毎朝ヨガをやっている。

やるようになって1年か、もうちょっとになるかよくわからないが、大分体が伸びるようになった。特に足の裏が硬いので、そこがもっと伸びるようになると嬉しい。

若い時はやろうがやらなかろうが変わらなかったことが、年と共にこんなに硬くなっているというショック。できたことができなくなっている。ありがたいことに、ヨガをすることでだいぶ回復してきている。以前のように戻したい、と言う焦りより、ヨガをやると気持ち良く一日を過ごせると気が付いてやり続けたで、これからも続けられると思う。

そんな風にヨガに目覚めるのがどうやらこの世代らしく、同年代の友人も寝る前にヨガを始めたと言っていた。同じチャンネルを見ているかどうかは分からない。

ここ数日、呼吸が楽だな、と思う。時々ストレッチの効果として呼吸がしやすくなった、と思うことがあるが、特にここ数日、スーッと肺が楽に膨らむ感じがする。ストレッチで呼吸が楽になるのなら、母には効果があるだろうか、と一瞬思う。でも心臓の悪い母が呼吸が苦しいのは、筋肉が伸びていないからではない。母も私ぐらいの時に心筋梗塞で倒れて、その後ヨガ教室にも通っていた。通わなくなってからも、朝はラジオ体操を欠かさないらしい。だから私が今さら勧めたり、ヨガの効能を得々と話すことでもない。

心臓が酸素を運ぶのだから、心臓が弱くなればいくら空気を吸っても苦しい。そんな生活を母は20年以上過ごしている。
 

 

 

 

母と比べて穏やかな更年期だなと思ったのもつかの間、右の下の歯茎がなんとなく違和感を感じる。もしかして右のインプラントの下だろうか。
13年前にやったインプラントのトラブルは私のトラウマだ。人生の中で一番精神を壊してしまったと言ってもいいぐらいかもしれない。

だからそこからどうやって立ち直るかが私の大きな課題だった。大分元に戻って、前に進めるようになったものの、正直またあのトラブルが始まったら、と思うとやはり恐れおののく。

だが、恐怖は意味がない、と自分に言い聞かせる。怖がっても事態は全く良くならない。むしろ悪くなる。落ち着け。

まず、歯茎が痛むのならば、無駄な間食はしないで口の中を清潔に保つ。良いではないか、ダイエットができる良い機会ととらえる。
食後の歯磨きプラス歯茎のブラッシング。殺菌作用のあるマウスウォッシュを購入、実行。それで良くならなかったら。
その時はその時。

落ち着いてくると、痛みはインプラントではなく親不知の周辺だと気が付いた。心なしか親不知が曲がっている気がする。これもいつか抜かねばならぬ日が来るだろう。今まで自分の口の中にあったほうが奇跡だ。それでもそれを失くす日が来る、と思うと落ち込む。いや、落ち込む必要はないんだ。

 

穏やかな更年期であろうがなかろうが、肉体のトラブルは当然これからも起こってくる。体は壊れていつか消える。当たり前のことが起こっている、ただそれだけのこと。

更年期障害とは閉経を挟んだ前後5年だそうで、閉経がいつか分からない故、始まりは後から考えて「あの頃かな」と言える、ということなんだろう。

私は今考えてみると、やはり生理が段々定期的に来なくなってきた頃が始まりだったんだろうな、と思う。ここ1年ほどは本当に間が空いてきて「とうとう終わったか」と思って忘れたころにぽつっとやってくる。なのでまだ閉経していないのかもしれないし、もしかして閉経したのかもしれない。いずれにせよ、徐々に自分事でなくなりつつある。
母のことを考えると、とても穏やかな月の物とのお別れだと思う。母は、筋腫があったこともあって、終わりに近づくにつれて出血が激しくなり、ホルモン治療で無理やり終わらせた。生理がないと血液が固まりやすくなるとか、それ以外にも色々原因はあったのかもしれないが、それから間もなく心筋梗塞を起こし倒れた。それからの母の人生は心臓のご機嫌を取りながら自分の健康との長い戦いを強いられている。

だから、自分は徐々に枯れていく自分の体にとても安堵している。どんな更年期を迎えるのかは自分では選べないから、私は運が良く穏やかな更年期を過ごしているのだと思う。


 

ある仕事の案件で、今回新しくチームを組むことになった。

友人ではあるが、仕事を一緒にするのは初めてだ。

良き友人が良き仕事仲間となるとは限らない。

もともと友人として知っているわけだから、あまり驚いてはいないが、ある部分予想以上の混乱ぶりとなっている。
チームを組んでもどちらの意見がどのくらいの割合で採用されるべきかを考えると、私たちのほうがどう考えても主体だ。割合として、私たちが8、彼女が2かそれ以下。ロジカルに考えてそうなるのだが、どうも彼女はロジカルに考える人ではないので「自分の意見はそう通らない」と言うのが分かっておらず、自分主体でやろうという気が満々である。
だが私達がまるで彼女の意見を聞かないのなら、チームを組む必要がないので、彼女の意見も取り入れてもう一度案を考え直し、OKを出した。
「では早速プロジェクトを進めましょう」
と、話がまとまったと思ったら、数週間後、突然「亡き父が夢に出てきて私にメッセージを伝えてきた」と、その決定を全部ひっくり返して、私たちの意見も彼女の最初の意見も一切消滅した、全く違う話を出してきた。

亡き父のメッセージ、と言うのは失礼ながらとても卑怯なやり方だ、と言うのが私の意見だ。

もちろん亡き父上を侮辱するつもりでは全くない。

まず、そのメッセージが本当に亡き父上の物か、確認するすべがない。

そして、そのメッセージを送ったという亡き父上に私たちが意見する方法がない。亡き父上とは話し合いができないのである。

 

それが彼女の思い込みから来る、彼女の頭の中から出てきた普通の夢、あるいは単なる妄想、あるいは嘘だとしたら、と仮定してみると、なぜ彼女が全部を覆したのか理解できる。

 

最初に彼女が提案を出したとき、提案を出した部分は彼女が用意する、と言ったのだが、それができない、と判断したのだろう。

私は彼女が「私がやるわ。まかせて」と言った時に、申し訳ないが彼女には無理だと判断したので、こちらですでぐ準備を始めた。もし彼女が用意したら差し替えればいいだけの話だから。

だがプライドの高い彼女が「ごめんなさい、できなかった」とは言えない。でも責任は感じている。その無意識が見せた夢だろう。


今は執拗に亡き父上のメッセージにこだわっている。それが素晴らしいものならまた別だが、どう考えてもゴミ箱行きのアイディアなのである。なおかつ、その新しい案に関しての準備を私にやってほしい、と言う。やるかいな。

夢から出てきたアイディアを現実にするのは、結構難しい。夢は所詮夢。大体ろくでもない物ばかりだ。

さて、どう彼女に話をするべきか。

 


 

 

羅臼近海で、シャチの親子が流氷に閉じ込められたことは、きっと世界中で報道されているのだと思う。
その姿が痛々しく、母親の愛情が健気で、感情を動かされる映像だったから、ここぞとばかりにマスコミは飛びついたに違いない。

イタリアでもこのニュースは取り上げられていたが、その取り上げ方が何とも腹立たしい内容であった。

「皆さん、見てくださいこのシャチの親子を!氷の中に閉じ込められています!!」

と、シャチの映像を一瞬見せた後、ダラダラと環境がいかに破壊され、気温が上昇し、動物たちが苦しめられいるか、というえらく感情に訴え不安を掻き立てる内容と続き、結局羅臼の流氷についての説明は一切なかったし、その後このシャチの親子がどうなったかも報じない。このニュースだけだと、まるで地球温暖化がシャチの親子を苦しめて死んでしまった、という内容なのである。

そう言う話なの?と日本のニュースをググってみたら、まれではあるが流氷にシャチが閉じ込められてしまうことは以前もあったこと、そして次の日には流氷は移動して親子は恐らく脱出できたと思われる、と言う話で終わっている。

色々な動画を見ると色々な人が色々な話を上げているので、本当に脱出できたかどうかは分からないが、流氷は減っているのであって、増えてはいないらしいし、それは確かに温暖化のせいだろうから、もし温暖化を取り上げるならもうちょっと理性的な取り上げ方をしてほしいのに、ニュースが理性ではなく感情的なのは非常に腹が立つ。

だから、X(旧ツイッター)で書き込んでやろうか、と思ったが、イタリア人は特に感情に訴えるものが好きなので、勝手に感情を掻きまわして不安になっておれ、と捨てておくことにした。
私がこんなアホが取り上げたアホなニュースに感情をかき回されることはないのだから。

まだまだ私は修行が足りない。

昨日は東京は大雪だった。
水分の多い湿った雪だったせいか、あちらこちらで停電が起こっていたようだ。

まず妹のところに連絡を取ったら、停電があった、という。じゃあ、実家も可能性があるな、と思った。
今朝になってやはり停電で寒くて目が覚めた、母から連絡が来た。
実家は東日本大震災の前に、オール電化にしたので、停電になるとお風呂もたけない、食事の用意もできない、暖房もない。
震災の時にすでにオール電化は失敗だった、と思ったらしいが、やってしまったらあとには戻れずそのままだ。
昨日のような大雪で停電は滅多にあることではないが、電気だけに頼る生活はかなり危うい、と思っている。

心臓の悪い母が寒さの中で耐えていたと聞くのは忍びない。且、父は家にいなかったという。なぜ雪の日に母を置いて出かけるのか理解できないが、理解しようとしても無駄なのでやめる。きっとどうしても出かけなければいけなかった理由があったのだろう、と言うことにしておこう。

心臓を保護するために薬が出ることになったらしいが、それを飲むと普通の生活がままならなくなるという。つまり、心臓の鼓動をかなりゆっくりにする薬なのだと思われる。そうそれば心臓への負担は減る。ただし、動けない。

人は死ぬまでに何回鼓動を打つかすでに決まっているらしい。もちろんどこで最後の一拍が来るのか、誰も分からない。分からないのだから、あと残り何回だろうか、と考えれば、死への恐怖が増すばかりになるのだから、止めたほうが良いに決まっている。それでもいつか止まる。その日を迎えるまで、どういう心持で日々過ごせばいいのか、母は心臓を患った日からずっと考えていたんだろう。
さぞかし悟った聖者の様になっているかと思えば、その実全く逆で、娘の私から見てなんだかんだと捨てられない物ばかりカウントしている日々だったように見えてしまう。捨てられない。捨てたくない。でも捨てざるを得ずに捨ててきて、どんどん落ち込みどんどん暗くて笑いのない母になっている。どう言葉をかけようにもなくて、なるべくそっと刺激をしないように気を付けるしかない。まだ最後の一拍まで、わずかでも時間が残されているはずなのに、普通の会話ができなくなってしまった。

本当はこのビデオを見たら少し気が楽になるかもよ、と言ってあげたい。
でも「あなたに私の気持ちの何が分かるの」と言うような心情になってしまったら、気が楽になるどころか真逆の効果になる。
それだったら、最後まで母らしさを追い求めて一生を閉じるのもありなのではなのか。

誰だって「自分らしさ」を追い求めて一生を過ごしたい、と思う。そういう人が大半なのだ。
だが、本当は自分なぞ捨ててしまったほうがずっと楽なのだ。捨てまい、とするより、捨てよう、と努力する人生のほうが、はるかに安寧なのだと思う。




 

 

久々にアメブロを開けてみた。
若い時は毎日のようにブログを更新し、SNSに投稿していたなぁ。

 

なんか最近そう言うことに興味が無くなってしまった。周りの友達も、時々思いだいたようにポツンと写真を投稿するぐらいになって、そう言うことは年齢的なことなのかもしれない。
すごく楽しいことがあったら載せたくなるかもしれない。あるいはその逆も?
楽しくなくても楽しそうな投稿にしたりするのもなんかメンドクサイし、楽しい事も辛いことも時間と共にすっと過ぎて行ってしまう程度のことばかりで、わざわざ人に語ることでもない。

そして人と会って話をすることもあまりストレス発散でもなくなってしまった。話すことがない、というか。聞いてもらいたい話がないなぁ。


 

先日大事な仕事がある時にコロナにかかった。初コロナである。
どうしても穴を開けられない仕事で、コロナであろうが何であろうが、その日にやらねばならなかった。

幸い人との接触はないかったので、その日の朝早くに強烈な解熱剤を飲んでその日の業務をこなした。

 

もし昔だったら、どんなふうに思ってその日を過ごしただろうか。

何か月も時間をかけて用意した企画だったのに、なぜよりによってその日に、と自分の不幸を嘆くだろうか。

それとも、そういう時こそ自分の精神力を試されている、それを超えてこそ自分は成長する、と思っただろうか。

今はそんなことをごちゃごちゃ考えるのを止めた。

自分のやらなければならないのは、その日を涼しい顔をしてやり過ごすことで、そのためのにすべきことをした。

それだけだ。

 

その前日がピークで高熱、当日は解熱剤で熱はなく、次の日から再び熱が上昇、それでもその翌日には熱は下がった。

 

だが、熱は下がってもそう簡単に元に戻らないのがコロナらしい。

1週間は陽性、それから陰性に転じたが、咳がしつこい。しかもゴロゴロと淡が絡み、夜中に淡が絡んで何度もせき込み目が覚める。

 

そんな風に長引くのはワク●ンのせいだと、必死に訴えている友人がいる。その友人は反ワ●チン派だ。

良いじゃないか、もし仮にそうだったとしても。
誰もが自分の命を守るために必死で、あれを疑いこれを信じ、もがいている。
だが、いずれ終わる命なのだから、どちらに行ってもいい。
結果は必ず同じなのだから。

歴史の教科書がうちの子だけない、と聞いていたが、教科書がない人に挙手させたが、うちの子だけまじめに手をあげていた、と言うだけの話で、実際は何人ないのかよく分からない。彼女だけ怒られて飛んだとばっちりだと思う。

上級生の一人が自分の使っていたのをあげると言ってくれた、と娘は嬉々として帰ってきたが、これは怪しい話だ、とすぐに思った。

 

あげると親切心は見せて、実際に行動に起こすかどうかは分からない。

イタリア人の心情として、助けようとした気持ちは本物、そこが重要で、でもかくかくしかじかでできなかったことは、別にどうでもいい。って言うか、それはただの言い訳で、人のことなんて本当はメンドクサイ、と言うのが本音だ。救いは、ケチしたり意地悪してあげないわけではない。だから悪気はない。
そう言うものだ、と理解するのに、私も分かるのに苦労した。

すぐに手に入らない、と見て、とりあえず私達は歴史の先生に今何とかこの問題を解決すべく努力している、と手紙を書き、二人の署名をして娘に渡した。

先生はその手紙を喜んで礼を言って受けたそうで、その後は怒られなくなったらしい。喜んでいたのは何かの勘違いかもしれないが、誠意が伝われば、それでいい。

上級生の話は期待できないだろうと踏んで、私は「別のところで一応注文したら?」と言うと、大丈夫、明日上級生の電話番号聞いてみる、と言う。結局、電話番号を知ることはできず(なぜ教えない?)、電話番号を知っている同級生が直接電話する、と言ったらしいが、電話をしたんだか何だか。やっと直接本人に会えて話をしたら「これから部屋を掃除して探して見る」と、いつまでたってもお古は手に入らない。
思った通りだ。


その間に、注文したお店にも行ったが「まだ」の一言。


では、最後の手段。私がその教科書の名前と出版社を教えてもらい、検索をするとアマゾンで扱っている。しかも届くのは明日、と言う。
ばかばかしい、最初からアマゾンで探すべきだった。


その後、ちょっとした私の勘違いで、届くのは次の次の日になったが、無事に教科書が手に入った。

これでとりあえず「教科書がない」と言うストレスからは解放された。娘もストレスだろうが、こっちもストレスだ。

そして昨日、お店から教科書が届いた、と連絡が入った。が、届いたのは別の教科書だった。なんと、他の教科も教科書がなかったらしい。歴史の教科書は「発送中」だそう。
と言うことは、返品不可、という意味だ。日本では手をつけていなかったら腐る物でない限り返品可能だろうが、この国では注文して支払ったからには受け取れ、とこうなる。

日本人なら期日に遅れた分訴えて、こっちが取り立てるところだ。

結局、バレーボールのスケジュールは、月曜日の7時半過ぎから9時半過ぎ、10時ぐらい、と言うのは変わらなくて、それでもうちの子は参加したくて1時間で引き揚げてでもやる、と言って通っている。

それを見かねたチームのお母さんが、うちに泊まったら、と提案してくれた。

月曜日は夜の練習に連れて行き、そのまま友人宅に行き泊まる。朝はその子の家から学校。

これ、毎週やるの?と娘に聞いたら、とりあえず試してみる、と言う。友人宅にしたらえらい迷惑じゃないのか。

こういう時、日本のお母さんたちはどうするだろうか。
私はバレーボールに関しては全て夫任せなので、夫が親とも交流をしていて、私は全く接点がない。でもだからと言って何もしないわけにはいかないだろう。

日本だったら菓子折りでも持たせるのかな?

 

とりあえず、朝は甘いものを食べる習慣があるので、ケーキを焼いて持たせた。これで、子育て放棄ママには見えないだろうし、こちらの気持ちも通じるだろう。

 

今朝は8時に起きて学校に行ったようだ。うちからだと5時半に起きないといけないので、えらい違いだ。