スカーレット・オハラに見る”実務の人” | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

 

Watch 風と共に去りぬ (字幕版) | Prime Video (amazon.co.jp)

「風と共に去りぬ(1939年)」 この誰もがタイトルだけは知る名作を還暦の私も初めてきちんと観た。上に貼ったヴィヴィアン・リーの印象的な眼差しは、どんな映画か知らない多くの人の記憶にもあることだろう。

 

個人的には先年亡くなった父が「感動した」と言っていた数少ない映画だったのだが、日本での公開が1952年ということで分かったような気がした。それはその年に父は結婚していたからだ。恐らくデートで観たのだろうが、のちの母をそっちのけで映画にハマってしまったのだろう(実は私も同じような経験がある)

 

前置きが長くなったが、本作はアメリカの南北戦争(1861~5年)に敗れた南部側から描かれた作品である。そこには黒人奴隷があってこそ成り立っていた南部の生活が”美化されている”との批判があり、近年のBLM(ブラック・ライヴズ・マター)の観点からその傾向はより強くなっている。

 

差別対象への性行為 「それでも夜は明ける」 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

以前ブログで取り上げた「それでも夜は明ける(2013年)」という作品がある。こちらは逆に南部の生活の暗部を描いたものだが、その脚本を書いたジョン・リドリーの意見記事によってストリーミングサービス「HBO Max」から「風と共に~」は配信中止となったらしい。下記リンク参照

黒人差別を肯定した「風と共に去りぬ」のヤバさ オスカー受賞でも差別された黒人女優の悲劇 | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン (toyokeizai.net)

 

断っておくが、リドリーは「風と共に~」を抹殺しようとしている訳ではなく、飽くまでも”注釈付きでの配信”を願っているようである。だが現実としては、”注釈を読まぬ不特定多数”への配慮のもと配信中止となっている訳だ(上のAmazonプライムでは視聴可能だし、廉価なDVDも沢山ある)。

 

私は「風と共に~」も「それでも~」も高く評価している。それはどちらもが、南部の”一面”を正確に描いているからである。私にとってはそれで十分なのだが、世の中には”一面”ではなく”全面”を求める人が少なくは無いのだろう。その人たちに向けてリドリーは”注釈”が必要としたのだが、注釈自体を読まぬ人も多いのだ。

 

以前の私なら、彼等を”困った人たち”と評価していたが、心を病み、それが脳の機能的な障害だと感じるいまは、”読まぬ”ではなく”読めぬ”人かもしれないと思うようになったのである。この表現はもしかすると、”読める”私が”読めぬ”彼等を憐れんでいるように感じさせたかもしれない。

 

だがそうでは無いのだ。恐らくあらゆることにトレードオフがあると思うのである。彼等”読めぬ人”たちは私から見れば有り得ない”一知全解”を求めるのだが、実は”半解”もいいところなのだ。だが、その代わりに彼等の行動は早い。脳の余計なメモリを使わずに済むからである。世の中の実益は”火の獲得”から”核・AIの開発”まで彼等のお陰なのではないだろうか(もちろん良くも悪くもだ)。

 

「風と共に~」の主人公、ヴィヴィアン・リー演じるスカーレット・オハラにもそんな”読めぬ”故に行動が先んじる人間を感じた。私としては決して恋愛対象になることはないが、本作の題材とされた南北戦争後や、本作が作られた第一次大戦後~第二次大戦前夜という”実務”を求められた時代においては必要な人たちだったと感じる(日本公開は占領終了した年である)。

 

果たしていまは実務の時代なのだろうか?理念の時代なのだろうか? 正直なところよく分からない。それが恐らく理念派である私の感想である。