<カオス>
男の数え方は一本。二本。。。そう、使い捨てだから。
歌舞伎町は都会??いや、昔々のここは芋くさい繁華街。
ああ、一時ディスコの聖地と呼ばれてたっけ。。
大体、男子なんて左手にヌード写真、右手は大忙し。
女体妄想。、
頭の中はぐるぐるキャンディー。
愈々男子から男になりたての妄想炸裂状態のロケット花火。
それを拝借
花火遊び?
いいえ。そうじゃない。
花火と私はカオスに沈む。
出会いなんていう綺麗なものでもない。
ビビッとくるトキメキでもない。
恋をする交わりも、愛あるものも、例えば汚されるも、
やってることは大して変わらない。
屈辱。。そんな日常。。だからカオスで体の浄化。
強固なシミは洗っても消えない。
けれど、上から汚いペンキ。不思議!消えた。
屈辱は繰り返す。
だったらもっと濃い色。もっと塗りたくればいい。。
ロケット花火は必須になった。
一本。。また一本。。と。。。
今夜はどの花火?アイコンタクトは重要。
盛り上がる曲。
DJのMCもエキセントリック。
グルグル回るミラーボール。
ビーム光線がチカチカ激しくなる頃、
私は狙ったロケット花火の傍で踊っている。
狙った獲物は逃さない。。
重なるアイコンタクト。。概ね百発百中。
向かい合うロケット花火と私。
次の曲はスローテンポ。。
密着した体から獲物はすでにもう爆発寸前。。
「出ようか」「うん。。」
そしてお持ち帰り。
早朝、 学校いかなきゃ!。
だって、高校生。驚く相手。。
笑える。又会いたいって?
リカちゃん電話の番号を教える。
使用済みのロケット花火にもう用は無い。。。
すがすがしい朝、駅のコインロッカー。
トイレで制服に変身。
着替えた私は私服をコインロッカーに入れ、
何食わぬ顔で登校。
自分の体が綺麗になったような気がした。
それでもあの男が京都のロケから帰ってくれば、
私の体は又、汚される。
あの男。。。私の父親。
<本当の恥♯1>
自〇行為にも色々ある。
私はそのすべてに手を染めたけれど
中でもその最たるものは高校の時2度ほどした。
このことは決してしてはいけない事だけれどこのことが私の大きな恥ではない。と最初に言っておく。
その前段階としてのお話だけれど、
生きているのが辛くて辛くて、自暴自棄になってそれでも何とか踏ん張れたのは自分を2つに分けた事だった。
それを乖離障害というらしい。
所謂解離性同一障害の前の段階。。解離性同一障害になってしまうと、分離した自分に名前を付けてそれぞれが現実の自分の指揮官の部分をを乗っ取って生活がしにくくなる病気。私の場合2つに分けたがそれぞれに名前を付けていないのとあくまでも指揮官は自分だったから乖離障害。
当時、医者に行っていない私は強い自分と弱い自分に分けて自分を傷つける行為を繰り返した。あの頃、論理的な説明はつかなかったけれど、日が暮れる頃化粧をする時、鏡の中の自分を見て、頭の中に浮かぶのは「これからが本当の自分だ。」と悪魔のようなささやき。化粧を重ねて、どんどん変わるのは見た目だけではない。いつも隠れているもう一人の自分が私を乗っ取っていく高揚感。
日常意志を持たぬ私がこの時だけ褒められた行為ではなくてもそこに自分の意志があったことで「本当の自分」という言葉があの頃リフレインしていたのだと今思う。
体の浄化の儀式はやめられなくなっていった。
〇んで楽になりたいと思うのはまだ生きていたいという欲望の方が勝っている証拠でもあった。
しかし、事の経緯までが私と同じなのかどうかはわからないけれど、浄化の儀式と同じような事をする子が私で言う儀式の時、人の手によって亡くなったとニュースに流れたのを知ってから
私は浄化の儀式が出来なくなった。
それが2回の自〇行為に繋がっていきました。
その二度目の時、ギリギリの意識の時、「助けて!」と声に出した記憶が残りました。否、実際に声にはなっていなかったのかもしれませんが、明確に私の意識として残ったのです。
今度はその行為も出来なくなった。
そこで初めてSOSを恩師に発信したのです。
しかし、あのお父さんに限ってそんなことは無い。
貴方がそんな大嘘を言う子だとは思わなかった。と言われたまま、縁が切れてしまいました。
まぁ、そのように言われるまでには色々父も交えてやりとりもあったのですがね。。
その時は高校を卒業した直後でした。
高校の時、クラスの友達何人かに私は打ち明けていましたから、担任は知っていて知らんぷりしているのは担任の態度で勘づいていました。
卒業式の日、担任は態々私の所に来て送る言葉を言ってきた。。
「これで安心して眠れるわ。あなたが何かしでかすんじゃないかと夜も眠れなかった。やっと眠れる。」だった。。
恩師に話して逃げ出す力が私には無いのだと思い知った私は引きこもりました。
朝から晩までピアノにキリで文字を刻んだ。
幼少期から言われ言わさせられ暴言と共に殴られた時の言葉。。
「ダメな人間」という文字
芸能界は汚いところだ。ママの遺言の為だ。そんなことではあの世界は生き抜いていけない。俺で練習しろ。プロデューサーの一人も誑し込めないぞ。。
あの女が産んだ子だと母の浮気を理由に私を殴り、手が腐ると言って一尺の物差しやテニスラケットで殴る父。。だったが要求に応じていれば暴力は無くなっていた。
父の中で母に対する愛憎が深いのは今になってよくわかる。。
あの頃から過去を振り返ってもずっとどうして何故?ばかり。。
しかし、父の介護に行って得たものの整理をした頃父の被害を知り、全部がつながり、父の若き心の傷を乗り越えるための一つが母だったはずではないか?と思い至った。その母の所業は父にとって最も裏切られたくなかった相手の裏切りによってそしてあの手術。。悲劇の主人公のように亡くなられてしまった事で持っていき場の無い負のエネルギーを母に似た私にぶつけ続けたのだなと今は思っている。
心理的には父と私は同じような行動を繰り返しているのです。
私が言い訳ができるのに父に言い訳させないのはフェアではない。そしてここまで書いたことが本当の大恥ではなくここからが私の大罪につながる。
途中ですが、私がコレを書くのは
特に男性被害者は黙ったままではいけないと思うから。。
そして加害者を量刑に処すだけでは解決にはならないからです。
<本当の恥♯2>
〇にキレない私は誰かに手伝ってもらいたくなりました。明確にそう思っていたか?と言えば曖昧だけれど、
父は私の様子がおかくなり、キリでピアノに文字を掘り続けたことでかなり疲弊しているようだった。一度私に
「もう、環を傷つけることはしない」と言ってきた時、渾身の力を込めて叫びました。そして
「私はダメな人間だから歌はもうやめる。」とだけ言って
その後もこれ以上掘るところがないほど文字をひたすら掘り続けました。愈々掘るところもなくなり、
「精神科に行ってくる」と言うと父は引き留めた。当時の医療についてあまりいい噂は聞いていなかった。私は病院へは行かず、求人誌を買って面接を受ける段取りをしました。立ち直ろうともがいていたと思う。しかし、どうしても体に残る汚らわしさが消えない。
私は再び浄化の儀式に手を染めることになります。
どんな形であれ、この命、亡くなるなら亡くなってしまえばいいと思った。もはや隠すつもりもなく外泊はおおっぴらにしていた。
そんな矢先4人にレ〇プされることになってしまいました。しかし、全く傷つかなかった。むしろ体に残る嫌な感触が完全に消えたのです。その直後、丁度一年遅れで鍼灸の専門学校に通う事になりました。
ある俳優さんの奥様が東洋医学に興味を持っておられ勧めてくれたようです。私は母の遺言の裏切り者だから母もお世話になっていた鍼灸の勉強をすることで許してもらいたい。そんな風にも思いました。しかし、二年目の学費100万円以上と実家にいる間、の自分の食費。それに加えて台所と風呂を使う事を禁止され朝の洗面だけ使う事を許可されました。毎月いくら稼げば良いのやら。、自炊出来ない食費と銭湯代、通学費、教材費(これは1年目の分か1年で10万円ほど、)父はベンツを乗り回しているというのに。。
私は、2年目の学費が払えなくなった時に又地獄の日々がやってくるような気がした。
結局私は1年でこの専門学校をやめることになります。20歳の成人式。経済制裁をうけているのに振袖なんて望める筈もなく、又そういった会場にいくのも自分には似合っていない気がした。成人式の当日を引っ越しの日と決めてそれが私が大人になる事だと思い込んだ。
その後色々あったのだけれど。。それを書きだすととにかく長い。。
だから省略します。
私の大罪は。。その後浄化の儀式が酷くなり、滔々それでは気が済まなくなって自分の子宮を壊したいと思うようになって実行した事です。
さて、恋もしました。しかし相手に自分の状況を打ち明けたいのに上手く言えず、そのうち4人からのレ〇プ以来消えていた感触が再び戻り、彼に暴言を吐いて相手を傷つけ別れた。
もう一つの恋は最初からダメでした。だから妊娠するように仕向けた。
でも、妊娠を知ると急に生みたくなったんです。でも、男は逃げた。ならば最初の計画通り自分の体に最大のダメージを与えなければ気が済まなくなりました。そして仕事も休みマンションに引きこもった。11階の窓の柵に何度か足をかけた。すると2度目の時の「助けて」という自分の声が聞こえてくる気がする。
私は産みたいという気持ちと、自分を傷つける為にしでかした後悔でうちひしがれながらも、気づけばお腹の子に向かってごめんねと謝る日もあれば、まるで父が私に吐いた暴言のように、汚い言葉で「お前を〇ろすのが目的なんだ!」と笑いながら言う日もあった。
勤めていたお店のママが実は私にダンサーのスカウトの話があり、私には内緒にしていたらしく、しかし、家に引きこもるなら気晴らしにダンサーになりなさい。と声をかけてくれました。
それで決心がついた。中絶は年末ぎりぎりまで粘りました。もう年が明けたら5か月だった。
予期せぬ妊娠に仕方なく子供を諦めるのとはわけが違う。新生児は生後に人として法律で守られるのが日本の場合であって、生命の誕生はいつからか?といった考え方は国によって違う。私の取った行動(中絶)は日本において法律違反にはならないけれど、そこに至るまでのプロセスは私の場合、生命の冒涜です。
娘の私を所有物にした父。そして私は胎児を所有物にしたのです。
私はこうやって書いたり言ったりできるというのに私は私の胎児にそれすら許さなかった。そして最後は自分が浮上するために葬ったことになります。双子でした。2つの生命を私は確信犯として犠牲にしたのです。
まさにあの親にしてこの子という大罪です。
父はこの私の確信犯的行動は知りません。
魂があればこの世を去ってから知ったことにはなりますが。。
私も連鎖させているのですよ。このことにきちんと向き合い気づくことができたのは、父の介護に行ってからです。
被害者はああされた。こうされた。。に捉われがちですが、
この被害者は結構な事を後遺症のようにやらかします。
元々の性格が外交的な人ほど陥りやすい現象ですので。。全員というわけではないですが。。としておきます。
私が己の罪に気づくためのステップとして心の歪みを矯正することというのが大前提です。
私は自分を傷つけ切りました。コルドンブルーの小井戸先生との出会い。私は酒と麻酔と香水でもうろうとした状態でした。
その日の午前、中絶していたのですから。
前日3時まで酒を飲み、ほとんど寝ず酔ったまま病院へ行き、
ほとんど麻酔も使えず痛みで気絶するように処置され吐いて目が覚め、痛みが残るままもっと休めという医師に怒鳴り散らしながら友人宅へ行き、再び飲酒。自宅に戻り玄関のたたきの所で意識は絶え・顔合わせはすっぽかそうと思いつつ、午後6時に目が覚め、化粧でぐちゃぐちゃの顔を洗いながら風呂に入り、タクシー飛ばして夜7時半には赤坂にいました。
<見当識障害>
今では介護福祉士の試験も経た身ですから見当識障害が何かは分かっています。
しかし、当時父の介護に行っているとしても見当識障害が何か?は分かっていませんでした。
時間とか空間の歪みが生じるのですが、言ってみれば子供の頃など遠い昔に戻ってしまう障害です。フラッシュバックはどこかで現実を認識していますが、それをも歪ませてしまう状態です。
しかし、認知症の種類によっては幻視もあるわけで、例えばレビー小体認知症などでは幻視が特徴的な症状です。父の場合はアルツハイマー型です。
今、父の残した言葉。。それは認知症後もそうだし、健常な頃の口癖だとか様々パズルのピースを重ね合わせてみると幻視ではなく見当識障害だったのだな!と理解出来ました。
でも、当時の私は幻視だと思っていたのですがね。。
「昨日男に犯された。」
「羽交い絞めにされてもう嫌だ。」
ある朝私が実家に到着すると泣きながら言うのです。まるで若い青年のように。こういう時の対処の仕方をしっていたわけではありませんが、否定すると激昂しだす父ですから。。
「そうだったんだ。辛かったね。私が来たからもう大丈夫」と言ってなだめました。
ある夜は電話がかかってきて、
「家で男に待ち伏せされてる。帰れない。又侵される。。」というのです。私にすぐ来てくれという勢いでした。
面倒くさかった私は
「あれ?さっきね。行ったのよ。。そしたら居たの変な男が!警察に言ってきてもらって追い払ったのよ。だから大丈夫よ・。」と。家に着いたら電話してね。」
すると
「環のおかげで男はいなかった。助かった。」でした。
ある朝は
「もう嫌だ。男に殴られて血だらけだ。羽交い絞めにされてやられた。生きていたくない。死にたい。」
他にも介護を決裂してからしばらくたって、昔の父の口癖やヒントになる言葉もあるのですが。。私が自暴自棄になったように父のもありました。関西歌舞伎と新国劇。。その狭間に。。
それも認知症がなせる業。。私に白状に近い形で言っていた。
ビンゴ。
どうやら私は父の受けた数々の不条理をわかってあげることが宿命っだったようです。それは父が生きている間には叶わなかったけれど、もし、今まだ父が生きていたら、声をかけたい。。
「パパも被害者だったんだね。わかってほしかったんでしょ。」と。。。
どんなに鉄壁の意思で起きた事が恥として認識し、蓋をして無かったことにしようとしても
心が覚えているんだなと思った。
認知症になって訳がわからなくなってからならそんなことはもうどうでもいい。。そんな風に考える場合もあるでしょう。。
でも、認知症は先が長い。。完全に何もかも忘れきる前の段階も長いのです。フラッシュバックどころではない。今振り返れば、リアルな現実としてもう一度体験するかのような怯えようで父は苦しんでいました。
70歳の頃うつ病になったと言っていた。感情が無くなって演技ができないのでKさんとサインを決め悲しい表情。笑顔などそのサインを頼りに秘密裏に治療しながら仕事をしたと聞きました。おそらくその後、軽度認知症ぐらいにはなったのだと思います。介護認定は受けていたようです。
そしてKさんがガンになり、亡くなって愈々新宿アタリを彷徨う様になって奇行を通報され、私の所に連絡が来たのです。
とてもお見せできないのですが、伊勢丹で自撮りをするつもりもなく偶然とれちゃったような父の写真がカメラにありました。
相当苦しんでいたのだなとわかるんですよ。。
勿論Kさんを失ったことが大きいでしょう。
でもその表情は、父のどんな演技よりも様々な感情が厚く層になった懊悩の表情です。
心と向き合わねば、己の心が許してくれないのだと思う。
それは、被害を受けたダメージも加害したダメージも。。
皆さんは中々気づかないかもしれないけれど、加害と被害。。どちらが苦しいかは加害に手を染めた方が通り過ぎた後は尚更。苦しいんです。そして被害の方が楽か?と言えばそちらもそちらで苦しい。SDGSによれば男女を差別してはなりませんが、勿論個別性もあります。けれど生理的に違う男女の区別はあります。
被害者は加害者になりやすい。。確率から言うと男性の方がなりやすいということです。
父から私へ、私から胎児へ。。
何十年にも渡って綾が綾を呼び連鎖させた大元は
父の受けた被害だった。。
私が憎むべきことは父ではなく、性被害そのものだったという事になります。
これは宿命を宿命のまま終わらせてはいけないと思いました。
たとえ砂粒のような吹けば飛ぶような結果でもどこかに生き恥をさらしても哀れな親子の記録は残さなくてはいけない。。
そんな思いが膨らんでしまいました。
あの、大勢の男性被害者の訴えを知ってから。。。
もはや風化するかのような現状。。。
<スピリチュアルの怖さ>
コルドンブルーに出演することが決まり急いでレッスンしなければならなくなりました。断ったんですよ。ショーを観てとても無理だと思ったから。そしたらコリオグラファーの小井戸秀宅先生が「面白いこと言うね。僕が育てるからやりなさい。決まり!」って言い出し、コルドンのゲストの常連でもある女優さんも居て。二人で勝手に私の名前を決めだして、麻酔とお酒でモヤモヤしたまま結局決まったような感じで帰ることになりました。で、2か月後にはもう舞台で立っていました。レッスンの時先生に言われた。
「ダメだと思っちゃいけないんだ。出来るんだと思ったら上手く見えるんだよ。3月からはダンサーだからね。逃げちゃだめだよ。マイコはキレイだから大丈夫。」実は名前は「麻衣」に決まっていました。しかし、恩師だけは私の事を「マイコ」と、今でも呼んでいます。しかも、文字は「舞子」でスマホにいれているみたいですがね。。
出演して数か月。。思い出しもしないくらい体の「嫌な感触」は消えていました。それによって自分を大切にしようと思えるようになった。今考えると自分は汚いと泥の上塗りをするような生活。そして20歳の時までに父に言われたとおり、「ダメな人間」の一丁上がりだった私の深層心理に効く言葉を恩師から貰っていたのだと思いました。
父はその頃、「精神世界」(のちにスピリチュアルと言うようになる)の勉強を始めたようです。赤坂のTBSの前で偶然Kさんに会って、Kさんの取り計らいで親子関係が復活しました。Kさんにすべてを話すべきか迷ったんですよ。でも、どうして私は逃げなかったのか?その説明が付きませんでした。それに虐待という言葉も概念も無い時代でした。完全に父を信じ切って私に「昔の事は問わないわ。」と言っているKさんに論理的に説明など出来ない。それなのにKさんを傷つけるわけにはいかないと思いました。Kさんが若くして亡くなってしまうことなどこの時は想像できなかったですから。。今になって本当の事を話して父とKさんを引き離していればKさんはまだ生きていたのかもしれないような気がします。。Kさんは最初の医師(私の実家近くの病院)から痔だから検査の必要は無いと言われ、結果大腸がんに実はかかっていた。。という事を父から聞きましたので。。。。父と一緒になっていなければ別の病院の医師とのご縁があった筈です。
たら。。れば。。の話ですが。。
この時、私は後に夫となる人と共に暮らしていました。
そして4人で臭いものに蓋をした交流がはじまりました。
父とKさんは私たちのマンションに来て、いきなり土下座をして謝りました。
「環の教育を間違えた。」と。。。
Kさんは「素敵なパパじゃないの。」と言い、彼もまた「良いお父さんだな。」と言った。
「俺を憎むな俺を憎めば自分をも憎むことになる将来、子供も憎むことになる。」
父はそのようにも言った。
なんとなく流れに逆らえないような気もしました。
考えても仕方ないし、悩んでも答えは出ないな。と思って後ろを振り返るのはやめました。
父はバシャールという本を勧めてきて、何ページの○○。。はこういう事だ。。というように講釈までするようになっていった。
私の体には再び異変が始まりだしました。。
今も抱えている問題です。
睡眠時遊行摂食障害。
当時は自分が怠け者なのだと自分で自分を追い込んでいました。
ダンサーですから太るわけにはいかないのにお休みの期間に太ってしまいます。だからダイエットをする。。すると夜中に私は寝ているというのに食べ物をあさり、尋常じゃない量を食べてしまうのです。満腹中枢は起きていませんから。夢遊病のように起きてないのに起きて動いて食べまくるのです。
朝起きて指を突っ込んで吐くだけでは間に合いません。
便秘でもないのにずっと下剤をのんでました。。
「ベクニス」という薬です。だからすぐにお腹が壊れる。。壊れるのに下剤をのむのをやめられませんでした。当時江戸川橋に住んでいました。飯田橋にエグザスというスポーツジムが出来て、朝から午後まで3クラスほどエアロビクスを受けて合間にサウナに入って。家に帰って支度して楽屋に入って夜中まで。。3ステージ。。帰宅し、又朝からスポーツジムに行って。。
一番ひどい時は食べ物は寝ている間だけ。。起きてる間は食べてないときもあったくらいです。摂食障害は拒食症。当時情報が無いので私は自分に起きていることを摂食障害などと思いもしませんでした。
さて、スピリチュアル。。。
起こる事は必然だ。。
好きな事をすれば上手くいく。
わくわくしなさい。
過去を忘れて前を向く。。
コルドンブルーで私は時々歌を歌う様になっていった。
すると、父のスピリチュアル熱はどんどんヒートアップしていきました。
そして再び「ママの遺言」の話になっていく。。
洗脳という言葉が世に出る前の洗脳が始まっていったのだと思う。そして滔々、私と彼が結婚したものの離婚するとなった段階で再び父は牙をむきました。
「俺の愛人になれ。親子だからバレない。Kさんは実家に帰ってもらう。離婚するなら帰ってこい。」でした。。
父はスピリチュアルに出会い、自分のしたことは間違いではなかったという風にかんがえていたようです。
土下座までして謝ったものの、
抽象的表現のスピリチュアルはいかようにも解釈できます。
「あなたのやりたいことをやりなさい。それがワクワクするものであれば、ひいてはそうすることであなたの大事な家族の為にもなる。」
こういった論理で父が私にしたことは正しかったのだと理解し、遺言を持ち出し、私を洗脳しようとしていたのだと思う。
たとえ洗脳が無意識であっても。。
色々言われても今度こそ拒否し続けましたが、
言われて一番堪えるのが母の遺言だった。
目の前で日々薄れていく生命力の母が途切れ途切れ渾身の力を込めて発した言葉ですから。
コルドンブルー引退の最後の月。。離婚問題も勃発している中、私にデビューの話まで舞い込んできました。
しかし、それが半年ほどでとん挫した時は父の勢いもすごかった。
「俺の要求をのまないからそんな有様だ。」と。。
実家はあてにならない。犬二匹抱え別居から離婚。仕事は???
ダンス力の無いダンサーは無職同然。。
途方にくれました。。
それでも何とか生き抜こうと右往左往。。
で、色々あったけれど、ミュージカル出演までたどり着いた。。