マリア・クレウザ -サンバ・カンソンの歌姫-
新PCにサルベージした旧WEB日記を見直していたら、昔、短い期間だったがブラジル音楽にのめり込んだことがあったのを思い出した。「ゲッツ/ジルベルト」 → ボサノヴァ → サンバ てな感じで興味を持ったのだと記憶しているが、なにぶん昔のことなので…。もしかするとその前に映画「黒いオルフェ」を観ていたかも。『ブラジル音楽の素晴らしい世界』とか『ボサノヴァの歴史』とかいった本を読みながらアルバムを聞き始めたのだが、その頃はちょうどブラジル音楽ブームの衰退期だったようで、一時期盛んにリリースされたアルバム(当時はLP)が手に入らなくなってきていた。マリア・クレウザのアルバムを最初に購入したのがその頃で、運良くレコード店で見つけたのが「真夜中のマリア」というアルバムだった。タイトルのようにマリアの大人な雰囲気を強調した内容だった。決して悪くはなかったが、最初に聴いたのが「モダン・カンソンの真髄」とか「夜明けのサンバ」とかだったら、もっと気合を入れてアルバムを漁っていたと思う。
Youtube:
Maria Creuza - Insensatez
Maria Creuza - Madrugada
そのうち別の方面に興味が移ってしまったのだが、時々思い出したようにブラジル音楽を聴きたくなることがあった。CD主流の時代になって、マリア・クレウザのベスト版CDが出た時に偶然見つけて購入したのだが、それを聴いたとき初めて自分の好みに合う歌手だということを発見した。
ちなみに、彼女の名前"Maria Creuza"の日本語表記としては、「マリア・クレウザ」(「レ」にアクセント)が現地の発音に近いらしい。私は「マリア・クレウーザ」として最初に憶えたのだが、これでは「ウー」にアクセントがきてしまう。どうしてこうなったのか不明だが、たぶん、これは米国人の勝手な英語的発音をそのまま日本語表記したためではないかと思う。
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2007-04-17
Maria Creuza
雑誌「中南米音楽」 No.312(1980.1.1)に、1979年11月の第10回世界歌謡祭主演のために来日した際のインタビューとステージに関する記事が掲載されている。インタビュー「メロディックで哀しい愛の歌が好き… マリア・クレウーザ」(pp.42-47,インタビュアー:青木啓)から、彼女の生い立ちからメジャーになるまでの情報を纏めてみる。
中南米音楽 No.312 表紙
(1) マリアはインディオとポルトガルとアラブ系の混血で、彼女が2歳の時に両親が離婚し、以後は母親と一緒に暮らした。彼女によると少女時代はあまり幸せではなかった。(母子家庭の生活は辛い事が多かったようだ。) しかし、10歳の時に母親が再婚し、幸いな事に二番目の父は良い人だったため、15歳頃まで最も幸福な時期を過ごした。
(2) 初ステージは14歳の高校生の時、彼女の故郷バイーアのサルヴァドールにあったデパートの一階のクラブのステージに制服のまま上がってドロリス・ドゥランの歌を歌った。当時は歌手になるつもりはなく友人たちにかつぎ出されたのだという。
(3) 歌手を本格的に志したのは17歳の時、バイーアに新しいテレビ局ができて、開局記念に新人歌手を募集した際に応募したところ、合格した。しかし、家族は彼女が歌手になることには反対だったという。
(4) アントニオ・カルロスと結婚したのは1964年。1969年に、リオの大学ポピュラー音楽祭に出て第3位に入賞し、さらに歌唱賞を受賞した。その音楽祭を放映したテレビ番組をヴィニシウス・ヂ・モラエスが観ており、それがきっかけとなって、1970年のヴィニシウス、トッキーニョのアルゼンチン公演に参加することになった。
(5) アルゼンチン公演の際に制作したアルバムがブラジルでも発売され、マリアは一躍注目されることになった。(この当時、既に子供がいたらしい。結婚年を考えれば特におかしい事ではないが、少し意外な感じがした。)
ちなみに、このインタビューの翌年7月9日にヴィニシウス・ヂ・モラエスが死去。さらに1981年頃にアントニオ・カルロスと離婚する。そしてその後、マリアは長いスランプに陥ることになる。
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マリア・クレウザのベスト版CDについては、まだ語るべきことがあるが、長くなるので次の機会に。
今回の風景写真は、「ラテン」繋がりでイタリアのビーチリゾートの風景から。
(ブラジルには行った事がないし、これからもないだろうな。)




