ルーティーンとサプライズ | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

鬱病気質(メランコリー親和型性格)の私が精神科デイケアを利用し始めてもう10年になる。そこで親しくなった利用者さんとはプライベートなことも含めて、恐らくカウンセリング以上にコアな内容の話が出来ている気がするのだ。

 

当然そこではお互いの病気のことから、心理学的な内容が中心の議題となる。そんな話題での共通のボキャブラリーとなっている基本概念(?)「ルーティーン」と「サプライズ」についてを書いてみたいと思う。

 

言うまでもなく、前者は毎日のように反復する一連の行動のことであり、後者は前者のマンネリ化で停滞した気分をリフレッシュさせる非日常的な行動の意味である。

 

まずルーティーンである。この言葉を流行らせることとなったラグビーの五郎丸選手の独特のポーズは、良い意味でのジンクスのようなもので、それ自体には意味の無い形式を指していたが、ここでは社会人が毎日やっている実務を指す。

 

例えば、朝アラームで起こされたら、それを止め、ベッドから出て、カーテンを開け、小用に行くという一連の行動だ。この間には恐らく思考と呼べるものは無く、反射運動のように勝手に身体が行動しているだろう。

 

その後も、着替えて出勤し、諸々の仕事をそれぞれの決まったやり方でこなすことが殆どだろう。イレギュラーなことが起きればそこで若干の思考の必要が生じるが、最短ルートでルーティーンに戻ることだけを考えているのではないだろうか。

 

かくも我々の日常はルーティーンの連続である。それは圧倒的なコスパ故のことだろう。我々の(特に私のような単身者の)日常は雑務によって支えられているが、掃除・洗濯・調理など、より良きものを求めて考え始めたら時間がいくらあっても足りないだろう。

 

だがルーティーンは、まあまあの結果をいつでも出せるという意味で最強なのだ。このコスパのコストとは脳のメモリの使用量のことではないかと私は思っている。つまり脳に負担をかけずに必要な雑務をこなせるということだ。

 

鬱とはメモリ不足によるフリーズである | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

上のリンクは、PCになぞらえた”メモリの枯渇”が鬱の正体だという私の持論である。精神科にかからずに済んでいる普通の人は上手にメモリを守れているが、私のような”無理をすることに価値がある”とする”間違った選択をするタイプは結果としてメモリを使い尽くして鬱になるのである。

 

だが、間違った選択をする私もルーティーンを重要視してはいる。いや、間違った選択をしがちだからこそ、出来るだけルーティーンを使ってメモリの消費を抑えようとしているとも言える。恐らく平均よりもかなりそれを意識しているのだ。

 

ところで私はいまブログを書いているが、これはルーティーンとは言い難い。更新頻度を上げたい気もするのだが、毎日更新してルーティーンになってしまっては恐らくブログを書く意味を失ってしまうだろうと感じているのだ。

 

読者に届いているかどうかは甚だ心許ないのだが、私にとってブログを書くというイレギュラーな行為は”思考”を伴っているからこそ意味があるのだ。単なる感想ではなく、何故そう感じたのかを分析考察した記録としたいのである。

 

この思考は、先述したようにメモリを消費するものである。考え過ぎると鬱になる危険もあるのに考えようとしてしまうのは、課題解決のためのようにも見えるが、そうではないだろう。たぶんそれは”脳を満足させるため”なのだ。

 

それはブログでも度々書いてきたドーパミンによる快感を求めてのようにも思えるが、マンネリ化による脳の停滞を打破するサプライズ効果によっても分泌されるのだろうか? もっと言えば、ルーティーンでは解決できない未知なる領域に踏み込んでも、”なんとか対処出来た”という”自信”を得ての満足なのかもしれない。

 

ルーティーンは安定をもたらすが退屈なマンネリズムにも繋がる。だが、これって生物のリクツとしてはちょっとおかしい気もするのだ。人間以外の他の動物はマンネリに特に不満があるように思えないからである。

 

サプライズというのはエピソード記憶があってこそ成り立っているのではないだろうか。いつものパターンと違っていると認識出来るからこそサプライズになるはずである。つまりそれは人間にとってこそ必要なもののように思えるのだ。

 

人間以外にも必要なルーティーンと、人間にとってこそ必要なサプライズ。冒頭にも書いたように基本概念(?)になっても良さそうなのに臨床心理士のスタッフさんに尋ねても心理学に該当するものは無いと言う。読者にとっても、自身の何がルーティーンで何がサプライズかを確認することは、強ち無駄なことでは無いと思うのだが如何だろうか。