ビリー・ザ・キッドに黎明期の法治社会を見る | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

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観ておきたいと思いながらそのままになっていた映画を観た。いまどき流行らない西部劇である。ビリー・ザ・キッドなんて若い人は知っているだろうか? 日本で言うなら石川五右衛門あたりか。法を犯しながら大衆的な人気がある(創作を含んではいるだろうが)弱きを助け強きを挫くキャラクターだ。

 

映画作品として私の食指が動くのは、監督がサム・ペキンパーであることと、音楽をボブ・ディランが担当している(出演も)ことである。ペキンパーのドライな残酷描写は大好きだし、エリック・クラプトンをはじめとする多くのカバーを生んだ「天国への扉(Knockin' on Heaven's Door)」のディランのオリジナルがここにあるからだ。

 

 

原題は「Pat Garrett and Billy the Kid」だ。パット・ギャレットはかつてはビリーの年上の親友であり、保安官となってビリーを追い、最後は射殺することになる二人の関係を描いている。

 

時代は西部開拓時代の終わり、アウトローの時代が終わって法治社会が始まりつつある時代である。アメリカ史に詳しい訳ではないので素人の理解であることをお断りしておくが、現在の銃社会に繋がる建国当時の”自分の身は自分で守る”という精神は、逆に言えば法に実効性が無かったからだろう。

 

有力者はそこに資本主義を投入して経済的な発展を目指すのだが、無法地帯ゆえに資本家(牧場主)は政治家(州知事)に法の庇護を求めることになる訳だ。現代の眼から見るともちろん正しい方向性なのだが、時代の変化はそんなに刷新出来るものではない。牧場に雇われた者も無法時代の空気のまま悪事も働くし、ビリーのような庶民の味方になってくれる悪党もいるのである。

 

アウトローとは無法者の意だが、これは法の執行者側からの命名であって、彼等自身には未整理ではあっても己の正義に基づいたルールには従っていたのだ。だが、それは未整理ゆえにトラブルの抑止にはならない。現代でも正義と正義が対立することがしばしばあるが、共有できる法が無ければどちらが正義かをジャッジすることも出来ないからだ。

 

パットは「法律の味方は楽だ。豊かな老後を楽しみたい」とアウトローから保安官になった心境を語るが、内心は共有できる法を求めなければならない時代になったことに気付いてのことだろう。対してビリーは「今の瞬間がよけりゃそれでいい」と変化に気付いていない。

 

年長のパットが時代の変化に着いていこうとしているのに若いビリーが頑ななのは逆転しているように見える。還暦の私もいろいろと頑なだからだ。だが、実年齢からするとパット30~31歳(パット役のジェームズ・コバーンは渋過ぎる)、ビリー21歳だから未熟さゆえの頑なさだったのだろうか。

 

だとするとパットはビリーももう少し年を重ねればきっと理解すると思ったのかもしれない。だからこそ、それまでのあいだ法の及ばないメキシコに行けと言ったのだろう。

 

メランコリー親和型性格の私は秩序を愛し、それ故にルール(=法)というものも大切に思う。だが、それは教条主義的なコンプライアンスではない。そして”法の支配”の及ばない本作でのメキシコのようなアジールも確保しておくべきだと思っている。いま一度、この黎明期の法治社会を思い浮かべて軌道修正することも必要な時代になってきているのかもしれない。