ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

40代で“うつ”を経験したリリー・フランキーさん、50代で“うつ病”を経験した南果歩さんと、克服の手がかりを探る(婦人公論.jp) - Yahoo!ニュース

昨夜のNHKスペシャル「病への挑戦 うつ病」は最新研究に基づいたとされるのだが、初診から25年の私からすれば”いまだに「天動説」の議論をやってるのか”という感想であった。

 

”うつ病を「心の病」で終わらせない”というのが番組の趣旨のようだが、誰に向けてのメッセージなのだろう。「うつ病なんて根性が足りないからだ」というような時代錯誤な認識への批判のつもりかもしれないが、最新研究を謳う番組で主張するようなことではないだろう。

 

精神科医の加藤忠史氏(順天堂大学医学部 主任教授)はこう述べる。「うつ病っていうのも他の病気と同じような体の病気であって、私は顕微鏡で見えるような病変のある病気だと思っているんですけれども、うつ病というのも高血圧とか糖尿病と同じような体の病気なんだということが、広く理解していただけるようになるといいなあと思っています」

 

今日の技術からすれば”体(脳)の病変”はいくらでも見つかるだろう。だが、それを”原因”と考えるところに「天動説」の誤りがあるのだ。例えばうつ病患者の脳内セロトニン濃度は低い。それを抗鬱薬で上げてやれば解決するという発想である。服用直後にその濃度は上がるらしいが、比例して気分が良くなる訳ではない。

 

つまり、これは相関関係はあるのだろうが、因果関係があるとは言えないものである。番組で取り上げられていた新しい情報もそのレベルのものにしか思えなかった。それは客観的なデータにこだわるあまり、定量化できない心というものを無視したことで、真の原因を分からなくさせてしまっているように思えるのだった。

 

最新研究とやらはまだ「地動説」にはなっていない。まずは正しく心理的ストレスがトリガー(原因)となっていることを言うべきなのである。

 

鬱とはメモリ不足によるフリーズである | ひらめさんのブログ

ここで私の持論だ。最近のPCはメモリ(RAM)に結構余裕があって経験の無い方もおられるかもしれないが、2000年代初頭のスペックではよくフリーズしたものだ。そんなフリーズが鬱の認識を容易にさせるのである。

 

恐らく、脳にもメモリにあたる部分があってタスクを詰め込み過ぎるとフリーズする、それが鬱なのだ。心理的ストレスとは答えの出せないタスクを常にかけ続けることになり、メモリが枯渇して他のことが出来なくなってしまう。そうイメージすると鬱の処方箋も見えてくるのではないだろうか。

 

つまり、鬱になったらタスクを可能な限り外すことを心掛け、休息することが大原則だ。だが、タスクを外すことや休息をとることが自由意思によって必ずしも出来るものではないのが難しいところではある。そこで私も薬に助力を求めることも多かった。

 

そしてもうひとつ重要なことだが、一過性の鬱なのか、私(メランコリー親和型性格)のように生涯その素因と付き合っていかなければならないかで、病気と捉えるのか障害と捉えるのかの違いが出てくる。前者ならば復職も可能だろうが、後者である私は年金を助けにアルバイトというコントロール可能な就労形態をとらざるを得なくなる訳である。

 

科学はヒトを同じ条件を持った生物と認識して普遍性を担保しているが、ヒトの心の有り様は非常に多様で同じ条件では語れない。正反対の特性を示す個体だってあるだろう。そこがこの番組のネックであった。その多様な変数を無視せず、地道な定量化と精緻なカテゴライズが出来たとき「地動説」の精度を上げる議論が出来る未来が来るのかもしれない。

好き嫌いと扁桃体 Ⅰ | ひらめさんのブログ

前回は食べ物の好き嫌いについて述べた。遺伝子が脳の扁桃体に刻み込んだその個体の生存戦略によって、有益な食べ物と有害な食べ物を峻別すべく、好き嫌いという判断基準が生じたのではないか?というものだった。そして重要なことは、その判断基準が必ずしも正しいとは言えず、後天的に修正する必要もあるということだった。

 

食べ物に関しては好き嫌いが無く、何にでも適応できる私だが、もっと広く社会全般の事柄に関しては好き嫌いが多く、途端に不適応を起こしてしまう(障害年金を頂くことになったその要因もこれだ)。平たく言えば得意分野と苦手分野の差があり過ぎることだが、この場合の好き嫌いの修正(つまり苦手分野の克服)は非常に難易度が高いのである。

 

私はスポーツというものがカラッキシだめだ。恐らく幼少期に(だから先天的とは言えまいが)病弱で外で遊ぶことが皆無だったことが関係しているだろう。性格的にはかなり似ている兄がそれほどまでには苦手意識を持っていないことと、私の身体能力が極端に劣っているとは言えないことからもそう思えるのである。

 

それは小学校に入学し、”普通”の、つまり適応的な男子児童の仲間入りをした頃に発覚した。時は1970年。テレビでは「巨人の星」や「タイガーマスク」が放映されていた時代だ。私も観るには観ていたが、関心は飽くまでも人間ドラマ的な部分(貧乏物語)だった。

 

ところが、級友たちはみんな野球そのものプロレスそのものが好きだったのである。だから彼等は遊びとしても野球をし、プロレスごっこをしていたのである。ここに大きな乖離が生じた。私は彼等と遊ぶ術が無いことに気づかされたのだ。ルールを覚え練習すれば追い付けるという意見はあるだろう。だが、私にとってそれは遠すぎる目標だったのである。

 

そのうえ私にはもっと大事なことがあった。後に美大に入学することになるのだが、幼稚園時代から絵ばかり描いていたのだ。それが上手になることが一番面白かったのである。それは多分級友が野球が上手になることと分野は違うが一緒のことだったと思う。だから止められなかったのだ。

 

さて、ここで私と級友の得意と苦手を整理してみる。私は絵を描くことは得意だがスポーツは全くだめ。級友たちは絵はそれなりか苦手かだが、スポーツは遊ぶためという有用性からどんどん得意になっていくという構図である。ここで重要なことは、男子児童のコミュニケーションにとって遊びが大きなウェイトを占めていることだ。

 

かくれんぼや鬼ごっこなら仲間に入ることも出来たのだが、野球やプロレスごっこは蚊帳の外。教室でのそれらの話題に関しても全くついていけなかった。先述したように、ルールを覚え練習して追い付くという選択肢だってあっただろう。それは健康のため栄養学的見地から好き嫌いを修正することに近いかもしれない。そうすればみんなの輪の中に入れたかもしれないのだ。

 

しかし、それをしなかったのは”鶏口となるも牛後となるなかれ”といった気持ちがあり(もちろん当時そんな諺は知らなかったが)、生存戦略として牛後にはなれないとして、”あえて不適応の道を歩む”という方向に舵を切ってしまったからである。

 

ここには論理的な意味での良い悪い(正しい、正しくない)を選択できる自由意思なんて無い。当時の自分が何とか生きながらえるよう(楽しさを感じていられるよう)にと、本能的な決断があっただけに思える。これ無くしていまの私は無いので、友達は限られてしまったが私に後悔は無い。

 

前回のブログの私の野菜嫌い克服の件では、野菜を食べずにいたから”めばちこ”(ものもらい)になってしまったという”後悔”があってのことだった。後悔もやはり情動であり扁桃体由来の判断だろう。だが、スポーツが出来ないでいることにはいまだに後悔は無いのである。仕方が無かったと感じるだけである。

 

好き嫌い是正にとってキーになるのは扁桃体の判断である。私が認知行動療法に期待できないのは、この扁桃体に直接アプローチすることが出来ないからである。論理的な判断をする自由意思はかくも力を持たないものなのだ。

扁桃体は喜怒哀楽など情動の中枢になる脳の部位だが、目の前の対象が自分にとって有害かどうかという咄嗟の判断をさせるためのものとされる。これが論理的な”良い悪い”(≒正しい、正しくない)としばしば対立してしまう”好き嫌い”の根拠である。

 

私は食べ物に関してほぼ好き嫌いは無い。パクチーだってレバーだって全然平気だ。普段食べる機会はないが、イナゴの佃煮やハチの子といった見た目の残る昆虫系は苦手と言えば苦手かもしれない。だが、食材として出されたらたぶん食べられると思う。

 

そんな私でも子供の頃は人並に嫌いなものが多かった。例えば野菜だが、これを克服した時の記憶がある。子供の頃の私はよく”めばちこ”(ものもらい)が出来た。膿で目が開かなくなったり見えづらかったりしてとにかく鬱陶しいし、見た目も良くない。

 

そんなときに母がしつこく言ったのが「野菜を食べないからだ」ということだった。そして渋々食べると不思議とそのうちに治ったのである。そんなことを何回か繰り返すうちに、その因果関係を実感するようになったのか”食べたくない”が”食べなきゃいけない”になったのだ。

 

つまり、”嫌い”なことが”良い”(栄養学的に正しい)ことにシフトされたのである。そして、学生時代に自炊の必要に迫られると、野菜をより美味しく食べるための調理法も考えるようになる。そうなると”食べなきゃいけない”は”食べたい”にまでに変化した。この実益のある経験知が”嫌い”を”好き”にまで変貌させたのである。

 

好き嫌いは、人類の進化の歴史が刻まれている扁桃体の判断に基づいている(エネルギー供給に不可欠の糖質は誰もが好きだ)。だが、そこには誤った判断も刻まれているのだろう。それを後天的に修正してやらなければならないのだ。

 

いや、”誤った判断”と書いたが、何が起こるか分からない自然界には絶対に正しいことなんて無い。だいたい正しいことぐらいしか無くて、例外的な状況において判断ミスが起こるのは仕方の無いことだろう。

 

例えば変化は例外を生んでしまう。野菜嫌いの反対で、好きなのにアレルギーで食べられないなんてこともあるではないか。私の知る半世紀の間だけでもアレルギーの人が確実に増えている変化がある訳だ。

 

野菜嫌いにしてもアレルギーにしても、扁桃体の判断と論理的な判断(その人のおかれた特異な状況を加味したもの)との間の齟齬を適応させなければならない。アレルギーの場合なら目に見える形で実害が現れるだろうが、好き嫌いはそれが定かには分からないところに修正する機会を逸してしまう。

 

次回は、この修正の難易度を考察してみたい。尚、これらの発想は、私が関心を持つ進化心理学に基づいている。興味を持たれた方は下のブログもご覧いただければ幸いである。

進化心理学を御存知だろうか? | ひらめさんのブログ