ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

私は考え込んでしまうタチである。考えているうちにテーマが芋づる式に増えていき、脳のメモリを圧迫してブログも書けなくなったりする。その打開策として録画してあった映画を観てみることにした。それが本作「突撃隊(Hell is for Heroes、1962年・アメリカ)」である。

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本作を選んだ理由は、子供の頃ハマった「ダーティハリー」と同じドン・シーゲル監督作品だったからである。観ておくべき作品だったが、いま考えているテーマともリンクする作品でもあった。それは端的に言えば、”人間の行動原理の多様性”ということである。

 

映画の舞台は第二次大戦末期。敵と直接対峙する最前線を少人数で守らなければならない状況の話である。敵の逆襲に備えて指揮官を含む多数の兵が大隊に合流するために密かに移動する。その留守を守れという指示なのだ。

 

そして極限の状況の中で、敵トーチカへの攻撃に出るべきか、上官の許可が出るまで待機すべきかで意見が分かれる。主人公リース(スティーヴ・マックィーン、下士官だったが不祥事によって一兵卒になっている)は前者、ラーキン(下士官)は後者だ。ラーキンが上官パイクの指示を仰ごうと離れた後、経緯を聞いていたヘンショウ(ジェームズ・コバーン、下士官)とリースのやりとりが印象的である。

 

ヘンショウ「(敵のトーチカを)吹き飛ばすのか?」

リース「ああ」~中略~

ヘンショウ「許可が出たらな」

リース「パイクはまともだ」

ヘンショウ「ラーキンもな…ただ彼は命令に従うよう訓練されてる」

リース「あんたは?」

ヘンショウ「俺は物事がうまくいくよう自分を訓練した…だが今は何が正しいのか…」

 

平時においては私も上意下達を基本的には守ろうとする(何を平時とするかが他人とは違っていそうだが)。だからヘンショウのスタンスに近いかもしれない。だが、平時でなければリース的な自らの行動原理で動こうとするだろう(それによって不和を招いて鬱に陥っていたのが私の半生だ)。

 

その後ラーキンも爆弾で死に、追い詰められた彼等はリースの作戦を断行せざるを得なくなる。しかし、ヘンショウも地雷に触れて死に、もう一人犠牲者も出た。戻ってきたパイクに「お前が正しかったか?」と訊かれたリースは「分かるかよ」と答えるしかなかったのである。

 

翌朝、中隊が復帰しての総攻撃となる。リースは自分の行動の落とし前をつけるかのように最前線に立ち、瀕死の状態で爆薬をトーチカに投げ入れて爆死するのであった。まるで特攻隊である(実際の特攻兵には不本意ながら命令に従った人も多かっただろうが)。

 

多くの人にとっては”正しい選択”というものがあるのかもしれない。本作の上官の指示を待っての行動である。社会人であることは組織人であることだからだ。私は彼等を否定するつもりはない。だが、私自身には”正しいかどうかは分からないが、やらざるを得ない選択”があるのだ。

 

この”使命”のようなものは私にとっては”正しさ”より上位にあり、正しさに屈服する訳にはいかないのである。それはリースにとってもそうだったはずだ。この組織人としては甚だ困った特性を、組織人(例えばラーキン)には理解してもらえまい。だが、パイクやヘンショウなら”仕方の無いこと”として認めてくれただろうか。

 

また、先述した”不本意ながら命令に従った特攻兵”は、組織人としては正しかったかもしれないが、内なる使命を優先すべきとする私からすると、”すべきではなかった選択”になってしまう。同様に、上官の指示を待つことで多くの犠牲者の出る結果がもたらされたとしたらラーキンは納得するのだろうか?とも思うのである。

 

これを換言すると、ある行動による責任の所在がどこにあるのか?ということかもしれない。責任が組織にあるのか?個人にあるのか?ということだ。 組織の責任、集団の責任は規模が大きくなればなるほどその意味が失われる。責任者はいたとしても、彼を選んだ任命責任は集団全体にあるはずなのだ(法的な意味ではなく倫理的な意味でだ)。それが薄れてしまっては行動の指針が立てられないことになる。

 

責任を明らかにする、責任を追及する、ということは、”こうあってはならない”という行動の指針になるのだ。もしかすると、リースや私のように責任を個人で負おうとすることは、失敗例を具体化する意味があるのかもしれない。いや、もちろん稀に成功例となって欲しいとは思っているのだが。

 

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後記。こうして文章化すると脳のメモリに空き容量が出来た気がしている。アタマがいっぱいいっぱいの人には何かで表出することをお勧めする。

若い世代を中心にタイパに価値を求める人が増えている。動画の倍速視聴や書籍を要約で済ます類である。現代社会は新たな情報があまりにも多く、それを処理するための時間を確保できないところにその理由があるのだろう。

 

実はアラ還の私も理由は違うがタイパには気を使っている。年の功か、情報の重要度の判別はつくので情報量自体を欲張ることは無いのだが、余生の残り時間がそれなりにハッキリしてきたのだ。積読はコレクションのつもりではないので何とか読み切りたいのだが、単純計算によるその時間が怪しくなってきたのである。

 

しかし、だからと言って要約で済まそうとは全く思わない。それはタイパにならないからだ。要約に通じるものとして速読というものがある。私たち世代の知の巨人と呼ばれた立花隆氏もそうだし、私淑する呉智英氏も圧倒的な読書量をこなすための技術として速読を勧めていた。

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著書は全て読んだほど傾倒した呉氏であるが、速読だけは受け入れられなかった。試しに何度かやったことはあるのだが、即答のための正解は見つけられても、血肉にならない徒労感が私の求めるものでは無いと証明したのである。

 

いや、たぶんスペシャリストよりもジェネラリストを目指した呉氏にとっては、当時は情報の深さよりも広さをこそ必要としたのだろう。だが、この”広さ”はいまやネット環境や昨今ではAIが解決してくれるようになっている。しかし、自分自身に変化をもたらす”深さ”の方は自助努力によるしかないのである。

 

AIが答えをくれるとしても、「どんな質問をしたらいいのか?」ということをAIに訊くことは出来ない。疑問とはその人の人格に由来する探究心(課題解決)や好奇心によるものだからである。そして、その人の人格の形成のためには記憶の定着がどうしても必要になるのだ。

 

いまからサイエンス~記憶を自由に整理できる?脳研究最前線!~(BSテレ東、2026/4/22 22:00 OA)の番組情報ページ | テレ東・BSテレ東 7ch(公式)

先日観たこの番組では、記憶の定着には脳細胞を二分するニューロンとグリア細胞のうち、後者が重要な役割を持つことが語られていた。瞬間瞬間の記憶は常にアップデートされるニューロンによるのだが、それでは記憶は定着しない。

 

だが、グリア細胞には感情を伴う(例えば快不快)刺激を再体験させると非常に活性化するらしいのだ。再体験時には、初回体験時の記憶のパターンから未来を予測するのだが、それが予想通りであっても予想外のことであっても、その前後関係を含め強く定着させることになると言うのである。

 

感覚的には分かっていたようなことではあるのだが、データの裏付けが出来たという訳だ。時間をかけて熟読するようなときには自分事として様々な予測をするが、それが感情を伴う記憶になるのだろう。対して、感情を伴いにくい(極端に言えば数字の羅列のような)記憶は定着しにくく、その場限りのものとなるのである。

 

つまり、個人の人格形成に繋がる記憶の定着のためには、感情が生じる(脳科学的にはノルアドレナリンが分泌される)刺激となるまでの熟成期間が必要ということになるのだろう。これが速読や倍速視聴などでは起こりにくいということではないだろうか。

 

世の中には卒論をAIに任せても卒業資格が取れれば良いという人もいるのだろうが、私には理解できない。私は私自身が進化・深化したという自覚が無いと満足できないからだ。要約を見て棒暗記する時間がたとえ僅か10分であったとしても、私にはその時間が惜しいと感じる。そんなことなら10時間それについて反芻できる方が、私にとってはタイパは良いと思うのである。

私のブログはちょっとした日々の思いつきを温めてまとめることが多いのだが、この思いつきを溜め込み過ぎると収拾がつかなくなってしまう。そうなる前に、まとまってはいなくても素材の状態で一旦記録しておくことで、脳内メモリを占有しないように出来るのではないか? それがこの備忘録である。

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京都小学生・安達結希さん遺棄の優季容疑者「なぜ養父」動機追う

容疑者である養父が逮捕されてからも連日報道されるこの事件。憶測が飛び交うことに批判はありながら、誤情報も含まれていたとは言え、犯人に関してはおおよそその通りであった事実をどう評価すべきかを考えてみたい。

 

つまり、社会的には批判されるべき”家庭環境に伴う偏見や固定観念”が、それなりの確からしさを持った根拠たり得る実例になったことで、”憶測”の妥当性の証明になっている訳である。それならば、「憶測に対する批判自体が間違っている」という意見があってもおかしくはないだろう。

 

だが、もちろん憶測は間違うこともある。この事件の憶測の根っこにあるのは容疑者である養父と被害者である小学生に血縁が無いことだろう。世の中にそんな再婚家庭は少なからずあるだろうが、そこでこんな悲劇がしばしば起こっている訳ではもちろん無い。彼等に対する故無き偏見を正すためにも批判はあって然るべきものではある。

 

しかし、「シンデレラ」のような血縁関係の無い親から酷い仕打ちを受けることに納得してしまうのは、継母のキャラクターの描き方だけの問題では無いだろう。再婚の当事者同士ほどには親子関係のマッチングに配慮をしないことを、誰しもが想像できるからではないだろうか。

 

恐らく義理の親子というものは、”配慮無し”では不和になる確率が、血縁のある親子より高くなるのだと思う。だが、そうなってしまうからこそ”配慮を怠らない”人も多いかもしれないではないか。だとすると明確な差異は無い、少なくとも外野に判断は出来ないというのが答えになるだろうか。

 

この”配慮無し”の憶測の確率は理論値のようなものだと言えよう。そして”配慮込み”の確率は配慮自体が未知数なので予測は出来ず、結果としての実測値でしか存在しないのだ。

 

つまり、憶測による事の是非の判断は理論値による予測のようなもので、失敗は少ないものの受動的なものと言える。対して、配慮によってその危機を回避しようとする態度は、未知のリスクはあるが(成功も失敗もあるだろうが)能動的と言えるのではないだろうか。それを冒険主義と呼んでもいいのかもしれない。

 

今回の事件では冒険主義は大失敗をした。社会的、法的な責任は免れないものである。だが、人類の歴史の中では冒険主義無しで今日に至ることは出来なかっただろう。グレートジャーニーも数多の失敗の末に成し遂げられたものだと思うからである。AIに冒険主義は可能だろうか?