ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

私のブログはちょっとした日々の思いつきを温めてまとめることが多いのだが、この思いつきを溜め込み過ぎると収拾がつかなくなってしまう。そうなる前に、まとまってはいなくても素材の状態で一旦記録しておくことで、脳内メモリを占有しないように出来るのではないか? それがこの備忘録である。

 

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またまた更新が遅れている。私のブログは、私自身が”書きたい”と思えるネタが無いと書けないのだが、ここのところそれがよく分からなくなっているのだ。書きたいことが無いから書けないのか、書きたいことはあるのだが、それが多過ぎて優先順位をつけられずに書けないでいるのかが分からないのである。冒頭の備忘録前文はそんな後者の処方箋として記した訳だが、いまの私にとってそれが正しいのかどうか?

 

”書きたい”と思うことにはドーパミンが関係していると感じている。ワクワク感のことだ。ドーパミンが少ないと、好奇心のようなものが無くてネタに関心を持てないし、逆にドーパミンが多過ぎると、いろんなネタに関心を持ってしまって、どれから手を付けたらいいのか分からなくなってしまう。いまの自分がどちらなのかが判然としないのだ。

 

実は、1か月ほど前からドーパミンに関わる向精神薬アリピプラゾール(エビリファイ)を増量(6㎎)している。私にとっては、抗鬱薬と併用することで鬱の回復に有効だったものだが、鬱が寛解して抗鬱薬の必要が無くなってからも予防の意味で微量(1㎎)服用していたのである。その予防効果をもう少し明瞭に感じられないかと主治医に相談し、増量してみたのだ。

 

アリピプラゾールはドーパミン部分作動薬というもので、ドーパミンが過剰な場合はその働きを抑え、不足している場合は補う作用があるらしい。つまりプラスにもマイナスにも作用するので、どちらに作用しているのかが分からないのだ。現在の私が明らかな不調にあるとは思えないが、ブログの更新が滞っている事実が示す変化は感じている。

 

そもそもアリピプラゾールは統合失調症や双極性障害に用いられる。前者の幻覚などの陽性症状や、後者の過活動の抑制に効果があるとされる。これは過剰なドーパミンの働きを抑えたことによるものだろう。私は自覚的には双極性障害だとは感じていないが、主治医には”過活動”に見える所見があったのかそれを疑われたことがある。

 

だが、自覚としての私の”過活動”は生きがいとなるワクワク感に重なっている。だから抑制しきってしまうのは困るのである。当人としては”快感依存症”(これもある種病的かもしれないが)であり、ドーパミンのもたらす快感を奪われたら生きる屍のようになってしまう不安があるのだ。

 

現在の6㎎なんて用量としては多いとは言えないが、それでもドーパミン量を抑制しているのだとすれば、減薬してドーパミン量を増やすべきかもしれない。これらを踏まえて次回の診察に臨もうと思う。そしてブログを安定して書ける状態を維持したい。

鬱により障害年金を頂いている私は、1日4時間・週3日のアルバイトで赤字にならない程度の生活を送っている。商業施設の清掃の仕事で2018年から始めた。当初は今ほどには精神状態が安定していなかったにも関わらず、まだ年金の支給を受けていなかったので週5日ほど入れていた。それが負担だったのだが、徐々に調整して2年半ほど前に現在のパターンに辿り着いたのである。

 

だが、これは一般の就労者に求められている週40時間(1日8時間×週5日)の3分の1にも満たない。申し訳ない気持ちにもなってくるのだが、私のスペック(仕様)ではとても継続できなかったのだ。鬱が重症化するまではフルタイムを優に超える労働時間で(本人も必要なことだと思ってやっていた)、常にリソースを回復できずにいたのだった。それが限界に達して会社を辞めることになるのだが、そんな転職の本当の理由には気づいていなかったと今の私は思うのである。

 

人間のスペックはだいたいは一緒だ。しかし標準偏差の周縁部には多様性がある。身体的に五体満足で無い人がいるように、精神的にもそんな人がいて、その中の一人が私なのだ。私は、ビジネスライクな判断に従えば何の問題も無いことを、懐疑的にいつまでも考えてしまうタチである。私自身はその欠損だか過剰だかを自分の使命として捉えているのだが、標準の枠からすれば無駄なタスクに拘っているというマイナス評価にしかならない。

 

このことは既製服(レディメイド)というものを想像してもらうと分かりやすいかもしれない。人間の身体の寸法はだいたいは一緒である。S・M・L・LLぐらいのパターンがあればだいたいは収まるだろう。だが、身長的にはMサイズでも太めの人ならLサイズを着ていたりする。

 

これが身長的にSサイズの人が、太目でLサイズでないと入らないとすれば、丈が余り過ぎて着られないのではないか。そんな人は丈詰め・裾上げが必要になってくるが、当人が受け入れられているのなら体型そのものを批判される筋合いなど無い。だが、自分の体型にフィットしない服を着るのは、ストレスが増えて良いパフォーマンスは得られないだろう。

 

私は服に関してはレディメイドで充分だが、働き方となると週40時間というレディメイド(しかもMサイズのみだ)では合わなかった訳である。本当は働き方にもレディメイドとして、Sサイズ(週12時間はSSSぐらいかもしれないが)の選択肢があればいいのだが、それは私がやってきたようにオーダーメイドでしか手に入らないようである。

 

そもそも週40時間というサイズしか無いことが、それ以外のサイズを必要とする人に勘違いをさせてしまっているのではないだろうか? ”これぐらいは誰でも出来ることだから”という理由で自分に合わないサイズの働き方をし続けている人は、精神的ギリ健(ギリギリ健常者)に多い気がする。

 

私も障害年金を頂くまではそうだったが、給与所得だけで生活費を賄わなければならないと思っていたのである。だが年金があればその額は半減する。そうなれば、フルタイム以外の働き方だって想像することが出来るのだ。つまりオーダーメイドの働き方である(もしかするとベーシックインカムに近いものかもしれない)。

 

但し、年金を申請するためには障害を受容しなければならないし、主治医の理解も必要だ。そのハードルはそれなりに高いかもしれないが、自分に合ったスタイルで働くことは身体的にも精神的にも健康をもたらすことになる。それは障害という辺境にあっても尚できるベストパフォーマンスなのだ。ギリ健のご同輩へ。標準に囚われることなく、自分にフィットした働き方を是非見つけて頂きたい。

Amazon.co.jp: 文庫 日本イ・随筆 きれいなシワの作り方 淑女の思春期病/村田沙耶香 : ホーム&キッチン

以前のブログで次回読む村田沙耶香作品は「消滅世界」としていたが、エッセイを見つけたのでそちらを先に読んだ。フィクションを通さないリアルな村田氏の言葉を押さえておくのもよいと思ったからである。その巻頭を飾る一編が「淑女の思春期病」であり、タイトルにはこれを借用させて頂いた。

 

村田氏は30歳を過ぎたころから様々な身体の変化(皺や白髪などの軽度な老化)による気づきがあり、それを思春期の体験に通じるものがあるとしている。氏にとって思春期は「急激な身体の変化と内面の変化に、心も身体も成長痛で苦しかった」(同書)とあり、その再演に感じているようなのである。

 

対してアラ還の私は、本格的な老化(頭髪の減少など)に愕然としているが、それが思春期と同様のものだとすることには若干のタイムラグを要した。これは男女の違いや個人差もあるのだろう。私にとっての思春期(二次性徴)がそれほど急激なものではなかったせいかもしれない。いまでもキーの高い私は声変わりに気づくこともなかったし、運動音痴で男性的な筋肉も無かったからだ。

 

だが、女の子の立場になったとすれば、その変化の大きさに戸惑うことは充分に想像は出来る。目に見える変化があるからだ。身体の変化に内面が追い付かず「大人になりたくない」という気持ちにもなるだろう。もちろん私にも精通や体毛の変化はあったが、子供っぽさを嫌っていたせいかそれは容易に受け入れられたのである。

 

しかし老化は想定されていなかった。いまの私の懸念事項は頭髪の減少である。遠目には年齢からすれば”善戦”しているように見えるだろうが、密度の低さは鏡に向かう当人にとっては隠しようがない。私はアラ還にして初めて思春期に遭遇したのかもしれない。

 

村田氏は先に引用したように「急激な身体の変化と内面の変化」があったとするのだが、”内面の変化”が私には分からなかった。二次性徴においては、大人を理想形としていた私に内面を変化させる必要がなかったからだ。だが、今回はハゲることに内面を適応させなければならなくなっている。

 

この受容はできるのだろうか? 村田氏は「大人のパンチラ考」で、子供のころ近所にいた「胸を出してパンツを丸出しで縁側に座っているおばあさん」のことを書いている。そして、いまはまだ「電車の中で膝を固く閉じながら、いつか自分にも、とびきり自由な、素敵なパンチラができる日が来ると信じている」と締めるのだが、氏にとっては、まだリアルさが無いから「素敵な」などと言えるのではないだろうか。

 

パンチラはともかく、結果としてハゲている素敵な人は私にも想像できる。だがそれは飽くまでも客体なのだ。私が主体的にハゲを選択する訳では無い。おばあさんだって主体的に胸やパンツを放り出している訳では無い。「こうありたい」より「めんどくさい」が優先された結果、変化を受容することになるのだろう。

 

「こうありたい」という理想をなかなか捨てられない私にとって、老化の受容には時間がかかりそうだ。だからと言って、育毛剤の使用などの運命に逆らうことも運命論者の私にとっては潔しとしないところである。まだまだ”めんどくさくなる自分”が怖い私だが、以前よりは確実に”めんどくさい”と思うことが増えている自覚もある。頭皮マッサージをすることもめんどくさくなる日、そのときの私の理想はどうなっているのだろうか?