<ミュージカル>
恩師小井戸秀宅先生のお名前は私が書くものに出しても良いとして許可をもらっています。別名で書いてネットにあげている自叙伝にもお名前をだしていますが、このような告白に他の方のお名前など出してよいものかわかりませんので書きませんが、
有名演出家の3大ミュージカルになっていく一回目のオペラミュージカル(商業演劇)にある役で出演することになりました。その役は主要な役ではないものの演出家がこだわってらっしゃって、中々決まらなかったらしく、私に決まった時にはすでにお稽古も始り、テレビでも作品を宣伝している状態の時でした。
演出助手の方にギャラが安くてごめんね、、、などといわれましたが、委託した事務所に何割か引かれた後でも私にとって一桁上のギャラであり、アルバイトで食いつないでいた私にとって一息つける金額でした。
父からの電話攻撃は悪化していました。
ここには書けないほどの手口。。お稽古に入り始めた私は影響が出るから勘弁してほしいと父に頼んだ。。すると。。
「お前なんかにそんなギャラでそんな役が来る訳が無い。きっと罠がある筈だ。お前は芸能界の怖さを知らなすぎる。断ってしまえ。」でした。
しばらくすると。。Kさんが色々調べたらしく
「頑張ってね。」と言われた。
父とKさんが観に来ました。
楽屋にも来て、
「環さん。あなた苦労したでしょ。よくここまで這いあがってきたわね。死んだママが喜んでるわよ。これからは事務所を探しなさい。委託ではだめよ。」とKさん。
父も
「ちゃんと演技してるじゃないか。大したもんだ。」と珍しく私を褒めた。
しかし、翌日の電話では
「俺がパワーを送っていたからあの役が来たんだ。俺の愛人になれ。そしたら事務所探しも手伝ってやる。」だった。。
父が観に来たことで舞台監督さんからあの俳優さんと知り合いなの?と聞かれ、「父です。」と言うと、「なんだお父さんだったの?何でもっと早く言わないの。。お父さんには明治座の時よくしてもらったんだよ。」
又、出演していた俳優さんは父と2時間ドラマなんかでも共演していて、
「お父さんの領域に近づいてるんだね。」等言われる。。。
私は父に邪魔をされたことはあっても父の恩恵は一度も受けたことは無い。これからも受けるつもりもない。。
家に帰ると留守番電話の父の声。。父の厭らしい話。。
私は半ノイローゼだった。
千秋楽を迎え、しばらくすると共演と言っても舞台上で接点は無く、
二幕から登場する大物舞台俳優さん。神棚の側で私は影コーラスで待機していました。その神棚に手を合わせてらっしゃるときにいつの間にかじゃれて遊ぶようになっていった。。と言うだけの接点でしたが、その方のマネージャーさんから電話がありました。「実は又あなたと共演したがっていて、役が決まるまではあなたに期待だけさせてはいけないから決まったらあなたに知らせるように言われていました。」
聞けば、何度も再演されている東〇ミュージカルで私の為に役をとったから大阪公演から合流してほしい。。また会えるのを楽しみにしています。。とのことでした。
私は咄嗟に断りました。ほかに仕事が入っているからと。。。
父とは無縁のところで生きなおしたい。。しかし、、母の遺言が。。と気持ちは揺れていましたが、おそらく、心が疲弊していたと思います。。
代ってコルドンブルーでダンサーとしてでなくシンガーとして仕事が舞い込んできました。1か月はメインのゲストさんが居てサブシンガーですが、もう一か月はゲストなし、オールゲストと銘打ちながら私がメインシンガーの仕事。。
ある日私が歌っていると、今はなくなってしまった会社ですが、商業演劇の企画会社としては結構大手の会社でタレントさんも抱える事務所の社長が恩師と知り合いで、私が歌っている時にコルドンにわざわざ観に来てくださって、恩師と二人舞台上の私に手を振ってらした。。
<何もかも捨てた>
ショーが終わって、楽屋に恩師が入ってきて。
「マイコ今度ミュージカルに出るんだよ。俺が引き受けといたから。すぐに客席にきなさい。」と。。明るい声。。
もうミュージカルには出たくないときめていたけれど。。
この恩師には押し切る圧みたいなものがあって。。客席に行くとシアターコクーンで行われるミュージカルのオファーでした。小劇団の座長とフランスの演出家がコラボ演出をし、音楽監督はとても有名な方でした。。結局受けてしまい、私は厳しいお芝居の洗礼を受けることになってしまいます。
即興の音楽劇。劇中1曲はソロで歌う事になりましたが、お芝居は即興。。周りは芝居の訓練なんかとうの昔。熟練しているというのに、私に芝居の引き出しは皆無。。。しかも、全員が袖に引っ込むことなくずっと舞台上にいるのです。勿論役になりきったまま。。
心の中で「どうしよう?」と言う文字がリフレインする。。要はその瞬間素に戻っている証し。。。頭の中に「ダメ」と言う文字が毎日毎日私を襲います。
気づくとなんの進歩も無いまま千秋楽を迎えてました。
私の心の中にこのまま終わったら悔しいという感情が芽生えました。それから、芝居を観に行ったりするときの私の目線は変わっていきました。アルバイトはいつ仕事が入っても良いような状態でスタンバイしました。1年後オファーが又やってきました。
私の出た2つのミュージカルで音楽監督助手をしていた方が今度は音楽監督を務めることになり私を推薦してくれたというロックミュージカル。企画会社はコルドンブルーのプロデューサーが社長をしている会社でした。今度は鉄壁の意思で断りました。
1年間準備をする私の耳に情報番組の言葉が飛び込んできたからです。
それは今では誰もが知る「DV」
私が父から逃げられなかった理由がやっとわかったのです。
その他に数年前から情報として流れ出した言葉にもこのことがキッカケでつながりました。
「洗脳」「フラッシュバック」「PTSD」「虐待」
母が私にしたことは「洗脳」ではないか?
あんな小さな子が一生の仕事を決めるなんて。。
私がバレーボール選手やスチュワーデスなんかになりたがった時母は「歌手」でしょ!と何度も私を誘導していた記憶・・
小学校4年の頃「歌をやめたい」と言った後、母は出刃包丁を私の腹にあて脅したこと。。母に嫌われたら残りは恐ろしい父。。
私に反論の余地が無かった事。。
そして自堕落な母。。それなのにあんな遺言を置いていったことで益々洗脳は解かれなかったままじゃないか!と。。
「虐待」は「スパルタ」だと刷り込まれていた。。
そして何より「DV」ドメスティックバイオレンス。。
逃げられるわけがなかったのだ。そのうえ、いまだに愛人になれ?怒りが怒りを呼び叫んでも叫び足りないような気がした。
父の範疇にいてはならない・・やっと向けようのない、私の心の中で充満していた怒りの出口を見つけた瞬間でした。
それでも積み重ねた歴史に未練はありました。
それを断ち切るように重ねた歴史の記録でもある舞台上の私の写真。CD,音楽資料、衣装、譜面、パンフレット、それら何もかも捨てた。それに交じって映る父と母と私の写真。
それを見ていて嘘くさく思えた。幸せの欠片もない家族。
卒業アルバムはあの担任の送る言葉がこびりついているような気がした。。
私はネガごと写真もアルバムも全部を捨てた。
私はあの二人から生まれたのではない。。
どこからか湧き出たのだ。
その後、芝居もミュージカルも映画何もかも見ない。文化的な生活を避けました。
今、私の手元に数枚の写真がある。。
恩師が書いた人生はショータイムと言う本の隙間に挟んで忘れていたコルドンブルーの私の写真3枚。パスポートの写真。そしてKさんが自身のアルバムの中に保管しておいてくれた幼い私と母が一緒に映る写真が一枚。夏休みに否でも連れていかれた父がヘッドコーチをするテニスのキャンプで万年初心者の私がテニスをしている写真。Kさんと父と3人で行った伊豆旅行の写真。。それらが数枚。。
私が持っていた父の写真は一枚も無い。。
しかし、父は役者。。
スチール写真などは父の実家から持ってきたので今は一番数が多い。。
父は父で私の写真は一枚も所持していなかった。
そして介護に行った時最初に言われたのは
「環は北朝鮮で死んでいたんじゃなかったのか?」だった。
<男性被害者の末路の1つの例>
怒りの時代に突入した私の苦しみはまだ続きます。
しかし、ここまで私の被害と言う側面で書いてきましたが、それは裏返せば父の所業でもあります。被害者がいかに加害者になりやすいかという事が書きたいのです。
性被害が性加害に反転ばかりではありません。性被害が虐待。。
性被害が犯罪。
酒に溺れる。酒が絡む犯罪。奇行。DV。ギャンブル。いじめ。
他、色々。。
そして自虐。。これは周りを巻き込みます。
私の大罪もそうですし、私が諦めた恋の相手にも私は相当な暴言で彼を苦しめています。
そして怒りの時代の私は今の旦那さんにも暴言を吐きまくっています。
奇行についても色々あるのですが、
「裸ででんぐり返し」を知った時、私はこの人も何かかかえているのだろうか?と思いました。
私も似たような行為をしましたから。。
実家を出て酷い生活をしている最中、何故か新宿2丁目の小さなゲイバーに行って、酒が入ると裸になりたくなり、裸になってポッキーかじりながら水割り片手にカラオケを歌いたくなる。
お店のママは
「あんた~女の裸を見たい客なんて一人も来ないんだから営業妨害よ。」って怒るのですが、それでも
「あたしは産めないから卵温めたんだけれど食べる?」って温泉卵を出してくれる。そのやさしさに甘えて又行ってしまう。
「今日は脱がないでよ。」と言われるのに又脱いでしまうのです。。
あの時、今夜のロケット花火(カオスに記載)の予定の無い時、私は11階のマンションに帰るのが怖かった。実家を出てもう被害は無くなったのに。。心に抱えるこびりつきを落としたくてたまらないからぬぎすてていたんだな~と今しみじみ思うのです。
後輩をいじめてしまうのも、弱い子供に虐待をしてしまうのも怒りの出口がそこに向かってしまうのですよ。もっともらしい言い訳をしながら時に屁理屈をこねてまで。。
そして正論が通る時は正義感さえも暴言の道具にしてしまいます。
酒を飲んでディスコのフロアーで寝てしまって黒服につまみ出されたこともある。。
雪の降る夜、酔いつぶれてシャッターの閉まった店の前で寝てしまい警察に連れていかれたことも。。
そこまで飲まないといられないのです。
そして飲めば必ず泣く。。。
怒る。。。様々です。楽しくお酒を堪能なんて出来なかった。。
怒りを封じ込めば精神のバランスは歪になります。
家族が居れば家族に向かう。。
そしてなんだかんだ言い訳しても
性に対してもだらしなくなります。
私のロケット花火がいい例です。
コレ男女が逆だったら?
当然行動ももっと強引になるでしょうね。。
そして父にも節操も無い時代があります。
まるで女。。恋愛?に復讐しているかのような。。
性被害は心のスキーマ(思考回路)を壊します。
どんなに蓋をしても心は忘れてくれません。
一度はちゃんと向き合わないと。。
それでも蓋をし続ければ私の父のようにもう一度同じ体験をすることになる。父はコロナが向こうへつれていってくれたから見当識障害も長くは無かったことになる。。
フラッシュバックとは違うのです。もう一度同じ体験をするのです。心がお覚えていて置き去りにされたままだから。。
私は自分の人生。。今は実り多き人生だと思っています。
こんなに生きる。。生き抜くことを考えさせてくれる人生だから。。父の事も母のことも全部なのかどうかはまだ分かりませんが、少なくともこの正反対な二人の子供で良かったと思っています。両方のいいとこどりをすればいいのだから。。そのために何度もアウトプットして考えて鼻水垂らしながら考え抜きましたから。でも、もし、何か見落としていて、将来認知症にでもなって父が怯えていたようにもう一度父に傷つけられる体験をたとえ見当識障害であっても御免こうむりたい。。
男性被害者の方・・忖度もあるのでしょうが。。
世界の巨匠が残した言葉。。
「赤信号みんなで渡れば怖くない。」
どうして渡らないんだろう?
最高なアウトプットのチャンスなのに。。。
無名な方々があれだけいて苦しんでるのに
有名になった方々に一人も居ないなんて。。。
運が良かったのでしょうか?
世間の好奇心は時間が消してくれるけれど。
蓋をした心はどうなるのでしょう。。
父の頃と時代は大幅に違うのに。。