「 民宿・大岐の浜」~「真念庵」~県道46号線・成山大師堂経由~「農家民宿・今ちゃん」 

 

 今回の歩き遍路では宿の無い地域では時に40km前後を歩かなければならない日もあったが長距離の日、短い日を折り混ぜ疲れが偏らないように平均30Km前後にしていた。

 

初日は31.2Km、2日目22.3Km、3日目18Kmとし、4日目33.5Km、5日目34Km、6日目は38Kmで予定していた。地域によって宿のない街もあった。

歩いた距離が果たして正しいのか疑問を抱くようになったのは昨日の6日目だった。地図の距離とスマホの距離とどちらが正しいのか首をかしげるようになった。

 初日の31.2Kmがスマホで38.5Kmとカウントされ2日目以降もスマホの方が予定を上回っていた。確かに初日は道を間違え、行ったり戻ったりで何キロか余計に歩いた。しかし6日目は「金剛福寺」迄の大半はバスで、帰路も1000円の運賃を払い大岐ヶ浜の入り口で降りアスファルトの道は4~5Kmしか歩いていない。実感ではせいぜい歩いたのは8Km~10Km、ところがスマホは15.79Km歩いたことになっている。スマホの計る距離が間違っている、おかしいと考えた。

 たぶんスマホの歩数計は単純に歩幅×歩数で歩いた距離を出しているだけだ。山道や泥濘もそれで計算していると思う。念のためスマホの距離を歩数で割ると歩幅が75Cmで計算されていた。私の身長168.5Cmだと75Cmの歩幅が平均的数字らしい。しかし数年前に測ったところ私の歩幅は65Cm前後だった。加齢で今ではもっと縮んでいるということだろう。

「あなたは脚が長くストライドが広いですな、今日はこんなに歩きましたぜ」

とスマホにお世辞を言われているようだ。しかし短足で歩くのも遅いというのが実情、スマホの距離は当てにならない。GPSと地図が連動していればこんな食い違いは起こらなかったろう。

 

(このブログではスマホが記録した歩数、距離、時間をそのまま掲載しているが人それぞれ歩幅とピッチが違うので今回表示の距離は現実と違っている、たぶんもっと短い。念のため)

 

 7日目の歩く距離は18Kmを予定していた。

この日の距離は全行程18日間の中でも最短の部類で、前日に砂浜を中心とした柔らかな路面を選んで歩いていたので足裏の痛みは少し軽くなっていた。「大岐の浜」の女主人が、初日に到着した私の足の状態を心配し自家製の特製薬液を接待してくれたが、朝と晩に傷に塗ったのも痛み軽減に役立っていたかもしれない。休養は効果がある。

 今日は昨日より歩けるだろうと食堂に向かった。定刻の6時半になると皆が集まった。

   

       

       

宿を出発する時、記念の写真をお願いすると息子なのか従業員なのか男の方が

「じゃ、一緒に並んで」

と、おかみさんとのツーショットを撮ってくれた。道路に出るまで手を振って見送ってくれ、国道から振り返るとひときわ大きく両手を振ってくれた。私の杖を突く音が路面から高らかに響き、2日前はバスで来た道を今度は歩きで戻り始めた。

         

この日も青空が見える一日となった。背中のリュックも前よりも軽く感じた。やはり休養は大切だ。-----2日前、濡れネズミのように身体を杖に頼って民宿「大岐の浜」にたどり着いたことが思い出され、無理はいけない、歩き遍路のメンツにこだわっていては身体を壊すだけだと反省した。

 宿を出るとすぐ左の山へ分け入っていく遍路道の印があった。「真念庵」に戻る迄2か所の薄暗い森の中を歩いたが、道というより獣が歩く森の木々を除け枯草の上や藪を踏み分ける歩きであった。山道はやがて石段に続き、石段は国道に向かって下って行くと『民宿くもも』建物の裏に続いていた。 

     

この2つの遍路道を歩くのも今回が初めてだろうと思った。忠実に遍路道を歩くのと舗装道路を歩くのでは時間も体力も違ってくる。が、この足場が悪く無駄なような遠回りが古くからの修行なのだ。歩ける限り避けてはならない。逃げちゃだめだ。

       

「下ノ加江川」の橋を渡りコンビニ「ローソン」で今日の昼食と明日の昼食2食を買うと再び橋を戻り「真念庵」に向かった。このコンビニを過ぎると、明日の昼まで地図の上で店らしい店は一軒もなかった。下手すると自販機も見つからない可能性もあった。

 アスファルト道路が続き、あと数キロで「真念庵」と言う所で軽快な足取りの白髪の女遍路さんとすれ違った。彼女とは「民宿・大岐の浜」で2日間部屋が隣になり「民宿たかはま」では朝食が一緒だった。彼女も今日は打ち戻りのショートコースなのだが「黒うさぎ」と言う別のコースにある民宿を予約していて、このまま歩くとあまり早く宿に着いてしまうので寄り道して「真念庵」を参拝して戻って来たの、という。

 コンパクトにまとめたリュックを背負い細い体なのに軽快に杖を突き歩くお遍路姿に何度も振り返った。

 

「女だから」とは決して言えない時代だ、と今回の歩き遍路で思うことが何度かあった。

「ゲストハウス恵」で隣り部屋だった奈良県の一人旅女遍路さんがそうだった。昨日砂浜ですれ違った香港からの一人旅女遍路もそうだ。そして今日すれ違った白髪が美しい女遍路さんも、である。地図を頼りに一人は「焼坂遍路道」を踏破しようとし、一人は「大岐ヶ浜」の橋の無い小川を一人渡っている。志のある人は芯が強い。これは男とか女の問題ではない。心の問題だ。それに引きかえ足を痛めたからと、この二日間バスを利用し「時々歩き遍路」となっている自分が情けなかった。

 

「無事これ名馬なり」

と言うけれど最後まで健康でやり遂げられることが大事だ。男も女も、力が有るか無いかも関係ない。遅かろうが早かろうがやり遂げることに価値がある。目標を前に挫折してはゼロなのだ。歩き遍路であり続けることにプライドと意地をはり、あのまま歩けば自滅するところだった-----。

途中で見かけた桜の枝から「今日明日が見納めだ」とばかりに花びらが舞い散っていた。時間はまだ昼前だった。

        

 

「真念庵」には昼に着いた。高台になっている屋根付き休憩所ベンチに腰を下ろすとコンビニで買ってきたおにぎりを頬張った。ここから今日の宿「農家民宿・今ちゃん」まで地図でざっと10Kmだった。地図をみると途中に歩き遍路道の印が点々と4Km前後あるがたいしたことはないだろう、どんなに遅くても午後3時、4時には着くだろうと予想していた。早く着いて早く部屋に案内してくれるなら足も治療できるし一番いいのだが、と確認の電話をかけてみると

「3時過ぎか4時ごろの到着でお願いします」

と言う返事が返って来た。よし、宿にはゆっくり、のんびり行こうと決めた。おにぎりを食べ、パンを食べ、お煎餅を食べているとすらりとした女遍路さんが彼方から広場に入って来た。そして私のいる休憩所に上がって来ると

「こにに座ってもいいですか?」

と断ると向かい側に座った。

 この「真念庵」下にある広場には車もトラックもお遍路も関係なく色々な人がやって来る休憩所になっていた。ただし休憩施設とはいっても営業している売店は一軒もなく自販機が数台と公衆トイレ、ベンチがあるだけだ。その時間帯は歩き遍路が多かった。しかもそのほとんどが外人の歩き遍路だった。日本人より外人の方が多く歩いているとは、これじゃ富士登山と全く同じだと思った。数年前から富士山登頂を目指す登山者の3割から4割が外国人で占められていて、その比率は増すばかりだ。四国を歩いているお遍路も数年経てば外人だらけになるんじゃないか、と思う。日本と言う国の自然や文化のすばらしさ、類いまれな国民性と治安、これらを知っているのは日本人よりむしろ外国の人ではないのか、と思う。

 

        

 白衣をまとった女遍路さんは杖を置きリュックを下ろすとパンを食べ始めた。

ちゃんとした日本語を話すのだが言葉に中国人のような抑揚が混じり日本人でなさそうなので

「どちらの国ですか?」

と尋ねると台湾の台南出身だという。年齢は聞かなかったが30歳代に見えた。彼女のお父さんは台湾人だが日本の教育で育ち日本が好きだという。

中国系の女性にみられる柳腰というのかスラリ伸びた肢体で、知的な顔立ちは日本人と見分けがつかない。言葉はかなり流暢で、しかも女性らしいていねいな話し方に育ちの良さが伝わった。長い間日本に住んでいるのか、と尋ねると

「私は以前、留学で4年間日本に住んでいました」という。

「----茨城県にある大学でした」と言うので、えっ茨城?と驚き

「茨城?私も茨城県の人間ですよ」と言うと彼女は大きく目を開き

「竜ヶ崎市にある大学でした。奇遇ですね」

「えっ、----竜ケ崎?」

私がその時手にしていたお煎餅は地元スーパーで買い持っていたお煎餅だが製造元は茨城県竜ヶ崎市であった。煎餅の入っているビニール袋を彼女の前に差し出し製造元の表示「竜ケ崎」を指さすと

「えっ?何ですか、これは?竜ヶ崎の話をしていたら竜ヶ崎のお煎餅が目の前に出て来るなんて!こんな偶然あるんですか!?」と驚嘆した。

いろいろな偶然が重なるものだ。お遍路に一人で歩いていると何度も驚くような偶然の出会いを体験して来たがこれもその一つだ、と思った。心の中で血が躍るのを感じた。弘法大師は人と人を妙な場所で引き合わせ驚かせるのが好きなようだ。今日もまた、驚かせてもらった。

 その呉さんと言う女性に私は

「----これがお遍路なんですよ。-----きっとあなたも、もっと不思議な出会いをすると思いますよ」

こうして台湾の女の方と知り合ったと思うと数分後に別れる時がやって来た。歩き遍路は出会いと別れの毎日だ。

 

食事を終えると一人で遍路道を登り「真念庵」に向かった。「真念庵」はその昔は「金剛福寺」から次の「延光寺」に向かうための文字通り「庵」、宿だったと聞くが今では昔からの因縁、歴史をたたえ参拝の場にもなっている。

一通り参拝すると石段を下りたところにあるという納経所を訪ねたが目立つ看板は見当たらない。庭先にいた人に尋ね、納経所が階段通路を登った一軒の民家で営まれているのがわかった。看板がある訳でなくごく普通の民家で、訪ねると気のよさそうな奥さんが奥の部屋から筆箱一式を運んでくると朱印と文字印を用意した。2通りの印があり、どちらがいいですか、それとも両方捺印しますかというので両開きページに2通りの印を左右捺印していただいた。料金も2回分の600円だった。四国八十八寺の納経所では納経帖に筆で寺の名を入れるがここでは筆でなく印になっているのが違う処だった。

       

今日の宿「農家民宿・今ちゃん」に向かって歩き出したが車がほとんど通らないアスファルトでのどかな田園が左右に広がっていた。森が四周を遠くから囲む地形で地図に従って歩くと左側の森に向かって遍路道案内があり県道を背に山に登っていく未舗装道に変わった。しかし高さは数十メートルの小高い山裾道で、おそらく昔は牛や馬が運搬用に使われていたのだろう幅のある道だった。

     

      

 

      

 

      

     

           

       

何処の遍路道にも共通なのがこの山裾を切り出した道で、山に沿い右に左にと続いた。息切れするような厳しい山道ではなかった。地区の水道の源になるのだろうステンレス製の貯蔵タンクも山際にあり音を立てて清水が付近を流れていた。

 

 この遍路道の途中に休憩所が建っていた。このまま歩くと4時前に宿に着いてしまう、ここで少し休もう、とベンチで横になり腕枕をしていた。いつの間にかウツラ、ウツラと眠気に襲われていると突然、道路向かい電柱の町内放送大型スピーカーから大音量で「ラジオ体操」が流れ出した。----夢の中で、空から爆弾が降って来た、と思った。

       

 この村では午後3時丁度に村民一体になってラジオ体操て眠気を払い英気を養う習慣らしい。そんなことを知らない私はウトウトしている処に突然頭上から大音量を浴びせられ飛び起きようとしてベンチから転げ落ちた。どうにかケガせず済んだが、まさか村中に響き渡るスピーカー前で昼寝をしているとは思いもよらなかった。

 

「さぁ、歩きだせ。昼寝なんか切り上げろ」

弘法大師が茶目っ気たっぷりに脅かしたか?己の滑稽な姿に笑ってしまった。

 

       

 

        

 現在地を確認し県道から見やると山裾にパラパラと点在する農家が見えた。そのうちの一軒が今日の宿だった。

 時計は午後4時を少し回った時刻をさしていた。バスではなく、自分の足でこの日到着出来たのだ。今日は歩けたと希望が湧いた。

 

 農家民宿に泊まるのは初めてだった。ここは一日に一組限定と言う条件付きで、訪ねて行くと家が3軒ほどたっていて一軒が客用の調理室や食堂を兼ねた建物、一軒が世帯主の住む家、そしてもう一軒が「農家民宿・今ちゃん」の宿泊施設でこれも一軒家だった。

 昔、おじいさんとおばあさんが住んでいた離れをそっくりそのまま宿泊所にしましたという建物で、襖で仕切った畳の部屋が二つ、トイレと台所、洗濯機、お風呂が付いていて布団が1セット片隅に用意されていた。一日一組限定と言うのは一人で泊まろうが家族で泊まろうが壁で区切った部屋は無いので一組のお客が使ってください、という事だ。

 一人で泊まるにはあまりに広い空間で戸惑ってしまう。6畳一間のアパート住人が翌日から2LDKの一軒家住まいになったのだ。しかも料金は2食付きで7500円で、たった一人で泊まらせてもらっては申し訳ないな、という心境だ。テレビも大画面で洗濯機は乾燥まで全自動式、大きな冷蔵庫には缶ビール数本とお茶やジュースが数種類入っていて買い物に行く必要は無い、と言うより付近に店は全く見かけない田舎なのだ。風呂は今ではめったに体験できない五右衛門風呂方式で湯船の下で薪を燃やす方式らしい。尻が火傷しないように耐熱シートが湯の底に沈んでいるので気を付けてくださいと注意があった。トイレは入ると便座が自動で跳ね上がる水洗トイレ。一体ここのどこか農家なのかイメージと「最新設備」のギャップで驚いてしまった。

       

「出来れば夕方の6時半ごろに夕食を」とお願いし、風呂に入ると念入りに足の裏を石けんで泡立て優しく洗い流した。洗濯も済ませ、荷物を畳一面に広げ足の治療に取り掛かった。今日も包帯を足の先に軽く巻くだけで傷の部分は出来るだけ乾燥させよう。それが回復を早めるコツだ、とすべて今日の作業が終わったのは5時過ぎだった。

 

 ビールを冷蔵庫から出し用意されているおつまみ数種類の中からピーナッツを選びそれらは自主申告で翌朝出発前に清算するシステムだ。テレビの夕方のニュースを見るのは久しぶりだった。新聞はお遍路に出てから一度も読んでいない。夕食の時間が近づき、サンダルをひっかけ部屋に用意してあったパジャマや半纏を羽織り玄関の鍵をかけ別棟の食堂へ向かった。

 

 テーブルには既に盛り付けられた何種類かの皿やお鉢が置かれていた。小さな土鍋に火がつけられ、おかみさんは背中を向けて天ぷらを揚げている最中だった。

「まだ全部そろっていませんけど、よかったら飲みながら食べ始めますか?」

と言うので新たに缶ビールを頼んだ。テーブル脇には4合瓶の白濁した瓶がありグラスも用意してあった。

     

 

 

 

「これは何です?」と言うと

「自家製の濁酒(どぶろく)ですよ、これも料理に含まれているので飲んでみてください」

と言う。そういえば、ここの民宿を予約する時にホームページに「濁酒を作っている民宿」とあったのを思い出した。濁酒を飲む機会はめったにない。店舗を通しての販売だと新鮮さが失われ濁酒の価値が半減してしまう。お米の麹、酵母菌で作られ長期保存にそもそも適していない。地元製造、地元消費がほとんどだ。ビールを飲み濁酒を飲んだ。部屋でビールを飲んできたのを後悔した。お腹がいっぱいになってしまう。濁酒は辛口で瓶の底になるほど麹が濃くなり甘くなった。お父ちゃんが射止めたんです、というイノシシの焼肉は肉も脂身も野生動物独特の濃さと脂分が身体に浸み渡った。天ぷらが出てカツオのタタキが添えられ、炊きご飯が土鍋ごと出され、ととても全部食べるは無理だった。「農家民宿」を前面に出すだけあって地どりの野菜はすべて美味しく歯ごたえがあり絶品だった。

 

 この日の歩数37408歩   距離28.2Km      徒歩の時間6時間59分