(契約のアーク。『旧約聖書』に記されている、十戒が刻まれた石板を収めた箱のこと。amazonでもレプリカを買える。)
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引き続き、ヨハネ黙示録について。10章から11章までの抜粋です。
(青字のところは当方のコメント。例によって、言葉の定義も何もない、フワフワした文章である点はご容赦を。)
■ ヨハネの黙示録 10章
1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
3 ししがほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな。」と言うのを聞いた。
5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
8 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい。」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
総じて意味不明な黙示録の中でも、唐突で奇異な感じさえするこの10章の記述、「開かれた小さな巻き物を食べろと言われて食べてみると、口には蜜のように甘く、腹には苦かった」。
第5章で「巻き物」が初登場した時には、それは七つの封印で閉じられていた。しかしこの10章に至るまでに子羊(キリスト)により七つの封印は解かれたため、ここ(10章2節)では、巻き物は「開かれた小さな巻き物」となっている。
先述の通り、ケイシーによると「巻き物」とは「人体(body)」のことであり、そこには七つの霊的センターがあり、普通人の場合それは封印されているが(七つの封印)、子羊(キリスト)の導きを得ればその封印を解くことができる。解くごとに、人のうちでは超意識との合一に向けて、第一~第七段階までの変化・インパクトが生じる。
その段階ごとに、人間の内なる悪しき傾向・純化されていない細胞は一掃されていくが、それが黙示録においては、地上の諸悪を段階的に一掃していく天変地異として、象徴的に描かれている。
この10章までにおいて、筆者ヨハネはその様子を幻のうちに見せられた。いわば人体に関する聖なる知識の啓示を受けたのだったが、今度は与えられたその知識を、ヨハネ自身の人生の中で応用(apply)実践することが求められる(「巻き物を食べろ」)。
すなわち、与えられた聖なる知識に思いを巡らせたりこねくり回しているだけ(口に入れているだけ)で満足しているなら、それは安楽な、甘い体験ではあるが(それが「巻き物は、口には蜜のように甘かった」という状態)、
その知識を真に自分のものとするには、それを腹にまで飲み下して消化する必要が---つまりヨハネ自身の実人生の中でその知識を応用・実践する必要があり、往々にしてそれは苦しい体験が伴い(場合によっては殉死もあり得る)、それゆえに「腹には苦かった」ということになるらしい。
■ ヨハネの黙示録 11章
1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
これまた、唐突に物差しを手渡され、「聖所と祭壇とそこで礼拝している人を測ってこい」「聖所の外の庭は異邦人に与えられているのでそのままにしておけ。測るな」といわれる意味不明なシーン。
このあたり、ケイシーの専門家である光田秀氏が、なるほどと頷ける説明をされていたので、それを---私の理解不足により光田氏の意図が十分に伝わらないかもしれないが---紹介させていただくとすると、
要するにこの部分は、「自分の心の内を調べて、どれだけ大きな霊的理想(聖所と祭壇)を抱いているか、またその理想の実現のために日々どれだけ精進しているか(内なる聖所と祭壇への礼拝者の数は十分であるか)を測れ」ということであり、
また、「聖所の外の庭は異邦人に与えられているものにつき、測るな」というのは、「霊的理想以外のこと(聖所の外庭)、すなわち、異邦人がかまけているような肉体的、世俗的なことがらについては過度に重きを置かず、まずは霊的理想に関する事柄を優先し、そのあとで世俗的な事柄が整ってくるのを待て」ということらしい。
誰でも心のうちに何かしらに対する「聖所」「祭壇」「礼拝する人々」を持っている、ということで、例えば、経済的な豊かさを最重視し、日々そこに向けての精進を怠らない人の心の内では、経済的豊かさという神に向けての巨大な神殿と祭壇が出来上がっており、そこへの礼拝者が引きも切らない状態だ、という風に例えられるが、
しかしながらヨハネの場合は、そういう、いわば世俗的な目標ではなく、心の内に神性との合一という目標のための聖所と祭壇を整え、そのサイズと、そこへの礼拝の熱心さをこそまずは問題にせよ(測れ)と言われた、ということらしい。
3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
4 彼ら(ふたりの証人)は全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
7 そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。
8 彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
9 もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。
10 また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に 住む人々を苦しめたからである。
11 しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。
12 そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
13 そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。
14 第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。
これも唐突に現れる「ふたりの証人」。
「二人の証人」は「底知れぬ所から上ってくる獣」に戦いを挑まれ殺されるが、復活するという。
この「ふたりの証人(two witnesses)」については、黙示録を「キリスト再臨の直前に起きる出来事を記した書」として読み解く向きには、「キリスト再臨の前に、旧約聖書の聖者モーセや、エノク、エリヤが再来して殉教するということではないか」などと解釈されている。
一方でエドガー・ケイシーによると、「ふたりの証人」を「潜在意識と超意識の心(the subconscious and superconscious mind)」と解釈し、
これに戦いを挑み殺すという「底知れぬ所から上って来る獣(the beast from the bottomless pit)」を「自我の意思(self-will)」「欲望(lust)」などと定義していた。
ケイシーによると、「ふたりの証人」は人間のうちにおいて「癒しと供給(healing and supply)」という役割を担うが、一方でそれらは、人の限定的な知性による誤った行為の結果をいちいち記録しては審判する口うるさい指南役のようなものであり、
この「ふたりの証人」が、人のうちで勢力を増大してきた「自我の意思(self-will)」「欲望(lust)」すなわち「底知れぬ所から上って来る獣(the beast from the bottomless pit)」によってその力を浪費されるに従い、「癒しと供給」という本来の機能を一時的に果たせなくなる。(これが、「獣に戦いを挑まれ殺されるふたりの証人」という形で描かれている。)
一方で、自らのうちで獣(自我の意思と欲望)の勢力の増大を許した人間は、自分の至らぬ行為をいちいち記録しては裁いていた口うるさい「ふたりの証人」が機能を果たせなくなった(獣に殺された)のを全く意に介さず、むしろ鬱陶しい存在が消えてくれたものと喜び、ますます欲望に耽り始める。(この様子が、「ふたりの証人の死を喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う地上の人々」として描かれている。普通人の内面がこの状態ではないかと。)
しかし実は「ふたりの証人」は死んだのではなく潜在しているだけであり、その潜在している機能が再び覚醒すると、体内に大変化が起きる。(「ふたりの証人」の復活)
とにかくケイシーは、この「ふたりの証人」についてのくだりも、黙示録の他の戦争や疫病・天変地異など禍々しい描写への解釈と同様、「外部世界に起きる事件」としてではなく、あくまで、「一人の人間が再生(regeneration)に向かう過程で、その人間の内部に生じる意識や肉体の変化を象徴的に描いたもの」として解釈している。
15 第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」
16 それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、
17 言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。
18 諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」
19 それから、天にある、神の神殿が開かれた。神殿の中に、契約の箱が見えた。また、いなずま、声、雷鳴、地震が起こり、大きな雹が降った。
再び登場、「神の前にひれ伏す24人の長老」。
第4章で見た通り、ケイシーによると、「神の前にひれ伏す24人の長老」とは、五感に結び付いた24の頭蓋神経が超意識の制御に服していることの象徴であり、七つの封印が解かれた人間の内部の状態を象徴的に表したものということになる。
逆に言えば、五感に耽溺している普通人の頭蓋骨の中では、この24人の長老が、ある者は居眠りし、ある者は泥酔し、ある者は色欲・食欲に耽るといった具合に、学級崩壊的に好き勝手やっており、中央の超意識は天の岩戸の向こう側に隠れてしまった天照大神のような状態になってしまっている、ということなのかなと。
七番目の天使のラッパの響きとともに、天の神殿~奥の院が開かれ、契約のアーク(Ark of the Covenant, Ark of the Testament)が「ゴゴゴ・・・」と姿を現す。
上の画像のはアークを"ARC"と綴っているが、スペルミスだと思うのだが・・・。
ともあれ、ケイシーによると、このアークが象徴しているのは「魂の記録(the soul record)」「アカシック・メモリー(the akashic memory)」のことだという。
その解釈を前提とすれば、「天にある、神の神殿が開かれた」とは「意識の最奥が開かれた」ということになるであろうし、アークが失われているということの本当の意味は(失われたアーク)、その箱が地球上のどこかに・・・例えば一部に言われているようにエチオピアやジンバブエにあるであるとか、徳島県の山の中(剣山)に隠されているとかいうことではなく、あくまでそれは
「我々一人一人の意識の最奥に埋没している」
ということになるのかなと。(七つの封印が解かれた人の内には再びそれが現れる---再びそれにアクセスできるようになる、ということかと。)
日本ではお大師様=弘法大師空海が、室戸岬の洞窟などで虚空蔵菩薩(アーカーシャガルバ)のマントラを唱えまくって(虚空蔵求聞持法)このアカシック・メモリーにアクセスすることができるようになったとも言われているが・・・。
ウィキ「契約のアーク(契約の箱)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%81%AE%E7%AE%B1
ウィキ「アカシックレコード」
ウィキ「虚空蔵菩薩(アーカーシャガルバ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%9A%E7%A9%BA%E8%94%B5%E8%8F%A9%E8%96%A9