<どうして?何故?の答え合わせ♯1>

介護を再開させることを思い悩む時、自助会(この時までは性被害者の集まり)の中で近〇姦被害者のみの自助会を開こうとする人が居てそちらにもお誘いがあった。丁度その境目の時に父の介護を再開することになりました。その際、一人の被害者に加害者親の介護をするなんて、あなたの辛い話をさんざん聞いてきたのにハッキリ言って裏切り者だと言われた。。しかし、新しい方の代表からは、被害者が加害者の介護をするなんて今までにない話で興味があるし、頑張ってと言われた事で救われたような気がしました。



半年の間放置された父は認知症が一気に進んだようで程よくぼんやりしてくれて別人のようでした。

フラッシュバックしたあの電話のやりとりは私は私で言い返しました。

「貴方はまだそんなことを言うのか!」

「そんなだから20年もあんたを捨てたんだろうが!」とか。。

最後には

「あんたは認知症なんだよ、もうどうにでもなれ!」だったかな。。

全く悲しい親子ですよ。

再開してすぐに病院へ同行した時。新しい認知症薬の治験ポスターを見た父は

「こんな病気になったら大変だね~俺なら耐えられないな。」と真顔で言っていた。。

ああ。。あんな残酷な形の告知も忘れてしまってるんだ。。と思った。。

それでも昔の事はおぼえているようで。。

関西歌舞伎の話をよくしていた。。

私からしたら何で?歌舞伎?

健常な頃は大映の話はよくするものの。。

歌舞伎の話はただ一つ。。

{男に襲われそうになって屋根伝いに逃げた!}

これしか聞いたことが無い。

母が、それでそのあとどうしたん?と聞くと

{逃げ切ったがな。。}とそれだけ。。

酒が入った時の夫婦の会話を子供ながら何度も聞いた記憶。。。

本来昔ばなしは大映のことばかりだったのに。。

父の好きな伊勢丹へ行くと、7階の広いところで歌舞伎の踊りの時のにぎやかな音楽をいきなり口三味線で歌いながら踊りだす。。

踊ってるうちに新国劇の国定忠治「しらざぁ言ってきかせやしょうか~」のセリフにシフトする。。

この時はまだ一つのパズルのピースに過ぎなかった事ですがね。。

そしてもう一つのピースは

近所のスーパーへ行く時、向こうからなんて事の無い買い物帰り男性が歩いてくると。。。

「ほら!あいつだよ。。あいつが俺の部屋へ忍び込んでくるやつだ!怖い。。」と言う。。

時には誰も居ないのに後ろから男が付いてくる。。狙われている。。と驚くほど怯えるのです。。私が振り返ろうとすると「振り返るな!やられる!」と早歩きになる。

何個か前に書いた怖くて家に帰れないと夜中にかかってきた父からの電話など。。。

そして朝行くと

「昨日やられた。。血だらけなんだ。。」

これはよく言われたけれど、ちっとも血だらけになっていない。。



身内が介護を率先してやると認知症の進み具合は遅くなるようです。しかしうちの場合は私が通う事で父は健常な頃の父を取り戻していくことになる。。すると結局は私を傷つける父もよみがえってくるのですがそれと同時に父の妄想とこの時おもっていた怖い体験話も活発でした。



一度介護が決裂する前の事ですが、その頃私は中古の軽自動車に乗っていました。その前は日産ノートの新古車に乗っていたのですが、旦那さんの会社が自転車操業になっているというのに車は手放そうと思ったのですが、病気の犬たちが居るので経費のかからない軽で尚且つノートを売ったお金で買えるものと言えば年季の入った車しか買えませんでした。。その車で犬たちを連れて岐阜迄いった事を思うと、あの頃は必至だったのだなぁと思い返すのですが、父が車を買ってやると言い出した時は断ったのですが、旦那さんにそのことを言うと買ってもらいなさいよ。僕は免許が無いんだからほとんど車の恩恵は無いし、お父さんが伊勢丹に軽自動車で行きたくないんだよベンツの最高クラスに乗っていた人なんだから。。と言うので買ってもらっていました。

ふと。。もうすぐ新しい車が来るとウキウキしていた父に聞いてみました。

「鍼灸の学校の時、どうして経済制裁したの?」って。。

「なんでだなかぁ。。金を払いたくなかったんだよ。」と間を取りながら言っていた。。その時は何だか悲しかったのですが。。車の代金が残りの学費2年分に匹敵する金額でしたからね。。。



でも、今は何故だかわかっています。

父は私に自分と同じ目にあわせようとしていた。。と確信しています。

祖父は一家で暮らした上海で商売をして大金を稼ぎ、それを持ち帰り大阪に住まいを構えて、工場も持ち戦艦を作っていたと聞いています。それも大きな稼ぎを生み、祖母は屑鉄を売る仕事を任されてリ、父の世話をしたのは雇った乳母だと聞いています。住み込みの家庭教師も居たとか。。今でいえば一兆万長者のような暮らしだったそうです。喧嘩の弱い父は近所のガキ大将を連れて家の蔵に行き、溢れるお菓子をふるまって自分が番長をしたそうです。昔旧制中学に行く子供は金持ちに限られていたと聞きますが、ギリギリ父も入学が決まるものの日本は終戦を迎えます。

終戦と同時に祖父の戦争加担していた財産は没収。そして旧日本円は紙くずとなって一家は没落します。。そんな中、祖母(父の母)はどこからか金をかき集め、父は学校に通います。テニスに関しては前に書いたと思うのですが、父は本当は野球をやりたかったそうですが、道具が無い。。偶々親友がお古のラケットとウエアをくれてそれでテニスをしたと聞きました。一番上の兄は沖縄で戦死。二番目の兄はグレてチンピラまがいになりヒロポン中毒。その兄が父の制服をヒロポン欲しさに質屋にいれてしまう。祖母(父の母)は又朝から金をかき集め、時にはナケナシの自分の着物を質に入れて制服を取り戻してくれたと言っていました。

愈々就職か大学かの時期になり、父は関西学院大学の経済学部に入学します。その時、一年分の学費までは祖母(父の母)が用意してくれたそうです。しかし、その後は自分で生きていけ!食べる事、住むこと、二年目からの学費は自分で何とかしろと言われ、家を出ました。

戦後のドサクサの時、仕事などたやすく見つからない。本来そんな人格ではない人でも生きる為に泥棒をすることもいとわない。そんな時代にようやく仕事を決めた。。

それが住み込みの関西歌舞伎の仕出し。要は裏方さんだったのでしょう。住むこと。食べる事。。には困らない。給料は翌年の学費として貯められる。。父は一縷の望みを抱いたに違いありません。世の中貧乏が当たり前とはいえ、金持ちのボンボンとして育った父にとってさぞかし暗い時代だったのではないか?

そんな中、華やかな歌舞伎を観て心躍るような明るい気持ちになれたことが手に取るようにわかります。。伊勢丹の7階の広いところで歌い踊っている姿を見てしまいましたから。

一方で父の武勇伝「逃げ切った。」には違和感を感じるもののまだつながっていなかった。。

結局父は大学を中退してしまいます。

父の気性。。からして苦学出来ない人ではありません。

自分が出来なかった事を何故強いたのか?

そこにも疑問が残っていました。



もう一つのピース。。叔母には良縁があったそうです。しかし、叔母は恋愛を貫いたと聞いています。

父の口癖として。

「姉さんが良縁を断らなければ俺は大学に行けた。」です。。

これは常に言っていました。母が亡くなり、その後も叔母と口げんかになると言っていた。。

もう、どっぷり役者人生。。何故?そんなに大学にこだわるのか?

今ピースがつながってみると。。大学ではなくあんな目に合わなくて済んだ!という事が言いたかったのだとわかりますが。。



母の葬儀の時、兄に

「こんな団地住まいではずかしくないんか!水ものの役者なんかやめて固い仕事につけ!」と言われ大喧嘩になった事。。この父の気持ちはよくわかります。自分の制服を何度も質屋に入れた兄なのですから。。。しかし、父の兄は二度目の結婚で逆玉の輿。あちらの取り計らいもあったのでしょう。固い仕事について上手く人生を切り抜けていましたから、兄として父を心配したのだと思います。兄貴風を吹かせたかったのは嘗て頼られ、結局ろくな事しか世話ができなかった結果が役者人生なのだと。。責任を感じていたのではないかしら?自分だけ安定した生活を得て、過去の後悔があるからこそ、きっと弟を心配したのだと今は思っています。それにこの兄だけは父の秘密を知っていた可能性があるからこそ心配だったのでは?と想像しています。



これも介護の途中、父から聞きました。

関西歌舞伎と新国劇の合間。。一度だけ兄を頼って自暴自棄になった話。。

これを聞くに至る話からは又今度。。。


<どうして?何故?の答え合わせ♯2>


あの親にしてこの子。。。とでもいうのでしょうか?

もう父に殴られる心配はない介護。。しかし、父は口だけは達者なのです。。昔なら父が怒り出すと恐怖でしかなかったのがいざとなれば私の方が体力的にも強くなっています。。言い返せなかった私も弁がたつようになり、父が黙ることもありました。

ある日父が言うのです。。

「似てるね~~嫌だね~~」と。。

そりゃそうです。私が暴言を聞き、殴られながらどうやって相手を追い込むか?の手練手管を父から教わってしまったのですから。。そしてしみじみもっともらしいことを又云うのです。

「環に一つ言っておきたいことがある。」

それを言ったらお仕舞と言う時に言葉を飲み込みなさい。」って。。

心の中ではあんたに言われたくないと思いましたが、まぁ聞きました。。

父が悪役をしていた頃、本当に仲の良かったあるスターさんが居て。。その方が主役の作品にはよく出ていました。

母が亡くなってすぐの時、ご自宅に私も呼んでくださったり太秦の撮影所に私も行くと。。

「お嬢!」なんて呼んでくださって、優しい方でした。

でも、ある時喧嘩したみたいで、私もなんとなく知ってはいたのですが。。

その話をしだしました。。

あの時言われたそうです。もう喧嘩はやめようとして声をかけらたらしい。。

用は相手が折れてくれたということですね。。

「元ちゃんも気。。きついなぁ~~」と。。。その時に相手から折れられたことが悔しかったみたいで。。言ってはいけない事を言ったそうです。。

「はい、昔、人のこ〇し方を覚えましたから。。」って。。。

もう、私はえ~~~っ!ですよ。。

それで縁が途切れたというのです。。

で、聞きました。

「本当にそんなこと覚えたの?」と。。



「昔。。自暴自棄になったんだよ。。〇んでしまおうか!って悩んでね。。気づいたら兄さんの所を訪ねてた。。」

父の兄はその頃ヤ〇ザの組に入っていたそうです。

父もそこへ身を寄せたのだそうです。。

その時に教わったそうです。

も==うビックリですよ。。

もう少しで鉄砲玉に使われる時に。ある幹部さんが父に言ったそうです。。

「お前は頭がいい。。もっと命を大切にしろ!堅気になったほうがいい。」って。。

それで抜ける決心をしたんだとか。。但し落とし舞いとしてぼこぼこに殴られた。。そうです。。

その後、歌舞伎をよく見に来ていた人の口利きで新国劇に入り、将棋の木村名人と会って木村玄(当時はこの漢字)と言う名前を貰ったと言っていました。



この時はびっくりしただけでしたが、

今は繋がっています。

逃げ切ったのなら〇んでしまいたいほどの自暴自棄になる筈もない。

その感情は私が経て来たことです。

一つ間違えば命のボーダーを超えてしまうギリギリのところで苦しんでもがいていたのだから。。



それに「武勇伝」

父は逃げ切ったという武勇伝。

私は異次元に行ったという武勇伝。

私は記憶の塗り替えをしていた。。

誰にもしゃべってはダメと母に言われてもあちこちでしゃべってた。。あれは。。幼少期でありながら知らないおじちゃんから性被害に遭った事。。

そのままの記憶では耐えられないという自己防御の塗り替えであり、塗り替えた記憶をしっかり定着させるためにはしゃべるしかなかったのです。。

父は記憶の塗り替えこそなかったけれど逃げられなかった現実を認めたくなく、作り替えた話を誰も聞いてもいないのに話すことで、さもそれが本当のように心に蓋をしたのだと思う。



家族なら助けてやりたい。。守ってやりたいと思うのだと想像します。勿論そのためには心が歪んでいないことが大前提かもしれない。。

父が被害に遭った頃の時代を私は生きることは無かったけれど。。

それに私は母親になったことも無いけれど、今の私が祖母に憑依したとしたら真っ先に息子の心のケアをしたいと願うような気がする。





鍼灸の学校の時の経済制裁。。

あれは、父流に言えば「ママの遺言」を守れないなら自分が出来なかった学校を卒業すること。。ぐらいやってのけろ!俺の娘ならという。。つもりで同じ環境を私に用意したのだと思う。。

鍼灸の学校は断念しちゃったけれど、、今私は働きながら父が出来なかった大学の学位取得を目指している。。

私の心を癒すための心理学

父の深層心理を知るための心理学。。



気づいたら、、私は父に対する憎しみも怒りも消えていました。

許すも許さないも無い。。流す感覚を少しづつ身に着けているような気がする。



ここまで父と私の恥赤裸々にかいてきたけれど。。

そうね。。死んだママのルーツの恥。。

これも書かなきゃフェアじゃないわね。。。。パパ



<母のルーツ>

母は愛媛県松島市で本来二女として昭和12年4月2日に生まれました。しかし、生母の姉(実際姉か妹かは不明ここでは姉にしておく)に子供が出来ないと知り兵庫県西宮市に住む姉(母にとって伯母)の柴田家に養女に出されました。このことを私の母が知ったのは高校卒業の頃だと言っていました。まだ二女なのにどうして私が?と言う思いが母は強かったようで自分は実の母親に愛されなかったからだという思いこみから相当に荒れたらしいです。後に生家の田中家では男の子は産まれず結果母も含めれば5人姉妹ということになります。

柴田家で育った母はIQが高く、飛び級を勧められましたが、養母が女性は普通に限ると通常の学級で勉強した母が身に着けたのは怠ける事。怠けてもパラパラと教科書をめくるだけで成績はいつも一番だったらしく、「勉強なんかせんでもできる」という口癖を私は何度も聞きました。母は新しもの好きで、流行り出したダンスに興味を持ち、又親友と共に宝塚の登竜門的バレエスクールが仁川と言う町にあり、そこへ二人で通ったらしい。お琴やお茶、お花の習い事のお金を母は勝手にバレエ以外にも歌のレッスンなどにつぎ込み、将来は宝塚に行こうと親友と共に目指していたようでした。しかし、養母にそれがバレて逆鱗に触れ、やめさせられたとか?母が言っていました。本当の母じゃないから願いを叶えてくれなかったと。。。今の私からすればどうしても続けたければ努力をすればよかったのにと思う。。。まぁ、結局は母は努力なんて嫌いな人でしたからね。。その後、その熱は私にむけられることになりました。



頭が良いという事は良いことばかりではありません。記憶力も回転力もずば抜けて優秀だという事は悪知恵が働きます。残念な事にお金と男にルーズな母親だったと思います。生家の長女もお金と男にだらしなく、母とは気が合う様でした。最初の結婚で産んだ子はろうあ者で施設に入ったり出たりのまぁ戸籍は別ですが本来私の従妹にあたるのですが、その父親(長女の夫)は山師のような人で後に母のすぐの妹三女の夫となっていました。その組み合わせで生まれた従妹は私が幼稚園の時中学生でした。詳しい年齢は分かりませんが、母が私を生んだのが24歳になったばかりの時です。三女の娘(私の従妹)が私より6歳以上年上ということは、三女は10代で少なくとも17歳以下で産んだことになる。その夫が長女の夫だった人となると、何だかそこに性虐待が潜んでいるように思います。

長女は勝手に松山の家の田畑を売りさばき、居なくなり、その後尼崎で愛人暮らし。。そこへ家も無くなった一家を呼び寄せ、その愛人に一家の面倒を見させているうちに失踪。母の葬儀には呼べませんでした。



母が亡くなったのは昭和49年です。

そして三女が亡くなったのは昭和50年。

私が中学一年の夏休みに父に連れられてお線香をあげに尼崎に立ち寄りました。ボロアパートを何部屋か借りたその一室にみんなが集まっていました。

四女は固い職業の旦那さんと連れだって来ていました。自堕落な一家の中でその夫婦だけがきちんとしており浮いてみえた。。

五女は顔立ちが一番母と似ているな。と思いましたが、やつれて憔悴しきっているようでした。

没落していく家の末っ子と言うのは割が合わないんだろうなと思った。



三女の死因は尼崎のスナックで男女のもつれで刺し〇ろされたと聞きました。

私にとっての本来の祖母ゆりさんは一点をみつめながら何度も繰り返し言っていた。

「わやになってしもうた。」。。。。

そして運送業を営んでいる愛人は長女の悪口を散々いいながら

「それでもこの人らを捨てる訳にはいかんやろ!」とニヤニヤしている様が私は薄気味悪かった。

これは父から後で聞いた話ですが。。

あの愛人。。祖母の百合さんにも手を付けてるんだ。。と。。

そして

「ママももういない。因縁深い田中の家とは縁をきりましょう。」父が言った。



それ以来私は誰にも会っていません。

母のルーツのその奥の家族はどんなことをして生きていたのか?

農家だとは聞いていましたが、土地持ちだったという事は地主だったのか?不明ですが、コーチングの本を読んだことがあって、そこには先祖のトラウマ。。と表現していましたが、私はこの本を読む前に先祖の悪行がその本人に降りない時、本人にとっての一番の泣き所に生まれながらにしての不条理が発生する。そのように考えてました。



ちょっと横にそれますが。。。

私はスピリチュアルはあると思っています。まぁ、日本語では精神性。。要は魂ですよね。だから魂はある。死んでなくなるのか?死んでも魂だけは残るのか?まではわかりませんけれど。。

巷でみんなが流行らせたスピリチュアルは眉唾とまでいかないけれど。。法則は真理としてはあると思ってます。その扱いようがそれぞれの魂によって偽物に変化したり本物になったり。。

つまりは欲がからまないものが本当のスピリチュアルだと思っています。何かの結果があって良いも悪いも無くその結果の答え合わせによって真理はある。。目的に活用した途端、欲が邪魔をしてよくまみれの顕在意識では魂まで届かないのかと思う。

そういった意味でスピリチュアルはあると思っていますから、「波動」と言うものもあるのだと思っています。



そういった意味で本人に背負いきれなかった罪。存命中に清算できなかったものが似た波動の親族におりてくるのではないか?

そう考えていました。

コーチングの本の先祖のトラウマもそのような事が書いてあった。

父方の祖父。。大陸で金持ちになり、戦争に投資。。家は新築で構えればよかったものをよりによって女郎屋の主が贅を尽くして立てた家のしつらえが気に入り、新しく建てるよりも高いその家を買ったと聞いています。

父はこどもながらに薄気味の悪い家だったと言っていました。



祖父は戦艦のどの部分をつくっていたのか?わかりませんが、祖父の作った戦艦でどれだけの若者が無念の死をとげたのでしょうか?

祖父の父親私から見て曽祖父ですが、キレると日本刀を振り回すほど暴れ者だったらしい。祖父もキレやすい人だったと聞いています。そして父も。。私も。。。。そして母のルーツの奥にも調べつくせないとはいえ、知っている限り。母の生家の田中家は私の母も含めて幸せとは言えない人生を送っている。



私はどうか?と自分に問えば、様々な綾の積み重ねの流れだと言い訳したとしても、奥様の居る人と共に生活している。決して自堕落なつもりはないけれど。どこまで行っても言い訳のような気がする。

旦那さんとの出会いの時、彼は弁護士さんに離婚の相談していました。奥様の一時帰宅が薬を大量にもたされて年に1~2度。一回に4~5日ですがその度に離婚の話をしていると聞きました。

私は最初一緒に暮らすと言っても別にアパートを借りて、衣替えは自転車でしていました。私の荷物をすぐに片づけて帰宅する奥様の心を傷つけないためですが。。彼にお金が続くならもう帰ってくる度に別れ話はやめたらどう?と言ったのは私です。

美味しいものを食べたり、ゆっくり毎日お風呂に入ったり、病院では出来ない事をさせてあげてと言いました。冬はお正月をずらして帰ってきますが、私とばかりお正月ではなく、たまにはお正月に帰してあげてと言ったのも私です。そのうちに帰ってこれるレベルの症状ではなくなり、今では大腿骨を骨折して寝たきりだそうです。

奥様の帰宅が無くなると、そのうちに私の荷物も増えていったのですけれど。。

一人の女性の病気の上に成り立っているという事は折に触れて考えさせられるのです。

そのように不条理の渦から脱出したつもりでも、無意識であっても気づけばまだ渦の中に生きているのかもしれません。



中々答えは出ませんね。



忌まわしい母の生家の親族たち。。父方祖父の行い。。

本当は父と母は出会ってはいけなっかったのかもしれない。。



私はこれからどのように浄化していけば良いのだろうか。。


<私がカミングアウトした理由>

人の一生ってものすごく長くてものすごく短い。

矛盾しているけれどどちらも私が感じてきたことです。

寿命と健康寿命は違うという事。健康管理士や心理学の勉強で出てくることですが、それは心身面での事。。

まぁ老化なんてことは30歳ぐらいからはじまっているのですが。。それはみんなある程度は順番にやってくることが多いとは思います。



しかし、運命的に環境が影響して衰えるという事もあるのだと思っています。

前にどこかで書いたかなぁと思うのですが、人間にとって平等なものは?という問いにその人がそう思っているだろう事を想定して「時間ですか?」と言いました。。

すると「その通り。」と満足した返事を貰った。。

でも、私は違うと思っている。

時間だとしたらみんな寿命が違うのです。同じではない。

人間にとって何が平等か?はそれぞれに生きていく過程の中で乗り越えるテーマを一つ持たされていることが平等なのだと私は思う。

生れる前の命も生まれてすぐに終わる命もその命をどうやって意味のある価値のあるのものにするかは家族であったり場合によっては社会だったりのその影響で違ってきます。

他力本願のようではありますが、それらに周りが気づけば価値の無い命などありません。

どんなに幸せな人生に見えても、本人が自分は勝ち組だと思っていても、そこにもきっとテーマを持って生まれているはずだと思います。そしてそれぞれがそれぞれの一生モノの役割に気づけないで終わるから綾も生れ、そこにサバイバル的生きる面白さがあるのかもしれません。



感謝と言う言葉だって、感謝して良かったね。で終わらせてはいけなくて、感謝できるのは何故なのか?と深く思いを掘り下げれば、感謝できる環境は誰かの犠牲が土台にあるのかもしれない。

そういった事が無くても感謝のおすそ分けが出来る人とガッツリ自分の為に搾取したままの人もいます。。だから人はおもしろいのかもしれないですが。。



不条理極まりない人生をこの平和な日本。美しい国日本でしたっけそんな場所に居ながら体験してみると。。

最近、地球の気持ちがよくわかるような気がします。



地球の立場で考えれば悲鳴を上げたいのは人間だけでは無いわね。。と思う。



心が揺れる。。地面も揺れる。心が波打つ。。ホントの波もやってくる。怒りを吐き出せば山も噴火する。。

悲しくて号泣すれば線状降雨帯もやってくる。。



大陸のプレートが押し合いへし合い。。

人のエネルギーも押し合いへし合い。。



もし、Kさんが生きていたら、私への連絡は無かったでしょう。。私は北朝鮮で死んだ事になっていたのだから。。

そうなると私はまだ怒りだけの時代をウロウロしていたのかもしれない。

Kさんの命を父がみじかくしてしまったのか?

Kさん自身の寿命が短かったのか?私にはわからないけれど。。

父を最後の最後まで役者にさせておくことは運命が許さなかったのだと思う。

岐阜に行った頃。。私たち家族のエネルギーも押し合いへし合いしていたのかもしれません。



父から被害を受けたことも、母から洗脳されていたことも、歌舞伎町で泥にまみれていたことも、二丁目で裸で飲んだことも。大人に期待が出来なかったことも。胎児を所有物にしたことも、人の心を傷つけまくったことも、人から傷つけられたことも、ダンサーもミュージカルもデパートの店員も新聞配達したことも、調理補助の仕事も介護の仕事も今勉強していることも。。病気も。。全部が何一つ欠けることなく積み重なったのが今の私です。



父は自分に都合の悪いところは排除して良いところだけを積み重ねようとしたから、運命が原点に戻れ!と幼少期に一家が没落し無一文になったと同じように。。人がうらやむほどの老後資金を持ちつつ、数年で自滅したのだと思う。

餌のぶら下がったスピリチュアル。。

法則をアテにしたスピリチュアル。。

ネガティブを排除したポジティブ真理教。

ネガティブもポジティブも両方あるから生きられるのに。。。

これらは父の事。。。



でも、私からしたら天晴。。わかりやすい人だった。

母より父の方が純粋な人だという事もよく分かった。



何より私の人生が実りの多い宝物のように感じられるように流れて行ったことには感謝しています。

そしてこれからはこの感謝を何かの役にたてなければならないと思っています。たとえ小さな事でも。。。





ジャニーズの事件を知って思った。。。

これは前に書いた通り有名勢に被害者が居ない事の驚きですが。。思ったのは父の被害に重なった事です。

そして人の事は問えないな!と言う私の感情です。

私は本名で何もカミングアウトはしていないという事にも気づきました。。



<父との約束>



「それがあなたの宿命なんですよ!」

その言葉に対して

「確かに今までが宿命。でもこれからは違う。」



「あなたは何か企んでるな。」

これに対して

「いつか書くわよ。。私とパパの事。」

「書け!書いてもいいけど、お前が真実に近づけるのかな?」

「真実って何よ。」

「真実なら賞を取るようなものをかけ!」



でした。。。



被害者は、わかってもらいたいんですよ。。

父の言う真実は父の被害の事だと今は思っています。。



介護が苦しくて過呼吸で救急搬送された後、

旦那さんが私に言ったんです。

その頃、治療の為に私の人生を文章化していることを彼は知っていました。。

「君は誰かにわかってもらえないと無念だろう。どんな人生でも僕が全部読むから。。」

これを聞いた時、錆びついた鎧を着ている私の心はガタガタに崩れました。



被害者は誰かにわかってもらいたいんです。大人になって意識に無くても、本当はリアルタイムで誰かにわかってほしかったんです。



父もそうだと思いました。。



ただし、賞を取れるか?となるとこれは厳しい。。だから心理学の大学を卒業したら文章もとある大学で勉強したいと考えていました。。

あの、私の心をズタボロに傷つけた出版社のライターが講師をしているとの情報のある大学の通信部で。。と考えています。。

最低でも10年かかる。。いやそれでも私の文才は変わらない気もする。。

こういう時「ダメ」と言う言葉が私の頭に浮かぶんですよ。。

(苦笑)

「ダメ」でも「ダメ」と思わなきゃいいいのに。。



最近、私は健康面で自信が無くなってきました。

時が流れていく中で、もし、私の命が途切れたら。。?

Kさんだって61歳で亡くなっている。

私は今62歳。。

もし、カミングアウトしていなければ。。

無念の霊となってこの世のあちこちでウロウロするような気がする。。

勿論金を積んででも国立図書館に一冊保存してもらえるように本を出したいですが、それでは父との約束を守れない。。

ブログなら永久ではないにしろ賞は関係ないですから。。

まぁ何かのブログの賞はあるのかもしれませんが。。

私はイイネもコメントも開けてませんから対象外です。



約束違反にはならないよね!。。。。パパ。。

そして。。もう憎んではいない。。

あなたが受けた被害はあなたの恥ではありませんよ。パパ



小さい頃、銭湯でシャンプーを嫌がる私の髪をアトムにして洗ってくれた。。

帰り道。。私が月を指さし、

「月がくっついてくる。。」と言うと、、

「それは地球が丸いからや!」とあなたは言った。

本当は良い父親になりたかったのでしょ?。。

家族を機能させたかったんでしょ?

どこからまちがえたんだろうね。。。


<肩の荷物>

まだ書き足せば色々あるものの。。キーワードはとことん〇などでかくしてかいたものの。。

というのはペンネームで自叙伝はネットにだしているものの、公序良俗に反するとして肝心なところは書き直す時間がなく放置しています。それはそれで良い。。というのはまだ父の真実にはたどり着かなかった頃の怒る気持ちを排除できぬままのものですからね。。

こちらではそのように指摘されないようにするため、過激な単語は〇で隠しながら読めるようにしました。



今回、概ねカミングアウトしてみて。。スッキリしました。肩の荷物は大分かるくなりました。。



近〇姦被害。。。

聞いただけでキモチワルイですか?

そういう方には次の言葉を送ります。

前にも書いた通り、

「どうキモチワルイのか?わかってます?その区別がつくのは経験者だけですよ。」と。。

まぁ、肩の荷物はか軽くなったものの。。社会認知が変わらない以上、まだ鎧は完全には取り払う事ができていないのかもしれませんね。。



これにて。。第二部は終了します。。

第一部は俳優木村元の立派だったことを中心に書きました。。

第二部はさ最初のうちはグズグズしていました。。

時に本音を書いてはアメンバーなど居ないのにアメンバー限定公開にしてみたりしました。。

まぁ、それはその時々の気持ちの揺れみたいなものですので、そのうち、時間がある時に整理したいと考えています。

今回のカテゴリ。「恥の家族」の部分はブログでは最初に書いた分が奥にひっこんでいますので、番号をつけてFBのほうに逆順でシェアします。あちらは私が私のなりすましではない事を訂正してきましたので。。今度は安心してシェアできるようですので。。



第三部はおちついたら又再開したいと思います。。

割とすぐだと思います。。

ああ。。。今日、お仕事。。退職してきました。。こちらもスッキリです。。

健康面の問題です。。リセットしたいと思っています。。