ベルナルド・ベルトルッチ遺作『孤独な天使たち』 ベルトルッチが描き続けてきた「孤独」 | シネマの万華鏡

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ベルナルド・ベルトルッチが最後に描いたのは、少年の成長

去年11月に亡くなったベルナルド・ベルトルッチの遺作。

長い間闘病生活を続けていたベルトルッチが、『ドリーマーズ』以来9年目ぶりに、病を押して製作したのが2012年。翌年には日本で公開されていたんですが、未見でした。

原作は、ニコロ・アンマイーティの同名小説(原題はIo e teで、「あなたと私」の意味。)。

この小説にとても共感しての製作だったそうで・・・ベルトルッチの最晩年の想いの在りかが知りたくて、ユーロスペースでの追悼上映を観てきました。

 

この映画の主人公は、心の問題を抱え、カウンセリングに通う14歳の少年・ロレンツォ。

学校のスキー旅行を母親に内緒でサボったロレンツォが、自宅アパートメントの地下物置きに籠ってすごす1週間が、この物語のすべてです。

 

誰にも干渉されずに自由な1週間を過ごすはずだったロレンツォの計画は、腹違いの姉・オリヴィアの出現で台無しに。

ロレンツォの父親と前妻との娘であるオリヴィアは、今は母親と2人地方都市に暮らしていますが、友人と農場へ行くためにローマに出てきて、友人と落ち合うまでの間行くところがないと言う。

一度は写真の才能を認められ、新進気鋭のアーティストとして脚光を浴びたものの、薬物中毒に陥ったというオリヴィア。農場で人生をやり直すための第一歩として薬断ちの最中である彼女の苦しみをロレンツォは目の当たりにします。

そして、禁断症状に苦しむ彼女を介抱しながら、オリヴィアの芸術や、彼女のロレンツォの母に対する複雑な思いに触れるうちに、ロレンツォはなさぬ仲の姉に少しずつ心の扉を開き始めて・・・

 

『1900年』『ラスト・エンペラー』『シェルタリング・スカイ』など、数々の壮大なスケールの作品を手掛けてきたベルトルッチの作品の中では異色と言える、気取らずさりげない作品です。

 

ベルトルッチが描き続けた「孤独」

 

今回は追悼の意味も込めての遺作上映ということもあって、自然、作品の中に「ベルトルッチ的なもの」を見出し、彼の作品を懐かしむ・・・というスタンスで観ていた気がします。


ベルトルッチの作品というと、私の中でまず思い浮かぶのが「孤独」というキーワード。

この映画を絶対観ておきたい、と思ったのも、タイトルに(邦題だけですが)「孤独」の二文字が盛り込まれていたからです。

『ラスト・エンペラー』の、皇帝でありながら紫禁城の中の世界しか知らない溥儀の孤独、『暗殺の森』の、体制派に属するためには愛した女までも見殺しにするマルチェロの孤独、『ラストタンゴ・イン・パリ』の、2人でいても癒されない男と女の孤独・・・孤独の中であがく人間の弱さ・醜さから、妖しくも美しい、そして残酷な世界を紡ぎ出していくのが、ベルトルッチの真骨頂だと思うんですよね。

 

孤独にもいろんな種類がある中で、ベルトルッチが好んで描くのは、誰か大切な人を失った孤独ではなく、内から噴き上げてくる、宿命にも似た孤独

『ラスト・エンペラー』にも『暗殺の森』にも、群衆の中を主人公が人の流れに逆らって歩いていく、とても印象的なシーンがありますが、『孤独な天使たち』でも、授業が終わって一斉に教室から出てきた生徒たちが、賑やかにおしゃべりしながら同じ方向に向かっていく流れの中で、ロレンツォただ1人が、皆とは逆の方向に歩いていく場面があります。

溥儀やマルチェロは、時代の波に乗ることを切望しながら、時代に裏切られ、彼らの意に反して時代に逆らう身となったわけですが、ロレンツォの場合は自ら固く心を閉ざしているように見えます。

 

ロレンツォの孤独の根源にあるものは何なのか・・・この作品はそれについて口を閉ざしつつも、物言いたげ。

例えば、ロレンツォが地下室で見つけて読み始める本が、アン・ライスの『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』だったり。

吸血鬼はもとより孤独な存在。でも、吸血鬼の物語なら他にもたくさんある中で、何故敢えてこの作品を?

そして、音楽好きのロレンツォが聴くデヴィッド・ボウイの曲。

極め付けは、オリヴィアがロレンツォに女性ものの帽子をかぶせること。

別れ際にオリヴィアがロレンツォに言い残す「隠れていてはダメ、私を見なさい、傷だらけになっても生きてるのよ」という言葉からも、彼女は何か気づいているように見えます。

 

そう言えば『暗殺の森』でも、暗に主人公マルチェロのセクシュアリティにまつわる不安を描いた部分がありました。

ロレンツォの孤独はマルチェロと同じ根っこを持っているのかもしれない。

そう考えると、この作品が単にベルトルッチの最後の作品というだけでなく、彼の作品のエッセンスが詰まった、集大成的な一作でもあるように思えてきます。

 

倒錯的な匂いを漂わせた、母親や姉との関係

 

「孤独」と並んでもうひとつ、ベルトルッチの作品で強く印象に残っているのが、濃厚な倒錯の香り

『ドリーマーズ』では全裸で同じベッドに眠る美男美女の双子を描き、『ラスト・エンペラー』では7歳になってもまだ乳母の乳を飲む少年溥儀が、乳母を「わたしの好きな女(マイ・バタフライ)」と言うシーンが。

『暗殺の森』では、主人公が母親の愛人を抹殺。

『ラストタンゴ・イン・パリ』でのマーロン・ブランドとマリア・シュナイダーとの文字通り倒錯的なセックスも目に焼き付いています。

 

この作品でも、同じ年頃の女の子に興味を持たないロレンツォの関心は、母親に注がれます。

母親とレストランで食事しながら、ロレンツォが、

「もしこの世で(母親と)2人だけが生き残ったとしたら、人類の存続のために子孫を残すべきだよね」

としつこく繰り返して、母親をギョッとさせるシーンも。

 

ただ、往年のベルトルッチ作品のような耽美な世界にどっぷり浸かる類いの作品とは、今回はだいぶ趣きが違います。

前妻との女の戦いに勝利して夫を勝ち得たロレンツォの母親は、母というよりは「女」

「母親の不在」がロレンツォの孤独のもう一つの根源だということを、このどぎつい言葉を通して、ロレンツォは訴えかけているようにも見えます。

 

ジョン・ローンやドミニク・サンダに代表される美しい容姿の俳優陣を好んで起用したベルトルッチの往年の映画と違って、ロレンツォを演じるジャコポ・オルモ・アンティノーリは、ニキビ跡が生々しい、等身大の14歳。

彼自身も当時ロレンツォと同じ年頃で、映画も初出演だったようなので、もしかしたらこの作品で俳優デビューしたのかもしれません。

最晩年になって美しさへのこだわりを捨て、「等身大」を表現することにこだわった理由はなんだったのか・・・それは、ロレンツォがベルトルッチ自身の少年時代を投影した存在でもあったからではないか・・・と想像を巡らせたりも。

 

不安を孕みつつも希望のある未来

ベルトルッチが亡くなり、本作が遺作となって一層心に沁みるのは、この作品では最後に希望が描かれていることです。

ベルトルッチの作品には、挫折や喪失で終わる作品も多いだけに、ロレンツォの前向きな笑顔で締めくくられる本作のラストシーンには、ベルトルッチの魂の昇華を見るような、不思議な感慨がありました。

もっとも、これまでの作風どおり、決して100%スッキリとは終わらない。すべてを無にしかねないような、苦いスパイスもしっかりと仕込まれてはいるんですが・・・

 

父親に選ばれたロレンツォの母親と、選ばれなかったオリヴィア親子。

まるで表と裏、どちらかに光が当たれば、どちらかは陰になる、そんな関係の2組の母子。

姉と弟でありながら、オリヴィアの中にはロレンツォ親子に対する埋められない深い溝があることを端々に感じさせる展開の中で、最後に姉としてロレンツォの幸せを願うオリヴィアの気高さに打たれます。

同時に、その気高さと隣り合わせのところにある彼女の心の弱さに胸が痛くなってしまう。

オリヴィアもロレンツォも2人ともが、暗闇を出て、光の中で生きられるように・・・そう願わずにはいられないラストシーンでした。

ハッピーエンドは描かなくても、ベルトルッチもきっとそれを願っていたんじゃないでしょうか。

 

遺作って、何か格別な余韻が残りますね。