「俺はまだ本気出してないだけ」 「自虐の詩」の秀逸な継承 | ひらめさんのブログ

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「俺はまだ本気出してないだけ(青野春秋)」を読んだ。初出は2006年だし2013年には映画化もされているらしい。ご存知の方は「何を今頃?」だろうが、当時の私は鬱を拗らせていた時期でいまになってしまったのである。

 

このキャッチーなタイトルを知ったのは呉智英氏の「マンガ狂につける薬 二天一流篇」で取り上げられていたからだ。ここでは私小説の文脈で取り上げられていたのだが、呉氏も言う通り作者と主人公は半分ほど重なり半分ほど違っているようだ。以下ネタバレ。

 

主人公「大黒シズオ」は40歳でなんとなく15年勤めた会社を辞め、自分探しの末マンガ家になるつもりなのだ。同居する老父からは呆れられ、自立的な女子高校生の娘は優しく見守っている。妻はいない。

 

タイトルにあるような負け惜しみ的な言葉に、私は老父と同じように現実逃避する者を見る目で主人公を見ていた。これはキモオタメガネデブと作者も評すキャラクターが、分かったようなことを言うところに同族嫌悪的な印象を持っていたからかもしれない。

 

この同族嫌悪に惹かれるかたちで(変な表現だが)最後まで読んでしまうのだが、最終巻である5巻でいきなり印象が変わってしまった。シリアスになるというか、それまでにもあった”分かったような言葉”がオフザケではないかもしれないと感じさせるのである。

 

内容的にも友人の自殺未遂とかシリアスにはなるのだが、はじめの調子で描かれていたら単なる露悪的なフィクションと読んだだろう。だがフィクションであっても、もしかしたら実体験に基づいた話かもしれないと感じさせたのは、文脈がいつのまにか変わったからなのだ。

 

オフザケのキャラだと思っていたのに相当マジな人生があったのだ。自分の境遇もあるかもしれないが目が潤んだことを白状する。オフザケからマジへ。この文脈の落差による読後感はどこかで味わったことがあると思ったが、それは「自虐の詩(業田良家)」だ。

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こちらの初出は1985~90年で2007年にやはり映画化されている(私は未見)。そしてこれも呉氏の「マンガ狂につける薬」に取り上げられ”「自虐の詩」広め教の教祖だ”とまでいうぐらい激賞されている。呉氏は両者を評価しつつも前掲書ではこの同質性には触れていないが、両者を読めば納得してもらえると思う。

 

ところでネットで検索してみると、青野春秋氏のブログがあった。それによると「俺はまだ~」は20歳代半ばの作品のようである。実際にマンガ家を目指していた頃の経験は描かれているようだが、シズオと違ってなんとなく就職した15年の勤続経験は無い。つまり、そんなにダメな人ではないのである。

 

呉氏の私小説的と捉えた”半分ほど重なり半分ほど違っている”という分析も一理あると思う。しかし私には登場人物それぞれに作者が投影されているよう感じた。そう、シズオに呆れる老父も優しく見守る娘も作者の揺れる思いなのではないかと。この対立する自己を俯瞰するスタンスによって、良質な私小説にもなったと言えるだろうか。

 

ブログには影響を受けたマンガも取り上げられていたが、そこには「自虐の詩」は無いようだ。読んでいそうな気はするのだが、あえて取り上げていなかったのだろうか? いや、剽窃だなどと言うつもりではない。良質な継承はその歴史の王道なのだから。

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