ベルナルド・ベルトルッチ監督『ドリーマーズ』 ゴダールへのファイナル・アンサー? | シネマの万華鏡

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映画と倒錯と頽廃、そして5月革命

なんと!ブロ友さんに過去20年分の『CUT』を譲って頂くことになりました。

送料?スペース?なんてところから入ると「ムリ!」という結論にしかならないので、もう自分に考える余地を与えずに即決で「ほしい!!」と。

ただ今半分送って頂いたところでもかなりの量ですが、まあどうにかなるでしょう。

 

 

それよりも、さっそく『ドリーマーズ』に関するベルトルッチのインタビュー記事を見つけて、『CUT』の価値を噛みしめているところです。

 

『ドリーマーズ』は、ベルトルッチが病に倒れる前に手掛けた最後の作品。病を押して製作した遺作『孤独な天使たち』の1本前の作品になります。

1968年、五月革命に揺れるパリ。アメリカ人留学生マシュー(マイケル・ピット)は、映画フリークの学生たちによるデモの最中に魅惑的な双子の姉弟イザベル(エヴァ・グリーン)とテオ(ルイ・ガレル)に出会い、急速に親密になっていく。

(シネマトゥデイより引用)

本作がデビュー作だったエヴァ・グリーンの大胆なヘアヌードや、彼女とマイケル・ピットとのベッドシーンなど、溢れかえるエロチシズムと倒錯感が魅力。

ただ、後で書く5月革命とゴダールにまつわるエピソードが、ベルトルッチにとって製作の起点になっているのかなと個人的には思っています。

 

もっとも本作には原作があって、ギルバート・アデアの"The Holly Innocents"(1988)がそれなんですが、ベルトルッチ自身は本作を、自分のフィルモグラフィーの中でも「特別パーソナルな作品」(※)と認識しているようです。

 

こちらも原作者はゲイ

ちなみに、原作者のギルバート・アデアはwikiではgay writerにカテゴライズされている人。登場人物たちのセクシュアリティも流動的です。

 

『暗殺の森』『ルナ』『ラストエンペラー』『シェルタリング・スカイ』『ドリーマーズ』に『孤独な天使たち』・・・どれも、程度の差はあれ同性愛が無視できない要素になっている作品ばかり。

さすがにここまで揃うと、セクシュアリティというテーマに対するベルトルッチの強いこだわりを感じます。

彼の作品についてあまりこの辺りに注目されていないのが不思議なほどです。

 

映画の世界をさまよう双子

(黒の手袋でミロのヴィーナスに変身したイザベル)

 

主人公マシューがパリで出会ったイザベルとテオは不思議な双子。

父親が詩人という家庭環境のせいか、映画と芸術に傾倒していて、頭でっかち、やることなすことエキセントリック!

男女の双子なのに一卵性双生児を自称する2人はいつも一緒、外を歩けば美しい2人はとても目立つ・・・

そんな2人に何故か見込まれ、両親が留守の自宅に引き入れられたマシューは、2人の倒錯的な遊戯に巻き込まれていきます。

 

父親が置いていった小切手でやりたい放題、食べ放題、乱交し放題。

ゲームで負けた罰がオ○ニーやセ○クス? あまりにもイカレた2人の世界に辟易しながらも、マシューは2人の魅力に抗えません。

 

モラルのたががはずれたように裸で遊び興じる双子の姿は、自堕落な大人というよりは、「大人の体」という最高の遊び道具を手にした子供。

もっとも、恐ろしく大胆なわりにはたいした経験はないようで・・・そういうアンバランスさも双子たちの一面として描かれています。

 

双子であって恋人どうしのようなイザベルとテオの危うい関係は、『恐るべき子供たち』のエリザベートとポールを彷彿とさせるものが。

両親不在の家は、『恐るべき子供たち』の「甲羅のような子供部屋」同様に、一心同体につながった双子の内面世界そのものです。

 

彼らの世界にマシューのようなもう1人の存在が必要なのは、2人が精神的にだけでなく肉体的にも結びつきたいという潜在的な欲望を抱えているからでしょう。

テオはゲイなので、2人の間に1人の男性を介在させることで、2人は間接的に結びつく。やはりゲイであるマシューは、まさにうってつけの存在というわけです。

一見イザベルが両手に花のように見えますが、実はマシューは2人をより強くつなぐための蝶つがいにすぎず、ここはあくまでも双子2人だけの閉じた世界なんです。

 

やっぱりゴダールと関連していた

(屋内のシーンが殆どなので閉塞感を和らげるためか鏡が多用されていますが、鏡越しの目線の交差など心理描写にも鏡が効果的に使われています。)

 

しかし、本作のメインは何と言っても五月革命へとつながっていく終盤。

知識人や学生・労働者たちが赤い旗や毛沢東の写真を掲げて展開した、1968年の一斉蜂起。ジャン=リュック・ゴダールも参加していたことが知られています。

 

個人的には以前から、この作品は、ゴダールとベルトルッチの間で起きた或る事件に関連づけられているんじゃないかと思っていたんですが、今回『CUT』のインタビューでベルトルッチ自身がまさにその件について語っているのを見つけたので、その部分を引用します。

面白いエピソードがあってね。『暗殺の森』がパリで公開になるとき、僕はジャン=リュックに観に来ないかと誘ったんだ。彼は初日の最終回に来ることになって、僕らはそのあと夜中の12時に、サンジェルマンの今は無きドラッグストアで待ち合わせをした。12月の寒い日で雨が降っていた。わたしはずいぶん待たされたんだが、ようやく彼がやってきた。すると彼は何も言わずに、僕にメモを渡して去っていったんだ。広げてみるとその紙には毛沢東の肖像が描いてあって、その上には「キャピタリズムと利己主義のために戦わなければならない」とあった。僕は思わずびりびりに紙を破いてしまった。

もっとも、彼が気分を害した理由は他にもあったんだ。『暗殺の森』のなかで主人っ行の大勢順応主義者が暗殺目的である反ファシストの教授に会いに行く件で、彼が教授に連絡するその電話番号を、僕はジャン=リュックのものにした。そして教授が住んでいる住所に、ジャン=リュックの住所を使ったんだ。まあたんに内輪のジョークのつもりだったんだけど(笑) ともかく、彼はその頃すでにコミュニズムに傾倒していたんだ。ちょっと話が横道にずれてしまったかな?

(※)

インタビュアーから水を向けられたわけでもないのに、『ドリーマーズ』のインタビューで30年以上も前のこの話をするくらいですから、やはりベルトルッチの中ではこのエピソードと本作は切っても切れないつながりがあったんじゃないでしょうか?

つまりこの作品の中で、ベルトルッチなりに、ゴダールが熱狂した五月革命、ひいては毛沢東主義に対する見方(或る意味でゴダールに対するファイナル・アンサー)を示したんじゃないかと。

 

何不自由なく自由で退廃的な生活を送っているにもかかわらず、双子の片割れのテオは五月革命の活動グループに参加しています。

ちなみにテオとイザベルはゴダールのファンでもあるようなので、ゴダールに触発されて運動に参加したのかもしれません。彼らの部屋には、さまざまな毛沢東が・・・ポスターから、毛沢東の胸像型の電気スタンドまで!

運動が激化した夜、双子とマシューは通りに飛び出しデモ行進の人の波に合流します。

群衆と警官隊との間の緊張が高まる中で、警官隊に火炎瓶を投げようとするテオを、マシューは必死で止めますが、テオとイザベルはマシューの制止をふりきって行動に出る。

2人を呆然と見つめるマシュー・・・やがて彼は2人に背を向けて、赤い旗がはためく群衆の間を去っていきます。

 

一時は蜜月関係だったマシューと双子との苦くあっけない訣別

このラストシーンの中で、テオはゴダールまたはゴダールの信奉者、マシューはベルトルッチの分身のように見えます。(2人の場合は、暴力か非暴力かに境目があるのではなく、政治思想に対する立場の違いですが)

この映画が作られたのは2004年ですから、71年にゴダールから毛沢東の肖像を渡されて33年。ベルリンの壁もとっくに崩壊していて、打ち返すには遅すぎるタイミングではありますが、それでも、ベルトルッチとしてはどうしてもゴダールに答えを返したかったんじゃないかと。

 

だからと言って、彼がゴダールに幻滅していたのかというと決してそうではないことは、『ドリーマーズ』の中にゴダールの作品2作(『勝手にしやがれ』と『はなればなれに』)のワンシーンを挿入していることにも表れています。

特に『勝手にしやがれ』は、イザベルのアイデンティティーとして語られているんですよね。

一見つかみどころのない作品ですが、ベルトルッチのゴダールに対するなんともアンヴィヴァレントな感情が、作品のそこかしこから滲み出ているような気がします。

 

そして、ベルトルッチが何にも増して影響を受けたというフランス映画への強い映画愛、誰もが映画と議論が大好きで、映画の世界にどっぷり浸っていたあの時代のパリへのノスタルジーも。

そういう意味ではこの作品は、熱狂的シネフィルであり偉大なシネアストでもあるベルトルッチ自身の映画とパリにまつわる思い出を総括する作品でもあったのかもしれません。

なるほど彼にとって「特別パーソナルな作品」。

エンディングのシャンソンの歌詞が過去の恋との訣別の歌であることも、心に沁みます。

いいえ そうじゃないわ

わたしは少しも後悔などしていない

代償も支払った きれいに清算した

忘れたわ 過去の恋など

昔のことを束にして 火をつけたわ

過去の痛みも喜びも もうどうでもいい

過去の恋など もう忘れたわ

 

 

※『CUT』2004年6月号 ベルトルッチインタビューより