コンプライアンスが切り捨てた価値 | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

赤穂浪士・最期の49日 - 英雄たちの選択 - NHK

先日の「英雄たちの選択」は、赤穂浪士の討ち入り後にスポットを当てたものだった。その裁決に至るまでに49日をも要しているのだが、これは彼等の主君、浅野内匠頭が刃傷事件後、即日切腹を命じられたことと好対照である。

 

当時の第五代将軍・徳川綱吉をはじめこの問題を裁く幕臣たちの心中を思うと、現代に生きる我々にとっても追体験すべき問題ではないかと思うのだった。それは法の原点を忘れ、コンプライアンスありきの流れに対し、正しくブレーキを踏むことになると思えるからである。

 

法の原点とは何かと言うと、それは武力によらない問題解決である。ここでは「戦乱の世に戻してはいけない」という初代家康の裁定のことだ。赤穂事件はそんな時代から100年近くを経て起きた。裁く側にも実戦経験のある者などいない。だが、武士だから帯刀はしている。この武器に対する精神性は武士にとって忘れる訳にはいかない時代でもあったのだ。

 

それはいまの感覚で例えるなら(ちょっと飛躍しているが)現金決済を思い浮かべてもいいかもしれない。若い人はキャッシュレスで何も問題は無いという人も多いだろうが、還暦の私はネット通販以外はほぼ現金だ。そこには若い人が思う非合理は無い。寧ろ若干の不便さ故に大事さを意識することとなって、無駄遣いをしないという合理的な価値があるのだ。

 

そんな価値が刀に象徴される武力にもあったのではないかと思われる。それは端的には”主君の仇”といった感情面での合理性だろう。相手が刑罰として死刑に処せられるのと、自らの手による仇討ちとの違いを想像すれば理解出来るのではないだろうか。

 

この赤穂事件は当時から美談として持て囃され「忠臣蔵」として人気を博すことになるのはご承知の通りである。つまり、その古い価値観が未だ世論だったのである。これは私がよく使う心理学用語で言えば、ヒューリスティックな(直観的な)判断だと言えるだろう。

 

対して、そもそもの刃傷事件の裁きは、加害者浅野内匠頭は切腹、被害者吉良上野介はお咎めなしである。侮辱罪にあたるものが有ったか無かったかは知らないが、一方的に加害者が罰せられた形だ。これは綱吉による法に則った裁決とされるが、新しい価値観であるコンプライアンスに則っている。だからこちらはクリティカルな(≒合理的な)判断だと言えるだろう。

 

合理的な判断だからと言って、法に則るだけではヒューリスティックな感情はモヤモヤしたままになってしまう。そもそもこれが原因で討ち入りに至っているのだ。問題解決にはなっていないのだ。だからと言って、仇討ちを美談とするようでは再び戦乱の世を招いてしまうかもしれない(豊臣が徳川を討つことも許してしまうのだ)。

 

最終的に綱吉は、浪士たちには切腹を、吉良上野介の息子・義周にも諏訪高島藩へのお預けと領地召し上げを命じている。この被害者である吉良側への罰は、討ち入られた際の戦いぶりを不届きとしたとの理由だが、ヒューリスティックな処罰感情への何割かの肯定でもあった。これによって新旧のどちらの価値観に対しても一定の配慮がなされた訳である。

 

”法の支配”というスローガンが定着するいま、このような人治的な裁定は許されないが、法が取りこぼした価値を救いとる、もうひとつの価値体系も必要だと思うのだ。コンプライアンスにモヤモヤさせられる者の割合が一定数を超えれば、法自体の権威が失われることになるということを忘れてはならない。法を守るためにはコンプライアンスは仇ともなるのだ。

 

コンプライアンスなんて言葉の無かった時代の話を思い出してみよう。いろいろと不祥事があった勝新太郎という俳優がいた。薬物問題では有罪判決を受けているが、映画人としては並外れた才能であったことは私もよく記憶している。

 

一方、昨今のジャニー喜多川氏に対する見方はどうだろうか。未成年への卑劣な性加害者としか思えなくなっていないだろうか。被害者がいるのは分かってはいるが、それとは別に多数のアイドルを育てた実績もあっただろう。私にとっては興味の無い分野だから積極的に主張したい訳ではないが、モヤモヤしてしまう人が一定数いる気がするのだ。

 

尚、本論の赤穂事件は以前取り上げた西部開拓時代のビリー・ザ・キッドと並立させて考えてみるのも一興かと思う。

ビリー・ザ・キッドに黎明期の法治社会を見る | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)