宿毛市「秋沢ホテル」~国道56号、県道332号~篠山橋(篠山神社鳥居)~篠山神社~「ミマキガーデン」

 

この9日目は、私の今回のお遍路旅でもっとも重要な一日だった。

「遍路道保存協力会」で発行している遍路地図、49ページの足摺岬の地図の片隅には「遍路修行の道」として次の文言が記されている。

 

「古来、金剛福寺を打ち終えた遍路は、次のいずれかの道程を選ぶことを不文律としてきたと伝えられる。

1、打ち戻って延光寺から篠山詣りする。

2、月山参りを終えて延光寺を打つ。

愛媛県一本町札掛は、篠山詣りを果たせなかった遍路が、この地に札を掛け篠山を遥拝して去った名残の地名となった」

 

つまり延光寺の次に篠山神社に立ち寄り観自在寺に向かうのが本来の決りだが、それを果たせなかった遍路が多かったので一本松の第一鳥居に願札を掛け篠山神社へ詣でるのを省略するようになった、と言う事だ。問題は、なぜ篠山神社参りを省略したかだが-----その理由は地図を眺めていると判ってくる。おそらくひとつは篠山神社の位置と高度である。そしてもう一つは宿の問題である。

 

調べると篠山神社は標高1064m、高知と愛媛の県境「篠山」の頂上にある。ちなみに四国八十八遍路寺の中で一番標高の高い寺は「雲辺寺」の標高912mでそれよりはるかに高い。さらに問題なのは神社周辺に宿場町が無く山麓にも宿は見当たらない。

泊まるところがなければ野宿しかない、1000mを超える山で道を間違えれば迷子になり遭難の危険もある。危険を冒すより篠山神社第一鳥居がある一本松から遥拝することで省略させてもらおう。そんなところだろう。

 

 宿毛市内から篠山神社第2鳥居のある山裾まで約14Km、山頂まで更に5.3Km登ることになる。標高差は海から山頂まで1064mとなる。これでは立ち寄るのを省略したくもなる。

 

-------私は、意外な場所に泊まれるところがあるかもしれないと考えた。今回の遍路旅で「農家民宿」「ゲストハウス」と今まで知らなかった宿に初めて泊まっていたので新しい形の宿が意外にひそんでいるかも知れない。

 ブログや体験記を捜しているうちに愛媛県に一軒、廃止になった保育園があって「ミマキガーデン」と言う名で施設を再活用をしているのに気付いた。高知にこだわり愛媛に視点を広げていなかったのは盲点だった。  

 ホームページを探すと地元婦人たちを中心に「料理作り」「宿泊学習」などで地域活性化を担い盛り上げている様子が伺えた。「宿泊学習」は保育園児たちが使っていた教室をそのまま利用している。これを見た時にピンときた。「宿泊学習?」ひょっとして個人でも泊まれるのでは、と。

訊ねたいことがいくつかあった。まず「ミマキガーデン」から「篠山神社」への距離だった。道路事情、交通手段も皆目見当がつかない。もし篠山神社周辺まで宿の方で送迎してくれるなら泊まりたい。

----余談だが四国遍路のお寺で20番・鶴林寺の麓に廃校になった小学校を再活用した宿「さかもと」がある。地域活性化のため地元の人たち運営で今では遍路宿として有名だが「ミマキガーデン」と「さかもと」がイメージに重なっていた。駄目で元々だ、とメールで問い合わせすることにした。

 

------拝啓。ミマキガーデン様。

高知県と愛媛県の県境にある「篠山神社」へ3月末参拝する予定をしています。一人歩き遍路で向かう予定です。ホームページで宿泊可能という情報を拝見し問い合わせさせていただきます。

3月31日に宿毛市内から徒歩で向かい篠山神社に参拝、登頂後は夕方までに9合目駐車場に下山予定。翌朝、同じ場所から同じく徒歩で下山し観自在寺へ向かう計画です。

お伺いしたいのはミマキガーデンさんでは宿泊客を篠山神社駐車場まで送り迎えしていただけるのかどうかという点です。送迎可能でしたら是非一泊させて頂きたいと思っています。お忙しいところ恐縮ですがご返答をお願いいたします。-------

 

 調べると,篠山神社からミマキガーデンへ泊りに行くには人の脚では遠すぎた。それだけでも一日かかりそうな距離で途中長いトンネルがあり、曲がりくねった山道がミミズのようにのたうって続いている。送迎サービスは無理かもしれない。

 

 問い合わせて3日経っても返信は無かった。車での送迎対応を宿で検討しているのか、それともやっていないのかと思った。

 4日目に連絡メールが届いた。宿泊を受け入れます、と言う返事だった。よかった、これで古(いにしえ)のルートで遍路道を歩めると喜んだ。

 しかし気になったことがあった。なぜ3日も返信が無かったのだろう。客商売なら問い合わせの翌日に返信があって当然なのだが趣味や娯楽で営んでいる処なのだろうか?

 ホームページには笑顔で並んだスタッフ集合写真が載っていたが、そのほとんどは高齢女性達だった。若いスタッフがおらず、ひょっとしてパソコンやスマホに不慣れなために返信に時間がかかっていたのかもしれない、と疑念が浮かんだ。せめて電話でも寄こすべきなのに、4日経ってメール返信とは。------しかし、とにかく宿の確保ができた、とホッとした。

 

ミマキガーデンに宿が決まる前までは、宿毛市の秋沢ホテルで2泊し1日を篠山神社への往復に充てる計画でいた。

篠山神社への距離と高度を考えると夜明け前に出て暗くなって戻るだろう、暗い山道で迷わなければいいがと不安だった。ちなみに足摺岬の打ち戻りコースも往復で38Kmと似たような距離だがあちらは全て海岸線で山はない。

 ミマキガーデンで泊まれるなら話しは違ってくる。明るいうちに山を抜け迷子の心配もない。闇に光が射し込んだ気分だった。

   

 3月31日を迎えた。

朝7時にリュックを背負いホテルを出ると宿毛市内から国道の「宿毛トンネル」を抜けた。

 

 

二手に分かれる「篠川橋」で県道332号線へ分岐したが歩き遍路は私以外いないだろう、と想像していた。しかし一人だけ歩いている遍路がいた。

 

 休憩していると大柄な同年輩の男がリュックを背負い後方からやって来た。こんな道を歩くのは同じ志を持ったお遍路に違いないと

「篠山神社に行かれるんですか?」と尋ねると意外な返答が返って来た。

「----わたしゃ『松尾峠』を登って行くのがいやでねぇ、国道の方が楽なのでこっちの道に来たんです」という。

この人も何度目かのお遍路をしている人だった。予想外の返事に、ヘェ、いろいろな人がいるものだと、感心した。

 納経帖に「納経印」を頂けるなら山道より平らな道。辛い道より楽な道、何処を通っても結果は同じでしょ、と言う考えらしい。ハァーっ、こんな考えもあるのか、私のように何から何まで古式にのっとり忠実に辿ってみようというのは異端児だろうか。特に篠山神社に行ってみようという奴はどこかおかしな人間なのか。

 

実際その人は県道332号線への分岐点に来るとそのまま国道を直進して行った。こんな独自のコースで遍路道を歩く人もいるのだ。歩き遍路に決まった道はなくどこを通ろうと自由なのか、そう考えて歩いている人も確かにいるのだ。目から鱗(うろこ)であった。本当に考え方は人それぞれだな、と分かれ道でその人の背中を見送った。

        

 

           

 

 県道に入ると車は見かけなくなった。道路沿いの右に「篠山小、中学校」が並んで建っていたが日本一長い学校名らしい。落語の「寿限無」じゃあるまいし、設立の経緯まで学校名にしなくてもいいのにと写真に収めた。

  

 

 

「篠山橋」に到着したのは午前11時過ぎだった。ほぼ予定通りである。橋を渡った左に鳥居がある。1番目の鳥居は一本松地内にあり、これが2番目の鳥居の筈だ。

 

          

鳥居をくぐり左のフェンスに沿って登るのが遍路道だった。道はすぐに舗装された道に合流し山側には数基のお墓が建っている。舗装道路は墓参りのための道路で墓が終わると山道になった。

     

  

  

  

山道は延々と緩い勾配のまま続く道で平らな個所はほとんど見かけない。ところどころ粘土質の地面にはイノシシが泥をこね回した跡がある。休憩するベンチも見かけないので休みも取らず頂上を目指して進んでいく。何か所かある分岐路には遍路道の案内があり見落とさなければそのまま頂上に向かう尾根の道である。

    

 

    

分かれ道のような要所には案内があり、注意して見落とさなければ迷わないだろうが、暗い夜明け前、夕暮れの時刻だとあらぬ方向に行く危険性はある。

   

 話しは戻るが、泊まれると判った日、私はミマキガーデンに電話を掛けた。篠山神社は初めてであり待ち合わせするのに何処か目印になる場所があるのか、時間は何時ごろなら都合が良いのか確認する必要があった。

 電話に出た女の人は

「篠山神社の山頂脇を通る道路がありまして、道沿いに『登山口入り口』の案内看板があります。その道路の向かい側に駐車場があるんです。駐車場に電波塔が建っているのでその下で待ち合わせしたいと思いますが」と言った。さらに続けて

「反対にそちらは何時ごろ着きますか?」と言うので「午後の4時から4時半の間には到着できる予定です」と答えた。

「もし早く着くようだったら途中で電話を入れます」というと

「いや、篠山神社は携帯の電波が通じにくいんですよ。電波塔の下以外は携帯が通じないんです」と万が一の時に連絡がつかない山であることを教えてくれた。電話が終わった後、私は取り交わした内容を念のためメールで送った。

 

「以下、打ちあわせ内容の確認願います。

3月31日、宿毛市内の「秋沢ホテル」を朝7時出発。本人目印は遍路の白衣姿、青いリュック、午後4時~4時半の間に登山口駐車場の電波塔の下にて待ち合わせ。1泊2食付きで宿泊。翌朝7時半に前日待ち合わせた駐車場まで送っていただく。携帯電話番号××××、氏名××××、住所××××」

 

 メールで送った訳は一番最初の問い合わせの時のミマキガーデンの対応が気にかかっていたからだった。返信に3日もかかるのは情報がどこかで停まってしまう、または処理できないからなのだろう。

 スタッフが高齢で、電話で話した内容が後で問題になるかもしれない。「言った」「言わない」「覚えてない」になってしまう危険もある。標高1000mの山で夕暮れ過ぎに迎えが来ないと遭難する可能性がある。しかしメールで約束の確認を送っっておけば組織の中の誰かは気が付く筈、と。-----この慎重すぎる性格が後で幸いをもたらす結果となった。

 

「電波塔」とやらは駐車場のどこだろう、と後に疑問になった。いくつも電波塔がありはしないだろうか。「駐車場」と言ってもどれだけの広さなのか、何か所もあるのか?と疑問が膨らんだ。そして泊まる3日前に再度メールで問い合わせを入れた。しかしメールを送ったが翌日になっても返事はなかった。また3日も待たされたら大変だ、と電話を入れた。ところが電話はつながったかと思うと留守番電話に転送されてしまう。何回かやってもその繰り返しだ。メールで問い合わせを入れているのだから気が付く筈なのに-----。

この日も、登山中に何度か電話したが山に囲まれ場所により電波が通じなかった。しかし幸いなことに山の中腹に電波の感度が良い地点があり、これが最後だと電話をすると幸いなことに相手が出た。私は手短かに、現在登山中で約束の時間に着く予定で歩いている、もし駐車場で目印の場所がわからず迷子になったら、青いリュックと白衣姿の私を見つけてほしいと告げ、告げると同時に電波が途絶えた。間一髪、話は通じたがやはりメールは読まれていなかったようだった。

 

-----後に判ったが、ミマキガーデンのスタッフの多くは80歳以上のおばあちゃんが多かった。貸与されたスマホの操作に不慣れでメールを開くのもまれだったという。アドレス帳にない人からの電話は、詐欺かも知れないと録音器に転送。その録音も操作がわからず聞かずにいることが多かったという。「どう操作したらいいのか分からなくって」という80歳以上のスタッフが半数を越えていた。

 

 9合目の駐車場に着いたのは午後3時前だった。頂上へは1時間半あれば往復が可能だ。予定した4時過から4時半の間には駐車場に戻れるだろう。すべて計画通りだ。

 電波塔の下にリュックを置くと身軽になって頂上に登り始めた。この一帯は花見時の季節になると車で一杯になるらしいが今は一台も停まっていない。駐車場はテニスコート一面ほどの広さで車20台ほどのスペースがある。電波塔とはこのことか、駐車場片隅に鉄筋の櫓が組まれその上に通信用の鉄柱が天に向かって伸びている。見て初めてこれがそうかと納得がいった。事前にここの風景、待ち合わせポイントをメール写真で送ってもらっていれば駐車場で迷子になるかもしれない、などと心配する必要もなかったのだが。(道路からの駐車場全景)

 

鉄塔柱の右の建物が公衆トイレ。鉄塔の真後ろには今では廃屋になった「篠山荘」という休憩小屋がある。その向こう側から登って来たことになる。

  

 

2番鳥居から上がって来てみた駐車場の光景。右の建物が廃屋「篠山荘」

 

 

 

9合目からの登山道は傾斜がぐんときつくなった。「山頂まであと〇百メートル」とカウントダウン方式で小刻みに距離表示が置かれ、もう少しだ、と励みになる。

      

いよいよ頂上まじかに差し掛かると、鹿の食害から自然を守る柵があり、開けては閉め、上を見あげると石段が続き神社を守る狛犬が下を見下ろしている。

      

 頂上に着くと神社の裏側に登った。朝7時に海抜0メートルの宿毛市から歩き始め1064mの篠山神社に到着するのに8時間近くかかったことになる。なるほどここまでお参りに来る人はめったにいない筈だ、と納得がいった。

 

 

45分後、駐車場へ下山すると一台の軽乗用車が停まっていて小柄な女の人二人が立ち話をしながら待っていた。それがミマキガーデンのスタッフだった。 

 

            

 

ここは誰も人がおらんで、淋しいとこやから、一人で来るのは怖くて2人で来ました、と言う。電波塔の下に青いリュックが置いてあったので、ああ、お客さん今登ってるんだ、メールに書いていたとおりと安心して待っていた、と続けた。車で30分かかって来たと言う。すぐさま車は出発、狭い山道を結構なスピードで走り出す。

2人とも明らかに私より年上だ。このあと妙な話を急にし始めたので最初何のことやら分からなかった。

 

「昨日の夕方、ミマキガーデンに突然お遍路さんが入ってきて、それがお宅さんだと思って、その方泊まって行ったんですよ。変だなあ、一日予定早まったんか、それにしても連絡なしで来るんで変やなあ、と」

つまり私でない別のお遍路が予約なしで現れ、それが私だと勘違いし泊まらせたのだという。ところが今日になって私から電話が入り、えっ!昨夜のお遍路さん別の人だったんだ!とあらためてメールに気がつき迎えに来たんです、と言う。

「えっ?じゃー、もし今日電話入れてなかったら」

というと「--------」2人は黙り、顔を見合わせ

「迎えに来んかったでしょうね」と呟くのだった。

私は思わずゾーとした。誰だか知らない昨日のお遍路を私と勘違いしていたのだ。念の為と送っていた確認メールがやはり役に立った。何だか知らないがすべて間一髪の所で助かっている。最後にかけた電話にもし誰も出てくれなかったら今頃私はポツンと駐車場に取り残されていたのだ!地獄と天国は紙一重だ。

 

途中、長くて真っ暗なトンネルをくぐり抜けると祓川(はらいがわ)温泉というところに車は立ち寄った。ミマキガーデンに風呂はないのでここで風呂は済ませてくれ、4,50分後に迎えに来る、と言う。地元の人が主に利用する温泉で源泉を加熱するやり方だと言う。利用料は宿泊代に含まれていてゆっくりと身体を休められた。温泉を舐めてみると塩味がして白味がかりトロリとしている。服を着替え足の治療をしていると、右足の剥がれかかっていた爪がテープと一緒に剥がれ落ちた。温泉療法が早速効いたのか、違和感がそれで消えた。もう、剥がれそうな爪はない。

  

 

車で5分も走ったころ、ミマキガーデンに到着した。春の余韻が色濃く残る光景が待っていた。幼稚園のような遊具が目の前に広がり桜が散り始めていた。この日の宿泊客は私一人だけだった。 

  

 

 

 

  この日の歩数 37727歩  計測距離 28.5Km    歩行時間 8時間9分

 

 

  「民宿・今ちゃん」~真念遍路道(地蔵峠)~39番・延光寺~宿毛市「秋沢ホテル」

 

 昨日の夕食で頂いた濁酒(どぶろく)がおいしかったので、自宅に宅急便で10本送ってもらうことにした。多過ぎかと思ったが一泊2000円の旅行支援地域クーポン券を各地の宿で受け取り1万円分が貯まっていた。高知県のクーポンは高知県にいる間に使わなければ紙くずになってしまう。二日後に愛媛に入るので買い物をしている時間はない。酒は知り合いに土産にすればいい、ここできれいに使ってしまおう-----。後日届いた箱の中に

「たくさん買っていただき、ありがとうございました」という手紙と自家製乾燥芋がお礼に添えられていた。4月か5月にクーポンは終了予定で丁度いい時期に四国を旅していた。

 

(ちなみに「農家民宿・今ちゃん」と面白い名前を付けたものですね、と謂れを訊ねると本当は「今西」と言う名前だが「今ちゃん」と友達から愛称で呼ばれ宿の名もそうなったらしい)

 

 38番・金剛福寺から打ち戻り、次の39番・延光寺へ向かうには古くから大きく二つのルートがある。

一つは県道46号線に進む道で、進んでいくと更に二つに道は分かれていく。この詳細は後述する。

 もう一つは「真念庵」に行く手前、県道21号線へ進む道でこれも更に幾つかのコースに枝分かれし、どれも結局は「延光寺」を目的に進む。

私は46号線を進み、真念遍路道へ分岐する道を歩く予定をしていた。その分岐点近くに「農家民宿・今ちゃん」があったので今回宿に選んでいた。

 

         

 

「真念遍路道」という名称からしていかにも古くから使われていた遍路道という印象を受け、また地図を見てもハードそうな道だと感じた。しかし、人生は一度きり、どうせ歩くなら平穏無事な道より波乱を含んだ道を歩んで後悔を残したくない、と地図上点線で記されている歩き遍路道を選んでいた。好奇心と怖れる気持ち、不安があったが人生に悔いを残したくない思いが優っていた。

       

が、意外にも「真念遍路道」は県道46号から分岐してから頂上まで舗装が続く道だった。この峠は「地蔵峠」と呼ばれ、スタート地点は標高150m、全長3.1Km、頂上で240mだが勾配のきつい悪路ではなかった。軽やかに歩いて行ける。なーんだ、舗装道路なのか、と気が抜けてしまった。気楽に考えているととんでもなくハードで、困難を予想し身構えていると意外に楽な道だったという事が四国の遍路道には多かった。ただし、四国の山間部にある遍路道の多くがそうであるように車は一台も見かけなかった。

       

 

            

この道の特徴は頂上で十字路になり、登って来た道と左右からの3方向が舗装路で、直進だけが昔からの獣道になっていることだった。 

 

 

足裏の潰れたマメの傷痕は依然として体液が滲んでいる状態で木の根、枝を踏むと痛みが出た。

道を覆う枯葉の中から深い山の中でしか見かけない陰気な植物がひっそり佇んでいた。踏みつけられずに花開いている処を見るとここを通る人がすくないのだろう。歩きお遍路は全く見かけなかった。

 

 

長い、長い峠を下るとやっと「西の谷休憩所」のある舗装道路に合流した。上り始めから下り終えるまで自販機も民家も見かけなかったことになる。

 

舗装道に入ってからも平坦な長い道が続いた。地図では並行する「くろしお鉄道」「自動車専用道路」を左に見ながらひたすらまっすぐ西に向かって進む事になっているが途中にある遍路矢印は高架下を左方面にくぐらせ、しばらく歩くと再び右に戻るよう案内している。地図にない行き戻りが三カ所もあり戸惑った。しばらくして高架道路からだんだん離れていくのに気が付き、おかしい、と立ち止まる頃には周囲にまったく遍路印を見なくなっていた。

 ちょうど郵便配達のオートバイがすれ違おうとしていたので手を挙げ呼び止め、道を尋ねるとやはり違う方向に行きかけていた。単純な直線の筈なのに狐に化かされているのかと思った。「平田駅」迄30分ぐらい遠回りをしたようだった。

 

 地図上の「ある地点」が現地に行ってみると全くイメージの違う風景になって展開することがあるものだ。平田駅を過ぎると公園のような敷地が広がり満開の桜が花びらを散らしている場所があった。小川が流れ桜の下でその風景を眺めながらおにぎりを食べていたがそこが地図上のどの辺なのか見当がつかずに困った。ここはどこ? 私はどこ?地図に公園風の広場は書いてないのだった。

 天上、衛星から見た目印と、歩く人の視線に立った目印とでは違いがある。それをお遍路で歩いていると何度も経験する。目立ちそうな建物がひっそりと木の陰に佇んで見過ごしそうになった事もある。昼食を食べていた公園風の場所もそうだった。あとから地図で振り返ってもそれが何処だかはっきりとは判らなかった。

 

 39番・延光寺には午後の3時前に着き、納経を済ませると寺の入り口脇にある歩き遍路道を伝って宿毛市内へ向かった。

          

 この日泊まる「秋沢ホテル」迄、寺から約7Kmの距離だった。市内が近づくと、ひと気のない遍路道ばかり歩いていたせいか大都会に来た感覚であった。家並みがあり商店があり車が走っている。コンビニがありドラッグストアーもある、文化と文明にひさしぶり触れる思いだった。

 昨晩で治療の包帯を使い切っていた。ドラッグストアーに入ると包帯2巻き、バンドエイドとテープを買い増しした。何より治療が最優先だ。

 

 ホテルで受付を済ませ

「大きな風呂に入りたいが、ありますか」

と尋ねると、このホテルでは感染防止の建前で大浴場が休みだった。この日久しぶりに地図の上では25Km前後歩いたはずで、後半に歩幅が狭まりペースダウンしているのがわかった。広い湯船につかって脚をマッサージしたかったが残念だった。部屋のバスタブにお湯を溜め、ていねいに体と足裏を洗った。風呂上がりに点検すると痛みはあるが化膿はしていない様子だ。ホテルの中のレストランで夕食を摂りながら地図に見入った。明日はこのお遍路で人がほとんど行かない所、篠山神社詣でを予定していたのだ。

 

この宿毛湾に面した海抜ゼロに近い「秋沢ホテル」からだと篠山神社の山頂まで、標高差はほぼ篠山神社の標高そのものの1056mになる。

 最初はこのホテルに連泊し、1日を篠山神社への往復に費やそうと考えていた。ホテルから篠川神社の麓までは地図では約14~15Kmの距離で、更に山に分け入ってから頂上まで山道が5Km前後続くようだ。しかし山道がどんな具合なのか整備されてわかりやすいのか不明で登った人の体験談もほとんどない。車で九合目駐車場迄運んでもらい、最後の100mを登った登山記録はいくつもあったが山の麓から登った奇特な人の情報はほとんど無かった。

 海辺から篠山神社までの距離と高度差、立ち寄る八十八のお寺もなく宿が近辺に一軒も無いという環境がこれまでお遍路さんの参拝を難しくしていたのだろう。

 私は篠山神社参りを実現するため、便利な宿泊施設を宿毛市内以外の場所に探し出していた。

 

   この日の歩数 43945歩  距離33.22km  歩行時間8時間16分

 

    

 「 民宿・大岐の浜」~「真念庵」~県道46号線・成山大師堂経由~「農家民宿・今ちゃん」 

 

 今回の歩き遍路では宿の無い地域では時に40km前後を歩かなければならない日もあったが長距離の日、短い日を折り混ぜ疲れが偏らないように平均30Km前後にしていた。

 

初日は31.2Km、2日目22.3Km、3日目18Kmとし、4日目33.5Km、5日目34Km、6日目は38Kmで予定していた。地域によって宿のない街もあった。

歩いた距離が果たして正しいのか疑問を抱くようになったのは昨日の6日目だった。地図の距離とスマホの距離とどちらが正しいのか首をかしげるようになった。

 初日の31.2Kmがスマホで38.5Kmとカウントされ2日目以降もスマホの方が予定を上回っていた。確かに初日は道を間違え、行ったり戻ったりで何キロか余計に歩いた。しかし6日目は「金剛福寺」迄の大半はバスで、帰路も1000円の運賃を払い大岐ヶ浜の入り口で降りアスファルトの道は4~5Kmしか歩いていない。実感ではせいぜい歩いたのは8Km~10Km、ところがスマホは15.79Km歩いたことになっている。スマホの計る距離が間違っている、おかしいと考えた。

 たぶんスマホの歩数計は単純に歩幅×歩数で歩いた距離を出しているだけだ。山道や泥濘もそれで計算していると思う。念のためスマホの距離を歩数で割ると歩幅が75Cmで計算されていた。私の身長168.5Cmだと75Cmの歩幅が平均的数字らしい。しかし数年前に測ったところ私の歩幅は65Cm前後だった。加齢で今ではもっと縮んでいるということだろう。

「あなたは脚が長くストライドが広いですな、今日はこんなに歩きましたぜ」

とスマホにお世辞を言われているようだ。しかし短足で歩くのも遅いというのが実情、スマホの距離は当てにならない。GPSと地図が連動していればこんな食い違いは起こらなかったろう。

 

(このブログではスマホが記録した歩数、距離、時間をそのまま掲載しているが人それぞれ歩幅とピッチが違うので今回表示の距離は現実と違っている、たぶんもっと短い。念のため)

 

 7日目の歩く距離は18Kmを予定していた。

この日の距離は全行程18日間の中でも最短の部類で、前日に砂浜を中心とした柔らかな路面を選んで歩いていたので足裏の痛みは少し軽くなっていた。「大岐の浜」の女主人が、初日に到着した私の足の状態を心配し自家製の特製薬液を接待してくれたが、朝と晩に傷に塗ったのも痛み軽減に役立っていたかもしれない。休養は効果がある。

 今日は昨日より歩けるだろうと食堂に向かった。定刻の6時半になると皆が集まった。

   

       

       

宿を出発する時、記念の写真をお願いすると息子なのか従業員なのか男の方が

「じゃ、一緒に並んで」

と、おかみさんとのツーショットを撮ってくれた。道路に出るまで手を振って見送ってくれ、国道から振り返るとひときわ大きく両手を振ってくれた。私の杖を突く音が路面から高らかに響き、2日前はバスで来た道を今度は歩きで戻り始めた。

         

この日も青空が見える一日となった。背中のリュックも前よりも軽く感じた。やはり休養は大切だ。-----2日前、濡れネズミのように身体を杖に頼って民宿「大岐の浜」にたどり着いたことが思い出され、無理はいけない、歩き遍路のメンツにこだわっていては身体を壊すだけだと反省した。

 宿を出るとすぐ左の山へ分け入っていく遍路道の印があった。「真念庵」に戻る迄2か所の薄暗い森の中を歩いたが、道というより獣が歩く森の木々を除け枯草の上や藪を踏み分ける歩きであった。山道はやがて石段に続き、石段は国道に向かって下って行くと『民宿くもも』建物の裏に続いていた。 

     

この2つの遍路道を歩くのも今回が初めてだろうと思った。忠実に遍路道を歩くのと舗装道路を歩くのでは時間も体力も違ってくる。が、この足場が悪く無駄なような遠回りが古くからの修行なのだ。歩ける限り避けてはならない。逃げちゃだめだ。

       

「下ノ加江川」の橋を渡りコンビニ「ローソン」で今日の昼食と明日の昼食2食を買うと再び橋を戻り「真念庵」に向かった。このコンビニを過ぎると、明日の昼まで地図の上で店らしい店は一軒もなかった。下手すると自販機も見つからない可能性もあった。

 アスファルト道路が続き、あと数キロで「真念庵」と言う所で軽快な足取りの白髪の女遍路さんとすれ違った。彼女とは「民宿・大岐の浜」で2日間部屋が隣になり「民宿たかはま」では朝食が一緒だった。彼女も今日は打ち戻りのショートコースなのだが「黒うさぎ」と言う別のコースにある民宿を予約していて、このまま歩くとあまり早く宿に着いてしまうので寄り道して「真念庵」を参拝して戻って来たの、という。

 コンパクトにまとめたリュックを背負い細い体なのに軽快に杖を突き歩くお遍路姿に何度も振り返った。

 

「女だから」とは決して言えない時代だ、と今回の歩き遍路で思うことが何度かあった。

「ゲストハウス恵」で隣り部屋だった奈良県の一人旅女遍路さんがそうだった。昨日砂浜ですれ違った香港からの一人旅女遍路もそうだ。そして今日すれ違った白髪が美しい女遍路さんも、である。地図を頼りに一人は「焼坂遍路道」を踏破しようとし、一人は「大岐ヶ浜」の橋の無い小川を一人渡っている。志のある人は芯が強い。これは男とか女の問題ではない。心の問題だ。それに引きかえ足を痛めたからと、この二日間バスを利用し「時々歩き遍路」となっている自分が情けなかった。

 

「無事これ名馬なり」

と言うけれど最後まで健康でやり遂げられることが大事だ。男も女も、力が有るか無いかも関係ない。遅かろうが早かろうがやり遂げることに価値がある。目標を前に挫折してはゼロなのだ。歩き遍路であり続けることにプライドと意地をはり、あのまま歩けば自滅するところだった-----。

途中で見かけた桜の枝から「今日明日が見納めだ」とばかりに花びらが舞い散っていた。時間はまだ昼前だった。

        

 

「真念庵」には昼に着いた。高台になっている屋根付き休憩所ベンチに腰を下ろすとコンビニで買ってきたおにぎりを頬張った。ここから今日の宿「農家民宿・今ちゃん」まで地図でざっと10Kmだった。地図をみると途中に歩き遍路道の印が点々と4Km前後あるがたいしたことはないだろう、どんなに遅くても午後3時、4時には着くだろうと予想していた。早く着いて早く部屋に案内してくれるなら足も治療できるし一番いいのだが、と確認の電話をかけてみると

「3時過ぎか4時ごろの到着でお願いします」

と言う返事が返って来た。よし、宿にはゆっくり、のんびり行こうと決めた。おにぎりを食べ、パンを食べ、お煎餅を食べているとすらりとした女遍路さんが彼方から広場に入って来た。そして私のいる休憩所に上がって来ると

「こにに座ってもいいですか?」

と断ると向かい側に座った。

 この「真念庵」下にある広場には車もトラックもお遍路も関係なく色々な人がやって来る休憩所になっていた。ただし休憩施設とはいっても営業している売店は一軒もなく自販機が数台と公衆トイレ、ベンチがあるだけだ。その時間帯は歩き遍路が多かった。しかもそのほとんどが外人の歩き遍路だった。日本人より外人の方が多く歩いているとは、これじゃ富士登山と全く同じだと思った。数年前から富士山登頂を目指す登山者の3割から4割が外国人で占められていて、その比率は増すばかりだ。四国を歩いているお遍路も数年経てば外人だらけになるんじゃないか、と思う。日本と言う国の自然や文化のすばらしさ、類いまれな国民性と治安、これらを知っているのは日本人よりむしろ外国の人ではないのか、と思う。

 

        

 白衣をまとった女遍路さんは杖を置きリュックを下ろすとパンを食べ始めた。

ちゃんとした日本語を話すのだが言葉に中国人のような抑揚が混じり日本人でなさそうなので

「どちらの国ですか?」

と尋ねると台湾の台南出身だという。年齢は聞かなかったが30歳代に見えた。彼女のお父さんは台湾人だが日本の教育で育ち日本が好きだという。

中国系の女性にみられる柳腰というのかスラリ伸びた肢体で、知的な顔立ちは日本人と見分けがつかない。言葉はかなり流暢で、しかも女性らしいていねいな話し方に育ちの良さが伝わった。長い間日本に住んでいるのか、と尋ねると

「私は以前、留学で4年間日本に住んでいました」という。

「----茨城県にある大学でした」と言うので、えっ茨城?と驚き

「茨城?私も茨城県の人間ですよ」と言うと彼女は大きく目を開き

「竜ヶ崎市にある大学でした。奇遇ですね」

「えっ、----竜ケ崎?」

私がその時手にしていたお煎餅は地元スーパーで買い持っていたお煎餅だが製造元は茨城県竜ヶ崎市であった。煎餅の入っているビニール袋を彼女の前に差し出し製造元の表示「竜ケ崎」を指さすと

「えっ?何ですか、これは?竜ヶ崎の話をしていたら竜ヶ崎のお煎餅が目の前に出て来るなんて!こんな偶然あるんですか!?」と驚嘆した。

いろいろな偶然が重なるものだ。お遍路に一人で歩いていると何度も驚くような偶然の出会いを体験して来たがこれもその一つだ、と思った。心の中で血が躍るのを感じた。弘法大師は人と人を妙な場所で引き合わせ驚かせるのが好きなようだ。今日もまた、驚かせてもらった。

 その呉さんと言う女性に私は

「----これがお遍路なんですよ。-----きっとあなたも、もっと不思議な出会いをすると思いますよ」

こうして台湾の女の方と知り合ったと思うと数分後に別れる時がやって来た。歩き遍路は出会いと別れの毎日だ。

 

食事を終えると一人で遍路道を登り「真念庵」に向かった。「真念庵」はその昔は「金剛福寺」から次の「延光寺」に向かうための文字通り「庵」、宿だったと聞くが今では昔からの因縁、歴史をたたえ参拝の場にもなっている。

一通り参拝すると石段を下りたところにあるという納経所を訪ねたが目立つ看板は見当たらない。庭先にいた人に尋ね、納経所が階段通路を登った一軒の民家で営まれているのがわかった。看板がある訳でなくごく普通の民家で、訪ねると気のよさそうな奥さんが奥の部屋から筆箱一式を運んでくると朱印と文字印を用意した。2通りの印があり、どちらがいいですか、それとも両方捺印しますかというので両開きページに2通りの印を左右捺印していただいた。料金も2回分の600円だった。四国八十八寺の納経所では納経帖に筆で寺の名を入れるがここでは筆でなく印になっているのが違う処だった。

       

今日の宿「農家民宿・今ちゃん」に向かって歩き出したが車がほとんど通らないアスファルトでのどかな田園が左右に広がっていた。森が四周を遠くから囲む地形で地図に従って歩くと左側の森に向かって遍路道案内があり県道を背に山に登っていく未舗装道に変わった。しかし高さは数十メートルの小高い山裾道で、おそらく昔は牛や馬が運搬用に使われていたのだろう幅のある道だった。

     

      

 

      

 

      

     

           

       

何処の遍路道にも共通なのがこの山裾を切り出した道で、山に沿い右に左にと続いた。息切れするような厳しい山道ではなかった。地区の水道の源になるのだろうステンレス製の貯蔵タンクも山際にあり音を立てて清水が付近を流れていた。

 

 この遍路道の途中に休憩所が建っていた。このまま歩くと4時前に宿に着いてしまう、ここで少し休もう、とベンチで横になり腕枕をしていた。いつの間にかウツラ、ウツラと眠気に襲われていると突然、道路向かい電柱の町内放送大型スピーカーから大音量で「ラジオ体操」が流れ出した。----夢の中で、空から爆弾が降って来た、と思った。

       

 この村では午後3時丁度に村民一体になってラジオ体操て眠気を払い英気を養う習慣らしい。そんなことを知らない私はウトウトしている処に突然頭上から大音量を浴びせられ飛び起きようとしてベンチから転げ落ちた。どうにかケガせず済んだが、まさか村中に響き渡るスピーカー前で昼寝をしているとは思いもよらなかった。

 

「さぁ、歩きだせ。昼寝なんか切り上げろ」

弘法大師が茶目っ気たっぷりに脅かしたか?己の滑稽な姿に笑ってしまった。

 

       

 

        

 現在地を確認し県道から見やると山裾にパラパラと点在する農家が見えた。そのうちの一軒が今日の宿だった。

 時計は午後4時を少し回った時刻をさしていた。バスではなく、自分の足でこの日到着出来たのだ。今日は歩けたと希望が湧いた。

 

 農家民宿に泊まるのは初めてだった。ここは一日に一組限定と言う条件付きで、訪ねて行くと家が3軒ほどたっていて一軒が客用の調理室や食堂を兼ねた建物、一軒が世帯主の住む家、そしてもう一軒が「農家民宿・今ちゃん」の宿泊施設でこれも一軒家だった。

 昔、おじいさんとおばあさんが住んでいた離れをそっくりそのまま宿泊所にしましたという建物で、襖で仕切った畳の部屋が二つ、トイレと台所、洗濯機、お風呂が付いていて布団が1セット片隅に用意されていた。一日一組限定と言うのは一人で泊まろうが家族で泊まろうが壁で区切った部屋は無いので一組のお客が使ってください、という事だ。

 一人で泊まるにはあまりに広い空間で戸惑ってしまう。6畳一間のアパート住人が翌日から2LDKの一軒家住まいになったのだ。しかも料金は2食付きで7500円で、たった一人で泊まらせてもらっては申し訳ないな、という心境だ。テレビも大画面で洗濯機は乾燥まで全自動式、大きな冷蔵庫には缶ビール数本とお茶やジュースが数種類入っていて買い物に行く必要は無い、と言うより付近に店は全く見かけない田舎なのだ。風呂は今ではめったに体験できない五右衛門風呂方式で湯船の下で薪を燃やす方式らしい。尻が火傷しないように耐熱シートが湯の底に沈んでいるので気を付けてくださいと注意があった。トイレは入ると便座が自動で跳ね上がる水洗トイレ。一体ここのどこか農家なのかイメージと「最新設備」のギャップで驚いてしまった。

       

「出来れば夕方の6時半ごろに夕食を」とお願いし、風呂に入ると念入りに足の裏を石けんで泡立て優しく洗い流した。洗濯も済ませ、荷物を畳一面に広げ足の治療に取り掛かった。今日も包帯を足の先に軽く巻くだけで傷の部分は出来るだけ乾燥させよう。それが回復を早めるコツだ、とすべて今日の作業が終わったのは5時過ぎだった。

 

 ビールを冷蔵庫から出し用意されているおつまみ数種類の中からピーナッツを選びそれらは自主申告で翌朝出発前に清算するシステムだ。テレビの夕方のニュースを見るのは久しぶりだった。新聞はお遍路に出てから一度も読んでいない。夕食の時間が近づき、サンダルをひっかけ部屋に用意してあったパジャマや半纏を羽織り玄関の鍵をかけ別棟の食堂へ向かった。

 

 テーブルには既に盛り付けられた何種類かの皿やお鉢が置かれていた。小さな土鍋に火がつけられ、おかみさんは背中を向けて天ぷらを揚げている最中だった。

「まだ全部そろっていませんけど、よかったら飲みながら食べ始めますか?」

と言うので新たに缶ビールを頼んだ。テーブル脇には4合瓶の白濁した瓶がありグラスも用意してあった。

     

 

 

 

「これは何です?」と言うと

「自家製の濁酒(どぶろく)ですよ、これも料理に含まれているので飲んでみてください」

と言う。そういえば、ここの民宿を予約する時にホームページに「濁酒を作っている民宿」とあったのを思い出した。濁酒を飲む機会はめったにない。店舗を通しての販売だと新鮮さが失われ濁酒の価値が半減してしまう。お米の麹、酵母菌で作られ長期保存にそもそも適していない。地元製造、地元消費がほとんどだ。ビールを飲み濁酒を飲んだ。部屋でビールを飲んできたのを後悔した。お腹がいっぱいになってしまう。濁酒は辛口で瓶の底になるほど麹が濃くなり甘くなった。お父ちゃんが射止めたんです、というイノシシの焼肉は肉も脂身も野生動物独特の濃さと脂分が身体に浸み渡った。天ぷらが出てカツオのタタキが添えられ、炊きご飯が土鍋ごと出され、ととても全部食べるは無理だった。「農家民宿」を前面に出すだけあって地どりの野菜はすべて美味しく歯ごたえがあり絶品だった。

 

 この日の歩数37408歩   距離28.2Km      徒歩の時間6時間59分  

 

 

 

 

 

民宿「大岐の浜」~大岐の浜~以布利港遍路道~(バス)金剛福寺~「小学校前」停留所~(徒歩)大岐ヶ浜T~民宿「大岐の浜」

 

「民宿‣大岐の浜」を遍路宿に選んだ人のなかには2連泊する人が多かった。

ここから38番札所「金剛福寺」を経て、更に39番の寺へ行くには二つのルートがあり、ひとつは「金剛福寺」を通りそのままグルっと足摺岬を回るコースで、距離が長く時間も半日余分にかかる。

 もう一つは金剛福寺から来た道を戻り39番「延光寺」へ向かうショートコースで、後者だと金剛福寺から戻る間、荷物を宿に預けられる。こちらを選ぶ歩き遍路が多く、私も今回打ち戻りコースを予定していた。しかし、足の裏が尋常でなくなったのは大きな誤算だった。これほど足を痛めるとは夢想もしていなかった。

 

杖を突き

足を引きずり 

遍路道 

これぞ本当の 

足摺岬 

 

の名(迷)句が浮かび、自嘲するのだった。

 

今回計画を立てた時、あちこちの宿に予約を入れ廃業した宿、休業中の宿が3年で増加しているのを知っていた。だから今さら宿の変更が簡単に出来るとは思えなかった。歩き方を変えなければ予定していた宿に行けないのは明白だった。

 

夜の間に遍路地図を広げ、自分の足で歩く区間とバス利用する区間を決めた。

①   「大岐ヶ浜」の1.5Kmの砂浜だけは往復とも歩こう。

②   「以布利港」遍路道は変化に富んだ道だった。ここだけは我慢して歩こう。

③   アスファルト道路は歩けるだけ歩き痛みと相談してバスを利用しよう---と決めた。

 

「歩き続けなければ」の義務感から解放され、心に余裕が生まれた。バスを利用すればゆっくりと歩け、宿に早く戻り治療ができる。

-----朝を迎えた。朝飯前出発した人もいるだろうと思っていたが健脚の歩き遍路が多いのだろう6時半の朝食を済ませてから出発するお遍路が多かった。往復38Kmを歩くには最低でも8時間以上歩くことになるだろう。

 

 朝食後、私も宿の人と一緒になって順次出発するお遍路たちを見送った。

         

皆、自分のペースで行くのだろう連れ立って歩く人はいなかった。リュックを宿に置き、今日だけは納経袋を肩にしただけの身軽なスタイルである。なかにはピクニックに出かけるように

「じゃあ、行ってきま〜す」

笑顔で手を振り歩きだす陽気な女遍路さんもいる。

ほとんどのお遍路は夕暮れまでに往復の遍路道から戻り、風呂を済ませ、夕食の席でビールを傾け情報を交換するのだった。

 

全員を見送ると、私も杖を突いてゆっくり宿を後にした。時刻は7時半を過ぎていた。道路上に他の宿のお遍路姿もあるはずだがなぜかこの時間になると前後に全く見かけなかった。宿を出るとすぐに国道から浜に向かい、営業の始まったばかりの案内所に入ると、高齢のお年寄りの寄合所になっているのか若い人は居ない。

「砂浜の突き当たりの小川はどうなっています?渡れますか?以前来た時、橋も何もなかったのですが」

と尋ねた。

7年前、歩き遍路で通った時、増水していて靴を脱いで膝まで水に浸かって渡った。が、今朝の治療では足の傷口はまだ塞がっていない。裸足で水に入ると感染の危険があった。

老女たちは1.5km先の砂浜まで行ったことがないようで

「さあてなぁ、橋はだいぶ前に流されたけど、丸太でも架かっているんかどうか?行ったことが無いもんで」ハッハッと笑うきりだ。これで案内所の看板を掲げているとは、と恐れ入った。

------自分で行って確かめるほかなかった。

 

      

  (国道から眺めた大岐が浜 )

 

 

     (砂浜にて)

 
 砂浜でお遍路2日目に巡行船で一緒だった香港の女遍路さんとすれ違った。自然と砂浜の中央で寄り合い、「数日前に船の中で一緒だったね」と片言の英語で言うと、向こうも私のことを覚えていたようでコクリとうなずき
「この先の川を渡る時、岩に丸太が架かっているけど危険です。グラついて危ない。飛び石を伝って渡ったほうがいい」
とスマホを取り出し画像を見せアドバイスした。お遍路同士、他の遍路の無事を気遣うことに国境も政治の違いも関係なかった。
 
  (香港の女遍路さんの後ろ姿)
image
 

 
 水面にところどころ露出している岩をバランスをとりながら渡った。が、渡った場所が悪かったのだろう、その後の急斜面をよじ登るのが大変だった。木の幹を掴み、靴が何度も空を蹴ってずり落ち、腕力で体を引っ張り上げるとそこは目前がガードレールだった。道路脇から白装束お遍路が路肩をよじ登ってくる姿に通りかかった車はさぞや驚いたことだろう。
 
 道路上に出ると、そのまま以布利港まで歩くことにした。理性的に足の回復のため出来るだけバスを利用しよう、とは考えていた。が、バスの本数は極めて少なく待っているより歩いたほうが早いのだ。
「この辺のバスは、停留所以外でも手を挙げれば停まってくれます」
と、民宿の方から聞いていたので「辛かったら合図をすればいい」と気が楽になっていた。
 
 大岐ヶ浜から1Kmも歩くと左に入る丁字路になった。そこが以布利港の入り口だった。だらだらとした坂道を降りて行くと道が狭くなり役場脇を通り過ぎると「ジンベイザメ広場」があり港になった。

 

 初めての歩きお遍路は「以布利遍路道」がどこにあるのか迷う事だろう。海岸線の突き当り、どん詰まりまで歩くと岩壁が行く先をふさいでいる。その手前斜面を見ると小さな案内札が木の枝に掛かっている。見落としそうな掛札だがそれが以布利遍路道の入り口だ。

 

私はこの遍路道が好きだった。竹林が周囲を覆うところもあれば椿の赤い花ビラの絨毯道もある。獣が歩いていても何の不思議もない原始の道だ。前の方で何か動いている、と思ったらタケノコを掘っている人がいてイノシシでなくてよかったとホッとした。

 

 

休憩所は休業中でしばらくの間使われていない様子だった。

遍路道を出たところが停留所になっていて、念のために時刻表を見ると路線バスがやってくる時間だった。1分も経たないうちにバスが姿を現し、ためらわずに乗り込んだ。事前に時刻表を見て計算しながら遍路道を来たわけでもないのに、なんてタイミングがいいんだろ、と不思議だった。バスの中から、今朝見送った歩き遍路を見かけると、その都度心の中で一人一人に声援を送った。

 

 足摺岬に昼前にバスは到着した。ゆっくりと寺を参拝し納経を済ませると海を見晴らす展望台に足を運んだ。空と海がまぶしかった。こんなにゆとりを持って景色を眺めるのは初めてだった。

 

 

寺の前にある観光ホテル街は閑散とし、開いているレストランもまばら、観光客も少なかった。

一軒のレストランで久しぶりにカツカレーを食べていると昨晩宿で一緒だったお遍路さんも入ってきた。休憩をはさみ5時間近くかかって19Kmを歩いてきたことになる。キョロキョロと空いている席を探しいるので手を振り誘うとニコニコ笑顔で前に座った。彼は天ぷらうどんを頼んだ。歩き遍路は汗をかき身体が汁物が欲しがる。

 その時、我々の席、窓際に茶色い動物が現れ、よく見るとそれはイタチが窓の外を餌を求め徘徊しているのだった。こんなにまじかでイタチを見るのは初めてだと二人で眺めていた。そのお遍路さんは40歳代の男の方で初めての歩き遍路だった。

「このまま直進し、途中で足摺岬を横断して戻るルートもありますよ」

と言うと

「えっ、知らなかった。どこで曲がるんですか」

というので地図を出し土佐清水市からの道を指した。実はもし自分が元気で歩けたら打ち戻りの他にこのルートもありだな、と選択肢に入れていた。

「ただし、打ち戻るより3kmくらい余計に歩きますけどね」というと

「同じ道を歩くより、違う景色も見て帰りたい」と乗り気の様子だった。

私は予備のため昨日買ったおにぎりを一個彼に御接待した。バスに乗るお遍路には予備の食料は不要だった。歩き遍路こそ必要だ、といって渡すと彼は礼を言いおにぎりを受け取ると小気味良い食べっぷりで腹に入れた。------夕方暗くなる前、彼は満足げな表情で宿に戻ったのは言うまでもない。

 

 少しは歩き遍路で宿に戻ろうか、とも思ったが時刻表を見ると午後の便、中村方面はまばらだった。うっかり乗り過ごすと何キロも歩くことになり足の傷が回復しない。

 

「今日は歩くな」と自分に言い聞かせバスに乗ることにした。

午後1時を過ぎて定刻にバスが来たがバスの向きは来た方向ではなく反対を向いている。

「中村行はこのバスじゃないの?もう一台違うバスが来るの?」

と不思議に思い運転手に尋ねるとこれが中村方面のバスだという。結局、バスは足摺岬をぐるり一周する方向に向かい、それは私が元気なら予定していたもう一つのコースで、土佐清水市内を経由し右折し再び海岸線を走るのだった。どうも途中の道路が狭いのですれ違いの事故を防ぐためこんな変則コースをたどるようだ。

 大岐ヶ浜が近づき「小学校前」の停留所で降りると、今朝歩いた砂浜に再び入り宿を目指して歩いた。左足の中指爪が昨夜剥がれたが痛みは少し軽くなっていた。 

 

      

 砂浜からはサーファーが海の中に何人か見えるだけで波の音がドッと時折こだまするだけだった。砂の上に寝転んで大の字になった。矢でも鉄砲でもやってこい、なるようになるだけだ。肉体を自然にさらけ出し、どうにでもしてくれ、すべてはお任せしますという心境、無心だった。

 

 左足は痛むのは痛いが昨日ほどではない気がした。宿に戻るまでの山の遍路道で右足の爪が剥がれるようなくっついているような中途半端なぶら下がり状態が続き刺激となって痛みを助長していた。-----いっそ剥がれるのを待つより剝がしてしまった方が治りが早い気がした。左足の爪が剥がれたのは昨夜だったが右足の爪はまだ剥がれてはいない。

 自分で剥がすのは残酷でためらいがあった。それに第一切除道具は文房道具用のハサミしかない。いっそ医者に行って切除してもらいたいがそうなると包帯をぐるりと巻かれ靴が履けなくなるだろうと思った。そうなれば予定は大きく狂ってしまう。それだけは避けたかった。

 右足の爪もきっとこの数日中に剥がれるだろう、それまで痛みと共存、我慢だ。我慢しかない。これが修行だ。この日の歩行数は極端に少なくなった、バスでほとんどの道を助けてもらったからだ。早く両足が治れ、とその晩は早めにベッドに入った。

 

 この日の歩数 20889歩 15.79Km  歩行時間 5時間40分

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒潮町・「民宿たかはま」~入野松原海岸~四万十大橋~伊豆田道・経由~「真念庵」----バス乗車---「民宿大岐の浜」

 

民宿「たかはま」に泊まっていた他の4人もお遍路さんだった。朝7時には皆それぞれの今日の宿を目指し出発していた。窓の外に青空が見えていた。四国に来て五日ぶりに見る空だった。四国には雨雲は似合わない。天に突き抜ける青空と海が合っている。「民宿たかはま」さんの朝食は料理する方の細やかな配慮が見た目にも味にも込められ、同宿の一人旅女遍路さんと絶賛していた。

 

 

いつもの治療を終えたがやはり傷口から魚の干物の匂いがした。この臭いが止まれば回復するだろうと思った。両足の中指の爪も剥がれるのは時間の問題、と包帯で覆いテーピング固定した。これしか手の施しようが無い。レッツ・イッツ・ビー。全力は尽くしたのだ、あとはなるようになるだけだ。 

 

             

 

 

今日は海を見ながら足摺岬の民宿「大岐の浜」までの予定だった。途中の四万十川は「四万十大橋」で渡るか又は「下田の渡し船」で渡るかの2つのコースがあった。今まで経験していない下田の渡しで行きたかったが船は不定期で波の高い日、風のある時は運航中止になるらしい。宿を出ると国道脇に歩き遍路道への矢印があり国道の右に左にと縫う道となった。

      

          

この歩き遍路コースだが「四国遍路一人歩き同行二人地図」の13版と11版では違いがある。例えば19番立江寺からの遍路道で旧版では一コースだけで最新版には新たなコースが加わり二手に分かれる。

この民宿「たかはま」からの遍路道も旧版では国道だが最新版では国道を右から左に縦断する箇所がある。おそらく地元の歴史愛好家が伝聞や歴史書をひも解き本当の遍路道はここだった、と新たに書き加えたのだろう。その最新の発見された遍路道で歩いているのだが地図の大雑把さのせいか不注意の為なのか間違って違うところに入り込み、また来たところに戻りと迷いを繰り返した。

                              

「道の駅ビオスおおがた」でトイレに立ち寄り「入野松原」海岸に入ると風光明媚な松林が広がった。サイクリングでお遍路中の二人のドイツ人が私の白衣を見ると「コンニチハ」と話しかけてきた。お遍路さんであれば国籍も人種も関係ないのが歩き遍路の良さで自分達は八十八寺すべて走るつもりだ、と笑顔で話すと息を弾ませ走り去って行った。今日の晴天は自転車遍路にとって距離を稼げる絶好の一日に違いない。

 

           

 

蛎瀬川(かきせがわ)にかかる蛎瀬橋を渡り2Kmほど先の丁字路で「下田の渡し」の運営者に電話を入れた。その丁字路からだと、もし今日船が動いているなら直進し渡船場に至る道なのだ。運休なら右折して四万十大橋に向かう分岐路である。電話の相手は「今日は別の仕事に就いているので渡し船は運休にさせて貰っています」と言う。おそらく市の観光課や遍路協会から出来ればお遍路さんに便宜を図ってやってもらいたいとボランティアでやっているのだろう。歩き遍路の数は例年より少なく仕事として成り立たないのだろう、仕方なく私は四万十大橋の方向に向かった。

    

陽射しを避けサングラスをかけて歩いた。四万十大橋たもとのコンビニでは久しぶりにソフトクリームを買い四万十大橋を見晴らす休憩所で昼食とした。おそらくこの時期、コロナさえなければこの休憩所には何人かの歩き遍路が立ち寄り一緒に昼ご飯を食べていただろうが誰も立ち寄る人はいなかった。コロナ患者が減ったとはいえまだまだ観光の回復は難しいのが予想された。 

四万十大橋を渡ってすぐに左の急な階段を降り国道321号線に合流した。地図では橋から19Km先に今日泊まる民宿「大岐の浜」があり、足さえ痛くなければ5時間で行ける筈だが何故か遅くなりそうな予感がした。急に暑さが戻ったせいなのか足のマメのつぶれた痛みなのか今日は無理かも、という考えが脳裏をかすめた。

                     

道路際に「田吾作」という暖簾が見え入った。うどん屋である。歩いて汗をかき塩分が欲しい、汁物が食べたいと身体が欲していた。エネルギーの消費も活発になっていた。

    

 

国道321号線は整備された立派な道路だが車の通りは少なく閑散としていた。「伊豆田トンネル」へ近づく頃、分岐路があり歩き遍路への『伊豆田道』案内板があった。そこに進むとアスファルト路面はこの数日の雨で水溜りのようになっていた。山際のところどころに小さな滝が出現し路上に溢れていた。工事車両も全く見かけない道は枯葉で覆われ小さな道が山に向かっていた。まさしく歩き遍路峠道の始まりだ。これまでの経験からトンネルの上を迂回して通るコースだと思った。

 

予定外のコースだった。トンネルが遍路道だと思っていた。また足が痛めつけられるという予感がしたが今回の計画では今まで通らなかったコースを歩くことだったのを思い出し、杖を頼りに登り始めた。しかし、何故だか踏ん張ろうという気力が沸いてこない。他人の意志で山道を操り人形のように登らされているようだ。

         

 

結局、トンネルを抜ければ1時間以内で「真念庵」に着くのだが『伊豆田道』を歩き、倍近い時間がかかってしまった。ここでも前後にまったく人の気配はなかった。歩き遍路の人で忠実に昔からの道をたどる人はどれだけいるのだろう。

  

峠を降りた道では、何処から吹き流れて来るのだろうか桜の白い花びらが風に吹かれ舞って来た。

 

 

ふもとに降りてからしばらく歩くと小さな集落が見えた。遍路マークの矢印に従い石の階段を上った。樹々に囲まれた薄暗い「真念庵」にたどり着いた時

「-----もういい。ここまでだ。」と思った。

 

 

波が引いて行くように気力が消えていき、それはもう一人の自分が大きな影になり両手を広げて行き先を阻むような声だった。

「もういい、ここまで」

 

 

「真念庵」から民宿「大岐の浜」迄は10Kmほどあり時刻は午後3時を過ぎていた。無理をすれば暗くなる頃に宿に着くかもしれなかった。だがこのまま歩くと遍路はここで終わってしまう予感がしていた。傷口から数日前から漂う魚の干物のような匂いは肉体が何かの警告を発している気がした。-----腹を決める時だった。ここで歩きは中断するのだ。今日は終われ!

 

国道のバス停で時刻表を確かめた。1時間前後の割合で足摺岬に向かうバスがあった。早く宿に入り、傷を一刻も早く治療するのだ。それが緊急の課題だ、と思った。

 

(写真は、翌日写した停留所にあった時刻表)

 

数十分後、バスが停車し旅客の一人となったが、お遍路で初めて乗り物を利用した悔しさが心の隅に生まれた。今まで全部、歩きでやって来たのに、と。

 

停留所から宿までの数百メートルを杖で路面を突き左足をかばって歩いた。時間はいつの間にか夕方6時過ぎになっていた。早めに着いたお遍路たちはすでに夕食の真っ最中だった。食堂入り口にドラム缶があって周囲に燃やした藁が散らかり煙が燻っていたが高知名物カツオのタタキをついさっき調理していた跡だと判った。

お遍路を相手にする民宿では宿がお遍路の生活スタイルに合わせるため夕食は早く朝食も早い。そのため食事の遅い粘り酒の呑み助は嫌われる。お遍路さんは酒もサッと切り上げる。そこが他の民宿やホテルと違うところだ。

風呂にまず入りたかったが食事を先に、と催促され歩調を合わせビールを頼みまだ熱々のカツオを頬張った。カツオをニンニクやネギで山盛りにして覆うのがご当地の食べ方だった。

 

 

 

風呂が後になってしまい、汗が引いて体が冷えたのだろう部屋に入るとゾクゾクと震えが来た。一刻も早く体を温めなければ体調がおかしくなる気配がした。

お風呂で充分に温まり、両足を点検すると右足はそれほど傷んでいなかったが左足の裏は水を抜いた穴を中心に次の地肌、肉が露出していた。痛い訳だ。部屋でゆっくり今朝巻いたテープをはがすと中指の爪がテープと共に剥がれ、ふやけた肉も爪に付いてくるのではさみで切断、ちょっとした手術を自分で施しているようだった。すべて表皮の表面部分で幸いに出血はなかった。魚の日干しの臭いはこれだったのかと思った。

 

 歩数 50935歩+バス乗車10Km 距離 38.51Km   徒歩時間 9時間8分 

 4日目・「ゲストハウス40010」~37番・岩本寺~黒潮町~「民宿たかはま」

 

今回のお遍路は、3月22日から始まり4月9日までの18日間、高知県の34番・種間寺から愛媛県松山の51番・石手寺まで歩きで通す予定だった。寺の数は18、距離にしておよそ520Kmを歩く計画だった。

 その4年前、徳島の1番・霊山寺から33番・雪蹊寺迄2週間かけて歩いていたのでその時のペースで行けばこの予定で間違いないはずだった。ちなみに63歳の時、1回目に歩き遍路を始めた時は45日間で全部を回った。

 

 しかし、この3日間歩いて感じるのは、毎日の歩き遍路がこれまでと違ってかなりきつくなっている事だった。

-----初日から3日雨が続き、足裏がふやけ早々と広範囲にマメが出来てしまった事も不調の原因だった。今まで歩いていなかった古来のお遍路道、ハードなコースを選んで歩いたのも要因に違いない。-----しかし何より大きな原因は、このコロナ騒ぎの3年の間に自分も3才歳をとり60歳代から70歳代に入っていたことだった。ひとことで言えば歳をとったのだ。

 

「-----不思議だな、これぐらい歩いてこんなに疲れている」

自分が60歳代から70歳代になっているのは棚に上げて、疲れの原因を雨のせいだ、マメのせいだ、更には今まで歩かなかったハードな昔からの遍路道のせいだ、と全てを己れ以外のせいにしていた。----が、もしかして原因はこの4年の間に私が歳をとったからかもしれないと、やっと4日目にして気付いたのだった。

 

 今からの予定は過去の体力ではなく現実の体力をベースに練りなおさなければ無理が重なり自滅するかもしれない。「朝起きたら歩けないかもしれない」という危機感が昨夜から何度も浮かび、うつらうつらしながらフッと出てきた反省がそれだった。------素直に歳をとったことを認めよう。現実から目を背けていると、最悪の事態を招くだけだ。足の傷次第ではバスや電車も利用していいのではないのか。しや、そうせざるを得ないのではないか。

 歩き遍路に執着していては到着時間も遅くなり宿に迷惑をかけることになる。歩き遍路という自己満足はこの辺で見直す時期だ、と4日目の朝を迎えた。

 

 

 引いては寄せる波のような意識の中でシトシトという雨音が遠くから聞こえ、誰かがトイレに入るドアの音で目が覚めた。午前四時半少し前だった。外はまだ暗い。治療と身支度、朝食に1時間はかかる。

 

余談だがこの朝、腕時計を見ると不思議な事が起こっていた。愛用のカシオの腕時計の短針がどうした事か1時間進んだ時を表示していたのだ。操作ボタンを触った覚えがないのにキッチリ1時間針が進んでいるのだ。スマホに起床時間をセットしていたので、一瞬どちらが狂っているのかと思ったがスマホが正しかった。カシオの腕時計表示を変更するにはボタンの長押しと複数のボタン操作の組み合わせが必要でいじってないのに針が1時間進むとは何なのだろう。どう操作したら戻るのかベッドでやってみたが針は戻らなくなっていた。ところがこの三日か四日後の朝になると針はスマホ時計と同じ時刻を指し、戻っていた。何なのだろう?腕時計だけ1時間先を行くなんて。時間を確認するたび混乱する奇妙な数日であった。

 

 昨夜は寝返りを打つたびに足の裏の痛みで目が覚めた。傷口を覆っている包帯を一度替え、そのために眠りは浅かった。いつも持っている救急セットの包帯は使い切ってしまった。足の裏は皮が剥がれ体液が滲み、ジトジトしていた。嫌な、日干しした魚の臭いがした。傷口が膿んでいる臭いかもしれない。凄惨な状態だった。

 ガーゼを束ねてクッションを作り、マメの破れた箇所に当て包帯を巻いた。立ち上がると痛みが突き上がって来た。包帯は2回だけ足先を巻き、それ以上巻くと靴を履く時、足がむくんで入らなくなっていた。

「----また今日も雨か」

これで4日連続の雨だ。昨夜、靴の中に新聞紙を詰め込んでいたので朝にになると湿気は大部吸い取られていた。これも歩き遍路を重ねてきた知恵である。しかしカラッとした履き心地ではない。午前6時に「ゲストハウス40010」を出ると他の宿泊客はまだ布団の中の様子だった。そっと玄関を締め5Km離れた36番札所・岩本寺に向かって歩き始めた。雨雲のせいもあろうが夜が明けきっていない薄暗さで小さなライトを点けて歩いた。

 

               (黒い平屋の家が「ゲストハウス40010(しまんと)」)

             

  1時間以上かかって岩本寺に着いた。この雨ではマラソン大会に出る選手たちはずぶ濡れだろう。寺の周辺で何人ものビニール袋で体を覆ったランニング姿とすれ違った。足の裏の痛みは変わらなかった。2、30分くらい痛みを我慢していると痛さがマヒしてくる。

 

     (岩本寺本堂の天井にある奉納絵。マリリンモンローも朝の雨で暗く映っている)  

    

 

 納経を終えると国道脇のドラッグストアで包帯2巻きと粘着テープを買った。コンビニも近くにあり、昼用におにぎり2個とパン一つをリュックに詰め込んだ。こんなにお店が寺の周りにあるのは珍しい。市街地を離れると途端に店はなくなるので見つけた時が買い時だ。3Kmとか5Km自販機さえ見かけない道路はざらにある。    

 

 この日は黒潮町の「民宿たかはま」迄。地図上では33.5Kmを歩く予定になっていた。「焼坂峠」や「そえみみず遍路道」のような足元の厳しい峠は途中にない筈だ。

 

 雨雲が地表まで垂れ下がり、低い山々を覆う姿に一瞬、雨が山から天に立ち昇っているような錯覚を覚えた。

 今回の遍路で天候の悪い日が多かったが、そんな光景を何度も見た。山裾や山襞から狼煙(のろし)のように靄が立ち上がったと思うと、幾つもの靄の筋が中空で合体し、それはまるで竜が山の麓から天に向かって立ち昇る瞬間で見事なショータイムだった。-----歩き遍路で良かった、と山々を移ろう靄を見ながら心からそう思った。歩いているから見られるのだ、痛さの代償だと思いながら歩いた。

 

                    

  (後日、農祖峠に入る直前に見た湧き上がる霊気の様な靄)

    

                
 
 この日、歩きで確かめたかった場所が幾つかあった。
ひとつはどこだったかある町のクリーンセンターで、施設の正門から入る遍路道だった。確か岩本寺を参拝した後で通った気がする、という程度の記憶しかなかった。「こんな場所が遍路道になっているのか」という驚きが鮮明だった。岩本寺を後にして5Kmほど進んだ頃その場所は現れた。
 

       

      

         

      

       

  ここは「市野瀬遍路道」という歩き遍路道で、地図を見ると国道56号線のトンネルの真上を横断する峠道になっている。雨で路面に浮き出た木の根元がツルツルして滑りやすく落葉がたっぷりと雨を含んでいる。自動車道トンネル出口を眼下に見ながら20~30分かかって歩く峠道で靴は再び濡れネズミになっていた。紆余曲折し峠を降りてきたので目の前の国道の右に行ったらいいのか左なのか一瞬判らなくなる。「38番・金剛福寺へ」の矢印がありホッとして国道を右に向かった。

 

 この峠道で、東京町田市から来ている年配の歩き遍路の男と一緒になった。小柄だが足の速い人で並んで10分も歩くとその男の背中が次第に遠ざかり30分歩くと見えなくなった。休憩所で追いつき、隣に座って

「足が速いですね」というと

「いや、普通だよ、全然速くないよ」

と謙遜する。本人はいたって真面目に「普通だ」を強調するのでやはり自分の足が他の人より遅いのだろう。

 何人か速い歩き遍路を観察したが足の速い人に共通するのは男も女も歩くピッチに関係があるようだ。町田のお遍路さんの後ろから試しにピッチを合わせ歩いてみると確かに間隔は離れなくなったが疲労が濃くなった。人にはそれぞれ自分に合った歩幅やピッチがある。これは他のスポーツでも同じで生まれつきのリズム、としか言いようがない。

「何歳です?」と問われたので

「数日前に71歳になりました」と答えると、町田のお遍路さんは    

「なーんだ!若いじゃねーか! 俺よりうんと若い!」途端に表情を崩しアッハッハと笑った。

足が痛くて、と弱音を吐くと

「俺は77歳だ。あんた、まだまだ若いよ!」

豪快に一笑された。

 

 このお遍路さんとは付かず離れずの距離をとったまま歩いた。黒潮町も大規模な道路工事中で迂回の遍路道が看板に表示されていた。初めて通る熊井隧道のトンネルを抜け「道の駅なぶら」で休憩している間に町田のお遍路さんの姿は見かけなくなった。

           

 

 

 

 

 

彼は今夜「民宿ニュー白浜」に宿をとっているといっていたがそこは市街地からは2km先だった。私の予約していた「民宿たかはま」は正規の歩き遍路道を通るとそこから更に7~8Km先だった。午後の三時を過ぎていた。暗くなるまでに着けばいいがと先を急いだ

 黒潮町街外れには以前泊まった民宿が2軒並んでいたはずで通り道なので歩みを緩めたが「内田屋」も「坂上」も二軒とも廃業し宿の面影はなかった。思い出だけが頭のなかで蘇った。

 夕暮れ近くになると自分でもぺースダウンしているのがわかったが佐賀西公園展望台からの眺めは気持ちをリフレッシュさせてくれた。海はいい。

         

 

 

 

 最後の歩き遍路道「井の岬」の海沿い道に入ると太古の昔のような剥き出しの岩が頭上から人を威嚇するようだった。一時間ほど歩いたが車一台通らない淋しい小道で、暗くならないうちに宿へと自然と歩調が早まった。

      

 

 

夕暮れ近く「民宿たかはま」に着くと風呂に入り足裏を何度もシャワーで洗った。泡立てた石鹸で傷口をそっと包み込み繰り返して雑菌を洗い流した。夕食は店主の奥さんがタイの人なので、四国に来て初めて和食以外の料理となった。ふた種類のメニューの中から好みの物を選ぶシステムで趣が変わり大変に美味しかった。

 その晩、傷口は乾燥させることを第一とし体液を吸い取るように包帯だけ三重に巻いた。傷口が嫌な臭いを発し魚の乾物の匂いがした。朝になって傷口水分が乾いたところに赤チンや軟膏を塗ろうと治療法を変えた。なるようにしかならない。レットイットビー。

 

 

寝る前に、今日出会った町田のお遍路さんを思い出した。あれは、弘法大師が姿を変え、私に「喝」を入れに来たのかと思った。

「71歳? なーんだ!若いじゃねーか! あんた、まだまだ若いよ」

 

 

 

この日の歩数 58053歩 距離43.89km 歩行時間10時間18分

 

 

     

 

 

 

 

3日目  土佐久礼「ゲストハウス恵」~ そえみみず遍路道経由「「七子峠」~ 「ゲストハウス40010(四万十)」

    

 

 3日目の朝、両足の裏側、親指の付け根付近に立ち上がると痛みを感じるようになっていた。

 

 初日にほぼ一日雨の中を歩き、昨日午後も峠道を登るころから雨、2日続けて靴の中は湿気を帯びていた。ふやけた足裏にマメができ、立ち上がると体重で圧迫され痛みが出る。

 昨夜、用意していた針で小さなうちにマメをつぶしてしまおうと表面に2か所の穴を空け、溜まっていた体液を絞り出し包帯で覆っていた。が、寝ている間に自然治癒力が働き、穴がふさがり元の大きさに膨らんでしまった。本当はじっとしていれば回復は早いのだろうが歩き遍路から歩きを引くと修行でも何でもない、という妙なプライドが歩き続けさせていた。

 しかし、実際問題として身体が動かなければ移動はできない。最悪の場合、先々予約してある宿をキャンセルしなければならなくなる。よし、この数日足の様子を見て計画を考え直そう、と思った。

 

この3日目も朝から雨となった。しかし幸いなことにこの日の工程は今回のお遍路中で最も短い距離、18Kmを予定していた。いつも通りのペースで歩くと昼頃には到着してしまう距離で、この距離なら今日は我慢して歩こうと自分に言い聞かせた。

 

 実はこの3日目は37番目岩本寺を参拝し宿坊に泊まるつもりでいたが、電話してみると予約で一杯、おそらく近くの宿はどこもそうでしょうという返事だった。不思議に思い理由を尋ねるとこの3月26日に桜祭りマラソン大会が地元で数年ぶりに開催され全国のランナーが押し寄せ岩本寺宿坊はだいぶ前からマラソン関係者によって押さえられていたのだという。

 近くの数軒の旅館に電話してみたが同じ返答しか返ってこなかった。手前のゲストハウスにだけ空きがあり予約していたのだった。

 

 レインウェアーの上に白のポンチョを被り雨対策万全の態勢で土佐久礼のゲストハウス惠を出発した。今日のコースで難関なのは「添蚯蚓・遍路道」という妙な名の遍路道だった。この遍路道、何と読むかというと「そえみみず・へんろみち」と読むようだ。

 最初「そえみみず」と聞いてもピンとこず、地名なのか何と読むのか判らなかったが「ミミズがのたうつような形をした遍路道」という意味のようだ。「焼坂」といい「ミミズ」といい妙な名前づいている地域だ。

 

 国道を横断したところにコンビニがあったので昨日の反省からリュックに2本のペットボトルを入れた。2本で1リットル、つまりリュックは1Kg重くなる。他に食料としておにぎり2個と非常用のパン1個。そのほかリュックには飴や煎餅、チョコレートが入っている。今日は大丈夫だ。

 四国は国道を外れると実に交通量が少なくなる。遍路道になるとほとんど人も見かけなくなる。30分も歩いた頃にアスファルト道路から左に分岐する遍路印があり山に向かって進んでいく。いよいよミミズ道に突入だ。

 さてここからです、という場所に比較的新しい休憩所が建っていて個人の寄付による休憩所だった。

      

この遍路道には整備された階段が山の上に向かって100段以上伸びているが、登り切ってみると今度は同じくらい下る階段になっている。近辺に自動車専用道路が出来たため自動車道を優先、本来の遍路道の方が遠慮して迂回することになった、というところだ。

 しかし上る身になれば一旦せっかく上がって来たのにまた下るのか、という心理的落胆を伴うことになる。

     

 囚人を懲らしめるため一日じゅう穴を掘らせ、掘り終わったらまた埋め戻させる作業があると聞いた事がある。それに似ている。階段を上ったら下って、終わったと思ったらまた山に向かって登るのだ。しかしこれが歩き遍路、修行というものだ。楽をしに来ているのではない----と、たいそうなことを自分に言い聞かせるが、やはり疲れるのは疲れる。自動車道を走っている車を階段からはまじかに見られ、走っている車からも遍路を見られるだろう。   

 

            

再度階段を上ると、それ以後は特に大きなアップダウンは無くなった。

 しかしこの日も一向に雨は止まず、足裏は上り下りの数百段からなるダメージが加わって痛みを増し始めていた。マメの膨らみが広がり、特に左足は木の根の出っ張りを踏むと痛みが下から突き上げるようになった。早く水を抜かなければマメが広がるばかりだ。何処か雨の掛からないところで穴を開け一刻も早く水を抜かなければ、と思うが座れる場所も雨を凌げる場所もない。

 後半になってこの遍路道で最高度の409mを上り切ったころから平らになったが山の尾根道を歩いているようだった、我慢して歩いているうち足の痛み感覚がマヒし始めた。人間は何にでも適応する動物だ。痛みにさえ慣れるのだ。-----そうだ、前に歩き遍路をやった時もそうだったな、と思い出した。

 

 地図によるとこの「そえミミズ遍路道」は最後に七子峠の舗装道路に到達するはずで、さっきから左側に時折車の音が聞こえ始めていた。尾根道は馬の背の道になり下って行くのが判った。延々と細かな雨は降り続き1人も歩き遍路は見かけない。

 

 

 大昔の遍路道など誰も好んで歩かないのだろうか?結局は昼まで誰一人として見かけなかった。

昼12時過ぎになってやっと遍路地図にある七子峠の「床鍋」バス停に到着したが周囲に開いている店は一軒もない。人影もない。さびれた公衆トイレがあり自販機が目に付いたのでペットボトルを補給し廃業したガソリンスタンドの軒下に座りおにぎりを食べた。周囲には雨に加えて靄がかかり景色は白濁してぼんやり映るだけだった。

      

 昼食を済ませると念のためスマホのナビで方向を確かめ遍路道を進んだ。平地に降りると路面は平らになり凸凹が無いだけでも救いだった。山の裾野、農家の点在する地域へと遍路マークは案内し畦道や小川沿いの小道へと誘った。

 ある場所ではイノシシ除けの柵が前方をふさぎ、土地の住民皆がそうするように、お遍路さんも柵の中に入る時には自分でカギを開け入ったら閉めるよう指示が書かれていた。

      

お遍路も住民もイノシシの前に隔たりはなかった。

 

この日の宿「ゲストハウス10010(しまんと)」さんのオーナーからは

「到着する30分前に電話をください。家の鍵を開けに行きますから」と念押しされていた。そしてコンビニは近くにないので手前にある地元スーパーで食べるものを買った方が良いというアドバイスも受けていた。

JR土讃線「仁井田」駅近くのスーパーピゴットという店からオーナーにスーパーに着いたと電話をし

「これから食料品を買ってから行きますから30分後に着くと思います」と通話を終え店に入ると中はただならぬ混雑ぶりであった。理由は明日がこの店の営業最終日、つまり閉店前セールの真っ最中であった。食べたかった刺身やサラダ、弁当の他朝食のおにぎりやビールを買うとそれも2割引きの対象になった。

 

 予備に用意していた折りたたみリュックに食料品を詰め込み、雨の中を再び歩き出した。数分間歩かないでいると身体が冷えるため最初の数歩に足裏が激しく痛んだ。しかし3分も歩くと痛みがマヒゆっくりとだが歩けるようになっていた。足の裏がどんな状態になっているのか想像するのも恐ろしかった。

 ここのゲストハウスは前にユーチューブで確認していたので仁井田小学校脇の一隅にあるはずだった。到着して玄関に立ってノックをすると返事はなく、早く着いてしまったようで庭に佇んでいると数分してオーナーの車が到着した。一階建て平屋、ごく普通の民家である。

 オーナーの女の人は30歳代で経営している料理屋さんが岩本寺の近くにあるらしく掛け持ちでゲストハウスも営んでいるとのことだった。今日の客は私の他にオーストラリア人が一名、マラソン大会関係者が数人一部屋、それぞれ相部屋ではないというのでほっとした。傷んだ足裏を診るのも、治療するのも自分だけで沢山だ。他人にマメの潰れた傷等見させたくない、と安心した。

 

 午後の4時過ぎで、外はまだ明るかったが一番で風呂に湯を張り体を洗う準備をした。オーナーと誰かの話し声がして居間に出てみるとオーストラリアの男性が大きなリュックを担いでやってきたところだった。このゲストハウスには何年も前から何回か泊まっているらしく親しげだ。日本語が流暢で聞くと奥さんが日本人、住んでいるのはオーストラリアで成人した男の子二人の父親でもあるという。私は先に風呂に入り済んだらお湯は抜いておく旨を伝えた。足裏の傷を洗ったお湯を次の人に使わせることは出来ない、それがマナーというものだ。

 部屋は2段ベッドのある洋風の6畳の広さだった。一段目の空間に荷物を広げ上段で寝ることにした。

 風呂から上がると部屋の明かりを全部点けて両足の裏を調べた。石鹼の泡でそっとなでるように傷口を洗い、何度もお湯をかけ流していたので傷口は清潔な筈、と胡坐(あぐら)を組んで右、左と足裏を調べると右側は一か所だけマメが朝よりやや大きくなっていた程度だった。問題は左の足裏で親指の根元から中指の根元にかけ縦3Cm横に6Cmの一面が体液をいっぱい貯め膨らんでいた。ここが遍路道で木の根元を踏み悲鳴を上げていた箇所だと思った。正常な足の裏ではない、凄惨、の一言だった。

 

 とにかく水を抜かなければ皮膚が乾燥しないし回復もしない、放っておけば膨らむ一方だ、と床の間にティッシュペーパーを何枚も重ね広げ、患部の皮を持ちあげ、この広さでは今までのように2か所の穴だけでは汁が出切らないだろう、と5か所、6カ所と針で貫くとタラ-リと透明な体液が穴から流れ出た。全部出し切らないとまた溜まるだけだ、と傷口を押すと痛みに思わず顔をしかめた。この自己治療の時の私の精神状態は「鬼」そのものだった。

 痛いなんて騒ぐんじゃない。こうしなければならないのだ。治すためには耐えなけれならない。「MUST」の世界であり義務の世界であった。感情論や弱音は論外であった。不動明王が背後に乗り移っていた。痛みは傷口を押している数秒から数十秒で、それが終わればひと波が去る。

 右足裏も治療し、それぞれの針であけた穴から赤チンを綿棒に浸み込ませ流し込んだ。よく見ると左右の中指の爪もグラグラと剝がれそうになっていた。剥がれるのは時間の問題だ。傷口に更に抗生物質の入った薬を塗り包帯でぐるりと巻くと粘着テープで止めた。これ以上の治療はないだろう。あとは黴菌が入って化膿しないことを祈るだけだ。

 

 床を歩くと新たな痛みが傷口に響いた。足裏が付けられず踵(かかと)だけで室内を歩くことになった。寝ている間に傷が少しでも回復するのを祈るしかなかった。

 

 夕食はゲストが共有の食堂で摂ることにして買ってきたビールや弁当を広げた。マラソンスタッフは明日の打ち合わせのために遅くなって入室するらしい。

 オーストラリアの男性も夕食の準備で、持参したアルミの鍋焼きうどんをガス台で煮立て更にカツライス弁当をチンすると私と向かい合って食べ始めた。ビールを傾けながら聞くと、何と明日のマラソン大会のフルに出場するのだという。昨日迄お遍路で高知県内を歩いていて明日の大会の為に松山でお遍路を中断し今日この宿に泊まったのだという。

 50歳ながら若々しく何でもやってみようという精神に驚かされた。私も若いころ船員だった3年間があり、船に乗って東南アジアの11か国を回った話をするとそこから話が弾み、仕事の話、オーストラリアの話、と話題が広がった。名前はSAMさんといい現在の仕事はオーストラリアで企業向け日本語×英語の翻訳をしているといったが愉快な1時間だった。

 

 

 

 

 一人で歩き遍路をしているといろいろな場所でほかの見知らぬ人と一緒の時を過ごす事が多い。歩きお遍路の一つの特徴と言える。団体遍路ツアー、自家用車遍路ではおそらくそういった交流は少ないのでは、と思う。

 

(詳細は自主規制)

  

 

この夜、痛みに何度か目が覚め、その都度に溜まった水を押し出した。そうしないと明日は歩けないかもしれない気がした。朝、どうなっているだろうか?雨が降らなければいいが、と何度も目が覚めた。

 

 この日の歩数 29812歩 距離22.54Km  歩いた時間 6時間30分

 

2日目、3月24日 「三陽荘」~巡行船「埋立」から「横浪」~仏坂峠経由「須崎市」~焼坂峠経由~土佐久礼・ゲストハウス恵

 

2日目は、初日の疲れをいやすため距離は短く予定していた。

巡行船に乗れば徒歩10Km分 を省略できる上に歩き遍路のルートとしても認められ船からの景色も楽しみだった。

三陽荘の受付に前夜その予定を話すと、船の発着場迄送ってくれるサービスがあるというので予約していた。7時10分発の乗船に間に合うよう一般泊客より早い朝食の席を用意してくれ、よい宿に泊まったと思うのだった。

船着き場に向かう車に乗る遍路は私一人だけだった。出港予定時刻の数分前に車は波止場に着き、リュックを背負って岸壁にいくと3人のお遍路が既に船を待っていた。20歳代の若い男、背の高い70歳前後の男、そして香港人の女性の3人だけだった。車がどの家にもある現在、船を利用するのは観光客か私たちのようなお遍路だけのようだ。時刻表を見ても1日3本しか便がない。

発着場に係員はいなかった。船賃は乗って中で払う仕組みのようだ。暫くすると沖合からエンジン音を響かせ小舟が近づいた。船頭は一人で、器用に船を操り船体を岸壁に横着けし、ロープで船を岸壁につなぎ、客が乗るともやいを解き、再びエンジンを響かせ岸壁を離れた。

                   

接岸から乗船、離岸迄すべて一人でこなすワンマン船長だ。離岸すると船はエンジンを最大限に響かせ左右に白波が立ち始め、操縦しながら客から料金を徴収するのだった。船内のシートには20人前後が座れる広さがあった。

 

 

 

 

船の前後、左右に広がる入り組んだ島々の光景、海面を鏡にして写る淡い白色の桜、花筏がお遍路の目を惹き付けていた。「横浪三里」と呼ばれる突き出た半島に守られ、浦の内湾は実に波穏やかな内海を思わせた。

 

 

生簀の中ではカンパチや真鯛の養殖が行われているらしい。うねりの無い波間のあちこちには数えきれない生簀が点在しお遍路たちの好奇心を集めていた。

           

船は対岸から次の入り江、そしてまた次の入江へと移動し乗客を拾っていくのだが次に乗り込んできたのは二人だけだった。二人ともお遍路で、一人は昨日会った広島県の白い顎髭の方、もう1人も女のお遍路さんだった。この女の方と後に同じ宿になろうとは思いもよらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「今日はどこまで行く予定ですか?」と顎髭のお遍路が尋ねるので「『安和』か『土佐久礼』まで行くつもりです」と答えると

「それなら『安和』駅に行ってみるといい。あの駅から見える海の景色は素晴らしい。いつもお遍路に出るたび僕はあそこに立ち寄るんだ」

と薦めた。電車を利用しなくても景色を眺めるために『安和』駅構内には入れるようだ。----しかしこの言葉が、後に奇妙な偶然を呼び寄せるきっかけになるとはその時は思ってもいなかった-----。

 巡行船が最終の「横波」の波止場に着いたのはちょうど8時だった。6人のお遍路が全員下船すると行く先は二つに分かれた。私だけ仏坂を経由する遍路道を選び、他の5人は県道23号線のコースへ向かった。私の今回の歩き遍路の目的の一つは「今まで通ったことのないコースを選ぶ」でトンネルのある舗装道路コースはこれまで自転車、オートバイ、そして歩き遍路ですでに経験していた。

 波止場脇のコンビニでトイレを済ませ、おにぎりを買い女の店員に仏坂の道の様子を尋ねると、一応舗装道路にはなっていると言う。

「-----でも、誰も通らない獣道みたいで、今じゃ車もほとんど通らないよ」

行かないほうがいいよ、と言いたげな口調だった。

 

同じ遍路道でも路面がアスファルトか未舗装かで足裏の受ける衝撃は違ってくる。雑草で覆われた道か木の根の浮き出た道かによってスピードも違ってくる。勾配が急で岩の混じったデコボコ道になると進む距離は半減する。険しい山越え遍路道では一キロ進むのに一時間費やすこともある。

 

結果的に、仏坂不動尊経由の遍路道は実際に歩いてみるとそれらすべてが少しずつちりばめられた遍路道だった。最高高度が140mと峠としては低い部類だったが前半は路面の多くは落ち葉に覆われ、車は一台も見かけなかった。柑橘類農園をこの山で営む方々が仕事のため利用する道路、といった趣だった。峠を登っていると、頂点付近で歩き遍路用の山道が左に現れ、雨で濡れた斜面を滑らないよう降りていくと、まもなく開けた平地になりそこに岩不動の建物が鎮座していた。関係者の車が1台置いてあるだけで訪れる車も人も見かけなかった。そうして長い下り道を3Kmほど歩いて来ると、さっき船着き場で別れたお遍路たちが先に歩いて行ったであろう県道23号線へ合流、須崎市内に到着した。

 この日、出来れば道の駅「かわうその里すさき」まで行ってゆっくり休憩を兼ね昼食をと考えていた。計算してみるとこの日予約していた宿泊先「ゲストハウス恵」は「土佐久礼」駅から徒歩数分なので、道の駅から10Km前後、午後に3時間歩けば楽に宿に着けるだろうと予測していた。しかしこの日通過する「焼坂峠」がどんな過酷な峠か知らないでの計算だった。

 

 昼食を終え安和駅に着いたのはまだ午後2時台だった。せっかく広島の顎髭お遍路さんから薦められたのだ、景色を見てみよう、と安和駅のプラットホームに上り風景を眺めた。

 

 

 

(写真は撮り忘れたのでネットから拝借) 

 

風光明媚で穏やかな海や松林の島がパノラマのように広がり俯瞰できた。お遍路中にこんなゆったりとした光景に癒されるのもいいものだ。

数分後、焼坂峠に向かう前にトイレを拝借し出ようとするとビニールで覆われた紙片が荷置き台にあるのに気付いた。遍路地図を1枚コピーしたものが折り畳まれ、点々と進路が赤で印してある。見た瞬間、私と同じ歩き遍路がここに地図を置き忘れたのだな、と思った。ホテルや民宿の名が空白欄に幾つかメモしてあり×が付いている。赤丸で印をしている項目もあり、ハァ、この人は今日ここの宿が取れたのか、と赤丸印をみるとそこには「ゲストハウス『恵』」と書いてある。えっ?私と同じ宿に泊まるの?

 誰が忘れたのだろう?奇妙な偶然に妙な胸騒ぎがした。この人はいったい誰なのだろう?その地図をリュックにしまうと焼坂峠に向かった。

 

             

安和駅から焼坂峠の案内が立っている場所まで数百メートルの距離だった。7年前、台風通過直後の焼坂峠は全面通行止めになり、私は仕方なく海沿いの遍路道を歩き土佐久礼に回ったのだった。それが今回やっと歩ける。宿まで残り7Km前後。どんな峠か分からないが暗くなる午後6時前には宿に着くだろう、と甘い予想を立てていたがこれがとんでもないきつい峠だった。

 焼坂峠は高度228mでそれほど高い山ではなく少しきつい坂がある程度だろうと思っていたが、前半は緩い坂道だがある所に来ると足元は不安定で登り一方のくねくねと曲がり続ける辛い登りが続いた。入口に「4.9Kmの峠道」という看板があったが、あの距離は本当かと途中で疑い始める始末だった。ヒーヒーと言い通しの登山となった。まだこの登りが続くのか?気が抜けない緊張の連続する足元だった。景色が見えない鬱蒼とした周囲の暗さと途中から降り出した雨が気力を萎えさせた。甘く見ていた。登りはじめて2時間以上たって反対側の麓に降りるとペットボトルのお茶は底に少し残っているだけで用意する水も甘く見ていたことに気づいた。-----舗装道路に道が合流し家が見えたので、庭にいた旦那さんに水道水をお願いし、残っていたお茶を一気に飲み干すと空になったペットボトルに水道水を詰めさせてもらったが喉の渇きを甘く考えていたのは完全に失敗だった。地図上のたった4.9km、されど登山道の4.9Km、その違いが読めなかったのだ。4年間の遍路から遠ざかっていたブランクは大きい。

 

更に1時間近く歩き、光の灯った土佐久礼の町に入り宿に着いたのは6時半を回っていた。多分5時ごろには着くだろうと甘い予想を立てていたのは3年もお遍路から離れていたせいなのか、それとも年をとったせいなのか、いや両方かもしれないと考えるのだった。

 

予約していた宿は土佐久礼の商店街から徒歩5分の場所にあった。「ゲストハウス」は今まで一度も利用したことが無かったが民宿と何が違うのか仕組みが判らなかった。

泊まってみて分かったことは一軒の普通の独立した家が空き家になってしまったので宿として活用しようというものだった。その家の複数の部屋を希望者に一晩貸し出すが食事は自分持ち、が基本である。それまで誰かが使っていた普通の台所があり、キッチンがあり、冷蔵庫や調理用品フライパンや鍋、ナイフやお箸と食器かあるので食材を持ち込めば料理も出来る。ただし使ったものは元通りに清潔にしておく必要がある。風呂がありトイレがあり空いている人から順に使う。布団やベッドがあり普通に宿泊できる環境だ。

 今回の遍路旅で2回ゲストハウスに泊まったが2軒とも部屋に鍵はなかった。おじさんやおばさんが住んでいた家にひょっこり泊まりに行くようだ、と考えればゲストハウスとはどんなものか判るかもしれない。必要なものは自主的なマナーだ。民宿やホテルと違うのはこのマナー意識かもしれない。

 ゲストハウスに着くと

「誰か今日の宿泊者でこの地図を忘れた方はいませんかね、安和駅のトイレで偶然拾ったのですが」

とオーナーの方に言うと、風呂から上がったばかりの様子のご婦人がやって来て

「あっそれ、私のなんです」とにこやかに笑って地図を手にした。

「安和駅で、トイレに入った時忘れたらしいんです。実は駅のホームの隅で海の風景を写生していたんです。そして出発際にトイレに地図を置いてきたことに気が付き行ったらもうなくなっていた。あなたが拾って行ったのですね」と言うのだった。地図が無いので国道を歩いて宿には早く到着したのだという。

見知らぬ土地の見知らぬ駅のトイレで地図を拾った人と地図を忘れた人とが数時間後同じ宿に泊まる確率はおそらく何十万分の一以下であろう。

食堂でビールを飲みながら2人で話していると更に偶然があった。この人は今朝の巡航船で次の波止場から乗ってきた二人のうちの一人だった。そしてさらに驚いたのはこの女の人は現在奈良に住んでいるが独身時代に茨城県に住んでいたことで、卒業した高校は鉾田二校という女子高で、私の妻の母親の実家はその高校のすく下にあった。親同士もさほど違いはない年齢の筈で、親同士が知り合いだった可能性もある。旦那さんが数年前に亡くなり1人になり、お遍路道を歩いていると言う。

 

 

 

妻とこの女の人は高校は違うが全く同年齢であった。不気味なほど偶然が重なり、更にその人とふすまを隔て隣同士で寝るようになるとは何とも世間は広いようで狭いことかと思った。

             

お遍路に行くとよく不思議なことが起こるが、こんな歩き初めから起こるとは、と奇妙な縁に身震いするのだった。

 

 この日の歩数44424歩 距離33.58Km  歩行時間8時間39

 

 

令和5年3月22日から四国遍路を再開した。丸三年振りのことだった。

----思い起こせば中国の武漢を発生源とするコロナウィルスが世界中に拡散したのは3年前だった。その前年33番の雪蹊寺まで四国遍路を歩いていたので翌年の春に34番から続ける予定だった。が、コロナウィルスは何度も形を変え押し寄せ、やっと下火になり始めたのがこの令和5年2月になってからだった。

 

生きているうち、行けるうち歩いておこう、と改めて計画を練り直した。今回の歩き遍路には2つの目標があった。

1、    複数の遍路道があれば今まで歩いていなかったルートを歩こう。

 

2、    「篠山(ささやま)神社」に行ってみよう。

1については個人的な好奇心である。問題は2の篠山神社だった。

 

高知県と愛媛県の境にある「篠山(ささやま)神社」は本来、足摺岬から打ち戻りをする場合必ず立ち寄る神社だったらしい。だが旧一本松町札掛という地にある篠山神社の第一鳥居を参拝するだけで済ませ、実際に篠山神社まで行く人は少ないようだ。----なぜ篠山神社詣でを省略するのか不思議に思ったが-----地図を眺めると理由が判ってくる。

-----篠山神社は高知県と愛媛県を分ける山頂にあり、途中寄って行く寺も周囲にはない。高度も1056メートの高さにあり往路だけでもかなりの体力と時間を要し、何よりも周辺に遍路宿が見当たらない。これらの理由から第一鳥居のある札掛を訪ねることで参拝したことにする遍路が多くなった、と推測するのだが、実際この身体で歩いて確かめてみたいと思ったのだった。

 

遍路道保存協会の地図で、月山神社の載っているページにも書いてあるが、足摺岬「金剛福寺」を打ち終えた遍路は古来二通りのルートで次の寺に向かったようだ。

ひとつは足摺岬をぐるりと一周「月山神社」を参拝して延光寺に回る。または打戻りをし、延光寺に回った後に「篠山神社」に参拝することになっていたようだ。篠山神社に行くのを果たせなかった遍路が多かったのにはそれなりの理由があってに違いない。無理なのだろうか。しかし意外な宿、ルートがあるかもしれないではないか。それを検証するのも今回の目的であった。

 

1日目・令和5322日初日

初日、この日は茨城県潮来市から高知県までの移動日であった。利用するのは格安航空のジェットスター便、成田から高知竜馬空港への便である。成田までは妻の運転する車で送ってもらうことにした。潮来市からだと40分もあれば空港に着く。

 

新幹線だと高知県の雪蹊寺前の民宿「高知屋」まで電車を乗り継いで6時間以上かかるが、空路だと半分の時間で済む。料金も早めの申し込みでJRより2000円ほど安く済んだ。体が長旅で疲れないのは何よりの魅力である。

この前日、私は誕生日を迎え71歳になっていた。天気予報では翌日から雨が数日続くと告げていた。宿は18日間、高知市から愛媛の松山市道後温泉まで前もって予約している。「雨だから今日は中止」とはいかない、それが歩き遍路だ。

 ちなみにジェットスターでは長さ1mを超えるものは別途運賃として2000円がかかり金剛杖はその対象になる。機内持ち込みは出来ない。事前に知っていたからよかったが当日申し込みだともっと割高になるらしい。飛行機利用のお遍路の方は注意したほうが良い。

 

空港バスを利用し高知市内のはりまや橋で下車したが、この数年の間に光景が変わっているのに気づいた。自動車専用の高架道路が伸延され3年前とは景色が違っている。トンネルや高架橋があちこちで工事中だ。

バスを乗り換え夕暮れ前に民宿「高知屋」に到着。部屋から見える雪蹊寺では桜が満開になってお遍路たちを出迎えていた。

       

テレビでは明日からの雨を予報していた。この日、夕食に集まった男女5人は全員が歩きお遍路だった。80歳過ぎの顎ひげを蓄えた広島の方も交え、私と同年代の女遍路たち3人が賑やかに夕食を共にしたのだった。不思議なもので歩き遍路たちの間には高い壁は無く、互いに持ち寄った情報交換の場となった。

 

2日目・323

----雨音が夜明け前から窓の外に聞こえ始めていた。朝食の6時半になると雨は強さを増し始めていた。テレビでは高知県に大雨警報の他に強風注意報迄発令されていると伝えている。今回の遍路では雨が大歓迎してくれているようだ。7時に玄関を出ようとしていたが持っている雨具を全部装着するのに少し時間がかかった。

セパレート型レインスーツ上下、その上に真っ白のポンチョをかぶって2重の防雨対策とし、足元は靴ごとまるまる覆い包む通販で買ったビニール製レインシューズカバーを用意していた。

杖と傘を持つと両手がふさがってしまうので私は歩き遍路では傘を持たない。頭はレインウエアーの雨除けで覆い、その上にビニールを被った菅笠を被れば2重対策になる。それでも頭や顔が濡れるのは仕方ない。雨の中を歩く自分が悪いのだ、雨を受け入れるだけだ。と歩き出し数分後、足元の異音に立ち止まった。

靴カバーが歩くたびにブカブカと音を立てているのだ。数十歩程度なら実用に耐えるが数千歩、数万歩と歩けばカバー靴底が破れるのは時間の問題だ。雨宿りのできるガード下に入ると靴カバーを外しリュックにしまい込んだ。こうなると靴に雨が浸みこんでくるのは時間の問題だろう。見渡せば早くも薄暗い道路上に雨の池が至る所に出来ていた。今日は濡れネズミになるのを覚悟しなければならない、と雨の中を歩き始めた。

          

34番札所種間寺までの距離は宿から6,3Kmの筈だった。1時間半もあれば到着できるはずで吹き付ける風と雨に身体を揺さぶられながら歩いた。時折、脇を通り過ぎる車は雨しぶきを跳ね上げていた。県道279号線を横断し新川川の橋の上で一人の歩き遍路に追いついた。今朝、同じ宿から私より20分早めに宿を出た白い顎髭を垂らした80歳過ぎの歩き遍路、広島の方であった。脇に並びかけると

「---私はゆっくりですから、お先にどうぞ進んでください」

向こうからそう話した。確かに人の歩調は十人十色で、他人に無理に合わせるとリズムも狂いストレスがたまるものだ。それをこの人は知っていた。

「それではお先に」

と言ったが私も決して足の速い方ではない。むしろ遅い部類の人間だ。高校生や中学生の登校時間にたまに一緒に歩くことがあるが、彼らの姿が次第に遠ざかるのを何度も経験している。しかしこの白い顎髭の白装束さんは遅いなりに80歳過ぎでもリュックを背負い傘さして歩いているのには感心する。その傘も飛ばされそうだ。

十数分後、種間寺に到着しても雨と風は一向に衰える気配はなかった。ロウソクをともそうとするがライターは着火と同時に吹き消され、それはお線香を点す時も同じで、何度も何度も繰り返しやっと火が移った。本堂と大師堂と、火をともすだけでも10分近い時間がかかってしまった。納経所はこの大雨のせいで歩き遍路はほとんど見かけず、たまにマイカーでやってくるお遍路を見かける程度だ。

本堂脇のわずかな庇の下でどうにか雨を避け荷物を入れ直し出発しようとしていると一台のタクシーがやって来てぱらぱらと3人の女の人たちが降りてきた。今朝食堂で一緒だった女遍路の人達だった。互いに別の歩き遍路の筈だが困ったときは3人が団結して歩くらしい。タクシー利用で体力の消耗を防ぎ長丁場のお遍路を続けようというお遍路の仕方だった。次の35番・清瀧寺までは彼女たちは歩いて行くといっていたので私は先輩ぶって「大きな仁淀川大橋を渡ったらすぐ土手沿いを右に向かうんですよ」とアドバイスし別れた。しかしこのアドバイスが自分自身の判断を間違わせる原因になるとはその時点では夢にも思わなかった----。

 

仁淀大橋を渡り右折し土手に入ると、私は地図が雨に濡れるのを嫌がりバックにしまうと記憶に頼ったまま土手を歩くことになった。そこが間違いだった。土手を1Km行ったところで左側に印があり街中に降りる分岐路があるのだが、見落とし曲がらず土手を直進してしまったのだ。「大きな仁淀川大橋を渡ったらすぐに土手沿いを右に向かうんですよ」という自分の言葉が妄信になり遍路印に注意を払わずコースから右へ大きく離れて行ってしまったのだった。

おかしいな、遍路印がしばらくの間何処にもない、と不安になりやっと地図を取り出し2Kmも方向違いに向かっていたのを知ったのだった。2Kmの過ちを修正するには戻りの時間を含め倍の時間が必要になる。つまり4Km約1時間をここでロスしたことになる。街中のレストランかうどん屋で温かいランチを摂り体を温め休ませる計画は破れてしまい、持っていたおにぎりをベンチで座って食べるだけとなったのだった。

 

35番・清瀧寺への道を登り始めるとすぐに歩き遍路道と車用舗装道と二つに分かれ、私は忠実に左のコンクリート道を選んだ。雨はまだ勢いが衰えずコンクリートの坂道を小川が流れるような勢いで水が流れ落ちてくる。靴にも容赦なくその滝のような雨がぶつかり靴下の中まで水に浸かる。

                  

 

靴下の布地がよじれ皺になり足裏にまとわりついている。靴下を脱いで絞るとポタポタ水が滴って落ちた。

このまま歩き続ければ足裏はふやけマメが出来てしまうのは目に見えている。急な坂道を1分間登っては10秒休み、また次の角から次の角まで1分間登っては10秒休み、と上を見つめて登っていくが坂は延々と続く。10分以上滝のような路面を登り本堂脇に着いた頃、やっと雨は小降りになった。

 

境内に参拝者はいなかった。歩いて登って来た人も他に誰もいないようで静まり返っていた。手早くロウソクと線香の用意をすると本堂と大師堂で火をともし納経を済ませると来た坂道を下り始めたがどうも一番雨のひどい時に登って来たようで下りの斜面に流れる雨の量はさっきより半減していた。坂道が終わると種間寺で会った女の人3人とここでもすれ違うことになった。

「ここの遍路道、坂道はどうですか?」と不安がって聞いて来るが30分前と比べれば雨は落ち着いてきており靴を洗うような流れももうない。

「最初はきつい坂道だと感じますが、少しの辛抱ですよ」それが彼女たちとのこのお遍路旅での最後の会話となった。

 

この日、私の予定では夕刻5時までに36番の青龍寺迄打つことになっていた。しかし仁淀橋を渡って道を間違え1時間はロスしている。「塚地坂」の峠道を通る予定だったが時間に余裕がないのでトンネルを行くことにした。以前に「塚地坂峠道」は歩いたことがあり、反対にトンネル内を歩いたことはなかったので丁度良かった。

 

                    

塚地坂へ向かう前、遍路の印が見つからず二度も人に道を尋ねた。県道39号線に入るとただひたすら歩き続けた。私の脚の速度だと納経時間にギリギリなのだ。

 途中でふと、峠道の方が距離は短いんじゃなかったか?と迷いが出る。それほど大変な峠ではなかった気がしてくる。しかしトンネルの方がアップダウンはなくストレートなので合理的な筈、とトンネルに入った。

この頃になると雨はやみ天候も回復してきていたがポンチョや雨具を脱いでリュックに収納する数分が惜しかった。トンネルを抜けると海が見えた。早く土佐大橋を見たい。どれだけ橋までの距離があるだろう。それによって納経の時間に間に合うかどうかの判断が出来そうだ。すると後ろから呼び止める女の人の声が聞こえた。

「お遍路さーん。待ってください」車から降りてお接待を渡そうとする女の人が後ろから追いかけてきた。

100円玉2枚を手渡してくれるのだがこの日の雨で財布にしまっていた納札はびしょびしょに濡れ人に渡せる状態ではなかった。私は事情を話し「お礼の言葉しか返せません」と詫びた。女の人はいいえ結構です

「これで飲物でも買って下さい」と云うと車に戻って行った。

 

海辺に出ると土佐大橋が見えた。背後には青空が見えている。橋を渡り終えるまでには2Km以上、30分近くかかりそうだ。橋を渡り終えてから36番の青龍寺迄は確か3Km 以上あるはず。という事は私の脚ではここから1時間はたっぷりかかる計算だ。時計を見ると午後3時50分、間に合うかどうかギリギリのところだ。土佐大橋を渡ってすぐ遍路道が山に向かって進んでいくのを知っていたがそこも一度歩いた経験がある。こうなったら時間優先、アップダウンの無いアスファルト道路を歩いて行こう。

 この時の「時に追われての歩き」はきつい時間だった。喉は乾き、ペットボトル半分ほどのお茶が残っていたが少し飲んではスピードを上げ、を繰り返し歩いた。橋を越えこの日泊まる三陽荘が道路脇に見えたが背中のリュックを下ろす時間が惜しかった。下ろしているとスタッフの人に「お名前は」とか尋ねられ立ち止まることになるのでその数秒の時間がロスになる気がしていた。

 小さな岬を3つ回ると道は海岸から内陸部に向かった。すれ違う車もほとんどない。しかし目印になる建物が山に隠れて見えない。周囲に人影もない。時計の針は納経所締め切り時間の5時まであと10分になっていた。-----山の下に寺らしい建物が見えた。他にそれらしき建物はない。もうこれ以上の速足は出来ない、と両手を振って加勢して歩いた。納経所が入り口から間もないところに見えると私は一目散になって駆け込んだ。時計を見ると4時55分、締め切り時間5分前だった。

 正式な作法によれば、まず本堂、次に大師堂を参拝し最後に納経所に向かうのが筋なのだが本堂、大師堂は170段の石段を登った上にあり、納経所まで下りてくるまでに20分はかかってしまう。そこで

「納経帖だけ先に済ませてもらってよろしいですか?今からお参りさせてもらいますから」というと係の女の人はニッコリ頷いて了解してくれた。納経帖に筆と朱印が押される間、私は初めて間に合った、という安ど感と共に残りのお茶を飲みほした。

      

 その後、誰もいない石段を登り薄暗くなった境内で本堂と大師堂とゆっくり参拝し般若心経を唱えた。石段を下りると納経所はすでに戸が閉められていた。

 

 気力とは不思議なもので石段を降りてリュックを背にするともうさっきのような脚力は体に残っていなかった。三陽荘に戻るまでの時間が同じ距離なのに二倍近くかかり到着は夕方の6時近くになっていた。

 部屋に入り雨具、リュックを部屋中一杯に広げ、大浴場に入ると一気に温泉の中に疲れが溶けだした。足の裏は湿気でふやけマメができ始めていた。大変な初日だったな、明日まともに歩けるだろうかと何度もお湯の中で足を揉みほぐした。

 部屋に戻り洗濯室に行きかけると大広間の片隅に全身マッサージ機があるのに気が付いた。100円硬貨一枚で30分近くも脚から腰、背中や首まで機械が揉んでくれるのだ。こんないいものがあったのか、と洗濯をしている間、マッサージ機に身体を横たえ機械の揉むのに任せた。風呂上がりの火照った筋肉や筋、関節のコリが徐々に揉みほぐされ、思わずうめき声と共に気持ちよさに酔うのだった。

    

今回この三陽荘は18日間中で宿泊代が一番高額だったが、しかし料理の質の高さ、部屋の居心地の良さ、翌朝の巡航船への車で送迎サービス、そしてこの心身をリフレッシュする効果を考えるとリーズナブルに思えた。

 宿泊は「単に高いか安いか」より質であり内容が大切なのだと改めて思うのだった。----これはのちに破格の安い料金で迎えてくれた民宿で身にしみ感じたのだが、安かろう、悪かろうで泊まってしまい不潔感と和式トイレという時代に遅れた環境の為、結局は心身とも疲れの取れないまま翌朝を迎えた経験から言える。

----かくして初日は到着翌朝から大雨と暴風の出迎えを受け、それはまるでお前の歩き遍路への覚悟はどんな程度なのか、と試されるような一日になったのだった。

 

この日の歩数50929歩 距離38.5Km

 

 

   

 

         

  前回のブログ『ターンナットは外せる』に書いたが、トヨタ「シェンタ」には運転席にも後部席にもボルト穴はなく、室内にパイプを巡らすとなると取り付ける箇所はアシストグリップくらいしかない。

 ところがアシストグリップを外してみると壁に縦1Cm、横2Cmの四角空間があるだけでボルト穴はない。ボルトを使うにはここに「ターンナット」を挿入するしかない。

そこで「ターンナット」を使いボルトを入れられるようにした。しかし一般にターンナットは一旦取り付けると外せなくなる、と言われているが、こうすれば外すこともできますよ、というのが前回のブログだった。

 

-----以下、その後のパイプや棚の取り付けの話です。

 

 室内収納スペースは「イレクターパイプ」で作ることにした。車のキャンピング仕様をする人たちの間でイレクターパイプ愛好者が多く、実績も豊富なのだ。

 私が普段から車に積み込んでおきたかったものは寝袋やマット、テントといった非日常時用の生活セットだった。

           

写真左から寝袋、イェローの床マット、テントやポールセット、右端はエァーマット。

 

これらをトランクルームに置くと結構な場所を占め邪魔になるので、普段は車の中に棚を作ってひとまとめにしておきたかった。

-------「シェンタ」は室内高があるので天井に荷物を吊り下げ空間を有効活用できるだろう、と試行錯誤を始めたが、これが実に楽しい時間だった。

 

迷う楽しさ、想像の喜び、失敗と成功のときめき、未知なるものへの挑戦がDIYにはある。

 

         

 

「シェンタ」には次のイレクターパイプ数本、幾種かの部品を購入した。                                   

        

①     木の丸棒、直径25mmを3Cmにカットしたもの6組を自作。ゴム板を巻いてパイプ径と同じ28mmにし、断面にワッシャーを当て6mm×50mmのボルトを通し「ターンナット」にネジ接続する。

②     は鉄製の丁字接手4組で①を挟み、横穴にパイプを通す。

③     は鉄製角度調整接手2組でラゲッジルームのボルト穴に①と共に取り付ける。

④     丸棒は木製の25mm。これを3Cm長さに切り、真ん中にドリルで6mmの穴を空けボルトを通した。丸棒は硬くノコギリで切るのに苦労した。穴も真ん中に空けるのは難しい。

⑤     下の右端90度のエンド支え。当初はこれをアシストグリップにつけるつもりだったがパイプが壁にぶつかるので使用しなかった。結局②を使うことになったが図面上うまくいく筈でも壁には数センチ単位の凸凹があり図面通りにはいかない。あくまで現実、現況優先でなければ理想に近づかない。

⑥     プラスチック製丁字。これには接着剤を塗らずパイプ表面を自由に移動できるようにした。写真は2個だが最終的に4個使った。

⑦     エンドキャップはパイプの端に被せパイプ切断面の保護、見栄えのためで無くても差し支えない。

⑧     プラスチック製のグリップ接手。最終的に4個使うことになったがこれも接着剤は使用せず取りはずし自由、幅の調整に移動できるようにした。グリップ力が強く接着剤は使わなかった。

⑨     パイプカッターと一般の6mm6角レンチ。パイプカッターは5000円近い純正品を買う必要はなくこの3000円台の汎用品で十分だった

 

②を横パイプに通しアシストグリップ穴のターンナットに仮止め。当初②でなく⑤を使おうとしたが面間が短くてパイプが壁に当たってしまうので中止。

      

    

アシストグリップの2穴だけでパイプを吊り下げると負担がかかり過ぎる。パイプ端を下から持ち上げ支えれば荷重は3箇所に分散して安全。そこでラゲッジルーム壁際にボルト穴があったので下からも支える形にした。横のパイプと縦のパイプはプラスチック製丁字で結ばれる。

 

 

 棚は適当な「弱さ」と「丈夫さ」のある棚を探すことになった。

試しに手持ちの網状ネットを使ってみたが荷物が垂れ下がってしまうので対象外とした。上から覆って荷崩れや散乱を防ぐものでネットに物は載せるものではないと思った。

     

 

 

そこで、棚はある程度変形に強い金属製にしようと思った。

カインズホームセンターに幅45Cm長さ90Cmの曲げ加工が効きそうな適度な棚を見つけ購入。作業台を活用し端から5Cm位のところを30度ほどの角度に折り曲げ、荷物が落ちるのを防げるようにした。

                                   

 そして適当なフックも6本購入しパイプに吊るし棚を下げてみた。 

 

         

天井から棚は20Cmの隙間がある。隙間があり過ぎると荷物は転がり、狭過ぎると入らないので何度か曲げを調整した。幅は90Cmで寝袋、マット2種、テントセットのすべてを収容できた。

 棚は100円ショップの安いスチール棚もチェックしてみたが少しの力、重さで簡単に変形する代物で長持ちしそうになかった。反対に値の張る頑丈な棚もあったがそれだと曲げ加工に大変な力を要しどちらも一長一短だった。

      

              

 棚の曲げ加工が終わって荷物を載せ、念のため後ろ席に座ってみたが棚にも荷物にも頭は当たらない。

 

              

 バックミラーで見ても視界は良好。安全と居住性に問題はない。 

               

 

 

こうして「シェンタ」へパイプと棚1か所の取り付け作業が終わった。

 

万が一の場合、後部座席を倒せばシェンタは本格的な車中泊仕様にもなりそうで、まずは一段落というところ。

本格的な車中泊仕様、キャンプ仕様はこれから先のお楽しみです。----