの納経帖が積み上げられていてガイドが参拝人の数だけ代表して朱印を受けている真っ最中だった。助かった。間に合った。この人達がいなければ納経所の戸は閉められていたかもしれない。安心すると同時に体から力が抜けた。そしてベンチにリュックを下ろし納経を受けることが出来たのだった。

 夕暮れの中で一人参拝を終えても納経所の窓口の明かりは点いていた。ひょっとして私が境内を出るまで見守っているのか判らなかったがベンチに戻り置いていたリュックを背負い

「納経が間に合って助かりました」

と窓口に声を掛けると、窓口に居た50歳前後の男の人は読んでいた本から目を外すとコクンとうなづいた。

「数分間遅れるかもしれない、待っていて欲しい」

と電話で頼んだ人のようだった。彼も手持無沙汰らしく

「歩いていると、いろいろなことがあるでしょうね」

と言う。それをきっかけに私は思わず昨日の遍路道で迷った出来事を話していた。ずっと一人だけで物事を味わい苦しんでいたので誰かに話したくて仕方がなかった。

 -----野井坂と言う山奥の遍路道で、方向感覚がなくなり、雨に祟られ、遭難しそうになったこと。真っ暗な車一台通らない県道を1時間以上歩き民家にたどり着いた時、心底助かった、とホッとしたこと。真白い女の顔がこちらを振り向き崩れた顔のままニヤッと笑い腰を抜かしそうになったこと、恐怖を味わった次にお笑いのような話が待っていた事、なぜこのような奇妙な体験が降りかかってくるのか、と誰かに言わずにいられなかった。

 納経所の人は感心したように黙って話しを聞くだけだった。------それらの体験を話し終えた後、思わず

「-----天国って言うのは、地獄があるから味わえるんですね。あの地獄が無かったら天国も無かっただろう、と思いますね」

というと、寺の人もコクリと頷いていた。

 

 寺の出口に向かう右方向に林に向かって次の寺に続く遍路道が見えた。こんなに薄暗くなると遍路道は危険だが街中に降りるまでの短い遍路道だったはず、大丈夫だ、と歩き始めた。山の角を曲がり数分も歩いていると、真向い正面から夕日が沈みかけ、光のトンネルで出迎えていた。

  

 歩き遍路をしていると深い森の中で朝日が木々の隙間から光の束を投げかける時もあるがこんな夕陽の束とトンネルは初めての経験だった。

  

 

10分も歩くと山の遍路道は町内の舗装道路につながった。観光のための町の景観保存地域なのだろうか昔ながらの美しい街並みがあり、それも遍路道であった。

 

  

 独特の屋根構えの「宇和パークホテル」に着いたのは夜6時半を過ぎていた。

  

夕食前に大浴場で一人の男の人と一緒になった。時々こちらを見ている視線に気づき、ああ、この男もお遍路で歩いているのか、同類はどこか気になるものだなあ、と

「お宅もお遍路で歩いているんですか?」

と尋ねると

「いや、私はバスのドライバーでして」

と言う。マイクロバスだという。ひょっとしてさっき「明石寺」手前で私を追い抜いていたあのバスだろうか?と尋ねると、そうだという。

「我々のバスは5時数分前ぎりぎりで駐車場に着いたけど、後からやって来たのはお宅でしたか」と奇妙な縁がここで再び交わう事になった。この人が居たから納経の時間に遅れたのに私も受付をしてもらえたのだ。その二人がこうして大浴場で居合わせたのだった。

 

 左足裏の傷の痛みはかなり薄れていた。風呂から出ると毎回消毒と包帯は欠かさなかった。この宿の夕食時間は8時が締め切り時間だった。食堂でビールとバイキングの料理を空っぽの腹に詰め込むと、やっと落ち着きを取り戻しここでも滑り込みセーフとなった。

 

 

 

 

      歩数 50585歩    距離38.24Km   歩行時間 9時間23分

 

民宿柏坂〜柏峠〜満願寺〜野井坂遍路道(県道46号線&歩き遍路道)〜宇和島市ホテルリージェント 

 

 宿から「柏峠」入り口まで平坦な道だったが、山道に入ると坂道が間断なく続き始めた。朝の筋肉がまだ目覚めていないうちから坂を登り始めると呼吸も脚力も辛くなり、5分、10分と登り続けていると全身から汗がうっすらと滲み出始めた。20分も登ると額に滲んだ汗が玉になって滴り落ちてくる。30分も登り続けると初めての東屋風の休憩所が見え屋根の下に入ってコンビニで買ってきたスポーツ飲料を口に運んだ。

景色を眺めていると登って来た下の方から大きな声がする。

 

「ざーんげ ざんげー」 「ろっこん しょーじょー」

 

声が徐々に近づいて来る。

はて、何だろうと耳を傾けると

 

「懺悔、懺悔、六根清浄」

 

と言っている。テレビで山男が「懺悔、懺悔、六根清浄」と言いながら山を登る武者修行姿を見たがまさしくその声だ。何人かのグループが登って来たかと思ったがベンチに姿を現したのは小柄で年配の男性一人だった。

「------いゃあ、朝早くからお元気ですね」

と声を掛けると、それまで周囲に人がいないと思っていたのか急にはにかんだ様子で

「いゃあ、お恥ずかしい。誰もいないと思って大声出して登ってきちゃいましたよ」

と照れ笑いを浮かべた。年齢は80歳前後だろうか、私と同じく白衣に菅笠、杖を突いている。

 

「今まで女を泣かせた懺悔ですか? ハッハハ」

と冷やかすと、彼も「ハッハハハ」笑いで応じ、ベンチに腰掛けた。

 

「まァ、この年になるまで生きていると、知らないうちに周りに迷惑かけているかもしれませんで、ね、もしそうだったら御免なさい、許してくださいそんな気持ちで懺悔、懺悔と声出してたんですよ」

と初対面なのにざっくばらんで明るい人だ。

 この峠は標高の高いところで470mあり、海辺から登る急な足場が続く峠道だ。まだ中間地点なのに私は少しへばり始めていた。それに比べ、朝から大きな声を出しながら登って来るとは元気なものだ、と年齢を尋ねると彼はこう答えた。

「僕はまだ86歳です」

 

「まだ86歳」に一本やられたという感じだった。「もう86歳」ではない。彼にとって86歳は「まだ86歳」なのだ。

 この人も好奇心旺盛な方で、夏になると今もって北アルプスに登りに行くという。今回の遍路も軽自動車ジムニーを車中泊出来るよう改装し車に寝泊まりしながら自分の脚で峠を登り、ある所ではバスを利用しお遍路旅をしているのだった。

 お互いにお遍路旅の出来事を語りあっていたが、私が慈眼寺の穴禅定は記憶に残る場所でした、というと興味津々、そこはどの辺にあるんですか?と遍路地図を開き熱心にメモを執っていた。

 人は若い好奇心を持ち続ける限り86歳であろうと青年である。心が若さを保つ間は青春にいる。積み重なる年齢は人を皺で覆うが、内なる魂には新芽が宿っている。素晴らしい86歳との一期一会だった。良い人と語り合えた。

「一期一会(いちごいちえ)」と言う言葉があるが、この言葉は歩き遍路のためにある言葉だと思えてくる。毎日が出会いと別れの日だ。しかし一会ごとに人は何かを心に刻んでいく。残していく。

「まだ86歳」の言葉は「もう71歳」と感じている私を戒める言葉だった。

 

峠を登り切ると見晴らし台があり、初めて海が見えた。

  

 

 

この日は宇和島市内のホテルで素泊まりを予定にしていた。遅く到着して構わない気楽さがこの日のコースを未定にしていた。臨機応変、体力と脚の調子次第でトンネルを選ぶか峠に入るか体調次第にしていた

この頃になると傷口から匂った魚の干したような臭いは消えていた。マメが潰れた後の皮膚は白く固く角質化していた。化膿する恐れはもうないだろう、新しい皮が生まれる違和感だけがあった。

 

 国道56号線に出てしばらく歩くと簡易郵便局前のベンチで昼食にした。朝、コンビニで買ってきたいつものパンとおにぎりの組み合わせだった。彩り豊かな弁当も食べたいが容器がかさばり少しでもリュックはコンパクトにしたいと毎回同じ組み合わせになっていた。たまに温かい汁物、うどんやラーメンも欲しいが昼に繁華街を歩くタイミングは稀だった。

 

 国道から数十メートル逸れたところに、並行して遍路道があり川を見ながら歩いて行くと丁字路になった。まっすぐ行けば「岩松川」を渡る津島大橋があり川を挟んだ両岸は宿やホテルが集中している地帯だ。こちらの道で行けば早めに宇和島市内に入れる。

 

しかしこの時、案内板の前で心が揺れた。

真っすぐでなく、右に向かう遍路道で行こうと思ったのだ。

-----今回のお遍路で私は初日から足を痛め6日目になってバスを利用していた。次の日も半分以上バスに頼った。だから、せめて今日は遠回りルートを歩いて、なおざりにした分を補おうと決めたのだった。

 

 そのルートで行くと、右に一旦国道56号線を横断、県道46号線に向かって峠を越えていくのだが標高100mの上り下りだけで1時間はかかりそうだ。県道を左に4~5Km 進むと番外「満願寺」と言う寺に立ち寄る。それから再び国道に戻れば少しは今までの借りを返せると思ったのだ。-----何を馬鹿正直に「満願寺」まで寄り道するのかと思うのだが私は右に向かって歩き出した。

 

 峠は頂上まで舗装されている急な勾配の道だった。峠の両脇、山全体がミカンの木で覆われた山だった。 後に土地の人に話すと「ああ、ミカン峠か」と言うほどミカン一色の山だった。

   

 

 

 

番外の「満願寺」に着くまでに2時間以上かかっていた。地図上のイメージでは大きなお寺を思い描いていたがたどり着いてみると「満願寺」は小さく感じられ拍子抜けしてしまった。

         

 ここから左折し国道へ再び戻れば薄暗くなった頃にホテルにチェックインできるだろう。しかし地図を見るとこの先に「野井坂」という遍路道があるのに気づいた。少し距離は伸びるが大差ないように見える。せっかく茨城県からはるばるやって来たのだ、寄り道のついでだ「野井坂遍路道」も歩いてみよう、という気になった。時刻は午後の3時を回っていた。-----これが後に大変なことになるとは思ってもいなかった。

 

「野井坂遍路道」は満願寺を過ぎ1Kmほどしてから山に分岐していく道路だった。県道46号線を主にした舗装道路で標高は200m程度、「松尾トンネル」「新松尾トンネル」がその下を通っている。つまり、トンネルのなかった時代はこの野井坂が宇和島市に至る主要道路の一つだった。

 さて、いよいよこの先から民家が絶える、と言う地点で畑作業をしている夫婦がいたので声を掛け尋ねた。この道は舗装されていますか?遍路道で間違いないですよね?と。すると夫婦は顔を見合わせ「えっ?この道行くの?---まっ、舗装はされていますけど----」と言葉に詰まっている。

「行けることは行けるけど、今じゃ誰もこの道行く人いないよ----」ここを歩いて行くつもりなのか、と咎める口調だ。私は山に向かって歩き始めた。畑の夫婦は不思議なものを見るように私を見送っていた。

 20分も歩いたころ、ポツんと建っていた一軒の家から風呂を上がったばかりの中年男がステテコ姿のまま庭先に降りると

「ちょっと、お遍路さん!」と私を呼び止めた。

「この先に-----歩き遍路道の橋あるけど4年前の台風で流されちょってもう通れんよ!遍路道に行ったらいかん。舗装道路を歩きなさいよ!」

と心配してくれ、忠告に従うことにした。県道を歩くと遍路道より道は遠くなるが仕方ない。

 

 

 

 

 野井坂に入って30分も経った頃、点々と散っていた民家がぱったり無くなった。鬱蒼とした背の高い杉林が県道を覆い夕闇が近づいていた。本当に一台も車がやってこない。

「今じゃ誰も、この道行く人いないよ----」 と話していた言葉を思い出した。一台くらい見かけるだろうと思っていたが本当に一台も車を見ない。坂道を登るにつれ人の気配や家の気配、文明の気配が森の中に消されていく感じだ。時計を見ると午後4時を回っていた。

 

 早く下界に行かなければと焦りが出てきた。下界とは人家が見えるところだ。歩きながら不思議で不思議で仕方なかった。なぜ舗装された道路なのに車が一台も通らないのだろう。私が「進入禁止」「工事関係者以外立ち入り禁止」の看板を無視してこの道に入ってきたのならそれも分かる。しかし何の規制もないのに1時間近く歩いて一台も車が通らないとは一体どうしてだろう?------早足になった。一刻も早く「野井坂」を下らないと山の上で暗くなってしまう、と腕を大きく振り脚のピッチを急いだ。静まり返った森の中を杖の音だけが響いていた。

 

 右に左にとカーブが何度も続いた。だいぶ坂を上がってきた、そろそろ頂上かという地点で「遍路道入り口」の白い札が山の枝に下がっていた。このまま舗装道路を行った方がいいのでは?いや、ここから山に入れば近道があるはず、と一瞬ためらった。この時、周囲が暗くなってきた。雨雲が近づいていた。天気予報ではこの日の雨は予報になかった。焦りが一層強まった。どっちに行こう?舗装道路か、山道か?

 「ここまでやって来たのだ、どうせ苦労するならついでに遍路道に入ろう」と籔の中に分け入った。顏の高さに草や枝、笹の葉が生い茂り足元がはっきりと見えない。枝と枝の隙間を狙って歩みを進めていくと、ポツン、と雨粒が頬に当たった。見上げると、黒い雨雲が頭上を流れている。ポツン、ポツン、と雨が粒を増し始めたと思うと周囲の葉っぱが風に揺れ始めた。数分後、雨は音を立て降り始めた。通り雨だろうか、このまま濡れると体温を奪われるとリュックを外しポンチョを被った。地図も雨具と下着の間に挟みこんだ。山道を枝を振り払いジグザグに上って来たので今さら同じ場所に戻れる自信もない。---こっちが遍路道の筈だ、と10分以上枝葉に頬を撫でられながら進むと丁字路に突き当たった。ほっとした。

 右と左を指差した遍路案内が目の前にあり、それぞれ矢印の先には行き先が書いてある。道が二方向に分かれるのだが書いてある左右の地名は聞いたこともない地名だ。関西人が東京に来て「新宿」に行きたいのに「右が浅草、左が神田」と地元の人に教えられているようなものだ。私も地元の人間ではない「宇和島方面」はどっちだ?と困り果てた。

 そうだ、ナビをみてみよう、とスマホを取り出したが画面に印は出るものの山の遍路道なので肝心の道の表示はない。真っ白な画面にポツンと印しがあるだけ。道の無い場所でナビを開いても案内はされない。あまりに右折左折を繰り返してきてしまったので見当がつかない。困った。私は賭けをすることにした。左側の道に歩みを進めた。

 このままじっとしていると暗くなり足元も見えなくなるのは明らかだった。人が歩いたらしい隙間が木と木の間に延びておりひたすら前進した。さっきの丁字路が遍路道の頂点だったらしくあとは下りの山道になった。右にもし行ったとしてもそうだったろう。どちらが正しいのかこれは賭けだった。

 

 結局1時間近くかかって舗装道路に出た。山道が舗装に変わった瞬間、これでやっと人家に近づいた、文明生活に戻ってきたと一安心したのだった。周辺はかなり薄暗くなっていて見回すと道路標識があり「県道46号線」とある。「なんだ、さっき登ってきた県道か」とがっかりしてしまった。

 

 山の遍路道に入って以来、実は「遭難」という文字が頭をよぎっていた。誰も通らない山道で転倒でもしたら、または斜面から滑り落ちたら万が一の場合動けなくなる。そうなると遍路歩きどころではなくなる、と山の危険を感じ始めていた。が、降りて来た道は又同じ県道だ。どうもこの山の周囲を取り囲んでいる道は県道46号線だけのようだ。道を右に行けばいいのか左なのか、咄嗟の判断で下っている方向に足を進めた。野井坂の頂点は過ぎた筈、下りの道が人のいる方向のはずと本能が働いたのだ。

 

山に入ってからの道が近道だったかどうかは結局は分からなかった。とにかく人家が見つかるまでは歩くしかなかった。----フクロウなのだろうか、鵺(ぬえ)の鳴き声なのか、不気味な鳥の声を山道で聞いた。恐怖映画のワンシーンでしか聞いたことのない低く籠るイヤな鳥の声だった。鳥の声は普通、高音で高く通る鳴き声だがその鳴き声は闇の奥から威圧し驚かす声だった。一羽が低く鳴くと数十メートル離れた枝からもう一羽が同じ鳴き声で応え、まるで鳴き声で脅し行き先を阻むかのようだった。周囲はすっかり闇に包まれていた。

 

電話で助けを呼ぼうと思った。もう、なりふり構ってはいられない。

「-----おい待て、舗装道路で助けてくれだって?オーバーじゃないか?」

と、ためらいがあった。しかし車も人も通らない。他に車を呼ぶ手立てはない。-----焦るばかりだ。

「山で遭難なら話は分かる。が、路上で救助要請って?変じゃないか?」

と、助けを拒もうとする。いつもの自分と、異常事態の自分とが言い争っている。私の中に私が二人いる。

「変じゃない、命が最優先だ、見栄なんか捨てろ。電話しろ、構うな。この道は普通の道とは違う」

 そんなやり取りと逡巡を闇の中で繰り返した。ペットボトルに半分麦茶が残っていたが早足を続けて喉は渇いていた。残っていた半分を飲んで渇きを癒やした。四分の一だけ残しておこう。肉体的にも疲れがピークを越していた。なぜこんなに歩き続けられるか自分ながら驚きだった、これはもう気力が身体を動かしているだけだと思った。人を動かすのは最後は精神力だ。

 県道46号線を歩き始めて1時間、山道に入り込んで迷い1時間、再び県道に戻って1時間、もう3時間も歩き続けていた。

 

携帯電話でタクシーにここまで来てもらおう、と考えた。

警察や救急に電話しても事故でもケガでもないのに的はずれな気がした。第一、もし電話したとしてどう答えるだろう。「お名前は?」「現在どちらです?」と聞かれ「今、何処にいるのか分からないんです」と答えれば認知症の老人が徘徊し迷子になっているとしか受け取られないだろう。-----スマホで宇和島市のタクシー会社を調べ呼び出すことにした

「遍路道に迷い、どこを現在歩いているのか分からなくって困っている。県道46号線上は確かだが目印になる建物が周りにまったくない。グルリと県道を回って白衣姿の遍路姿を探しに来てくれないか、ちょうど今、松尾トンネルの真上の地点らしい」

と伝えると受付窓口の人は、うちのタクシーは3台全部が出払っていて無理だ、と断られた。電話を切った後、もし自分が同じことを頼まれたら送迎を引き受けるだろうか?と自問した。暗い県道46号線の森の中、松尾トンネルの上周辺で迷子になっているお遍路を探せ、言われても雲をつかむような話だろう。何処に電話しても無理かもしれない。気落ちしたまま数分歩いてスマホの画面をのぞくと電波は圏外になっていた。万事休す。電話が通じない地帯に来てしまったのだ。歩いて自力で麓に、民家にたどり着くしかない。

 それから15分以上歩いたところで採石現場の明かりを見つけ

「やっと人に会える」

と喜んだが、ガランと静まり返り大きな重機が闇夜に影を落としているだけだった。さらに10分歩くとやはり建物と光が見え、ああ、今度こそ助かった、と近づいてみると建築会社の資材倉庫でショベルカーが敷地に数台置かれ門も閉まって人の気配がなかった。

 脚は棒のようになっていたが闇の中で立ち止まる訳にもいかない。ダラダラと道は下り続け、やがて集落らしい光が点々と見えてきた。午後になってから20Km以上は確実に歩き続けた気がした。おそらく今回の歩き旅で一番歩いた日になるに違いない。

 

 闇の中に電信柱が点々と明かりを灯し立っているのを見た時、今度こそ人家がある、人がいると確信した。光が灯っているところは人がいる、人は闇夜に光を必要とする、だからあそこは誰かいると、支離滅裂な三段論法が自分を勇気づけ精一杯の速足で向かった。

 小さな住宅がぽつりぽつりと間をおいて建っている。間違いない。倉庫でも採石場でもない。絶対に人の住んでいる家だ。

一軒目の家の庭先に入って時計を見ると夜の7時を少し過ぎていた。ドアをノックし、

 

「今晩は、済みませーん」

 

声が良く通るように玄関口に顔を突っ込むように声を掛けた。数秒経って反応が無く、もう一度さらに大きな声を掛けた。しかし室内からは何の反応もないままだ。玄関灯は点いているのに耳を澄ましても室内からテレビの音も何も音がしない。留守のようだ。

 仕方なくその隣の家に向かって行くと、今度は道路からでも人の声が聞こえてきた。女の人だろう賑やかな声が伝わって来た。今度こそ間違いない。人がいる!!

玄関で、室内の賑やかさに負けない声で

 

「今晩は、済みませーん」

 

と大きな声で呼ぶと、男の声で「はーいっ」とすかさず反応があった。居た、人が居た。私は小躍りしそうになった。嬉しい。助かった、と言う思いだった。出て来たのは40歳代の男の人で、私は、夜に突然の訪問で失礼します、と詫びたうえでここにやって来た事情を話し始めた。

 

 ------見ての通りお遍路で、10日前から四国に来て歩いてます。今日午後から野井坂遍路道を歩いてきたが県道46号線の途中で山道に入り方向がわからなくなってしまった。再び46号線に降りたが道は曲がりくねりを繰り返しどの辺を歩いているのか分からなくなり、やっと今この家にたどり着けた。済まないが知っているタクシー会社があったらタクシーを一台こちらに呼んでいただけないだろうか。宇和島市内にホテルをとっているのでそこまで乗って行きたい、とお願いした。

 

 この家の家族は夫婦と子供たち数人で暮らしているようだった。女の子らしい笑い声が窓から周囲にこぼれていた。その明るい笑い声と雰囲気に、今までの淋しかった真っ暗な思いが一気に晴れる感覚だった。明かりがあるのは何といい事だろう。笑い声が聞こえるのは何と頼もしい事か。

 タクシーが到着するまで20分くらいかかるようです、とご主人は言うと庭先の屋根付き駐車場に椅子を置きここで座って待つよう勧めてくれた。私の体はポンチョを被っているが全身ずぶ濡れだった。この時刻になって通り雨は去っていた。足元にあった灯油ストーブに灯を点けると暖を取ってあたるようにと勧めてくれた。さらにペットボトルのお茶を持ってきて、よかったらと勧めてくれた。私はリュックに残していた自分のペットボトルを取り出すと一気に飲み干した。それまで我慢していた渇きを満たし、礼を言って遠慮なくそのペットボトルも頂いた。ああ、これで助かる。もう歩くのはここまでだ。この時の緊張がほぐれる瞬間はお遍路に出て初めて味わう至福の時間であった。

 -----ここで、すべての出来事が終わればよかったのだが、この日はさらに「おまけ」がついていた。

 

 タクシーを待ちながら駐車場でお茶を飲んでいる時だった。

さっきから妙に明るい笑い声がするな、女の子が家族にいると家全体が賑やかなものだなと思っていた。そしてふと横を見ると窓から外廊下に女の子が出てきた。それも何やら愉快そうに肩を震わせ笑っている。よほど楽しいことがあったんだな、と女の子を見ると室内の明かりがレースのカーテン越しに女の子の顔を照らした。-----その横顔は異様な真白さで浮きたっていた。私はギョッとした。色白と言うレベルではない。包帯を巻いた白さだ。-----何なんだこの女は?驚きのあまりペットボトルを落としそうになった。石膏で顔を固めているのかと一瞬考えた。女の子は自分の顔を両手で触り、しきりに自分の顔の造作を確かめている。その横顔は凸凹に歪んでいる。おかしい。人の顔がこんな訳がない。顔中包帯を巻いているのか?大けがか?するとその女の子がこちらを向き「ニヤリ」と笑った。目が点になった。何とその顔は半分潰れているのだ。目も口も、鼻も、顔の半分がのっぺり白い肌で覆われ、うわっ化け物!!と腰を抜かしそうになった。来るな、やめてくれ、何なんだこの家は?化け物屋敷に来てしまったのか?この家の旦那も同類か?道に迷っていた苦労もそれに続く安ど感も一瞬で恐怖に変わり震えあがった。ああ、「下界」じゃなく「妖怪」の世界に来てしまった!

 

私は白いお化けを指差し

「な、なっ、何なんだ、この人は?」と言った。

 

すると旦那さんは、ニコニコ笑いながらこう言うのだった。

「今日は娘の18歳の誕生日でお祝いしていたんですよ」彼は続けた。

「大きなデコレーションケーキ買って来たんですけど、食べるより思い出に残ることやってみたいと言うのでそのケーキを顔にベチャっとやって記念写真を撮ってまして」愉快そうに笑った。運がいいのか悪いのか、ちょうどそのタイミングで私は山道からこの家にたどり着いたのだ。-----これはまるで笑い話じゃないか。私は椅子にへたり込んでしまった

 

やがてタクシーがやって来てホテルに着くまでの間、私は疲れ果て座席で虚脱状態になっていた。天国と地獄を一度ならず二度も味わう日となったのだ。

 

 

    この日の歩数 54073歩   距離40.88Km  時間10時間12分

 

 朝、ミマキガーデンから篠山神社の駐車場まで送ってもらったが、途中の県境を通る「篠山トンネル (全長1202m)」に入ると今まで経験したことのない闇の世界があった。トンネル入口と出口にだけ天井にわずかに灯があるが以後は非常灯もない真の闇で不気味さに思わず身が引き締まった。昨日は軽自動車に3人乗って話しながら来たので余り感じなかったが、昨日の人が

「篠山神社迄1人で車で迎えに行くのは怖い」と言っていた意味がよくわかった。

 

 

 

 

 今日の送迎は男性のスタッフだったがやはり80歳代で、篠山神社に関する幾つかのエピソードを聞くことが出来た。ある遍路は山頂から歩いてミマキガーデンに降りようとして別の登山道に迷い込み、翌日になって離れた麓から連絡が入ったという。

 ある車遍路は9合目駐車場でうっかり車のライトを消し忘れたまま神社に登り、戻ると車はバッテリー切れでエンジンがかからず、救援を頼もうとしたが携帯電話は圏外、仕方なく夜中にトンネルを抜けミマキガーデンに歩いて来たという。篠山神社は古くからお遍路の鬼門なのかもしれない。

 

駐車場に車は一台も見かけなかった。
車を降りると山にはまだ朝の冷気が残っていた。駐車場裏から山を下り始めたが、果たして今日は計画通り宿に到着出来るか自信が無かった。
 今日は「柏峠」の麓の民宿「柏坂」を予約していた。地図の上では31.2kmと一日に歩く距離として平均的だが40番・観自在寺の他に寄り道2ヶ所を予定していた。
 一つは篠山神社から下りて数キロ先にある「歓喜光寺」だった。もう一か所は篠山神社の第一鳥居がある「一本松札掛」、この2か所に立ち寄りたいと思っていた。
 -----しかしこの予定はあくまでも4年前の体力と4年前の若さを前提に計画したもので、歩き始めてから、まさか自分の体力が4年前より衰え歳をとっているとは予想もしていなかった。計画を立てた時の私は、いつまでも変わらない青年であり青春を自分に期待していた。
 
 足の裏の傷口は塞がって来たが木の根や小石を踏むと痛みが靴底から響いた。まだ完全に治ってはいない。ゆっくりとしか歩けないので予定より宿への到着は遅くなるだろうと思っていた。
 山を下って「篠山橋」のたもとで休憩をとった。自販機で、普段は決して口にしないコーラを飲み糖分を補給した。不思議なもので山で汗を流すと必ずと言っていいほど身体がコーラを欲しがるのだ。
「篠山橋」から2Kmほど歩くと目当ての「歓喜光寺」があった。県道から逸れた旧道の家並みの奥に寺の入り口があった。 
        
 
        
        
 「歓喜光寺」は篠山神社と40番観自在寺とに因縁のある寺で、その昔は篠山神社に観自在寺の「奥の院」が祭られていたが神仏分離令でこの寺に遷座したという。誰も人の気配がしないお寺だった。左の墓の奥に長い石段があり、登っていくと小さなお社がありそれが次に向かう40番・観自在寺の奥の院だった。
 この数軒先には「戸立てずの庄屋」があった。昔、悪戯な天狗が家人に捕らえられ「この家に泥棒が入らないよう見守るから許してくれ」それ以来この家では戸締りをしなくても済むようになった、という言い伝えがあったそうだ。チラリと覗いたが誰もいない様子だった。もし入り口に「セコム」のステッカーが貼ってあったら面白かっただろう。歩くついでに見られるところには立ち寄っていた。
 



 篠山小中学校を過ぎてから丁字路を右折し「篠南トンネル」方面へ舗装道路を登り始めた。トンネルは県道か国道だろうと思ったが「南宇和広域農道」であった。
 
    
 トンネルをまっすぐ行くかそれともトンネルの上を越える右の遍路道に入っていくか迷った。とりあえず遍路道に入ったところで昼食の時間にした。
   
昼食はこの日の朝、ミマキガーデンのご婦人から接待されたおにぎりやお菓子、ミカンを頂いた。この日は日差しの強い日でミカンがとても美味しく喉元に浸み渡った。私は宿毛市で最後に泊まったホテルで旅行支援のクーポン券をもらっていたのでガソリン代の足しにして、とご婦人にご接待していた。体が要求するのか菓子やミカンも頂いたのだが、お接待で頂く物に無駄になるものはなかった。
人生にも無駄な人はいない。何処かで誰かが誰かを必要としている。人は、その何処かと誰かに気が付かず鈍感なだけだ。
      
遍路道を登り始めたが倒木や木の枝が行く手を阻みストップ。周囲を見回し一段高い斜面にある別の道の跡を行ってみようとしたがここも倒木が立ちはだかっていた。トンネルが出来てから使われている様子が無いので山をまたいでいくのは中止した。
 
 トンネルを過ぎると大きなアップダウンのある広い道路が正面に続いた。地図と比べてもこの道路の右へ左への繰り返しは同じ形で延々と続いている。
 しばらく歩いているうちにいつまでもこの道が左側に見える街中に向かわないでいるのに疑問を感じた。地図では「札掛けの宿」と言う民宿が街中にあってそのすぐ近くに篠山神社の第一鳥居があるはずだ。ひょっとしてトンネルを過ぎた後で左折する丁字路があったのに気が付かないままにまっすぐ進んてしまったらしい。
 



(これは後で気付いたのだが、同じ遍路地図でも13版と11版では遍路道が違う。13版では広域農道は通らないのに対し11版では通ることになっている。この時私は13版を使っていた)
 
 第一鳥居は目立つ筈、と思って街中を歩きながら探したが見つからない。紆余曲折した挙句に人に尋ねて鳥居にたどり着いたが意外にも背丈の低い鳥居で、よく見てみると篠山に入る時に見た第2鳥居と瓜二つであった。鳥居の後ろの建物が民宿「札掛けの宿」だった。
 
 下が篠山入り口にあった2番目の鳥居
 
午後の暑さで疲れがたまり始めた。
満倉簡易郵便局の前を通る遍路道は、時には畑の中、竹やぶ、舗装道、小川沿いと変化に富んだ遍路道で前に通った道とイメージがまったく一致しない。ここで一人歩き女遍路のスコットランド人の若い女性と一緒になった。まるで青い目の西洋お人形さん、と言ったクリクリした目と表情でニコッ、と微笑む瞳にもう少しで危うく恋に落ちる処だった。足の速い人で両手にストックを突きながら歩く後姿がたちまち小さくなっていった。
 
     
40番・観自在寺への到着は午後4時になっていた。先についていたスコットランドのお人形さんは納経所で印を押して貰っている処だった。そこにアメリカワシントンからの小柄な年配女性が加わったが歩き遍路らしいお遍路はそのほかにはほとんど見かけない。外人が日本人より歩き遍路は多いくらいだ。お二人さんはこの周辺の民宿に宿をとっているという。
 
  
ここから私が予約している「民宿柏坂」迄はほぼ10Kmの距離で現在の足の状態では歩いて2時間では到着できない。6時半から7時近くになるかもしれない、と電話を入れると
「迎えに行きましょうか?」と向こうから助け舟を出してくれた。「えっ?いいんですか?」と思わず答えてしまったが、最初に電話で予約した時もこの宿のご主人の優しそうな受け応えが印象に残っていた。訊ねもしないのに「うちは一泊2食付きで4000円でやらせてもらいます」と言うので「えっ?4000円?安すぎですね」と驚いた覚えがあった。宿の方では私が無事に到着できるか電話を待っていたらしい。「あと30分ぐらい用事があって、迎えに出かけるのはそれからになるけど、途中の道で歩いているのを見かけたら私の方から声を掛けますから」と言うので、よろしくお願いします、歩けるだけは歩きますと答えて電話を切った。せめてあと5Kmは歩きたい。
 
歩きながら以前に泊まった宿を見かけた。自転車で初めて回った時に泊まった「ホテルサンパール」は廃業している様子が閉じられたシャッターで分かった。そのほかにもいくつかの宿が店を閉めているのが伺えた。コロナによる社会の閉鎖が世界中に多大な影響をもたらしたのを、3年ぶりに四国を歩いていてよくわかる。特に、人を何人も雇う宿泊施設等は人件費の捻出に苦労し廃業、休業。この3年間の影響は大きい。
 1時間は歩いただろうというところで、道路の向かい側の空き地に停車していた車からこちらを見ている人がいるのに気付いた。私の杖を突くお遍路姿で確信したらしく
「こちらです、どうぞ乗ってください」と手招いた。「民宿の柏坂さんですね」と確認するとその軽自動車の後ろに乗り込んだ。運転席と助手席に60歳代夫婦が座り、奥さんの膝にはポメラニアンだろうか小さな犬が怪訝そうな顔で座っている。見知らぬお遍路が乗り込んできたので吠えようか、我慢しようか飼い主の様子を見ているようだ。10分後には民宿に着いたが民宿柏坂は以前にスナックだった建物を買い取り民宿に変えた建物だった。
 
「民宿・柏坂」のこの日の宿泊客は私一人だけだった。数週間前にこの近くの別の民宿に電話した時「その日は釣り客が多く満員です」と断られていたので、ここもおそらく一杯だろうと予想していたので意外だった。しかし泊まってみてわかったがこのスナックを改造した店は部屋は従業員が使っていたような薄汚れた部屋で掃除が行き届いていなかった。トイレもこの遍路旅で初めて体験する和式トイレだ。今どきシャワートイレの付いていない民宿はほとんどといっていいくらいあり得ない。
 人によって「泊まれるなら安けりゃいい」という人もいるが気持ちよく安眠できる環境と設備が宿としての基本条件だと思う。4000円で2食付きか、なるほど安いわけだ、と納得がいった。
 
 
 この日の歩数 50657歩  距離 38.3Km   歩行時間 9時間9分。