8日目~11日目
今回の歩き遍路では万が一に備えマット、寝袋を用意していた。
テントは「ツェルト」タイプのコンパクトサイズにしたが、マットやシュラフ一式で荷物の半分近くを占めた。歩き始めて7日目にそれを利用する日がきた。場所は「鯖大師」から3Km先の「まぜの丘キャンプ場」だった。
この日、歩く距離は全長25Kmでそれまでのような険しい道はない筈だった。日和佐市内「弘陽荘」を出たのはゆっくりの7時過ぎだった。『薬王寺』を参拝し、アスファルトの道が続くコースになった。
途中の無人ドライブインではサルの親子が姿を現し、トンネルに差し掛かると地図に従い律儀に山を遠回りに迂回したが無人の山裾には奇怪な岩肌が荒々しく立ち並んでいた。
「鯖大師」を過ぎてコンビニに立ち寄ると早目に夕食を買うことにした。キャンプ場には食糧が置いてあるのかどうかはわからなかった。やがて16時にはキャンプ場に到着し受付で利用料、テント設営場所代1800円を支払うと設営広場に向かったがサッカー場3面ほどの広大な芝生に利用者は私一人だけだった。
「夜はテントに灯りをつけるかラジオ点けていた方がいいです」
と管理人からのアドバイスがあり、その理由を尋ねると夜中にシカやイノシシが出るので光か音でバリアーを張っておいた方が安全だと言う。
コイン温水シャワー、水洗トイレが別棟に独立していてその近くにテントを張ったが利用者が誰も他にいないので不気味だった。夜露に濡れないようにテントの中にリュックや靴を入れると狭いツェルトの中は一杯になった。
一度夜中にトイレに行ったが蛍光灯に照らされた建物には私の外に利用者はなくシカでもイノシシでも近くにいた方が淋しくないとさえ思うのだった。
9日目は明け方5時にキャンプ場を出たが、まだ薄暗かったせいか間違った方向に
1km以上進み、この方向じゃないと気がついて戻り、と、これまでの最高記録63000歩を歩き、夕暮れにやっと「ロッジ尾崎」に着いた。海を見ながらひたすら歩きとおす日になった。
続く10日目は『金剛頂寺』宿坊までの短い距離だったが、と言っても25Kmは歩くのだが「ジオバーク」や「青年大師像」に立ち寄っての道草遍路となった。
今回のお遍路の最終日は、高知市内の寺を打ち終えた時点にしよう、と計画していた。
計算すると4月第2週から歩き始めれば連休前には高知市内に着くはずだった。高知市は区切りによい場所と計画していた。
11日目、前日に泊まった宿「唐の浜」に荷物を預け27番札所「神峯寺」を目指し朝の静けさの中を歩いていた。海岸線から標高430mの「神峯寺」までの距離は3.4Km。「まったて」と呼ばれる勾配の急な山道の先に寺は位置していた。歩き遍路にとって一直線に山に向かって登る難所のひとつだ。
「まったて」のゆるいカーブの先に一人のお遍路が歩いていた。彼のスピードは私と同じペースで30分経ってもその差は縮まりもせず離れもしなかった。やがて、彼の姿の先にもう一人の人物が見えその男はどうもお遍路とは違うようで白衣を着ていなかった。
大きなリュックを背負い、しっかりと道を踏みしめる足取りから背中の重さが思いやられた。しばらくするとグリーンのシャツの男は疲れたらしくリュックを外すと腰を下ろした。追い越し際に見るとリュックの後ろには黄色い細長の看板に「日本一周」の文字があった。日焼けした男の顔は若々しく、笑顔で目礼を送った。リュックの中はテントも入っているのだろう20Kg近い重さに見えた。リュックを背負ってこの坂道を上り下りするのは容易なことではない。
27番「神峯寺」の参拝を終えた帰りの坂道でアメリカ人遍路と歩調が一緒になった。テキサス出身の男で数日前から時々宿で顔を合わせ、行く先々の寺でもすれ違っていた。彼も前の日に泊まった宿に荷物を預けこの朝、坂道を手ぶらで上っていた。アメリカ人と言っても背丈は私より低いくらいで60歳と言うが年上に見えた。そして中学生程度の私のつたない英語に付き合ってくれるのだった。
彼が日本行きを決めたのはつい2ヶ月前だという。お遍路の地図も準備し万が一に備えテントも背負いお箸の使い方も練習してきたという。家族はどうしているのかと尋ねると奥さんは10年前に癌で、一人息子も数年前交通事故で亡くなり天涯孤独だという。淋しそうに言うので、私は彼の背中をポンとたたき、あなたの背中には二人が一緒に付いてきているよ、と言うと初めてにっこり笑うのだった。
「---お遍路の時間と金があれば、海外パックツアーに行って豪華な料理が食える。そっちの方が楽なのはわかっている。-----だけど重い荷物を背負い汗を流し苦労してこそ得られる体験や思いというものがある。歩き遍路にはどんな豪華旅行にもかなわない何かがあるよ」
日頃、歩きながら心の片隅で思っていたことが、ポロリと言葉に出た。テキサス男も無口な奴で、私の幼稚な英語に時々頷いて相槌を打っている。
「容易な道より困難な道を選んだ方が、かけがえのないものを得るんじゃないかな。そう思うんだ」
(a man should be select difficult way better than easy way、it will make us great) 」
と話すとミスターテキサスは
「いい言葉だね。私もそう思うよ」
とうなずくのだった。
「私の家にはベッドルームが4つもある。一人暮らしだからどれも使っていない。もしアメリカに来たら家に泊まっていきな」と彼は言ってくれた。それがテキサス男との最後の会話になった。彼は妻と息子の冥福を祈りに四国に来ていたのだろうか。
金剛頂寺宿坊・オランダ人教師(左) とアメリカのテキサス男(右)
その晩、夜須町の民宿「住吉荘」に泊まると「神峯寺」の坂で前を歩いていた遍路、樋口さんと一緒になった。
「今日、『神峯寺』で日本一周している男がいましたね。あの男、茨城県から来ているって言っていましたよ」
私が茨城から来ているのを知ってそう教えてくれた。その晩、きっとあの男とはどこかで会うだろう、と思った。
ちなみにこの大阪からやってきた樋口さんは結願を果たした晩、私の携帯に電話を掛けてきた。私が区切り打ちを終えて1か月も経った晩だった。
「-----今日、最後の『大窪寺』を打ち終えました。今、民宿「八十八窪(やそくぼ)」に泊まっている処です」
と現在地を知らせてきた。
出発して45日目でようやく結願を果たしました、という報告だった。
民宿「八十八窪(やそくぼ)」は四国八十八寺の最終のお寺、その門前にある宿で、お遍路さんたちの結願祝いに赤飯を炊いて祝ってくれる宿として有名だ。私もその数年前、自転車で四国を回った時、暗くなって到着すると夕食を頼んでいないのに無料で赤飯や蕎麦を出していただき感激したのを覚えている。その宿からの電話だった。その声は酔いと興奮が混じって感極まっている様子だった。
「今でも思い返すと、内田さんと一緒に暗いうちから立江寺を出て、鶴林寺と太龍寺の2つの寺を超えた日が一番きつかったです。午後に雨が降りだし、峠では足もとが暗くなるし、ずぶ濡れで歩いたのが忘れられません。-----あそこを一人で歩いていたら、と思うと」というと、その日のことを思い起こすのだろう、声が詰まっていた。「----一緒に歩いていただいてありがとうございました。お陰様で無事結願しました-----」
樋口さんの喜びは私の喜びでもあった。
12日目~13日最終日
12日目、高知市内に入り28番「大日寺」の参拝を終えてしばらく歩いていると暑さのせいなのか疲れのせいか地図を読み間違えてしまった。29番「国分寺」へ行く十字路のところを北に向かわず東方向に歩きだしてしまったのだ。遍路印が見つけられずそのうちに出てくるだろう、こっちでいいはずだと進み、レストランに入り食事を済ませたのだが、念のために店の人に尋ねると違う方向に歩いて来た事を知らされた。3Kmの無駄足。往復を考えると大幅なロスをした事になる。注意散漫になっていた自分に落胆し道を戻りながら気力が落ちるのを感じていた。往復で1時間半は無駄に歩いたことになる。
29番「国分寺」を終え30番「善楽寺」へ向かう道で、地図の上では家並みがあるので自販機位あるだろうと油断していると持っていたペットボトルの水が底をついて来た。初夏のような暑さに、まさかこんなところで脱水症状?と危険を感じながら歩いていた。30番「善楽寺」は思ったより遠かった。いくら進んでも自販機は見つからない。目の前を通りかかった車が自宅に入るのを見つけ、車から降りた人に私は声を掛けた。
「飲み物の自販機、この辺にありませんか?」と。
しかし自販機は2Km先にしかないという。私は頭がくらくらしかけていた。
「済みませんが、水道の水、飲ませてませてもらいたいのですが」とその人に
言った。喉が乾き切ってなりふり構っていられる状態ではなかった、だからといっ
て黙って他人の敷地に入り蛇口から水を飲むと不法侵入になる。我慢し歩
いていたが喉の渇きは限度を迎えていた。
その男の人は玄関から家に入ると冷えたペットボトルのお茶を持ってきて、こ
れ差し上げますから、どうぞ、と渡してくれた。頭は熱を帯びていた。ありがた
く受け取ると音を立てて飲んだ。冷たさが身体に一気に広まり細胞がグングンと水分を吸収していくのが分かった。ありがたかった。こんなにもうまいお茶はなかった。命のお茶だ。
礼を言い、又歩き出した。午後の4時近くになっていたが日差しは強く、『善楽寺』近くまで来ている筈だが夕暮れまでにたどり着けないのでは、と弱気になっていた。また道を間違えたら5時の納経時間までに辿り着けなくなる。---昼に道を間違えてからと云うもの、一日の歯車が狂い続けているのを感じていた。ああ、今日は厄日だ。
---午後4時半になる頃やっと私は30番『善楽寺』に着いた。参拝人は少なかった。納経を済ませ寺を背にする頃にはさすがに日差しは弱まっていた。
その日の宿は「サンピアセリーズ」ホテルだった。最後に参拝した30番「善楽寺」と明日の31番「竹林寺」との中間地点にあってお遍路道に面していた。
ホテルに着くと受付で私は2連泊に変更した。明日参拝を終えたらこのホテルに戻って最後の晩はゆっくり寝ようと考えていた。連泊にすれば明日はホテルに荷物も置いて歩ける。途中のコンビニで仕入れた夕食と缶ビールとで背中のリュックは満杯だった。
ああっ、やっと今日という日がこれで終わる。残るは明日の「竹林寺」「禅師峰寺」二つだけだ。たぶん、明日の午前中には2つとも終わる。それで区切りをつけ体を休められる。安心すると久しぶりのベッドで私は眠りについた。
翌日も朝から快晴だった。最後の区切りの日だ。
振り返ってみると雨具を身に着けて歩いたのはこの2週間で2日ほどしかなかった。天候には恵まれていた。連泊となるとリュックを背負って歩く必要はない。図多袋を肩に下げ参拝に必要な納経帳一式を入れて歩けば良い。リュックを背負って歩くのとなしで歩くのでは雲泥の差だ。
朝のレストランには数人の客しかいなかった。食べ終わろうとしていると外人お遍路が入って来て私の後ろのテーブルに座った。
そのオランダから来た青年は39歳の高校教師で歩き遍路をしていた。教師らしい聡明そうな青年で北欧人にしては小柄なのだろう背丈は私と同じ位だった。
「『お遍路』は海外では有名ですよ」4日前に26番「金剛頂寺」の宿坊で一緒になった時、夕食の席で彼はそう語った。その後も彼とは何度かすれ違っていた。
私は食事を済ませると後ろの席を振り返り「その席に座ってかまわない? 」とオランダ青年に尋ねた。
「お遍路を何度か経験しているので幾つかアドバイスをしようと思う。よろしいか?」
「オーっ、モチロン。アリガトウ、ドウゾ」
彼は箸をおいて目の前の席を勧め地図とメモを取り出した。
「まず、31番の竹林寺だけど」
と私は話し始めた。遍路道を歩いて行くと、ちょっと急な山道を登ることになる。その道は『牧野植物園』へ山裾から入る特別ルートだ。出口に着くと、そこは有料入り口になっていて、君はいつの間にか無料で入って歩いていた、と気が付くだろう。
だが心配することはない。一般の人は有料で入るけどお遍路は無料だ。遍路道がたまたま植物園を通過するだけなんだ。だからお金は払わなくていい。そういうと彼は「成るほど」とうなずいた。
33番「雪蹊寺」に行くのには高知港にかかる橋を渡る方法と、渡し船と2つの方法があることも伝えた。高所恐怖症にとって高さ50m のあの橋を渡るのは大変なことだ。かくいう私が高所恐怖症で最初に知らずに渡り始めると、身体がすくんでしまったからだ。
しかし、彼は遠回りでも橋を渡る予定だという。彼にとって歩き遍路は早さではなく日本をじっくり味わう旅であり手段だった。彼も旅の本質を知っている男だった。
別れ際「オランダから来た君のために、最後にジョークを進呈したい」
彼はオランダ出身の数学教師なのでアムステルダムに関したジョークをふと思いだしたのだ。
「---ある日ある時、元気溢れる青年が両手をケガして入院した。
最初の晩、年寄りの看護婦が彼のベッドにやって来て手の不自由な彼に代わって下着を替え、タオルで身体をきれいにした後、ふと男性のシンボルに入墨(タトー)が彫ってあるのに気付いた。何が彫ってあるのか老看護婦が目を凝らすと「ams」と読める。---何のことだろう? ams って? ナースセンターに戻ると彼女は他の看護婦たちに見てきたことを報告した。
---次の日、看護婦は替わった。看護婦は美人でグラマー、若さに溢れたブロンド娘だった。前の日の老看護婦がしたように、同じように下着を替え、身体を拭いた後でナースセンターに戻ると、他のナースたちに彼女は次のように報告するのだった。
「確かにあそこにタトーが彫ってあったわ。でも、amsじゃなく、とっても大きな入墨で----」
頬を赤く染め、思い出すように言うのだった。
---そそり立つように『AMSTERDAM 』って彫ってあったわ」
オランダの教師は真面目な顔で話を聞いていたが、話し終えると天井を向いて声を出し笑いだした。英語でジョークが通じた事に満足を覚え、私は付け加えた。
「君も、ちぢこまった『ams』じゃなく元気な『AMSTERDAM』で!」
日本人だってこれぐらいのジョークは言えるのだ。その会話が彼との最後となった。
この男からは、数週間後に写真入りメールが届いた。
「-----On the image you see my walking stick compared to a new one a Temple 1. It is now 5 cm shorter...」
無事結願した時の記念写真で一本の杖は新品、もう一本は彼が40数日使った杖、長さが5センチ以上短くなっていた、とある。歩き切ったお遍路だけが持つ勲章だった。
「おめでとう!AMSTERDAM!」
の返信を送ったのは言うまでもない。これも歩き遍路の面白さだった。
31番「竹林寺」では長く続く石段の上から一人のお遍路が降りてくるところだった。階段の途中ですれ違う時、私は彼の杖に見入った。杖にはツタが絡まるほどこしがしてあり既成の売り物の杖では決してまねのできない重厚さがあった。
すれ違い際に
「立派な杖ですね」
私の口から思わず言葉が出た。そのお遍路さんはにこやかに笑顔を向けコクリと頭を下げた。菅笠もひときわ大きな笠で体全体を覆うような大きさである。すれ違うその時、笠の表面が何かしら色が褪せたようなまだら模様になっているのが見えた。
私はその瞬間、3年前にすれ違ったお遍路のことを思い出した。
(これが3年前に鴇田峠(ひわたとうげ)を通過する時に何気なくスマホに撮った「ミヤマ」と名乗るお遍路さんの姿)
大洲市の橋の上で、表面を金色に染めた菅笠をかぶり雲の上を歩くようにすれ違ったお遍路がいた。その同じお遍路が数日後「大寶寺」手前の鴇田峠(ひわたとうげ)山中で一人黙々と遍路道の修復に鍬を振り上げていて、奇特な方だなと通りすがりに名前を訪ねると「お遍路のミヤマと言います」と答えた。3年前のことである。
その人にまたこんなところで遭う訳がない。しかし菅笠に塗料の剥げかかっている跡があり、いや、そもそも菅笠に色を塗る人はまずいないのだ。ひょっとしてあの時のお遍路さんじゃないのか。確かあの時、ミヤマと名乗っていたが、しかしまさかまた会うなんてありえない話だ。もしそうだとしたら、ありえない偶然だ。
しかし、遠ざかるお遍路さんの背中に向かって、気になって仕方が無く「お名前は?」と尋ねると、彼は階段中腹で振り返りぽつりと答えた。
「ミヤマと言います」
とあの時に答えたお遍路の同じ名前が返ってきた。私の胸はどきりとした。
やはりあの時の人だ。私は思わず3年前にもお見かけしたと伝え、彼はにこやかな顔でそれを聞くだけだった。遠ざかるその「ミヤマ」と言う遍路の背中を見送りながら私は慌ててシャッターを切り、弘法大師は今も歩き続けているのかと驚き奇跡だと思った。
何とも劇的なすれ違いだった。早朝誰も他に居ない境内の石段。中段ですれ違う2人の遍路。見覚えのある色褪せた菅笠、声を掛け確かめると3年前の同じ名前を名乗る遍路。最後の日に誰がこんな再会を演出できるだろう。何か、自分以外の何者かが時間と空間を支配し二人を引き合わせている。何なのだ、これは?
その「ミヤマ」と名乗る男にも後日談がある。
3年振りのこの再会が余りに偶然なので「すれ違った男」と言う題でしばらくしてからブログに短編小説風に掲載したのだが、するとそれを見たある人から日を置かずして次のコメントが寄せられたのだ。
「その方は歩き遍路を109回、車遍路を50回されてます。
83歳でご高齢の為に遍路を引退しました。
持っていた杖は松山在住の人が譲り承けたと本人から聞きました。
もうミヤマさんは四国に来ることは無いと思います。ミヤマさんは深山無行と名乗ってました。
関西在住ですね」
どうもミヤマさんの遍路仲間が偶然に私のブログを読み、知らせてくれたようだ。-----これまでブログは私にとって独り言的な備忘録要素が大部分だったが、疑問に対し回答してくれる方がいたのには驚きだった。同時に私が会った人が決して夢の中の話ではなく現実だったことが証明された。世間は広いようで狭い。
32番「禅師峰寺」から海岸線を眺めると景勝地「桂浜」が見えた。ここで区切る予定だったが欲が出た。まだ昼前で、次の33番「雪蹊寺」までは十分に行ける距離で夕暮れにはホテルに戻れる筈だ。33番に行くには橋を歩いて渡る以外に渡し船に乗る方法があり私は今まで船を一度も利用したことが無かった。その渡船ルートを体験してみたいと思った。
途中の食堂で昼食を済ませ強い日差しの中を歩き始め、ああ、この道を今まで歩いたことが無かったと気付いた。遍路地図には大雑把なところがあり赤い点線や赤い線が地図の道に沿って引かれているが車道なのか旧道なのか判らない所にその赤い線が入り混じっていたりする。今まで何回か通った道はすべて車道だったことに気がついた。結局、車幅の広い現在の道路は明治以降に出来た現代道路で、空海の時代、1200年前の大昔の道のほとんどは旧道か廃道になっているのだ。路地であり草深い田圃道、それが本来の遍路が通っていた道だ。
時計を見ると午後1時だった。渡し船の出る時間は1時10分発になっていて1時間に1回しか出ない。地図を見ると丁字路を右折すると100mほどで発着場があると書いてあるが直線があと600mでとても間に合いそうもない。1時間後の便になるかも知れないと半分あきらめ半分は急ぎ足になった。やれるだけやってみよう、私は歩調を緩めなかった。丁字路に着いた時に出発の時間になった。角を曲がると道路の真ん中に仁王立ちした男が一人こちらを向いて立っていた。そして私を見つけると大きく手を挙げて、こっちだ、早く来いと合図をしている。渡し船は綱を外しエンジンの音が響いていた。出発寸前、この遅れてきたお遍路を待っていてくれたのだ。全力で走り跳び乗ると同時に船は岸壁を離れた。
チケットは買っていなかったが尋ねると無料だという。左右の岸壁を眺めていると小さな船は全力で対岸に向かっているようで景色は後ろへ後ろへと流れて行った。
10分ほどで到着すると乗っていた数台のスクーターや自転車は扉があくと同時に降りて行った。橋を歩いて行けば1時間はかかっただろう。
「ここをまっすぐ15分歩くと『雪蹊寺』です」
船の人がそう教えてくれた。
左側に運河が流れその左右を民家が取り囲む町だった。数分歩いていると民家の並びに遍路休憩所のあるのに気が付いた。小屋の中から「休んでいきませんか?」と女の人の声がかかった。さっき渡し船に全力疾走したので喉も乾き休憩したかった。誘いの言葉に甘え建物に入れさせてもらったのだが、---そこで日本一周中の男にバッタリと会ったのだから不思議としか言いようがなかった。渡りに船とはこのことだ。
建物の中には広いテーブルがあり接待役の女の人、お遍路らしい若者がいた。男は白衣を着ていなかったが日焼けした顔が旅の長さを物語っていた。
「こちら、日本一周中の方ですって」と女の人が一人の男を紹介したので私は途端にピンときた。神峯寺で重いリュックを背負い坂を上っていた男を思い出したのだ。そういえばあの時のグリーンの服装そのままだ。どこかで遭うだろうと思っていたがここで遭ったか。
「茨城県からですね?」
私がそういうと若者はなぜ知っているのか、とびっくりした顔で私を見た。「数日前にマッ縦の神峯寺の急坂で貴方の休憩している時に脇を通った。」と言い「実は私も茨城県から来た」と言うと彼の顔に驚きが重なった。
彼はまだ20歳の若者だった。家業の工務店を継ぐ前に日本を一周して来たいと2年間歩いているという。あと3か月したら戻る予定だという。
「旅に出させてくれた親に感謝しろよ」私は先輩らしいことを言い、しかし自分にそんなことを言う資格があるかと心の中で苦笑した。
この若者にも後日談がある。------この数日後に私は茨城に戻りお遍路中の写真を整理していると「神峯寺」の画像が出てきた。坂道でリュックを背負うこの若者の姿が映っていた。
若者はあと3か月しないと日本一周から戻らない工程の筈で、彼の故郷は竜ヶ崎市だった。名刺も貰っていたので同じ竜ヶ崎市の姉の処に寄るついでに写真を若者の親に届けてあげたいと思っていた。親としてどんなに心配しているだろう。私が四国で出会った経緯や彼の歩いていた様子など話すだけでもどんなにか安心させられるだろうか。
数日後訪ねると、彼の実家は立派な甘味喫茶を奥さんが営み、旦那さんは工務店経営の方だった。写真を渡すとその後姿をひとめ見ただけで「あっ、うちの息子です」と奥さんの顔がパッとほころんだのだった。
この休憩所を運営している女の人も身の上話を語り始めた。夫が昨年急死したこと、悲しみから立ち上がろうと何か新しいものが見つけられるかこの休憩所を始めたことなどしんみりとした時間が過ぎた。
彼女は不思議な話もしてくれた。夫が死んでしばらくしたある日夫の夢を見たという。夫は「達磨大師」の絵を彼女に示し、大切にしてくれと語りかける夢だったという。後日この遍路休憩所の運営をすることになり建物に入ると、夢に出て来た「達磨大師」が壁に掲げられていて
「あっ、夢に出て来た絵だ」
と奇妙な巡り合わせを感じたことを語っていた。
見ず知らずの人同志が世代を超え偶然に触れ合った時間だった。渡し船が待っていてくれなければ、そして「雪蹊寺」に行こうと思わなければ決して実現しない時間だった。青年とも別れ休憩所を出ると10分ほどで寺に着いた。
33番「雪蹊寺」の参拝を終えると用意してきた納め札も線香も無くなった。ここで、初めてバスを利用することになった。もう歩き遍路はここまでだ。バスで「はりまや橋」へ。次に路上電車で「文殊通り」駅に着くとコンビニで食料とビールを買いホテルに戻った。夕方前でまだ陽は高かった。これで2週間の歩き遍路旅が終わったのだった。
今回の歩き遍路で、今までと違った持参品に「写経」があった。治験入院をしていた時、字がきれいになりたいという昔からの希望を叶えるため病院に「写経」を持ち込み、暇に任せて書き溜めていたものだった。写経は書き溜めた後で世話になっている寺に奉納するのもいいが、どうせならお遍路で四国を歩く時、行く先々の寺で納めさせてもらった方が良いと考え80枚ほど用意していた。
徳島から高知まで32から33の寺があり、一つの寺で本堂と大師堂に2枚納めるので多く見積もっても80枚あれば足りる筈と用意していた。最初の幾つかの寺では納め札と写経に家族の健康や父母の冥福を願う言葉を書いていた。しかし今祈らなければならないのはなにより娘の健康回復だと気付いた。
娘は半年前から「パニック症候」と言う精神的病になり外出がままならなくなっていた。列車のラッシュアワーで身動きの取れない経験に遭い、それ以来、人込みや狭い空間に恐怖心を覚えるようになった。秋に結婚したばかりだったがそれが原因で飛行機に乗ることも出来ず新婚旅行は取りやめた。その病気からの回復を願うのが最優先だ。お遍路を初めて2日目からは娘の健康回復だけを祈って歩いた。
---お遍路から帰って10日が経つ頃、娘から電話があった。4月の半ばごろから薬の量が減ってきたという知らせだった。気分も違って行けなかったショッピングにも行けるようになった。嬉しそうに妻に回復ぶりを知らせるのだった。
指折り数えると私がこの遍路で娘の健康祈願に絞って歩きだしたころと娘の回復期は奇妙に一致した。私は決して奇跡が起こることを念じて遍路を始めた訳ではなかった。むしろ誰かに背中を押されるように家を出たのだった。はっきり言って私を四国に導いたのは春のせいだ、とさえ思うのだ。しかしそれにしてもどこかで私の願いが娘に通じていたのはありがたい事だった。お遍路が無駄ではなかったと思うとうれしかった。2週間の歩き遍路は、弘法大師が願いを聞き入れるため私を呼んだのかもしれない。
こう書き進めて来て、私は初日に宿坊「安楽寺」で会った老婆の言葉を突然思い起こした。---奈良県から来ていた73歳の歩き遍路のおばあちゃんは夕食で向かいに座ると周囲の人を見回してこう言った。
「お遍路はね、呼ばれた人しか来られないのよ。いくらお金があったって時間があったって、呼ばれなきゃ来られない」
呼ばれたから、か。なるほど、と合点がいくのだった。