経過
12月に入りました。
センターまで50日、二次試験まで三ヶ月を切り、
いよいよ最終段階、といったところです。
正直なところ、目指すレベルには到達していません。
クリアすべき課題はまだまだ山積みです。
不安も払拭しきれない、のですが……。
言い訳が出来る時期は既に過ぎ去りました。
悩んでいる時間も無いようです。
受験校についても、色々考えましたが、
国立一本に絞る……ことになりそうです。
後期試験も、前期と同じところを受けます。
滑り止めで私立を受けよう、という気もあったのですが、
「君が"滑り止め"で合格すれば、その大学を本気で目指していた人が一人落ちることになる」
と、全く別々の方面から二人の先生に諭され、
このまま生半可な気持ちで私立を受けても、失礼になってしまうのではないか……と思ったため、
恐らくは、受けないと思います。
それに……退路を断っておけば、万が一失敗しても、もう一度挑戦せざるを得ない状況に自分を置ける、というのも。
信頼する先生が仰っていたのですが、
「この大学を受けると決めたら、許される道は二つ。現役で受かるか、浪人で受かるか、そのどちらかしかない」
合格するまで挑戦する覚悟はできました。
いまはまず、センター試験。
それが終われば前期試験に向かって、ただ進むだけです。
何より、
大勢の方にお世話になっているのに。
恩をあだで返すようなことは、あってはなりません。
ともあれあと僅かな時間、全力を尽くします。
二学期
夏休みが終わりました。
一瞬でした。
……いや、ほんと。何でこんなに一瞬で過ぎ去ってしまったんだろう? と。
自分では結構やったつもりだったのですが、全く実力がついたという実感がありません。
この夏休みにやったことは無駄ではなかったと信じたいのですが……。
ただ、論述の書きすぎで腱鞘炎になりかけことを除けば、体調を崩すことがなかったのは良かったです。
二学期は更に睡眠時間が減るので、これからどうなるかはわかりませんが。
ともあれ、二学期です。
数学と日本史・世界史を何とかするのが最大の目標です。
……どちらも、かなり面白いのでやってて苦にはならないんですけどね。
時間が無さすぎるのが厳しいです……。誰もがそう感じているのだろうとは思いますが。
結局、前だけを見るしかないんですね……。
模試終了
8月中の二次試験模試、二つとも終了しました。
……想定内ですが、やはり現実を見ました。
河合塾のほうは何とかこなせたのですが、問題は駿台。
数学0完(下手したら0点)に、歴史が早とちりで玉砕し、
英語などは、seventhをseventeenと読み間違えてしまうどうしようもなさ。何か受験以前に終わってる気がします。
……正直もうどうしようもない気が早くもしているのですが、
まだ諦めたくないので、もう少しだけやってみます。
体力面もモチベーションも問題はないのですが、一番キツいのはやはり精神面ですね。
……自分はそれほど精神的に弱くは無いと思っていましたが、あまりに先が見えない、可能性が低すぎるこの状況は、どうしようもなく不安です……。
もちろん、解決する手段はただ一つ、不断の努力のみとはわかっているのですが。何をやっても目標に全然追いつかないのは……。
本当に、わずか数パーセントにかける勝負になりそうです……。
E→A!?
E判定から半年で合格まで持っていけるものなのでしょうか……。
シビアです。
ただ努力以外ありえないのは、承知しているのですが。
夏休みももう一週間過ぎてしまいました。
あと一ヶ月あまりでどこまで伸ばせるか。
当面は夏の模試に向けて頑張ります。
200日
センターまで200日切りました。
そろそろ現実を見据えないといけないですね。
一通りの模試、テストゼミが終了して、ある程度現時点での実力が見えてきましたが……。
予想通り、というか。全く目標には届きません。
具体的に。
センターレベルで、おおよその平均得点が、
英語:9割
国語:7割5分
数学二科:5割
世界史:6割
物理:6割
倫理:6割
……目標がトータルで9割、ということを考えると、割と危機感を覚えます。
何より数学がまずいです。
二次試験レベル、という話になれば、
現時点で取れるのは3割程度。
目標は6割5分。
……もっとも、簡単に入れるような大学だとは、少しも思ってはいませんでしたが。
ここで諦めるわけにはいきません。夏で追いつかないと。
当面は、明後日からの期末試験に集中です。
回復
モチベーションは、完全に回復しました。
二週間ほど前に五月祭で東大奇術愛好会の演技を見せて頂いたり(鳥肌が立つほど感動しました)、周りの人や中澤さんに具体的なアドバイスを頂いたおかげで。
以前のような、学ぶこと自体が楽しい――という感覚を取り戻せました。
一旦こうなってしまえば、当分はモチベーションが低下することはないでしょう。
本当に、色々な方にお世話になりました。ありがとうございました。
更に。
今日、以前引っ越された恩師と再会しました。
再会……といっても、まだ引っ越されてから二ヶ月程度しかたっていないのですが。
二時間ばかり、講義(面談?)を受けてきました。
……もう、自分の能力の足りなさを自覚するばかりですね。
根拠の無い自信なんて、一瞬で壊されてしまいます。
精神的には相当参るのですが、
「自分が何も理解していない」ことを理解させてくれるのは、とても有難いことです。
たった一題の小論文を読み解く過程で、現代文はもちろん、世界史や日本史、数学まで、その解き方と本質を突きつけられます。
そのような入試レベルのことに留まらず、自分が普段使っている言葉、文章というもの、論理というものに対して、深く考えさせてくれる凄い講義でした(ほとんど反省させられることばかりですが)。
本当に、学問というものは奥深いですね。
改めて実感しました。
"今まで信じてきたものが覆される"認識の変革、これがあるのですね。
まだまだ自力ではそこまで深い思考には辿り付けませんが、
いつか、必ずそこまで到達しよう――と思った一日でした。
モチベーション
久々の更新です。
学園祭は大盛況のうちに終わりました。これでサークル活動は実質終了。残すは会誌の発行のみ。
そして気づけば、明後日から中間試験。その翌週には学校で通常の模試が一つ、その3日後に東大レベル模試が一つ。さらに二週間後にはセンターレベル模試。加えて、六月の土曜と日曜には、世界史のテストゼミが三つ、英語の講習が一つ。
・・・・・・とくれば、さすがに受験生であることを実感しないわけがないのですが。
モチベーションが全く上がりません。
何故かはわからないです。高二の終わりのほうが、今よりずっとやる気があった気がします。
本当にどうにかしないとまずいと悩みつづけて二週間余り。改善もされないまま、結局すぐそこに中間試験が迫っていました。
何か・・・・・・解決法はないでしょうか。
自分でもはっきりわかるのですが、進行度がどう考えても遅いです。
暗記系が特に洒落にならないです(歴史二科目、英単語)。
・・・・・・まずいのはわかっているのですが、どうしても・・・・・・。
明後日からのハードスケジュールで強制的にでも勉強せざるを得ない、という展開になれば・・・・・・良いのですが。
激動
随分と間があいてしまいましたが、何とかやっています。
新学期が始まってすぐ、学園祭の準備がスタート。
今年参加するのは二つ。一つはマジック。一つは同人誌販売。どちらも(責任者ではありませんが)監修・責任的ポジションにいるので、結果的にこれまで以上に多忙です。
特に同人誌(文芸誌)のほうが思った以上に困難で、250枚近くに及ぶ原稿全ての編集を二週間ほどかけてギリギリ終了。ほぼ徹夜状態が四日ほど続いて倒れる寸前でした・・・・・・。
こういった作業をしていて、初めて、編集者という仕事の大変さを垣間見ることができました・・・・・・。他人の文章を校正するというのは、本当に大変ですね。
校正作業が終わったあと、自分の原稿も一晩で書いて、何とか同人誌のほうの作業は終了。
どう考えても締め切りに間に合わないのではないか、と感じる瞬間も幾度かあったのですが、とりあえずこちらに関しては一安心、学園祭当日まで待つばかりです。
にしても、締め切り当日に重大なミスが発見されたり、表紙が仕上がっていなかったり、ページ計算が狂っていたり、出版業者への振込みができていなかったりと、あまりに絶望的な状況だったのですが・・・・・・。
次に、マジック。六年の最後の締めくくりとして、集大成的なことをやろう・・・・・・と考えてはいるのですが、壁が大きすぎてこちらもなかなか上手く進まず。人手の足りなさとレベルの問題。
これは、今後の休日を全部こちらに投入することで何とかなる――と信じているのですが、さて本当に何とかなるかどうか。
毎年この企画を楽しみにいらしている方も多いようなので、絶対に期待に応えられる出来、と胸を張っていえるレベルまでは持っていきたいものです。
――そんなわけで学園祭の準備は着々と進んでいるのですが、それとは無関係に私的なところでもいくつか。
受験生になった、ということで、さすがに学業のほうも意識せずにはいられません。
ただ、どうやらあまり正攻法ではない方針で勧めてしまったようで、
他の人が英語や数学に力をいれているときに、一人現代文をひたすらやっています。
ある恩師の方に、大変レベルの高い”読み方”を教えて頂いたのですが、文章に拘ること、論理に拘ること――といった意味を、ようやく理解できてきた気がします。
評論を読んだり書いたりすることの難しさと楽しさ。・・・・・・現代文がここまで知的で論理的な作業だとは、今まで知りませんでした。一日二日で身につけられるものではないと承知していますが、何とかして身に付けたいものです。受験勉強とは関係なく。
でも、今日。
その恩師が遠くへ行ってしまいました。・・・・・・以前にも書いたのですが、引っ越してしまう――とのことで。
最後に”必要なこと”は全て教えて頂いた――と思っているのですが、そんなことより、もうその人から色々な話を聞くことはないのだなあ・・・・・・と思うと、やはりやりきれないものです。
その人の教えを無駄にしないためにも、残りの数ヶ月、本気で頑張らないと。
と思った矢先、喉がやられて完全にダウンしました。もう何が何だか。
先週の徹夜が今になって祟ったようです。明日は大人しく安静にしています・・・・・・。
「12RIVEN」(ゲーム)――その5
何か、これ以上書いても残念だった作品、という感想ばかりになってしまうので、これで最後にします。
Ever17は傑作、というのはほとんどの人が同意すると思いますが、Remember11と12RIVENは評価が分かれるでしょう。
何となく思ったのですが、
R11が好きな層と、12Rが好きな層はあまり被らないのではないでしょうか。
というのも、
R11は考察&ミステリ要素をエンターテイメント性より前面に押し出しているのに対して、12Rは明らかにエンターテイメント性を優先しています。
そのため、R11が好きだった層(=考察、謎を読み解くのが好きな人)にとっては、12Rは矛盾点が多すぎて微妙・・・・・・ということになりかねないです。
逆に、整合性よりも純粋な面白さを重視するなら、R11よりは12Rのほうが好き、ということになるでしょう。
もちろん、それに当てはまらない人も多数いると思いますが・・・・・・。
色々な人の感想を聞いていると、R11が好き=12Rは微妙 or R11は微妙=12Rが好き、という関係がなりたっているような気がしました。
R11とだけ比較するのも何なので、
以下に、infinityとintegralの違いを書いておきます。色々な見方があると思いますが、integralになって変わったと感じたのは・・・・・・
・閉鎖空間では無くなった
これは、舞台が広がりを見せた=可能性が広がったととっても良いでしょう。
ただ、これによって過去作品の魅力であった、
”閉鎖空間で展開される物語が、終盤で無限の広がりを見せる”という圧倒的な構図が消え去ったような気がします。
12RIVENではただでさえ広い舞台を用意しているのに、それに対しての”真実”が特に過去作品を越える広がりをもっているわけではないので、スケールダウンした感が否めないのです。
同時に、ミステリ読みとしては、
”限られた空間でどれだけのトリックを詰め込めるか”という楽しみがほとんど無くなってしまったのが残念でした。もちろんこれは好みにすぎないでしょうが。
同様のことは、何も舞台の広さにも限らず、登場人物の多さにもいえると思います。
閉鎖空間で物語が展開されるということは、登場人物が限定されるということとほぼ同義でしょう。
しかし、12RIVENは・・・・・・全体的に登場人物が多すぎる上、トリックに直接関わってこない人間も多いので、無駄が増えたように感じられました。
これは「SAW」シリーズを思い浮かべればわかると思いますが・・・・・・。1作目が高く評価されたのは、”限りなく狭い舞台””限りなく少ない登場人物”で、無駄なく綺麗などんでん返しを決めたからでしょう。それが、シリーズをかさねるごとにシンプルさが薄れていって・・・・・・。それと同様のことだと思います。
舞台、人物を広げるのは、決してメリットばかりではないのです。
閉鎖空間で話を展開するのはもう厳しかったのかもしれませんが、それでもなお、その一点には拘ってほしかったですね。
・現実から大きくかけ離れた序盤
12RIVENは、序盤からして既に、現実から大きくかけ離れた事象が次々と起こります。時が止まった世界に飛ばされたり、Ψという能力が乱発されたり。この時点で、今までの作品とは違って、最初からファンタジー的な読みをすることになってしまいます。
もちろん、反論はあるでしょう。それを言うなら、Ever17だって非現実的な出来事が連続するし、Remember11に至っては最初から”人格交換”なんてものが出てくるじゃないか、と。
もちろんそれはその通りですが、E17やR11は、現実の中に非現実的な要素が入り込んでいるにすぎません。真相はともかく、序盤では、E17なら”何かおかしなことが起きている”、R11では”人格交換が起きている”という、言ってみればシンプルな非日常が介入しているだけです。謎が明かされるまでは、十分なリアリティが保たれています。
対する12Rは、序盤から瞬間移動したり、トラックが落ちてきたり、マインドフュージョンなんかが出てきたり、誰もいない世界に飛ばされたり・・・・・・一見すれば、何でもありです。きっと何かSF的な要素で解決するのだろうな、と信じていても、ここまで何でもありだと、感覚が麻痺してきます。現実感が消え去っています。
だから、解決編で真相が明かされても、どこかファンタジー的に捉えてしまい、実感が湧いてこない・・・・・・というのはあるでしょう。
逆に、非日常的な展開が好きな人にとってはこちらのほうが好みかもしれません。
・二つの舞台のリンク度
Ever17、Remember11と比べると、二つの舞台のリンク度が弱すぎます。
・・・・・・いや、真相が明かされたら、錬丸編と鳴海編をあわせて一つの物語、というのは納得できるんですが。
そういうことではなく、錬丸編、鳴海編をプレイしている時点で、二つの話の間につながりがそこまで見えてこない点。
E17、R11では、どれも”同じ舞台”を扱っているので、真相が明かされる前から”一つの話だ”と実感できるのですが・・・・・・。
かなりリンクはあるにしても、12Rでは錬丸編と鳴海編、登場人物の大半が共通しておらず、舞台も違う、目指すものも違うので、どちらかといえば一つの話を読んでいるというより二つの話を読んでいるような感覚にさせられます。
こちらのほうが良い、という人は勿論いるでしょうし、実際製作者も”二つのゲームをプレイするような感覚”と事前に書いていたので、その狙いは上手くいったかもしれませんが・・・・・・。
”二つの異なる話がリンクする”タイプのトリックだと、そんなのこじつければいくらでも繋げようがあるじゃないか、と思われかねないでしょう。真相の衝撃は、やはり薄れると思います。エンターテイメントとしてはともかく、ミステリとしてはアンフェア感が残るのも、これが一因かな、と。
・・・・・・というわけで。
次回作こそは、Ever17の感動、あるいはRemember11の衝撃があることを願いつつ。
これで12RIVENの感想は一旦終わりにします。
「12RIVEN」(ゲーム)――その4
さて、今回からストーリーの感想に入ります。
Ever17とRemember11のネタに触れているので注意。
まず最初は・・・・・・残った謎(矛盾)に関して。
別に”謎”について解答を出そうとはしていません。投げっぱなしです。
以下、完全なネタバレ。
「私」って結局誰ですか?
「私」=鳴海という説が強いようですが、それはありえない気がします。
錬丸じゃないのは当然ですが、状況上鳴海も有り得ません。
前にも書きましたが、「私」のテキストが鳴海のものだとするのは無理があります。
なぜなら、このテキストが表示される直前の鳴海視点では、携帯は大手町の手の中にあり、また、このテキストの直後の文章中でも、鳴海の携帯は大手町の手の中にあります。
重要なのは、「私」は携帯電話を”取り出している”ということです。これはシチュエーション的に有り得ません。
もしあるとすれば、大手町から携帯を奪い、一旦しまった後で、また携帯を取り出して天気予報を確認し、もう一度大手町に渡す――という意味不明なプロセスを踏んでいることになるわけで。
もちろん、鳴海が携帯を二つ持っていたり、時系列が前後していたなら、このようなテキストが自然になる可能性はありますが・・・・・・。そのような描写が無い以上、「私」=鳴海と即断してはいけないでしょう。
では誰か、ということで、∫ルートプレイ前には、マイナか真琴と考えていたのですが・・・・・・・。どちらも可能性としては低い、ですよね。あえていうなら真琴のほうになるでしょうが、これも「私」=鳴海と考えるのと同じくらい無理のある話だと思います。
・・・・・・実際一番高い可能性は、”大手町が鳴海の携帯を持っている”という矛盾点に製作者が気づかなかった、というものだと思うのですが。そう考えてしまっては元も子も無いので、何らかの解答はないものか、と思いつつ。
次に、ロドモン。これも∫ルートプレイ前の推測で重要だと感じたにもかかわらず、∫ルートで完全にスルーされていて「え?」と思ったのですが・・・・・・。
真琴はどうやってロドモンを購入しホテルに運んだのか、という話。
確実に40kg以上あるわけです。・・・・・・一体どうやって運んで、そして、何故ReVで使ったロドモンのビンがインテグラルに転がっているのか・・・・・・。この空き瓶を移動させる手間も、相当なものがああるはず。
・・・・・・結局作品中ではノータッチでしたが、真琴の行動は、一人で行ったにしては無理があることがいくつかあります。これは一体、どうなっているのでしょうね?
そして、一番厄介なのがプレイヤーの介入です。
過去作品を考えれば、介入しているはず――と考えても良いものですが、では、どこに介入しているのか、という問題。
純粋に受け止めれば、「選択肢=プレイヤーの意思」なわけなので、錬丸と鳴海の識閾下ということになりますね。でも、はたしてプレイヤーが介入する必然性はこの作品にあったのでしょうか? 元々、この作品は小説として発表される予定だった・・・・・・ということを考えれば、当初はメタを考慮しないトリックだったのでしょう。
そうなると、ラストで少し姿を見せる、”プレイヤーか、それに準ずる者の存在”は、一体何の意味があったのでしょうか。
やはり、Ever17やRemember11といった、”プレイヤーが存在することによって話が成立する”物語に比べると、どう考えても必然性が薄すぎる&納得しづらい。無理やり追加した、という感覚は否めないかな、と。
選択肢を考えれば、”プレイヤーの選択”で過去が書き換えられ、現実が書き換えられているわけで。”とりあえずメタにしておけば良い”といった考え――なんかではないと思いますが、やはり納得できる道筋が思いつかないのも事実。
全くもって謎です。
まあ・・・・・・簡単に言えば、
”何のためにプレイヤーは存在したのか”ということです。
正直、介入していようがしてなかろうが矛盾は生じるので、その点はどうしようもないと思いますが。”何のためにプレイヤーは存在したのか”これを特定する材料は、作品中にはとても記されいるように思えません。そもそも、infinityシリーズをプレイしたことがなければ、プレイヤー介入という可能性なんて普通考えないでしょうし・・・・・・。
何か、良い解決は無いものでしょうか。