ちょっと本名の方では書きにくい愚痴。。かな・・

 

訪問介護をしていると、難しい事に直面し、一生懸命になればなるほど、仕事がやりにくくなって煙たがられる傾向にあるようだ。。

 

具体的にはかけないけれど、、正直者はバカをみるとでもいうのかな。。

 

ハッキリ言えば、面の皮があつくならないとうまくいかないということだろうか?

問題提起すればされた方は忙しくなる=けむたい・・となるのだろう。。

 

でも、そこに利用者様の苦痛が伴う場合。。どうなんだろう?と思い悩むのだ。。

 

スルーすればよいのだろうか??

 

家族でさえスルーなのかな?

 

その辺が現場では見えないのだから。。

 

そういった意味では

 

私は父の家族として介護者から見た時、熱心な家族ではなかったのだから

 

自分が今度は介護職の立場でその家族歴も知らずどうこうは言えないし、

 

私だけが周りの介護職者と熱量を違えてもうまくいかないのかもしれない。

 

父もきっと苦痛をいっぱいかかえこんでいたのだろうな。。

 

私も苦痛だったけれどね。。

 

又別の方。。

 

かなりのご長寿で健康寿命も長い方も中には居て。。

 

家族の居ない方なんだけれど。。

 

きっと、覚悟があるから元気でいられたのかしら?

 

その方を見ていて尚且ついろんな話を傾聴して

 

子供の居ない事のお話にも共感出来て。。

 

何だか癒される仕事もあるのだけれど。。

 

子供って必要なのかしら?という側面を垣間見たりする場合。。

 

考えさせられてしまう。。

 

父は子供(私の存在)は居ない。。と決めて生きようとしていたのよね。。

 

その方が良かったのかしらね。。

 

居るのに居ない同然より最初から居ない方がいいんだわ。。きっと。。

 

介護職者としては使い分けができればいいんだけれど。

 

って。。。

具体的に書けなきゃ何か書いてんだか。。。

 

中々ドライにはなれないわ。。

<第二部で書き忘れた事>


母の最期の手術

書き忘れたことがありました。。

母もう一つの私の大きなトラウマ。。

纏めるおは面倒なので、

自叙伝に書いたものを長いですが。。

公開します。。



<最後の手術>



私が小学五年生の時、夏の終わり頃母は腎盂炎を起こし、杉並の総合病院へ救急搬送された。予後が良く、三週間ほどの入院でしたが、その時、母の目を失明させない為の脳外科手術の情報を知ったようです。
秋になり母は大学病院へ手術できるかどうか検査に行っています。この手術に乗り気だったのは母だったようで、父は発表もされていない手術なのだからもう少し考えてからの方が良いと言っていたのですが、言い出したら聞かない母でした。おそらくは失明して娘である私の足かせになるのが怖かったのでしょう。母がそんな事を私に言っていたのを思い出しました。

年が明けて昭和四十九年一月、お正月を家族三人で迎えた後、母は都内の大学病院に手術の為入院した。当日、母は寝間着に厚手のガウンを着て、帰宅する私をバス停まで見送ってくれた。粉雪がチラチラする中、母はバスが見えなくなるまで手を振っていた。外で見た生きている母の最後の姿。母の髪型は入院当日と言う事もあってきちんとセットされており、まだ入院患者という風には見えないくらい綺麗で、着ていたガウンの柄は紺色に色取り取りのお花が幾何学模様のように整列した柄で、今でもハッキリ私は覚えています。

あの時、後部座席に座った私が後ろを振り返ると、母はバスのスピードに合わせて小さくなって行った。本当なら私が遠ざかっていく筈なのに、あの時、母の方が遠ざかっていたのかもしれない。
あの時、あの瞬間なら、まだ引き返せたのだ。「この手術はやめて。」と私はどうして言えなかったのだろう。
バスは無情にも角を曲がり、とうとう母の姿は見えなくなった。

大学病院の看護婦さんや付添婦さん達は、私がが挨拶しても殆ど目を合わせてくれません。特に看護婦さん達は挨拶の返事さえしてくれない有り様で、まるで皆蝋人形のような感じで、私は何だか不気味な病院だな~という印象を最初に受けていました。
まず、一度目の手術が終わり、回復室から病室に母が戻った時、ベッドに付けられている名札を、母は手術前は読めなかった様ですが、読める様になり、視力が少し回復したと皆で喜びました。但し開けた穴がきちんと塞がって安定するまではまだ入院が必要。
ところがある朝「喉の奥に何かが垂れて来ている。」と母が言い出し、調べると脳を浮かせている髄液でした。塞がないとそこから黴菌が入ると脳髄膜炎を起こして大変な事になります。しかし自然に塞がる方が体に負担が無いという執刀医の判断で、暫く様子を見る事になりました。しかし恐れていた事、到頭母は脳髄膜炎になってしまいました。
その治療は背骨に畳針の様に長い針を刺して髄液を採取し、検査をして抗生物質を注入し、炎症を静めるというものですが、それは過酷極まりない治療でした。


そもそも普段の教授のご回診の時は家族や付添婦達は全員病室の外へ追い出され、患者は先生とはダイレクトに話すのを禁じられていた。何か質問がある時は事前に婦長に申し入れをし、患者や家族ではなく、婦長が代弁をします。質問の答えに対する質問があった場合でも、それを患者が質問することは禁じられていました。
要するにどこの大名行列なの?と皮肉りたくなる様な表敬訪問で、執刀医はその回診の時に教授にピタリとくっついた助教授で、髄膜炎の治療の時は助教授が病室ににやって来るのですが、当時はインターン制が敷かれていました。
回診の時と同様に家族や付添婦は外へ出され、実際の治療はインターンがやるのです。母はインターンの脊椎注射の練習台になっていたのだと思う。いつも病室から聞こえてくるのは母の悲鳴。それは言葉だけで表現出来るものでは無く酷いものでした。
母の悲鳴を聞いていて、子供だった私は大声で泣き出してしまいます。看護婦が中から出てきて「うるさいから泣かせないで。」と父が怒られる。
そして中から聞こえるのは、母の悲鳴に交じって看護婦の恫喝するような怒号が響く。
父が「インターンにはさせないでくれ。あんなに痛がっているじゃないか?」と言っても当時の患者の権利等、法律すらも整っていない時代ですから聞き入れてもらえる筈もありません。
治療が終わり私と父が病室に入ると「又インターンにやられた。みんなに羽交い絞めにされてもう嫌だ。」と母は泣きじゃくり、私はとても見ていられない気持ちでした。
何日位続いたでしょうか?来る日も来る日も、時間になると御一行様が押し寄せて、病室の外で母の悲鳴を聞くのが私の日課になりました。あっという間に私は泣けなくなっていた。
母の髄膜炎がやっと落ち着き、開いている穴が塞がらないと又髄膜炎を起こしてしまいます。すぐに手術となりました。
二度目からは、アプローチした穴を塞ぐ手術でした。
左足の母の筋肉を採取して塞いだ術後、暫くは良好でしたが、後三日、髄液が漏れなければ退院となった翌朝、公衆電話から自宅に電話があり、「又、髄液が喉の奥に漏れてきた。」と母が泣いた。
三度目の手術。今度は右足の母の筋肉を採取して塞ぐ手術をリトライ。
ところが、ある日曜の朝、急に母がむせ出し、痰に絡まった何かを吐き出した。父がナースコールをして看護婦さんを呼ぶと「豆でも食べたのでしょ。」と確認もせずにワゴンに付いたゴミ箱に捨てられてしまいました。慌てて父が追いかけて行き、私も付いて行った。
父が「ピンセットを貸してくれ。」と看護婦さんに言って捨てた痰にからまったものを拾い、確認すると骨でした。
「先生を呼んでくれ。」と父が言うと、日曜だったので宿直の先生がやってきた。「これは、頭蓋骨の一部です。(骨名も言っていたけれどそこまでは覚えられませんでした。)」とハッキリとその医師が言ったのを私も覚えています。父は愕然としていました。
翌日助教授がやって来て「あれは肉を固定する為に入れた人工骨で、溶けずに出てきたのでしょう。心配いりませんから。」と言われましたが、母の状態は、その夜から髄液が再び漏れ出したのです。手術の前にはその方法を家族には話して下さる事になっていましたが、父は人工骨を使う等とは聞いておらず、この頃からこの手術に対しての不信感を父は深めて行ったようでした。立て続けに手術は体力がもたないので暫く様子をみる事になり、再度脳髄膜炎を起こすのではないかと言う不安を抱えながら、母の治療は点滴と投薬だけという日々が続きました。
父だけでなく私も子供ながらに、この手術はやらない方が良かったのではないかと思い始めましたが、もう元には戻れない。しかし諦める訳にはいかないのです。父と私は無我夢中で看病しました。

母は元々血管が非常に細く二十四時間点滴をしていると、すぐに血管がボロボロになっていき、最初は付添婦さんを雇って、蒸しタオルをお願いしたのですが、その蒸しタオルは一分位しか持たないのです。そして当時はホッカイロなど無かった。タオルが冷えれば、母は再び痛みを訴えますから、休みなくタオルを交換しなくてはなりません。付き添い婦さんはとてもやっていられないとすぐに辞めてしまうのです。
ですから、私が学校を休んで、母の蒸しタオルを父と交代でやり続けました。火傷をしないように熱湯に浸したタオルをゴム手袋で絞り、それをビニールで包み、乾いたタオルを巻いて、点滴の針先にそっと置くと一分位だけ母の痛みが和らぎます。そしてお湯が切れない様に給湯室に行き、大きなやかんでお湯を沸かす。病室に戻る。タオルを交換する。冷えたお湯は大きなバケツに入れる。そのバケツのお湯を捨てに給湯室に行く。湧いたお湯をポットに入れて空になった大きなバケツを持って病室に戻る。タオルを交換する。何個かのポットと何個かの大きなバケツ。いつもあるのは
お湯。お湯。お湯。

一分が勝負の気の遠くなるような二十四時間。発売されたばかりのカップ麺をすすり、私は来る日も来る日も、これを続けていればきっと母は助かる。
そんな呪文のように。祈りの儀式のように。給湯室と病室を行ったり来たり。
私は学校を休み、母の蒸しタオルを交換する。父が帰って来るとバトンタッチする。朝方五時頃、私の番。父は開院時間まで外来の長ベンチで仮眠をして仕事に行く。そう。。父の仕事は俳優。しかし、撮影の無い日はテニススクールのコーチの仕事。父は休んでいなかったと思う。私も父も母の痛みが少しでも和らぐ為に蒸しタオルをやり続けたのです。
そんな姿を、医者や看護婦達は冷ややかな目で見ているように私は感じていた。処が、他の患者さんの付添婦さんたちが協力してくれる様になった。
「お譲ちゃん。給湯室のお湯が沸騰していたからポットに入れといてあげたよ。」とか「火傷したらイケないからおばちゃんがやってあげるよ。」
皆が「お母さん元気になるといいね。」って。。。
そのうち、冷やかな看護婦さん達の中で、一人だけ優しくしてくれる人が現れました。「まだ、小学生なのに毎日付き添い婦用折りたたみベッドではかわいそうです。歩いてすぐの寮ですが、二人部屋の相方が出て行ったのでお布団がありますから、私が早晩か休みの時はお嬢さんを布団で寝かせてあげたい。預からせてください。」と父に申し出があった。
その時には、もうその看護婦さんを私はお姉さんと呼んでいて懐いていました。その看護婦さんが内部告発してきたのです。母が死出の旅立ちとなる最後の手術をして、回復室に入り、一旦病室に戻ったものの再び回復室に入った時の事でした。
父は、最初は何の話か分らなかったので、自分だけではなく娘も一緒なら。という事で待ち合わせたようで私も同席していました。お姉さんは泣いていた。そして最初に謝っていた。その後、少し呼吸を整えて話し始めた。。「黙っていて申し訳ない。お二人の看病する姿にいつの間にか奥様だけは生きて帰らせたいと願っていました。」聞くと彼女が勤務する間、生きて帰った人のいない手術だったそうです。
「奥さんも、いよいよ無理なのではないかと思います。本当に申し訳ありません。」と何度も謝ってお姉さんは泣いていた。「こんなものは医療では無い。私はこれ以上東京で看護婦をするのは無理です。故郷に帰って小さな診療所で看護婦をやり直します。もし、裁判なさる時には証言台に立ちますから呼んでください。」と重ねて父に言っていた。
父も私も驚かなかった。「やはりそうだったのか。」と思っていた。
父はお姉さんに「教えてくれてありがとう。」と言いながら泣いていました。お姉さんと別れて父と病院へ戻る時、父が話し出した。
「前に喉に骨が落ちてきた辺りで、パパは不審に思ったんだ。テニススクールにたまたま大学病院の事務方の職員が通いだして、パパはカマをかけたんだよ。これからママが手術をどうしようか悩んでいるから、どんな手術なのか知っていますか?ってね。そうしたら調べてくれて、言われたんだ。あの手術だけはやってはいけません。奥さん、死んでしまいますよってね。でも、遅かったんだよ。本当はもう手術しちゃってたんだから。それでもパパは諦めていないんだ。今もママは、まだ生きている。絶対に最後迄諦めちゃいけないんだよ。」。。。
私も諦めきれませんでした。どんなに苦しい時でも明るい母でしたが、最後に手術室に向かう時は「生きていられるかな~」等と言って弱気を見せていました。手術室へ向かう母は泣き顔だった。
手術が終わり、その後はいつも通り回復室へ。しかし数日しても母の容体は悪いままでした。処が、容体が悪いまま病室に戻されてしまい、不審に思った父が「何故こんなに悪い状態なのに回復室を出るのか?」と問いただすと「個室に移動しますか?」と聞かれたそうです。
おそらく医師達はもう母は駄目だと思っていたのです。だからお姉さんも父に告白しようと決心したのかもしれません。
しかし、父と私は世の中の誰もが諦めたとしても、母の事を諦めていませんでした。
無菌室でないと、又髄膜炎を起こしたら?二十四時間徹底して治療してもらわないといけない。助かる見込みがたとえゼロであっても、母がまだ生きているうちに諦める訳にはいかなかったのです。
父はもう一度母を回復室へ戻させた。
しかし、医者からは「そろそろ親族やお知り合いの方に連絡してください。」と言われていました。ある朝、母は天井の一点を見つめ、待ち構えていたように話しだした。

「パパ。残念だ。私は影から応援するから、環を音楽の道へ進ませてやって。パパ。お願い。」

ゆっくりと、途切れ途切れに、力無い声なのに、渾身の力を込めて、これが母の最期の遺言でした。
父が「わかった。俺がわかったという時は、絶対に約束は守るから。」と言うと、母は「うんうん。」とうなずく様に、意識がなくなって昏睡状態に入りました。
祖父(母の養父)と内縁関係になったおばあさんが来て、まだすぐではなさそうだからと帰って行った。
その後、母はうわ言で「ゆりさん」と母の生母の名前を言ったので、急いで連絡を取り、ゆりさんにも来てもらいました。後は、総合病院の担当医だった〇木先生と婦長さんも見舞ってくださった。「おそらくもう時間の問題で駄目でしょうね。気をしっかり持ってください。私がもっと調べて、もっと強く引きとめれば良かった。」と〇木先生はおっしゃった。それでも、父と私はまだ諦めていなかった。

毎日、朝夕面会に行くのですが、父が母の手を握り、もう片方の手で母の瞼をあけて「来たよ。」と言っても反応が無い。しかし、私が母の手を握ると父によって開けられた母の眼球が動き、手の指先が動くのです。私が「ママ。」と呼びかけると、必ず反応があった。

大学病院の傍に父のテニスの仕事を総括している事務所があり、母の居ない普段の病室に居るよりかは気も紛れるだろうと、父と私は朝夕の面会以外はその事務所に居ました。
母とは毎日朝五分、夕方五分の一日十分しか会えませんでしたが、その繰り返しが未来永劫続くのか?と思い始めたある日、朝の面会を終えて、その事務所に到着して暫くすると、病院から「危篤です!」と電話があった。すぐに父と私は事務所を出た。
病院へ向かう信号で私が泣きだすと、父は「泣くな!」と大声で怒鳴った。私はまるでスィッチが切り替わる様に泣き止み、一心不乱に大人である父の早歩きについていきました。
回復室に到着すると、助教授が馬乗りになって人工呼吸をしていて、それに合わせて母の心電図が動いていた。助教授が動きを止めると、心電図は一本線を描きはじめる。
「四月二十二日、午前十時十分残念です。」

覚悟など何の役に立つというのでしょうか?私は泣けませんでした。それは、その一寸前に父から怒鳴られたからではなく、母はもう助からないと、心の深いところで覚悟している自分と、絶対に母を助けると心の表面で覚悟している自分がバラバラになり、余裕もなくこの日を迎えたからなのか?
否、こうなる事は母がこの病院に来た時から決まっていた事なのに、何処かのドラマで見たような儀式的な人工呼吸をしている様を見て茶番だと感じたからか?
認めたくない現実を突きつけられた瞬間、呆然自失と言う言葉を習うよりずっと前の私が体感した瞬間でした。
看護婦さんが「御遺体を綺麗にします。」と言って、父と私に回復室から退室を促し、母は個室に移された。私はどこかの付添婦さんが言っていた言葉を思い出した。「死んだら刃物を持っていないと無事に三途の川を渡れないんだよ。」と。
私は母が元居た病室へ果物ナイフを取りに急いで行くと、同じ病室の人や付添婦さん達が私の何かの異変に気付いたのか?「どうしたの?」と聞くので、私は「ママが死んだ。」と事務的に言って、果物ナイフを持って個室へ戻りました。
死化粧を終えた母の両手は、包帯で目立たないように括りつけられていて、その手に私は果物ナイフを持たせ、母と二人きりだったので抱きついてみた。生き返るかもしれないと私は思ったのかもしれない。そして連絡を受ける前のこの日の朝の面会の時、いつも通り父がやっていたように母の瞼を指で開けて、私は「ママ!」と言ってみました。
もう、私の声に反応する事はありません。それより、母の眼は、死んだ魚の眼のように抜け殻になっていた。ついさっきまで生きていた母は、確かに死んでいました。 。。 <以上>。。
。。。。。。。。。。。



私が50歳過ぎて父の介護に通う中、

母の友達だった方も高齢になっているものの、お元気にしていました。。

この方には介護の悩みを打ち明けていました。。

その方は人の悪口など言わない方でしたがある時、

「環ちゃんはお母さんの事しりたいよね。」と。。私に慎重に確認するかのようにおっしゃった。。

聞いたのは手術に向かう母の本音でした。。

「この手術はいろんな医師にも反対された。でも、私はこの手術にかけてるの。。、目を失明させるわけにはいかない。きっと成功するわ。手術のお金を木村に出させて、成功したら木村とは別れて私は環と二人この団地を出ていく。それから環を歌手にさせるわ。。」と。。。



母は。。本当に哀れな人だったんだなぁと思い知りました。



介護の途中、父が言っていた。。

「環、〇倉の言う名前を憶えているか!」

覚えてると私が言うと。。

「俺は頭がどんなに馬鹿になっても最後まで〇倉を忘れんよ。」

。。。

〇倉は母の執刀医の名前です。。

父は母のそこまでの本心は知っていたのだろうか?



父も又。。哀れな人でした。。


<第二部終了>

ある意味あの映画予告編を観たあたりから自分に起きた事について文章としての整理がじはじまっていたのかもしれない。。

この「恥の家族」と言うカテゴリが第二部のまとめだと思う。

やっと、本名でのカミングアウトを終えて心はスッキリしました。

勿論読みたくない方はするーしてくださいね。



文中。。おそらくは魂としてどこかにいる父に向って

「パパ」と語りかけているところがありますが。。



私が小学1年になったばかり頃、いつまでも、

パパ、ママはみっともないと感じた私は

母に「お母さん」と呼びかけたことがあります。

それに対して母が真顔で私に注意しました。。

「親にさん付けするんじゃない!」と。。。。

「おとう。。とか、おっかぁ・・」と呼べばよかったのでしょうかね???

続けて母が言ったのは

「家は。。パパ、ママと呼びなさい。。」でした。。



本当に変わった母親です。



父と母。。あの二人は親になってはいけなかった人たちです。

でも、私はあの二人の子供で良かったのかもしれません。。

5月31日。。

私が一番嫌いな日です。。今年も好きではなかった。。

何年か前。。ある事業所でサプライズで

その日のミーティングで事業所からクオカードを誕生日プレゼントとして貰いました。。しかし受け取っていません。。

私は怒ったんです。。

履歴書には私の誕生日は確かに書いた。。

でも個人情報の守秘義務はあるはず。。

私の承諾なしにどうして誕生日を公開するのですか?

と言ってクオカードを突き返しました。

かなり尖ってましたね。。私は。。

今はあの時ほどではありません。

少しづつ変化はしています。

考えの中ではそれではいけない。。

生れたくても生れることを叶えさせなかった私です。。

私は誕生できたのに、誕生できなかった子たちに失礼じゃないかと。。。

頭ではよくわかってるんですよ。。

だから来年こそは自分の誕生日が好きになれるように努力していきたいと思います。。

 

<どうして?何故?の答え合わせ♯1>

介護を再開させることを思い悩む時、自助会(この時までは性被害者の集まり)の中で近〇姦被害者のみの自助会を開こうとする人が居てそちらにもお誘いがあった。丁度その境目の時に父の介護を再開することになりました。その際、一人の被害者に加害者親の介護をするなんて、あなたの辛い話をさんざん聞いてきたのにハッキリ言って裏切り者だと言われた。。しかし、新しい方の代表からは、被害者が加害者の介護をするなんて今までにない話で興味があるし、頑張ってと言われた事で救われたような気がしました。



半年の間放置された父は認知症が一気に進んだようで程よくぼんやりしてくれて別人のようでした。

フラッシュバックしたあの電話のやりとりは私は私で言い返しました。

「貴方はまだそんなことを言うのか!」

「そんなだから20年もあんたを捨てたんだろうが!」とか。。

最後には

「あんたは認知症なんだよ、もうどうにでもなれ!」だったかな。。

全く悲しい親子ですよ。

再開してすぐに病院へ同行した時。新しい認知症薬の治験ポスターを見た父は

「こんな病気になったら大変だね~俺なら耐えられないな。」と真顔で言っていた。。

ああ。。あんな残酷な形の告知も忘れてしまってるんだ。。と思った。。

それでも昔の事はおぼえているようで。。

関西歌舞伎の話をよくしていた。。

私からしたら何で?歌舞伎?

健常な頃は大映の話はよくするものの。。

歌舞伎の話はただ一つ。。

{男に襲われそうになって屋根伝いに逃げた!}

これしか聞いたことが無い。

母が、それでそのあとどうしたん?と聞くと

{逃げ切ったがな。。}とそれだけ。。

酒が入った時の夫婦の会話を子供ながら何度も聞いた記憶。。。

本来昔ばなしは大映のことばかりだったのに。。

父の好きな伊勢丹へ行くと、7階の広いところで歌舞伎の踊りの時のにぎやかな音楽をいきなり口三味線で歌いながら踊りだす。。

踊ってるうちに新国劇の国定忠治「しらざぁ言ってきかせやしょうか~」のセリフにシフトする。。

この時はまだ一つのパズルのピースに過ぎなかった事ですがね。。

そしてもう一つのピースは

近所のスーパーへ行く時、向こうからなんて事の無い買い物帰り男性が歩いてくると。。。

「ほら!あいつだよ。。あいつが俺の部屋へ忍び込んでくるやつだ!怖い。。」と言う。。

時には誰も居ないのに後ろから男が付いてくる。。狙われている。。と驚くほど怯えるのです。。私が振り返ろうとすると「振り返るな!やられる!」と早歩きになる。

何個か前に書いた怖くて家に帰れないと夜中にかかってきた父からの電話など。。。

そして朝行くと

「昨日やられた。。血だらけなんだ。。」

これはよく言われたけれど、ちっとも血だらけになっていない。。



身内が介護を率先してやると認知症の進み具合は遅くなるようです。しかしうちの場合は私が通う事で父は健常な頃の父を取り戻していくことになる。。すると結局は私を傷つける父もよみがえってくるのですがそれと同時に父の妄想とこの時おもっていた怖い体験話も活発でした。



一度介護が決裂する前の事ですが、その頃私は中古の軽自動車に乗っていました。その前は日産ノートの新古車に乗っていたのですが、旦那さんの会社が自転車操業になっているというのに車は手放そうと思ったのですが、病気の犬たちが居るので経費のかからない軽で尚且つノートを売ったお金で買えるものと言えば年季の入った車しか買えませんでした。。その車で犬たちを連れて岐阜迄いった事を思うと、あの頃は必至だったのだなぁと思い返すのですが、父が車を買ってやると言い出した時は断ったのですが、旦那さんにそのことを言うと買ってもらいなさいよ。僕は免許が無いんだからほとんど車の恩恵は無いし、お父さんが伊勢丹に軽自動車で行きたくないんだよベンツの最高クラスに乗っていた人なんだから。。と言うので買ってもらっていました。

ふと。。もうすぐ新しい車が来るとウキウキしていた父に聞いてみました。

「鍼灸の学校の時、どうして経済制裁したの?」って。。

「なんでだなかぁ。。金を払いたくなかったんだよ。」と間を取りながら言っていた。。その時は何だか悲しかったのですが。。車の代金が残りの学費2年分に匹敵する金額でしたからね。。。



でも、今は何故だかわかっています。

父は私に自分と同じ目にあわせようとしていた。。と確信しています。

祖父は一家で暮らした上海で商売をして大金を稼ぎ、それを持ち帰り大阪に住まいを構えて、工場も持ち戦艦を作っていたと聞いています。それも大きな稼ぎを生み、祖母は屑鉄を売る仕事を任されてリ、父の世話をしたのは雇った乳母だと聞いています。住み込みの家庭教師も居たとか。。今でいえば一兆万長者のような暮らしだったそうです。喧嘩の弱い父は近所のガキ大将を連れて家の蔵に行き、溢れるお菓子をふるまって自分が番長をしたそうです。昔旧制中学に行く子供は金持ちに限られていたと聞きますが、ギリギリ父も入学が決まるものの日本は終戦を迎えます。

終戦と同時に祖父の戦争加担していた財産は没収。そして旧日本円は紙くずとなって一家は没落します。。そんな中、祖母(父の母)はどこからか金をかき集め、父は学校に通います。テニスに関しては前に書いたと思うのですが、父は本当は野球をやりたかったそうですが、道具が無い。。偶々親友がお古のラケットとウエアをくれてそれでテニスをしたと聞きました。一番上の兄は沖縄で戦死。二番目の兄はグレてチンピラまがいになりヒロポン中毒。その兄が父の制服をヒロポン欲しさに質屋にいれてしまう。祖母(父の母)は又朝から金をかき集め、時にはナケナシの自分の着物を質に入れて制服を取り戻してくれたと言っていました。

愈々就職か大学かの時期になり、父は関西学院大学の経済学部に入学します。その時、一年分の学費までは祖母(父の母)が用意してくれたそうです。しかし、その後は自分で生きていけ!食べる事、住むこと、二年目からの学費は自分で何とかしろと言われ、家を出ました。

戦後のドサクサの時、仕事などたやすく見つからない。本来そんな人格ではない人でも生きる為に泥棒をすることもいとわない。そんな時代にようやく仕事を決めた。。

それが住み込みの関西歌舞伎の仕出し。要は裏方さんだったのでしょう。住むこと。食べる事。。には困らない。給料は翌年の学費として貯められる。。父は一縷の望みを抱いたに違いありません。世の中貧乏が当たり前とはいえ、金持ちのボンボンとして育った父にとってさぞかし暗い時代だったのではないか?

そんな中、華やかな歌舞伎を観て心躍るような明るい気持ちになれたことが手に取るようにわかります。。伊勢丹の7階の広いところで歌い踊っている姿を見てしまいましたから。

一方で父の武勇伝「逃げ切った。」には違和感を感じるもののまだつながっていなかった。。

結局父は大学を中退してしまいます。

父の気性。。からして苦学出来ない人ではありません。

自分が出来なかった事を何故強いたのか?

そこにも疑問が残っていました。



もう一つのピース。。叔母には良縁があったそうです。しかし、叔母は恋愛を貫いたと聞いています。

父の口癖として。

「姉さんが良縁を断らなければ俺は大学に行けた。」です。。

これは常に言っていました。母が亡くなり、その後も叔母と口げんかになると言っていた。。

もう、どっぷり役者人生。。何故?そんなに大学にこだわるのか?

今ピースがつながってみると。。大学ではなくあんな目に合わなくて済んだ!という事が言いたかったのだとわかりますが。。



母の葬儀の時、兄に

「こんな団地住まいではずかしくないんか!水ものの役者なんかやめて固い仕事につけ!」と言われ大喧嘩になった事。。この父の気持ちはよくわかります。自分の制服を何度も質屋に入れた兄なのですから。。。しかし、父の兄は二度目の結婚で逆玉の輿。あちらの取り計らいもあったのでしょう。固い仕事について上手く人生を切り抜けていましたから、兄として父を心配したのだと思います。兄貴風を吹かせたかったのは嘗て頼られ、結局ろくな事しか世話ができなかった結果が役者人生なのだと。。責任を感じていたのではないかしら?自分だけ安定した生活を得て、過去の後悔があるからこそ、きっと弟を心配したのだと今は思っています。それにこの兄だけは父の秘密を知っていた可能性があるからこそ心配だったのでは?と想像しています。



これも介護の途中、父から聞きました。

関西歌舞伎と新国劇の合間。。一度だけ兄を頼って自暴自棄になった話。。

これを聞くに至る話からは又今度。。。


<どうして?何故?の答え合わせ♯2>


あの親にしてこの子。。。とでもいうのでしょうか?

もう父に殴られる心配はない介護。。しかし、父は口だけは達者なのです。。昔なら父が怒り出すと恐怖でしかなかったのがいざとなれば私の方が体力的にも強くなっています。。言い返せなかった私も弁がたつようになり、父が黙ることもありました。

ある日父が言うのです。。

「似てるね~~嫌だね~~」と。。

そりゃそうです。私が暴言を聞き、殴られながらどうやって相手を追い込むか?の手練手管を父から教わってしまったのですから。。そしてしみじみもっともらしいことを又云うのです。

「環に一つ言っておきたいことがある。」

それを言ったらお仕舞と言う時に言葉を飲み込みなさい。」って。。

心の中ではあんたに言われたくないと思いましたが、まぁ聞きました。。

父が悪役をしていた頃、本当に仲の良かったあるスターさんが居て。。その方が主役の作品にはよく出ていました。

母が亡くなってすぐの時、ご自宅に私も呼んでくださったり太秦の撮影所に私も行くと。。

「お嬢!」なんて呼んでくださって、優しい方でした。

でも、ある時喧嘩したみたいで、私もなんとなく知ってはいたのですが。。

その話をしだしました。。

あの時言われたそうです。もう喧嘩はやめようとして声をかけらたらしい。。

用は相手が折れてくれたということですね。。

「元ちゃんも気。。きついなぁ~~」と。。。その時に相手から折れられたことが悔しかったみたいで。。言ってはいけない事を言ったそうです。。

「はい、昔、人のこ〇し方を覚えましたから。。」って。。。

もう、私はえ~~~っ!ですよ。。

それで縁が途切れたというのです。。

で、聞きました。

「本当にそんなこと覚えたの?」と。。



「昔。。自暴自棄になったんだよ。。〇んでしまおうか!って悩んでね。。気づいたら兄さんの所を訪ねてた。。」

父の兄はその頃ヤ〇ザの組に入っていたそうです。

父もそこへ身を寄せたのだそうです。。

その時に教わったそうです。

も==うビックリですよ。。

もう少しで鉄砲玉に使われる時に。ある幹部さんが父に言ったそうです。。

「お前は頭がいい。。もっと命を大切にしろ!堅気になったほうがいい。」って。。

それで抜ける決心をしたんだとか。。但し落とし舞いとしてぼこぼこに殴られた。。そうです。。

その後、歌舞伎をよく見に来ていた人の口利きで新国劇に入り、将棋の木村名人と会って木村玄(当時はこの漢字)と言う名前を貰ったと言っていました。



この時はびっくりしただけでしたが、

今は繋がっています。

逃げ切ったのなら〇んでしまいたいほどの自暴自棄になる筈もない。

その感情は私が経て来たことです。

一つ間違えば命のボーダーを超えてしまうギリギリのところで苦しんでもがいていたのだから。。



それに「武勇伝」

父は逃げ切ったという武勇伝。

私は異次元に行ったという武勇伝。

私は記憶の塗り替えをしていた。。

誰にもしゃべってはダメと母に言われてもあちこちでしゃべってた。。あれは。。幼少期でありながら知らないおじちゃんから性被害に遭った事。。

そのままの記憶では耐えられないという自己防御の塗り替えであり、塗り替えた記憶をしっかり定着させるためにはしゃべるしかなかったのです。。

父は記憶の塗り替えこそなかったけれど逃げられなかった現実を認めたくなく、作り替えた話を誰も聞いてもいないのに話すことで、さもそれが本当のように心に蓋をしたのだと思う。



家族なら助けてやりたい。。守ってやりたいと思うのだと想像します。勿論そのためには心が歪んでいないことが大前提かもしれない。。

父が被害に遭った頃の時代を私は生きることは無かったけれど。。

それに私は母親になったことも無いけれど、今の私が祖母に憑依したとしたら真っ先に息子の心のケアをしたいと願うような気がする。





鍼灸の学校の時の経済制裁。。

あれは、父流に言えば「ママの遺言」を守れないなら自分が出来なかった学校を卒業すること。。ぐらいやってのけろ!俺の娘ならという。。つもりで同じ環境を私に用意したのだと思う。。

鍼灸の学校は断念しちゃったけれど、、今私は働きながら父が出来なかった大学の学位取得を目指している。。

私の心を癒すための心理学

父の深層心理を知るための心理学。。



気づいたら、、私は父に対する憎しみも怒りも消えていました。

許すも許さないも無い。。流す感覚を少しづつ身に着けているような気がする。



ここまで父と私の恥赤裸々にかいてきたけれど。。

そうね。。死んだママのルーツの恥。。

これも書かなきゃフェアじゃないわね。。。。パパ



<母のルーツ>

母は愛媛県松島市で本来二女として昭和12年4月2日に生まれました。しかし、生母の姉(実際姉か妹かは不明ここでは姉にしておく)に子供が出来ないと知り兵庫県西宮市に住む姉(母にとって伯母)の柴田家に養女に出されました。このことを私の母が知ったのは高校卒業の頃だと言っていました。まだ二女なのにどうして私が?と言う思いが母は強かったようで自分は実の母親に愛されなかったからだという思いこみから相当に荒れたらしいです。後に生家の田中家では男の子は産まれず結果母も含めれば5人姉妹ということになります。

柴田家で育った母はIQが高く、飛び級を勧められましたが、養母が女性は普通に限ると通常の学級で勉強した母が身に着けたのは怠ける事。怠けてもパラパラと教科書をめくるだけで成績はいつも一番だったらしく、「勉強なんかせんでもできる」という口癖を私は何度も聞きました。母は新しもの好きで、流行り出したダンスに興味を持ち、又親友と共に宝塚の登竜門的バレエスクールが仁川と言う町にあり、そこへ二人で通ったらしい。お琴やお茶、お花の習い事のお金を母は勝手にバレエ以外にも歌のレッスンなどにつぎ込み、将来は宝塚に行こうと親友と共に目指していたようでした。しかし、養母にそれがバレて逆鱗に触れ、やめさせられたとか?母が言っていました。本当の母じゃないから願いを叶えてくれなかったと。。。今の私からすればどうしても続けたければ努力をすればよかったのにと思う。。。まぁ、結局は母は努力なんて嫌いな人でしたからね。。その後、その熱は私にむけられることになりました。



頭が良いという事は良いことばかりではありません。記憶力も回転力もずば抜けて優秀だという事は悪知恵が働きます。残念な事にお金と男にルーズな母親だったと思います。生家の長女もお金と男にだらしなく、母とは気が合う様でした。最初の結婚で産んだ子はろうあ者で施設に入ったり出たりのまぁ戸籍は別ですが本来私の従妹にあたるのですが、その父親(長女の夫)は山師のような人で後に母のすぐの妹三女の夫となっていました。その組み合わせで生まれた従妹は私が幼稚園の時中学生でした。詳しい年齢は分かりませんが、母が私を生んだのが24歳になったばかりの時です。三女の娘(私の従妹)が私より6歳以上年上ということは、三女は10代で少なくとも17歳以下で産んだことになる。その夫が長女の夫だった人となると、何だかそこに性虐待が潜んでいるように思います。

長女は勝手に松山の家の田畑を売りさばき、居なくなり、その後尼崎で愛人暮らし。。そこへ家も無くなった一家を呼び寄せ、その愛人に一家の面倒を見させているうちに失踪。母の葬儀には呼べませんでした。



母が亡くなったのは昭和49年です。

そして三女が亡くなったのは昭和50年。

私が中学一年の夏休みに父に連れられてお線香をあげに尼崎に立ち寄りました。ボロアパートを何部屋か借りたその一室にみんなが集まっていました。

四女は固い職業の旦那さんと連れだって来ていました。自堕落な一家の中でその夫婦だけがきちんとしており浮いてみえた。。

五女は顔立ちが一番母と似ているな。と思いましたが、やつれて憔悴しきっているようでした。

没落していく家の末っ子と言うのは割が合わないんだろうなと思った。



三女の死因は尼崎のスナックで男女のもつれで刺し〇ろされたと聞きました。

私にとっての本来の祖母ゆりさんは一点をみつめながら何度も繰り返し言っていた。

「わやになってしもうた。」。。。。

そして運送業を営んでいる愛人は長女の悪口を散々いいながら

「それでもこの人らを捨てる訳にはいかんやろ!」とニヤニヤしている様が私は薄気味悪かった。

これは父から後で聞いた話ですが。。

あの愛人。。祖母の百合さんにも手を付けてるんだ。。と。。

そして

「ママももういない。因縁深い田中の家とは縁をきりましょう。」父が言った。



それ以来私は誰にも会っていません。

母のルーツのその奥の家族はどんなことをして生きていたのか?

農家だとは聞いていましたが、土地持ちだったという事は地主だったのか?不明ですが、コーチングの本を読んだことがあって、そこには先祖のトラウマ。。と表現していましたが、私はこの本を読む前に先祖の悪行がその本人に降りない時、本人にとっての一番の泣き所に生まれながらにしての不条理が発生する。そのように考えてました。



ちょっと横にそれますが。。。

私はスピリチュアルはあると思っています。まぁ、日本語では精神性。。要は魂ですよね。だから魂はある。死んでなくなるのか?死んでも魂だけは残るのか?まではわかりませんけれど。。

巷でみんなが流行らせたスピリチュアルは眉唾とまでいかないけれど。。法則は真理としてはあると思ってます。その扱いようがそれぞれの魂によって偽物に変化したり本物になったり。。

つまりは欲がからまないものが本当のスピリチュアルだと思っています。何かの結果があって良いも悪いも無くその結果の答え合わせによって真理はある。。目的に活用した途端、欲が邪魔をしてよくまみれの顕在意識では魂まで届かないのかと思う。

そういった意味でスピリチュアルはあると思っていますから、「波動」と言うものもあるのだと思っています。



そういった意味で本人に背負いきれなかった罪。存命中に清算できなかったものが似た波動の親族におりてくるのではないか?

そう考えていました。

コーチングの本の先祖のトラウマもそのような事が書いてあった。

父方の祖父。。大陸で金持ちになり、戦争に投資。。家は新築で構えればよかったものをよりによって女郎屋の主が贅を尽くして立てた家のしつらえが気に入り、新しく建てるよりも高いその家を買ったと聞いています。

父はこどもながらに薄気味の悪い家だったと言っていました。



祖父は戦艦のどの部分をつくっていたのか?わかりませんが、祖父の作った戦艦でどれだけの若者が無念の死をとげたのでしょうか?

祖父の父親私から見て曽祖父ですが、キレると日本刀を振り回すほど暴れ者だったらしい。祖父もキレやすい人だったと聞いています。そして父も。。私も。。。。そして母のルーツの奥にも調べつくせないとはいえ、知っている限り。母の生家の田中家は私の母も含めて幸せとは言えない人生を送っている。



私はどうか?と自分に問えば、様々な綾の積み重ねの流れだと言い訳したとしても、奥様の居る人と共に生活している。決して自堕落なつもりはないけれど。どこまで行っても言い訳のような気がする。

旦那さんとの出会いの時、彼は弁護士さんに離婚の相談していました。奥様の一時帰宅が薬を大量にもたされて年に1~2度。一回に4~5日ですがその度に離婚の話をしていると聞きました。

私は最初一緒に暮らすと言っても別にアパートを借りて、衣替えは自転車でしていました。私の荷物をすぐに片づけて帰宅する奥様の心を傷つけないためですが。。彼にお金が続くならもう帰ってくる度に別れ話はやめたらどう?と言ったのは私です。

美味しいものを食べたり、ゆっくり毎日お風呂に入ったり、病院では出来ない事をさせてあげてと言いました。冬はお正月をずらして帰ってきますが、私とばかりお正月ではなく、たまにはお正月に帰してあげてと言ったのも私です。そのうちに帰ってこれるレベルの症状ではなくなり、今では大腿骨を骨折して寝たきりだそうです。

奥様の帰宅が無くなると、そのうちに私の荷物も増えていったのですけれど。。

一人の女性の病気の上に成り立っているという事は折に触れて考えさせられるのです。

そのように不条理の渦から脱出したつもりでも、無意識であっても気づけばまだ渦の中に生きているのかもしれません。



中々答えは出ませんね。



忌まわしい母の生家の親族たち。。父方祖父の行い。。

本当は父と母は出会ってはいけなっかったのかもしれない。。



私はこれからどのように浄化していけば良いのだろうか。。


<私がカミングアウトした理由>

人の一生ってものすごく長くてものすごく短い。

矛盾しているけれどどちらも私が感じてきたことです。

寿命と健康寿命は違うという事。健康管理士や心理学の勉強で出てくることですが、それは心身面での事。。

まぁ老化なんてことは30歳ぐらいからはじまっているのですが。。それはみんなある程度は順番にやってくることが多いとは思います。



しかし、運命的に環境が影響して衰えるという事もあるのだと思っています。

前にどこかで書いたかなぁと思うのですが、人間にとって平等なものは?という問いにその人がそう思っているだろう事を想定して「時間ですか?」と言いました。。

すると「その通り。」と満足した返事を貰った。。

でも、私は違うと思っている。

時間だとしたらみんな寿命が違うのです。同じではない。

人間にとって何が平等か?はそれぞれに生きていく過程の中で乗り越えるテーマを一つ持たされていることが平等なのだと私は思う。

生れる前の命も生まれてすぐに終わる命もその命をどうやって意味のある価値のあるのものにするかは家族であったり場合によっては社会だったりのその影響で違ってきます。

他力本願のようではありますが、それらに周りが気づけば価値の無い命などありません。

どんなに幸せな人生に見えても、本人が自分は勝ち組だと思っていても、そこにもきっとテーマを持って生まれているはずだと思います。そしてそれぞれがそれぞれの一生モノの役割に気づけないで終わるから綾も生れ、そこにサバイバル的生きる面白さがあるのかもしれません。



感謝と言う言葉だって、感謝して良かったね。で終わらせてはいけなくて、感謝できるのは何故なのか?と深く思いを掘り下げれば、感謝できる環境は誰かの犠牲が土台にあるのかもしれない。

そういった事が無くても感謝のおすそ分けが出来る人とガッツリ自分の為に搾取したままの人もいます。。だから人はおもしろいのかもしれないですが。。



不条理極まりない人生をこの平和な日本。美しい国日本でしたっけそんな場所に居ながら体験してみると。。

最近、地球の気持ちがよくわかるような気がします。



地球の立場で考えれば悲鳴を上げたいのは人間だけでは無いわね。。と思う。



心が揺れる。。地面も揺れる。心が波打つ。。ホントの波もやってくる。怒りを吐き出せば山も噴火する。。

悲しくて号泣すれば線状降雨帯もやってくる。。



大陸のプレートが押し合いへし合い。。

人のエネルギーも押し合いへし合い。。



もし、Kさんが生きていたら、私への連絡は無かったでしょう。。私は北朝鮮で死んだ事になっていたのだから。。

そうなると私はまだ怒りだけの時代をウロウロしていたのかもしれない。

Kさんの命を父がみじかくしてしまったのか?

Kさん自身の寿命が短かったのか?私にはわからないけれど。。

父を最後の最後まで役者にさせておくことは運命が許さなかったのだと思う。

岐阜に行った頃。。私たち家族のエネルギーも押し合いへし合いしていたのかもしれません。



父から被害を受けたことも、母から洗脳されていたことも、歌舞伎町で泥にまみれていたことも、二丁目で裸で飲んだことも。大人に期待が出来なかったことも。胎児を所有物にしたことも、人の心を傷つけまくったことも、人から傷つけられたことも、ダンサーもミュージカルもデパートの店員も新聞配達したことも、調理補助の仕事も介護の仕事も今勉強していることも。。病気も。。全部が何一つ欠けることなく積み重なったのが今の私です。



父は自分に都合の悪いところは排除して良いところだけを積み重ねようとしたから、運命が原点に戻れ!と幼少期に一家が没落し無一文になったと同じように。。人がうらやむほどの老後資金を持ちつつ、数年で自滅したのだと思う。

餌のぶら下がったスピリチュアル。。

法則をアテにしたスピリチュアル。。

ネガティブを排除したポジティブ真理教。

ネガティブもポジティブも両方あるから生きられるのに。。。

これらは父の事。。。



でも、私からしたら天晴。。わかりやすい人だった。

母より父の方が純粋な人だという事もよく分かった。



何より私の人生が実りの多い宝物のように感じられるように流れて行ったことには感謝しています。

そしてこれからはこの感謝を何かの役にたてなければならないと思っています。たとえ小さな事でも。。。





ジャニーズの事件を知って思った。。。

これは前に書いた通り有名勢に被害者が居ない事の驚きですが。。思ったのは父の被害に重なった事です。

そして人の事は問えないな!と言う私の感情です。

私は本名で何もカミングアウトはしていないという事にも気づきました。。



<父との約束>



「それがあなたの宿命なんですよ!」

その言葉に対して

「確かに今までが宿命。でもこれからは違う。」



「あなたは何か企んでるな。」

これに対して

「いつか書くわよ。。私とパパの事。」

「書け!書いてもいいけど、お前が真実に近づけるのかな?」

「真実って何よ。」

「真実なら賞を取るようなものをかけ!」



でした。。。



被害者は、わかってもらいたいんですよ。。

父の言う真実は父の被害の事だと今は思っています。。



介護が苦しくて過呼吸で救急搬送された後、

旦那さんが私に言ったんです。

その頃、治療の為に私の人生を文章化していることを彼は知っていました。。

「君は誰かにわかってもらえないと無念だろう。どんな人生でも僕が全部読むから。。」

これを聞いた時、錆びついた鎧を着ている私の心はガタガタに崩れました。



被害者は誰かにわかってもらいたいんです。大人になって意識に無くても、本当はリアルタイムで誰かにわかってほしかったんです。



父もそうだと思いました。。



ただし、賞を取れるか?となるとこれは厳しい。。だから心理学の大学を卒業したら文章もとある大学で勉強したいと考えていました。。

あの、私の心をズタボロに傷つけた出版社のライターが講師をしているとの情報のある大学の通信部で。。と考えています。。

最低でも10年かかる。。いやそれでも私の文才は変わらない気もする。。

こういう時「ダメ」と言う言葉が私の頭に浮かぶんですよ。。

(苦笑)

「ダメ」でも「ダメ」と思わなきゃいいいのに。。



最近、私は健康面で自信が無くなってきました。

時が流れていく中で、もし、私の命が途切れたら。。?

Kさんだって61歳で亡くなっている。

私は今62歳。。

もし、カミングアウトしていなければ。。

無念の霊となってこの世のあちこちでウロウロするような気がする。。

勿論金を積んででも国立図書館に一冊保存してもらえるように本を出したいですが、それでは父との約束を守れない。。

ブログなら永久ではないにしろ賞は関係ないですから。。

まぁ何かのブログの賞はあるのかもしれませんが。。

私はイイネもコメントも開けてませんから対象外です。



約束違反にはならないよね!。。。。パパ。。

そして。。もう憎んではいない。。

あなたが受けた被害はあなたの恥ではありませんよ。パパ



小さい頃、銭湯でシャンプーを嫌がる私の髪をアトムにして洗ってくれた。。

帰り道。。私が月を指さし、

「月がくっついてくる。。」と言うと、、

「それは地球が丸いからや!」とあなたは言った。

本当は良い父親になりたかったのでしょ?。。

家族を機能させたかったんでしょ?

どこからまちがえたんだろうね。。。


<肩の荷物>

まだ書き足せば色々あるものの。。キーワードはとことん〇などでかくしてかいたものの。。

というのはペンネームで自叙伝はネットにだしているものの、公序良俗に反するとして肝心なところは書き直す時間がなく放置しています。それはそれで良い。。というのはまだ父の真実にはたどり着かなかった頃の怒る気持ちを排除できぬままのものですからね。。

こちらではそのように指摘されないようにするため、過激な単語は〇で隠しながら読めるようにしました。



今回、概ねカミングアウトしてみて。。スッキリしました。肩の荷物は大分かるくなりました。。



近〇姦被害。。。

聞いただけでキモチワルイですか?

そういう方には次の言葉を送ります。

前にも書いた通り、

「どうキモチワルイのか?わかってます?その区別がつくのは経験者だけですよ。」と。。

まぁ、肩の荷物はか軽くなったものの。。社会認知が変わらない以上、まだ鎧は完全には取り払う事ができていないのかもしれませんね。。



これにて。。第二部は終了します。。

第一部は俳優木村元の立派だったことを中心に書きました。。

第二部はさ最初のうちはグズグズしていました。。

時に本音を書いてはアメンバーなど居ないのにアメンバー限定公開にしてみたりしました。。

まぁ、それはその時々の気持ちの揺れみたいなものですので、そのうち、時間がある時に整理したいと考えています。

今回のカテゴリ。「恥の家族」の部分はブログでは最初に書いた分が奥にひっこんでいますので、番号をつけてFBのほうに逆順でシェアします。あちらは私が私のなりすましではない事を訂正してきましたので。。今度は安心してシェアできるようですので。。



第三部はおちついたら又再開したいと思います。。

割とすぐだと思います。。

ああ。。。今日、お仕事。。退職してきました。。こちらもスッキリです。。

健康面の問題です。。リセットしたいと思っています。。



 

<TVが怖い怒りの時代と旦那さん>

私にとっての怒りの時代の始まりの頃、父は本当によくTVに出ていました。忘れようとしてもTVを付ければ出てくる。。

それが辛かった。

芸能人の親でなければどれだけ良かったか!

すぐにチャンネルを変えても順調よく仕事をしている父が憎らしかったです。

私が仕事をやめ何もかも捨てる覚悟を決める前に旦那さんとは共に暮らし始めていました。



彼は最初はバツイチだと言っていたのですが、実は奥様が居る人でした。

但し自宅にはいつも不在の奥様です。

今でいう統合失調症。当時は精神分裂病と言っていました。彼は私より15歳年上、で、奥様はさらに8歳年上ですから、私より23歳年上になります。。要は私の母親世代です。

何の因果か?女優さんです。父が時代劇で悪役の頃、奥様も時代劇によく出てらして、父より当時はランク上だったのではないかしら。。話数こそ違えど結構父とニアミスしている方でした。レギュラー番組も持ち、コマーシャルにも出ていらしたことは小学生ながら私も知っている方でした。

私はそれまでの苦労に疲れてましたから、ちょっと一休みの恋のつもりでした。奥様がいる以上何れお別れするのだろうと思っていた。しかし、彼が仕事でフランスに行っている時、彼のお父さんが倒れてしまい、結果私がお父さんの入院中の世話をすることになってしまいました。そのお父さんが息子には何とか別れさせるから3人で暮らしたいと言い出し、暮すようになってしまい、今に至ります。

彼は私の父に挨拶したいと言い出し、何度か断ったのですが、結局私と父の事を話しました。ただし、そういう事があったという事までで詳しい経緯は聞きたがりませんでしたので私も詳しく話しませんでした。

仕事はデパートの食品マネキンを本格的に始めました。

彼の会社に少しづつ陰りがみえてきたからでした。

そんな頃、彼に言われた、

「僕は仕事として成立していてもいなくてもクリエイティブな仕事を目標とする女性がいいんだ。家でする会話もそういった会話をしたいんだ。君は勝手にミュージカルの仕事を断って店員の話しかしないじゃないか!」



これを聞いた時、私は自分の血液がどんどん地面に吸い取られる気分でした。

これ以降、私と旦那さんは男女の関係ではなくなりました。

それでも一緒に暮している。偶然のように別の関係性が構築できたからでしょうね。

この時から15年ほどの時を経て、麻布の斎藤医師に言われたことがある。

「パートナーはお父さんではありませんよ。」と。。。

私はずっと自分を守ってくれるお父さんを探していたのだと思いました。

父の介護を完全に手放した時、彼に聞いてみたのです。

「どうして私と別れなかったの?」と。。。

「面倒くさかったからかな。。。でも、奥さんは病気を抱えた姉のようで、君は精神の不安定な妹のようで見捨てられなかったんだよ。僕が居なかったら君は生きていけなかっただろ?もし、誰かいい人が居たら嫁いでもいいんだよ。」ですって。。

だから言いました。

「私を取り扱える男なんて、この世のどこにもいないわよ!」って。。。



ああ、こうも言っていた。。

「どうして僕には変なのしか寄ってこなかったんだろ。」



ふふふ。。そりゃ仕方がない。。

私は変な親に変な事をされて育った変人なのだから。


<被害の後遺症>


摂食障害は概ねみんな抱えた記憶があるのではないかしら?

拒食、過食、それらを繰り返すこと。。

そもそも麻布のクリニックのトイレには張り紙がしてあって、嘔吐禁止。。自然の嘔吐ではなく、自傷的嘔吐をする人が多いのだと思う。

そして私のように夢遊病的に過食してしまう人も中にはいるという。。

そして様々なアディクション。

あとは性に関すること。。

よく、ドラマなんかで性被害に遭った直後、性嫌悪になるシーンがありますよね。。

しかし、事はそう単純ではありません。

私のロケット花火(カオスに記載)のように性依存もあります。その両方を繰り返す場合、女性の節目に反転する場合。嫌悪一直線の人。。依存一直線の人。。自助グループ内の事は伏せて、書籍などだけでこのような現象は書かれています。

私の場合は反転してしまったのでしょうね。。

全く気付かないうちに。。まぁこれも書籍での話ですが、

運よく結婚にこぎつけても、ある日、嫌悪状態に陥り、それでも妻の務めだからと家庭内レ〇プに悩む人もいるそうです。

私の場合はほったらかし状態で何の違和感もないまま快適な毎日を送ってこれたわけです。。

そして私は彼の元。。この家の長女のようにしていられました。そういった意味では運が良かったのかもしれません。



勿論、中には問題なくと言う人もいると私は思うのですが、

中々デリケートな部分でもあるので臨床には上がってきづらい、上がってくるのは苦しい状態の人だけなのかもしれません。

そしてこの被害者は性産業につきやすい。これもアメリカやカナダでは統計の取れた話だそうです。





怒りの時代の中で唯一私が癒されたのは奥様が大量の薬と共に一時帰宅する時だったかもしれません。

TVに出る父を見ると怒りと悔しさで私は情緒不安定に陥りましたから。。

奥様が帰ってくるときは最初、日本国内の近場の温泉地などへ行きましたが、何しろ私は観光目的ではなく時間つぶしの旅なわけです。部屋でダラダラしているととにかく用もないのに何度も仲居さんがやってくる。。それが面倒である時から往復航空券を買ってホテルは現地調達。私はバリ島にはまりました。

所謂プチバックパッカーです。。

この人生神も仏も居ないと思い込む私が、神を日常に取り入れ信仰する人々の居る島に惹かれていきました。

いつの間にか日本では子供は嫌いになっていた私が、何故か現地の田舎の方へ行くと人懐っこい子供たちと遊んでしまったり。。

昔の西宮を思い出して、母のことまで憎み続け墓参りも封印していたというのに母に会いに行っているような錯覚をおこしたり、、行けば必ず、心は緩んでいました。



怒りの時代の最後の方。。私が48歳の時、飼い犬の処方ミスがあり、49歳の時。犬たちを連れて岐阜の教授と出会います。そのくだりはこのブログのどこかに書いているはずです。

その不思議体験から父との再会に繋がっていきますが、それは大きなフラッシュバックにも繋がってしまうという事になります。


<フラッシュバック>

「お前のあの味が忘れられん。」

今ではこの文字。。何度かいた事かしら。。

暴露療法って本当にあるんだわ。。なんて思っちゃいますね。

勿論この言葉、父親が娘に発するのですからキモチワルイの極みです。もし、この言葉を聞いたのが電話ではなく、本人が目の前に居たら、そして側に刃物でもあれば、私は父を刺していたかもしれない。怨憎会苦を乗り越えて介護を初めてすぐの事でしたから。

この電話のやりとり。。傍で旦那さんも聞いていたんですよ。滔々旦那さんの会社を閉じねばならない事態。。それを知った父が2000万円で一晩私を買おうとしたんです。それで、半年介護には行かなかった。

彼は彼で疲弊していました。

本来なら悠々自適に老後を迎えられるほど稼いできた人です。

でも、奥様の病院代。。毎月毎月誰の助けも借りず。20万円~30万円ほど。。年間にしたらいくら?ほぼ今では50年近く。。あの頃で40年近く?恐ろしい金額です。それでもゼロから一軒家を構え頑張ってきた人ですが、私も彼もヘトヘトになっちゃいました。あの夜。。闇の5年間の私の所業は置いといてどんな被害だったかを彼に話しました。彼の言う、クリエイティブな仕事を手放した理由も。。

そして

私は生まれて初めて精神科の門を開いたんです。

何十年も忘れていた体に残る「嫌な感触」

私の脳はまだ覚えてたのか。。と呪いたくなりました。

幸い、プラシーボ効果に似てるのかな?初めて見る安定剤の粒を見た瞬間、体の違和感は消えました。

ただ、私の世代の被害者は精神病棟に多くいると聞かされて、驚きました。よく生きてこれましたね。なんて言われちゃって。。。それで駅前クリニックはやめて、専門的な医師を探して麻布のさいとうクリニックや自助グループに繋がっていったのです。

まだこの時、父が受けた若い頃の性被害を知りませんから、

どうして父が狂ってしまったのか?考え抜いた結果、

母の悔しい亡くなり方だと思った。

役者をしていて、もし、父が当時のスターだったらあの手術をそんな人の奥さんに医者は勧めただろうか?

私は当時子供でそんなことは考えなかったけれど、父はきっと考えたと思う。要するに父の仕事の立ち位置から母の命の値踏みをされたも同然です。父は苦しかったと思いますよ。

あの時、看病を最後まで私と父は諦めませんでした。それだけは父から教わった大切な事でした。

それなのに、生きている父を正気を取り戻してほしい父を諦めてしまっていいのだろうか?

認知症は仕方ない。。でも家族問題は別です。岐阜の教授にももう一度会いに行き、東京での今度は私の心を立て直すホメオパシー、シータヒーリングの医師を紹介してもらい、一方で母が当時お世話になっていた内科医が100歳近いのに茨城でまだ医者を続けていることを知り、訪ねて当時の話と私と父の現状から執刀医に手紙を書くかどうかを相談し、鹿児島で名誉教授になり退官後クリニックの院長をしている母の執刀医に手紙を書き、返事を貰い、、あの時止めていた11歳の私の心の時計をもう一度動かし、

父のケアマネからも何度も電話を貰って。。そして旦那さんにも許可をっ貰って父の介護を再開させました。



人生半世紀。国立病院の医師の言葉を借りれば、

「50年医者にもかからず勝手に生きた私の心のケア」

がやっと始まったという事でしょうか。。

今から12年前の話です。





今、何度も書いた冒頭の父が発した言葉。。

父は母に対しても憎しみを抱いていましたが、

あの言葉はきっと、、母に対するものだったのだと今は理解しています。

私はこの後、57歳の時に女性看護師から仕事で勤務中のデイサービスの風呂介助の時、えぐい形の痴漢被害に遭っています。

人生4つ目の性被害です。

でも痴漢被害ですから他の被害に対して軽いものではあるものの全部の被害にフラッシュバックして結構苦しみました。ただ、質の違いと言うか、同性からの被害ですから自分の性指向を壊されかねない恐怖というか?そんなものを考えさせられました。

父は同性からの被害ですからね。。

しかも完全なる重度の被害。。あの戦後のドサクサの中でどれだけ苦しんだのか?

私の想像?妄想?だけれど、

父は母によって男を取り戻したのではないか?そんな風に考えるようになりました。私を所有物化した父はいつも私ではなく私の向こうの母(父にとっての妻)を探していたんでしょう。

だから今は私は父を憎めなくなってしまいました。

岐阜の教授が言った「流す」とはこういう事だったのでしょう。

それに許す許さないは私が決める立場にない。

許されたか許されないかは父の問題。。

これは私の大罪から学んだことです。

私が許されたかどうか?は許されないんだと思う。私はそう思ってそれを心に刻んで生きていますから。。許しを相手に乞う事は傲慢だと今は思っています。そこに隠れた欲。。結局楽になりたいだけだ。。と言う境地に落ちつきました。。


<他人からの被害と身内(特に親)からの被害の違い>

私ごとの途中ですが。。。



この12年の間に法律も変わりました。

そのことに触れる前に

私たち被害者が自助に参加する際、他者との被害の程度を比べて意見を言ったりすることは他者を傷つける事に含まれるためあくまでも自分の事を話すに徹しなければなりません。しかし、私は他人からと親からの両方の経験の違いといった区別はあるわけで、この場は自助会ではないという事で書いておきたいことがあります。

家族が機能している場合の他人からの性被害の場合、家庭は安全な場所であり家にたどり着けばそこは檻ではない筈です。

しかし、特に親からの被害の場合、住んでいる家自体が被害現場なわけですから、安全な場所というものが皆無。なわけです。それだけで過酷な日々は続いていきます。

勿論命を脅かされる恐怖は他人からの被害の方が増しますからたった一回の被害であれば、他人からの被害の方が心のダメージは大きいかもしれません。



では、親からの被害。この中でも違いがあります。

もう一方の親はどうだったのか?という点です。。

まぁ私の場合のように父親からの被害を想定して書けば、もう一方の親は母親ですが、、うちはすでに他界です。。その場合はいませんから仕方ないです。しかし、居ても残酷な例がある意味圧倒的に多い。夫の経済力をあてにしている母親が娘を差し出す例は多いのです。経済力のある母親はどうか?これも気づいていても仕事に忙しくかまっていられない。という例も多い。病弱な母親も観て見ぬふりをする例があります。

母親がそもそも虐待をしている例もある。父親が幼児趣味で夫婦の性生活の為に子供を参加させる破廉恥な例もあります。

私の経験も大概ですけれど。。世も末ですよ。。本当に!

稀に母親が事態を知ってから離婚などして子供を守る例もあります。

そうなってくると、その後の被害者子供の心の回復過程がガラリと変わります。その中でも大きく違うのは、父親を憎んだままでももう一方の親との関係性が憎しみの穴を埋めてくれる。。

心の中の軸の部分がかろうじて保たれる訳です。

すなわち、加害者親との対峙をその後の人生でスルーすることが出来てしまいます。

今はその方は公人でもありますからお一人。知っています。

その方のワークにも参加しました。とにかくお母様への感謝の話ばかりが目立って、終わってから聞いたんですよ。加害者父親とはどのように対峙されたのですか?と。。。それはこれから考えるような事をおっしゃって。。がっかりしたことを覚えています。著書も読みましたが、やはり母親とのことばかりでした。。

その方が尽力して法律を変え、子供でも親を訴えることが出来るようになりました。

これは大きなことです。良い意味でも悪い意味でも。。

もう、随分前になるのでしょうか?19歳の娘が父親を性被害で訴えて、父親が一審で無罪になったことを受け、全国でフラワーデモが開催され、世論が後押しをする形で2審は逆転勝訴した。という事がニュースで流れ、NHKでも特番を組まれ、まぁ、ネットでは結構騒がれました。

私はフラワーデモには参加しませんでした。世の中にこんな被害があるよ。と周知させることは良いのですが、何だかこの19歳の娘さんの事を思うと、本当にその決断で良かったのか?大騒ぎをするのは他人のふんどしを借りているような感覚を覚えたからです。

この子にはその後の人生があるのですよ。親を犯罪者にという事は勝訴しても今度は犯罪者の娘。。しかも、近〇姦加害者の娘というレッテルが今後ついて回る事になる。

例えばいたいけな幼女(ユアちゃんでしたっけ)が虐待によって殺害された。。そのニュースを受けて殺害現場のアパートの前には花など色々お供えされて、かわいそう。。だとか騒ぎになる。。

では?そのような事をかいくぐって生きて心の傷を引きずって不幸が不幸を呼びながらも生き抜いた大人になり切れなかったかつてのユアちゃんみたいな人にはいつまで過去を引きずってんだよ!と罵声を浴びせる。。それが世の中というもんです。

私が2チャンネルで「くそばばぁ」呼ばわりされたのとおんなじ。

近〇姦被害者の娘たちって結構かわいい子が多いんですよ。

こんなクソババァな私でも若い頃はそれなりだったんです。

それに今は昔と違って情報がある。早期に虐待だと気づき、心の回復も早い段階から始められる。まさかの玉の輿だって無い訳じゃない。お相手に告白してそれでも添い遂げられるなら幸せを掴むことも出来なくは無いです。しかし、家柄の良い相手なら身上調査。。で引っかかってしまうじゃないですか。就職だって差別ではなく犯罪者との癒着を避ける警察官とか大手企業は身上調査しますよ。何の得があるのでしょうか?

もし、安全な場所に避難させるための訴訟だというなら他に方法は無かったのか?疑問を持ってしまう。証拠だけ固めて訴訟は時効の撤廃は無いにしてもそれでも20年の時効はあるのだから成人して落ち着いてからの判断で遅くはなかったのではないか?

ニュースを見ていて何だか19歳の娘さんは生贄にされているように感じました。

法律が変わった一番の恩恵は結局は他人からの性被害者なのだと思った。どうしてあの近〇姦被害者だった人(今では公人)がその代表のような立ち位置になったか?に関しては彼女が自助会として選んで共に活動したのは他人からの性被害者中心のグループであったという事。。その代表の活動内容が影響したのだと私は思っています。憎んで、罪に問うて重い刑に処してポイ!できるのは他人からの被害。ポイ!出来ないのが親からの被害で特例としてもう一人の親がかばってくれた場合、ポイ!しやすいという事で共に活動が出来たのでしょう。ポイ!できれば父親との対峙は必要なくなってしまいますものね。



親からの被害で圧倒的に多いもう一人の親からの恩恵が期待できない子どもは、加害者親と対峙してこそ一定の心が回復すると私は思っています。。



では、加害者について。。。

加害者にも子供時代があり、量刑の重さが後悔させ許しを請う事には繋がらないという事です。



幼児趣味という病なら治すのは刑罰ではない。病院です。

病気までではなく、かつての心の傷がそうさせてしまうのなら、心の歪みを取ってからでないと良心の呵責には繋がりません。

直すのは心理療法です。

心の歪みや、病が改善するから自分のしでかしたことへの後悔や謝罪する気持ちへとつながるのだと思います。

これはもしかしたら、ほとんどの犯罪にも言える事かもしれません。



さて、

東京ウイメンズクラブと言うのが渋谷にあります。

私たちの被害もここが相談窓口の一つでもあります。

私は今は比較的元気に生きていますが、問題がただ一つ。。

睡眠時遊行摂食障害です。常に出るわけでは無いけれど、ダイエットが出来ない。。ダイエットした時に出ます。

この事は私の被害が関係していることは分かっていますので問い合わせてみました。どこの診療科が適しているのか?

最初に言われたのはここは急性期の被害だけで被害者を訴訟に繋げる場所です。。って。。

訴訟で心は回復しませんよ。と言ったら、そういう場所ですからと言われました。

恐ろしい話だな。と思った。そう、思えばあの公人になられた方のワークはこの東京ウィメンスクラブでよく開催されていた。そして私もここであの方のワークを聞いてガッカリして帰った事を思い出しました。そして他人からの被害者グループではよくスピリチュアルを活用されてる方の知り合いが多かったことも覚えています。要するに餌をぶら下げた法則にのっとって人集めをしているヒーラーの多かった事。。。

麻布のクリニックではスピリチュアル禁止になっていました。一時の癒しで解決できないのが近〇姦被害。。

苦しんで掴まないと心は回復しませんという事のようです。



コロナによってZOOMが当たり前になって、自助会も全国のものに参加できるようになりました。

この訴訟以来、私たちの世界は全体的に怒りの時代を迎えています。それで解決ではないのに、怒りを抱える事が受容の段階だ!などと言うファシリテーターが居るのを知って。。ミスリードもいいところ。。

残念な気持ちになるのです。



親からの被害はいつまでも追いかけてきます。

他人からの被害だったら訴訟しやすくなったことは有意義ですが、やはり近〇姦と言う被害はいつまでも社会の闇に沈んでいるように思う。。

加害者親との対峙。。これをしなくて心の回復は無い。

私はそう確信しております。



そして、怒りの時代が長くなればなるほど、失うものがどんどん増えてきます。怒りの時代を排除はできません。必要ではありますが、なるべく短くしないともったいない。せっかく時代が違うのに、私のような後悔を被害者にはしてほしくはありませんからね。


 

<ミュージカル>

恩師小井戸秀宅先生のお名前は私が書くものに出しても良いとして許可をもらっています。別名で書いてネットにあげている自叙伝にもお名前をだしていますが、このような告白に他の方のお名前など出してよいものかわかりませんので書きませんが、

有名演出家の3大ミュージカルになっていく一回目のオペラミュージカル(商業演劇)にある役で出演することになりました。その役は主要な役ではないものの演出家がこだわってらっしゃって、中々決まらなかったらしく、私に決まった時にはすでにお稽古も始り、テレビでも作品を宣伝している状態の時でした。

演出助手の方にギャラが安くてごめんね、、、などといわれましたが、委託した事務所に何割か引かれた後でも私にとって一桁上のギャラであり、アルバイトで食いつないでいた私にとって一息つける金額でした。



父からの電話攻撃は悪化していました。

ここには書けないほどの手口。。お稽古に入り始めた私は影響が出るから勘弁してほしいと父に頼んだ。。すると。。

「お前なんかにそんなギャラでそんな役が来る訳が無い。きっと罠がある筈だ。お前は芸能界の怖さを知らなすぎる。断ってしまえ。」でした。

しばらくすると。。Kさんが色々調べたらしく

「頑張ってね。」と言われた。

父とKさんが観に来ました。

楽屋にも来て、

「環さん。あなた苦労したでしょ。よくここまで這いあがってきたわね。死んだママが喜んでるわよ。これからは事務所を探しなさい。委託ではだめよ。」とKさん。

父も

「ちゃんと演技してるじゃないか。大したもんだ。」と珍しく私を褒めた。

しかし、翌日の電話では

「俺がパワーを送っていたからあの役が来たんだ。俺の愛人になれ。そしたら事務所探しも手伝ってやる。」だった。。



父が観に来たことで舞台監督さんからあの俳優さんと知り合いなの?と聞かれ、「父です。」と言うと、「なんだお父さんだったの?何でもっと早く言わないの。。お父さんには明治座の時よくしてもらったんだよ。」

又、出演していた俳優さんは父と2時間ドラマなんかでも共演していて、

「お父さんの領域に近づいてるんだね。」等言われる。。。

私は父に邪魔をされたことはあっても父の恩恵は一度も受けたことは無い。これからも受けるつもりもない。。

家に帰ると留守番電話の父の声。。父の厭らしい話。。

私は半ノイローゼだった。

千秋楽を迎え、しばらくすると共演と言っても舞台上で接点は無く、

二幕から登場する大物舞台俳優さん。神棚の側で私は影コーラスで待機していました。その神棚に手を合わせてらっしゃるときにいつの間にかじゃれて遊ぶようになっていった。。と言うだけの接点でしたが、その方のマネージャーさんから電話がありました。「実は又あなたと共演したがっていて、役が決まるまではあなたに期待だけさせてはいけないから決まったらあなたに知らせるように言われていました。」

聞けば、何度も再演されている東〇ミュージカルで私の為に役をとったから大阪公演から合流してほしい。。また会えるのを楽しみにしています。。とのことでした。



私は咄嗟に断りました。ほかに仕事が入っているからと。。。

父とは無縁のところで生きなおしたい。。しかし、、母の遺言が。。と気持ちは揺れていましたが、おそらく、心が疲弊していたと思います。。

代ってコルドンブルーでダンサーとしてでなくシンガーとして仕事が舞い込んできました。1か月はメインのゲストさんが居てサブシンガーですが、もう一か月はゲストなし、オールゲストと銘打ちながら私がメインシンガーの仕事。。

ある日私が歌っていると、今はなくなってしまった会社ですが、商業演劇の企画会社としては結構大手の会社でタレントさんも抱える事務所の社長が恩師と知り合いで、私が歌っている時にコルドンにわざわざ観に来てくださって、恩師と二人舞台上の私に手を振ってらした。。


<何もかも捨てた>

ショーが終わって、楽屋に恩師が入ってきて。

「マイコ今度ミュージカルに出るんだよ。俺が引き受けといたから。すぐに客席にきなさい。」と。。明るい声。。

もうミュージカルには出たくないときめていたけれど。。

この恩師には押し切る圧みたいなものがあって。。客席に行くとシアターコクーンで行われるミュージカルのオファーでした。小劇団の座長とフランスの演出家がコラボ演出をし、音楽監督はとても有名な方でした。。結局受けてしまい、私は厳しいお芝居の洗礼を受けることになってしまいます。



即興の音楽劇。劇中1曲はソロで歌う事になりましたが、お芝居は即興。。周りは芝居の訓練なんかとうの昔。熟練しているというのに、私に芝居の引き出しは皆無。。。しかも、全員が袖に引っ込むことなくずっと舞台上にいるのです。勿論役になりきったまま。。

心の中で「どうしよう?」と言う文字がリフレインする。。要はその瞬間素に戻っている証し。。。頭の中に「ダメ」と言う文字が毎日毎日私を襲います。

気づくとなんの進歩も無いまま千秋楽を迎えてました。

私の心の中にこのまま終わったら悔しいという感情が芽生えました。それから、芝居を観に行ったりするときの私の目線は変わっていきました。アルバイトはいつ仕事が入っても良いような状態でスタンバイしました。1年後オファーが又やってきました。

私の出た2つのミュージカルで音楽監督助手をしていた方が今度は音楽監督を務めることになり私を推薦してくれたというロックミュージカル。企画会社はコルドンブルーのプロデューサーが社長をしている会社でした。今度は鉄壁の意思で断りました。

1年間準備をする私の耳に情報番組の言葉が飛び込んできたからです。

それは今では誰もが知る「DV」



私が父から逃げられなかった理由がやっとわかったのです。

その他に数年前から情報として流れ出した言葉にもこのことがキッカケでつながりました。

「洗脳」「フラッシュバック」「PTSD」「虐待」



母が私にしたことは「洗脳」ではないか?

あんな小さな子が一生の仕事を決めるなんて。。

私がバレーボール選手やスチュワーデスなんかになりたがった時母は「歌手」でしょ!と何度も私を誘導していた記憶・・

小学校4年の頃「歌をやめたい」と言った後、母は出刃包丁を私の腹にあて脅したこと。。母に嫌われたら残りは恐ろしい父。。

私に反論の余地が無かった事。。

そして自堕落な母。。それなのにあんな遺言を置いていったことで益々洗脳は解かれなかったままじゃないか!と。。

「虐待」は「スパルタ」だと刷り込まれていた。。

そして何より「DV」ドメスティックバイオレンス。。

逃げられるわけがなかったのだ。そのうえ、いまだに愛人になれ?怒りが怒りを呼び叫んでも叫び足りないような気がした。



父の範疇にいてはならない・・やっと向けようのない、私の心の中で充満していた怒りの出口を見つけた瞬間でした。



それでも積み重ねた歴史に未練はありました。

それを断ち切るように重ねた歴史の記録でもある舞台上の私の写真。CD,音楽資料、衣装、譜面、パンフレット、それら何もかも捨てた。それに交じって映る父と母と私の写真。

それを見ていて嘘くさく思えた。幸せの欠片もない家族。

卒業アルバムはあの担任の送る言葉がこびりついているような気がした。。

私はネガごと写真もアルバムも全部を捨てた。

私はあの二人から生まれたのではない。。

どこからか湧き出たのだ。



その後、芝居もミュージカルも映画何もかも見ない。文化的な生活を避けました。





今、私の手元に数枚の写真がある。。

恩師が書いた人生はショータイムと言う本の隙間に挟んで忘れていたコルドンブルーの私の写真3枚。パスポートの写真。そしてKさんが自身のアルバムの中に保管しておいてくれた幼い私と母が一緒に映る写真が一枚。夏休みに否でも連れていかれた父がヘッドコーチをするテニスのキャンプで万年初心者の私がテニスをしている写真。Kさんと父と3人で行った伊豆旅行の写真。。それらが数枚。。

私が持っていた父の写真は一枚も無い。。

しかし、父は役者。。

スチール写真などは父の実家から持ってきたので今は一番数が多い。。



父は父で私の写真は一枚も所持していなかった。

そして介護に行った時最初に言われたのは

「環は北朝鮮で死んでいたんじゃなかったのか?」だった。


<男性被害者の末路の1つの例>

怒りの時代に突入した私の苦しみはまだ続きます。

しかし、ここまで私の被害と言う側面で書いてきましたが、それは裏返せば父の所業でもあります。被害者がいかに加害者になりやすいかという事が書きたいのです。

性被害が性加害に反転ばかりではありません。性被害が虐待。。

性被害が犯罪。

酒に溺れる。酒が絡む犯罪。奇行。DV。ギャンブル。いじめ。

他、色々。。

そして自虐。。これは周りを巻き込みます。

私の大罪もそうですし、私が諦めた恋の相手にも私は相当な暴言で彼を苦しめています。

そして怒りの時代の私は今の旦那さんにも暴言を吐きまくっています。

奇行についても色々あるのですが、

「裸ででんぐり返し」を知った時、私はこの人も何かかかえているのだろうか?と思いました。

私も似たような行為をしましたから。。

実家を出て酷い生活をしている最中、何故か新宿2丁目の小さなゲイバーに行って、酒が入ると裸になりたくなり、裸になってポッキーかじりながら水割り片手にカラオケを歌いたくなる。

お店のママは

「あんた~女の裸を見たい客なんて一人も来ないんだから営業妨害よ。」って怒るのですが、それでも

「あたしは産めないから卵温めたんだけれど食べる?」って温泉卵を出してくれる。そのやさしさに甘えて又行ってしまう。

「今日は脱がないでよ。」と言われるのに又脱いでしまうのです。。

あの時、今夜のロケット花火(カオスに記載)の予定の無い時、私は11階のマンションに帰るのが怖かった。実家を出てもう被害は無くなったのに。。心に抱えるこびりつきを落としたくてたまらないからぬぎすてていたんだな~と今しみじみ思うのです。



後輩をいじめてしまうのも、弱い子供に虐待をしてしまうのも怒りの出口がそこに向かってしまうのですよ。もっともらしい言い訳をしながら時に屁理屈をこねてまで。。

そして正論が通る時は正義感さえも暴言の道具にしてしまいます。

酒を飲んでディスコのフロアーで寝てしまって黒服につまみ出されたこともある。。

雪の降る夜、酔いつぶれてシャッターの閉まった店の前で寝てしまい警察に連れていかれたことも。。

そこまで飲まないといられないのです。

そして飲めば必ず泣く。。。

怒る。。。様々です。楽しくお酒を堪能なんて出来なかった。。



怒りを封じ込めば精神のバランスは歪になります。

家族が居れば家族に向かう。。



そしてなんだかんだ言い訳しても

性に対してもだらしなくなります。

私のロケット花火がいい例です。

コレ男女が逆だったら?

当然行動ももっと強引になるでしょうね。。



そして父にも節操も無い時代があります。

まるで女。。恋愛?に復讐しているかのような。。



性被害は心のスキーマ(思考回路)を壊します。

どんなに蓋をしても心は忘れてくれません。

一度はちゃんと向き合わないと。。

それでも蓋をし続ければ私の父のようにもう一度同じ体験をすることになる。父はコロナが向こうへつれていってくれたから見当識障害も長くは無かったことになる。。

フラッシュバックとは違うのです。もう一度同じ体験をするのです。心がお覚えていて置き去りにされたままだから。。



私は自分の人生。。今は実り多き人生だと思っています。

こんなに生きる。。生き抜くことを考えさせてくれる人生だから。。父の事も母のことも全部なのかどうかはまだ分かりませんが、少なくともこの正反対な二人の子供で良かったと思っています。両方のいいとこどりをすればいいのだから。。そのために何度もアウトプットして考えて鼻水垂らしながら考え抜きましたから。でも、もし、何か見落としていて、将来認知症にでもなって父が怯えていたようにもう一度父に傷つけられる体験をたとえ見当識障害であっても御免こうむりたい。。

男性被害者の方・・忖度もあるのでしょうが。。

世界の巨匠が残した言葉。。

「赤信号みんなで渡れば怖くない。」

どうして渡らないんだろう?

最高なアウトプットのチャンスなのに。。。



無名な方々があれだけいて苦しんでるのに

有名になった方々に一人も居ないなんて。。。

運が良かったのでしょうか?

世間の好奇心は時間が消してくれるけれど。

蓋をした心はどうなるのでしょう。。

父の頃と時代は大幅に違うのに。。