内子町・ホテルA-Z  ~水戸森峠~大瀬地区・国道379号線 ~内子町小田・ふじや旅館

この3月初旬、ちょうど歩き遍路予定を立てていた時、ノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎が亡くなった。大江健三郎の作品は学生時代に幾つか読んでいた。大江は内子町の出身だとニュースが伝えていた。遍路旅のスケジュールでは内子町に泊まる予定だったので

「ついでに彼の生家を見ておきたい」

と思っていた。記念館があれば彼の直筆原稿を目にする事も出来るかもしれない、と思っていたのだ。

 ----私が通っているプールで月に数回顔を合わせる年上の方がいたが、たまたま彼もその内子町の出身だった。年に一、二度、地元に帰るというのでこの旅に出る前、大江健三郎の生家をご存じだろうか?来週から四国に行くので、もし知っていたら場所を教えて欲しいと話すと

「ケンちゃんのこと、知りたいって?」

と大江健三郎のことを「ケンちゃん」と呼び

「私の生まれた家は彼の3軒隣なんだよ。小さい時からよく知っているよ。-----僕はケンちゃんの弟と同級でね」と親し気に呼ぶのだった。

 大江健三郎は、小さい時から木に登って難しそうな本を読んでいた、とか子供のころから非凡なところの目立つ少年だったようだ。しかし生家は内子町のなかでも遠く離れた山奥の集落で市街地ではないという。知り合いの方も、年に一度墓参りには行くが実家はもう取り壊しており今は何もなくなっていると言うのだった。ついでに寄れるような場所ではないというので諦めざるを得なかった。

 

 この日は内子町の駅前から同じ内子町の小田という地区までの19.2Kmが地図の上での移動距離だった。ほとんど小田川という川沿いを歩く道でこれぐらいの距離なら軽く夕方には到着できるだろうと考えていた。

 朝の市街地には落ち着いた雰囲気の街並みが復元されていた。旧屋敷町の保存と維持に努め、培われてきた歴史をここを通る歩き遍路に見せるかのようにコースが組まれていた。

 

 

見たことのない景色が一杯で、確か以前は国道56号線が遍路道だったが今では旧市街地が遍路道に加わっている。 

 

街中の丘の上に立つ水戸森大師堂を下って行くとコンビニがあり、そこで念のために「水戸森峠」というのはコンビニの後ろの丘を指すのか確認した。しかし地元の人でもこの遍路地図は見にくいようで、地図を右に左に向きを変え、そもそも「水戸森峠」が判らない様子で、どうもそうらしいと答えるので丘に向かった。

 舗装の坂道を登り始めるとすぐ左へ向かう矢印が建ててあったので向かうと下り道になり、あれよあれよと石段を下っているとまたコンビニに一回りしてしまった。何故坂の途中で矢印があるのか理解できない。これで30分以上時間と体力を浪費したことになる。気を取り直して来た道を登り、元の坂道を先に進んでいくと今度は遍路矢印があって脇道を指している。今度こそ「水戸森峠」で間違いないようだ。歩き出すと次第に車の音が聞こえなくなった。

 数分も歩くとイノシシ除けの柵があるので開閉して進んでいくと「水戸森峠」の看板がありこの道で間違いないことを確信した。ここから先がイノシシ出没地帯なのだろう。

 

 

 

峠の周辺は伐採が進み、展望が効く眺めとなっていた。頂上付近で草刈り作業をしている人がいたので声を掛け地図を見せて進む方向を確認することにした。分岐路になっていて頂上から違う方向に向かってしまうと戻るのも大変な距離になってしまう。

  

作業していた方によると、かなり以前は別の方向へ向かうのが遍路道で、遍路さんはあっちに向かったがこの地図では今じゃ違う道が遍路道になっていますね、という事だった。

 

  

 

周辺には自動車専用道路が新たに開発されている。かつての遍路道は自動車道開発優先で変更を余儀なくされている。

 過去の歴史を重視するか、今の便利を尊重するか。歴史は現在の生活に直接の影響はないが、道路は生きている現代人に直接効果をもたらす。-----天秤にかければ答えは現代人の意見の方に軍配が上がる。過去は物言わぬ存在だ。

 峠を下りると出口に古い祠があり出入りするたびにイノシシ除けの柵の開け閉めが必要になる。この水戸森峠だけでなく四国全体、至るところにイノシシが跋扈しているようだ。

 

 

舗装道路に出ると、たまに通過する車があるだけで、いたってのんびりした風景が周囲に広がっていた。歩き遍路はここまで前後に一人も見かけなかった。

 

2か所ほどトンネルがあり通過するとそれぞれの出口に小さな作業小屋のような建物が建っていたが、時期によっては野菜の販売所でありそれ以外の時にはお遍路さんが泊まれるようになっていた。同じ四国でも地域によって迎え方も色々と違いがあるものだ。

 性善説でお遍路を見る人もおり性悪説でお遍路を見る人もいる。お遍路にも心が善なる人と悪の人がいるのか。

 

 

 朝から4時間ほど歩いて大瀬という集落を通過する時、たまたま橋の曲がり角に遍路休憩小屋があり昼食にしようとベンチに腰を下ろしていると小屋の脇には地区の案内板があり何気なく目を通すとそこに大江健三郎の生家という文字が書き込んでありここからすぐ近くのようだ。よくも偶然にここを通りかかったもんだ、とおにぎりを食べ始めた。ちょうど昼の時刻だった。

 するとそこへ年老いた男の人が手押し車(シルバーカー)で身体を支えながらやって来た。手助けに付いて来た高校生くらいの孫娘と共にやって来たのだ。孫娘が祖父を脇から支え、散歩と足の訓練に付き添う姿を見てこんな光景はまずお目にかかれないものだ、とほほえましく見ていた。

 二人がテーブルを挟んだ正面に腰を下ろしたので、私は話しかけた。大江健三郎の生家がこの近くらしいが、ここから見えますかと尋ねると、老人は丁字路の先を指差し、あの細い通りを入った3軒目が大江健三郎の生家ですよ、と教えた。そして、僕は大江健三郎の兄貴と同窓生なんだと、自慢げにほほ笑むのだった。

 -----驚いた。潮来市に住む私のプールの知り合いは大江健三郎の生家の3軒隣で弟の方と同級生、こちらの人は兄貴と同級生。念のため名前を伺い、後日プールに行ったときにその話をした。こんな偶然があった、と。

「その人は、歩いていたから橋のすぐ近くの人みたいで、名前は何て言ったかな、姓が何だったか忘れたけど、苗字は清いという字と数字の数と書いて『清数』って言ってましたが」

と言うと

       

「あっ、それは材木屋の〇〇清数だ」

と即答、幼馴染のフルネームを言った。確かにその時にメモに残していたものを読むと苗字もまさしくその名前だった。  

 ------不思議な偶然だった。大江健三郎が縁で、潮来市に住む内子町出身の人のその幼馴染が現地を通りかかった時に結びつくのだ。遍路歩きをしているとこんなことがよくある。誰もこんな話は信じないだろうと、橋のたもとにある地区の案内板の前で記念にその方の写真を撮らせて頂き、こころよく被写体になっていただいた。写真奥の中央の建物の裏通りで大江健三郎は育ったようだ。

 弘法大師は、何の関係も無い場所と場所、見ず知らずの人と人に縁を結びつけるようだ。四国に来て感じた不思議な一期一会だった。

 

  「昼ご飯だから家に帰ろう。ばあちゃんが待っているよ」

そう孫娘に促されると、とぼとぼ立ち去って行ったが、入れ替えるように二人連れの歩き遍路がやって来ると慌ただしく昼食を始めた。ずっとこの遍路道を歩く人を見なかったが同じルートでやって来たようだ。

「『水戸森峠}』の入り口で迷わなかったですか』と尋ねると、

「そんな道は通らなかったな。ずっと舗装した道だけ歩いて来ました」

という。東京から来た男同士の二人連れだった。一人は72才の遍路経験2度目、もう一人は退職したばかりの元会社の先輩と後輩の間柄だという。私が『飲むヨーグルト』を飲んでいると退職したばかりの方の人が振り向いて

「おやっ、『○○〇ヨーグルト』を飲んでいるんですか、ありがとうございます」

と、感謝の言葉を言うので不思議に思い「なんですか?」と尋ねると、社員時代にその乳製品メーカーに勤めそのヨーグルトの開発者だったという。彼らは食事を終えると先を急ぐように歩きだしたが曲がり角で後姿を見るたび次第に小さくなっていった。今夜の宿は同じ内子町の別の宿らしかったが明日またどこかで会うだろうと思った。

 

     

 

       

    

       

     

午後4時までに今日の宿「ふじや旅館」に着きたかった。リュックを今日中に宅急便で明日の宿まで送る手配をしておきたかったのだ。明日は出来る限り身軽な体で2か所の寺を打ち終わりたい、そのためには背中の大きなリュックは無い方がいい。納経帖と飲食物だけ小さな折り畳みバッグに移し替えれば身軽に動ける、と午前中に宿に相談の電話を入れていた。宅急便の集荷時間がその宿だと午後4時が目安だった。

 道の駅「小田の里せせらぎ」に着いたのは午後4時になっていた。宿はそこから歩いて5分のところだった。道の駅に着くとさっきの二人連れお遍路が迎えに来た民宿の車に乗り込むところだった。10分ほど早く着いていたようだ。3時間歩いてそれぐらいの差ならマイペースで歩いたほうがいい。やはり遍路歩きは一人のペースが一番いい、他人に合わせるとストレスがたまるか、無理して足を痛めるかのどちらかだ。

 

    

宿に着くと宅急便はすでに集荷時間を終え去った後だった。この旅館の隣りが郵便局でユーパックだとまだ間に合うと言うのでとりあえず急いで着替えた。汗になった衣類はビニール袋に入れると他のものと一緒にリユックに詰め込んだ。隣の郵便局に持って行って計量すると1160円で明日の宿「八丁坂」へ夕方までには届くというので一安心した。歩き遍路で辛いのは脚の痛みと疲れ、それと背中に背負ったリュクの重さだろう。

 

 7年前に夫婦で歩いていたお遍路がいた。いつも手ぶらで軽快に歩いているので不思議に思っていたが今考えれば夫婦は毎日荷物を次の宿に送っていたのだろう。費用は掛かるが疲労はその分軽減される。痛みと辛さに耐える、という意味では修行にはならないが物は考えようで無駄な金遣いではない。むしろ有効なお金の遣い方だ。

 私は今回、自分の脚力が以前と比べ落ちているのが判っていた。歩き通せるかわからない峠が明日控えている。せめて背中の荷物だけ軽くしよう。自分なりに有効な金の使い方をしようと思っていた。

 

 宿泊名簿に名前を記帳し、今日は他に何人泊まっているのか尋ねると一人だけだという。旅館はかなり昭和の面影が色濃く残っている典型的な和風旅館だった。映画の寅さんがひょっこり階段から下りてくるようなどちらかと言えば場末の寂れた造りだった。二階に案内されたが入り口が襖開きの4畳の間、更に障子で仕切られて8畳の和室になっている。畳がだいぶ色あせ畳床が体重の移動で所々沈むのには驚いた。通路も回廊風になっているが雨が板廊下を直撃するのだろう雨浸みの跡が滲んでいる。

 夕暮れになると小雨が降り出した。風呂に入り缶ビールで疲れをいやし夕食の時間を待つ間、明日向かうコースを反復した。

 

 宿を出て「新真弓トンネル」に入る迄が6Km。さらに5.2Km歩いて農祖峠の入り口。

標高650mの農祖峠を上り下りし県道33号線に合流。44番・大寶寺は翌日回しにして立ち寄らずに45番・岩屋寺へ直行する計画だった。

 農祖峠入り口から岩屋寺までで約13Kmの距離があり途中「槙ノ谷」と呼ばれる落石で危険な箇所を通過する。その道の様子がさっぱりわからない。参拝を終え6Km先の民宿「八丁坂」に一泊。それが明日の計画だ。総距離で30Kmになる。

 地図にある標高、峠の様子を想像すると無理ではないかと自信がなくなる。夕食を終える頃には雨が音を立てていた。峠はこの雨でぬかるみ滑りやすくなるだろう。計画は4年前に歩いた時の体力を元に考えていたものだった。計画を変えなければ事故を起こすかもしれないと自制心が働いた。峠に入ってから決断では遅い。よし、明日起きて決断しようと眠りについた。今晩中に雨が止めばいいが、と。

 

  この日の歩数 43429歩   距離 32.83Km   歩行時間 7時間41分