備忘録 ドーパミンが多いのか?少ないのか? | ひらめさんのブログ
上のブログでも書いたことだが、3か月ほど前からドーパミンに関わる精神科薬を増量していたのだが、それを元に戻した。その薬アリピプラゾール(エビリファイ)はドーパミン部分作動薬というもので、ドーパミンが過剰な場合はその働きを抑え、不足している場合は補う作用がある。
これは飽くまでも体感からの想像なのだが、私の場合、1mgから3mgに増量した時点で既に抑制する側に働いていたのかもしれない。その時はどちらなのか分からず、様子を確かめるために12mgまで増量したのだが、ドーパミンが増えている(ワクワクする)感覚からは遠のくばかりであったのだ。
ブログの更新も滞っているし早く元に戻したかったのだが、慎重な主治医の指示に従ってようやく昨日、元の1mgに戻せたのである。この3か月のドーパミンを抑制した日々を振り返ると、なかなか興味深いことがあった。まだドーパミン量は充分ではないが書いてみたい。
上のブログでも触れているが、ブログを書けない理由は二つある。関心のある話題が多過ぎて一つに絞れなくて書けないのか、関心のある話題が見つからなくて書けないかである。前者がドーパミン過多で後者がその欠乏だ。
一見、大きく違うと思われるかもしれないが、当人としてはなかなか判然としなかったのである。それはドーパミンが少ない状態が必ずしも不快という訳では無かったからだ。それまでは、一定の頻度でブログを書ける程度に興味のある話題に出会っていたことになるが、そんな機会自体が無かったとすれば不思議には思わないだろう。
しかし、感受性という当人のアンテナが錆びついている可能性を想定すると、こちらの方が説得力があるのだ。前回書いた相模原事件などもそうなのだが、私ならもっと食いつけそうなテーマなのに必死で食らいつこうとしても出来ない、そんなことが多かったのである。12時間もかかって何とか書いたのである。
最首悟の思想 インクルーシブのもどかしさ | ひらめさんのブログ
私にとってドーパミンは起動力のようなものだ。これ無しでは自分らしさの意味を見出せないものである。社会通念に異を唱える原動力になるからだ。だが、そういう過去の自分の記憶を辿らなければ、これはこれで悪いものでは無い気もするのだった。
ところで、好奇心の無いことはつまらないことだが、実はいいこと(?)もあった。私は対人関係におけるモヤモヤで眠れないことがしばしばあったのだが、この間にそういったことは一切無かった。これもそんな機会自体が無かった可能性も無くは無いが、鈍麻した感受性ゆえではと思えるのだ。
好奇心というのはポジティブな関心を言うことが多いだろうが、感受性と言い換えればポジもネガも無い。だからネガティブな関心事も私のアンテナはスルーしていたと言えるのだ。
つまり、これはトレードオフである。好奇心もあってモヤモヤもある生き方を取るか、好奇心が無い代わりにモヤモヤも無い生き方を取るかである。私はモヤモヤにさんざん悩まされてきたはずなのだが、結果として前者を選ぶことになった。それはドーパミンがもたらす快感を求めたということだろう。
そして、もう一つ妄想することがあるのだ。それは、この間の私のような低ドーパミンをデフォルトとして生きる人もいるのではないかということである。そう、彼は私のように寝食を忘れて熱中することは無い代わりに、鬱になって精神科のお世話になることも無い普通の人だろう(マジョリティってそんな人たちなのかも)。
先ほどは”鈍麻した感受性”などと表現したが、ポジティブに言い換えれば”無駄に悩まない健康な精神”である。私からすれば「何を楽しみに生きているんだろう?」と思ってしまうが、彼は私をドパガキ(ドーパミン中毒のガキのことをそう言うらしい)と憐れむかもしれない。
個々人のドーパミン量が定量化・可視化されたら興味深く眺めてみたいと思う。もっとも、その適正値なんてものが発表されたら、私のようなドーパミン依存症は完全に弾かれてしまうだろうが。