青葉被告と桐島容疑者 視野狭窄ゆえの行動 | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

ザ・ドキュメント | 関西テレビ放送 カンテレ (ktv.jp)

過去の放送|テレメンタリー|テレビ朝日 (tv-asahi.co.jp)

京アニ放火事件の青葉真司被告の死刑判決から二週間ほどが経つが、二本続けてそれを扱ったドキュメンタリーがあったのでこれについて書いてみる。尚、弁護人、被告共に控訴したことはご承知の通りだ。

 

最大の争点は青葉被告の責任能力についてである。検察側は「人のせいにしやすいパーソナリティが表れた犯行」だとし、完全責任能力があると主張。弁護側は「被告の妄想が犯行に大きく影響した」として心神喪失で無罪を主張している。

 

私は美大の一般教養科目で「法学」を取ったに過ぎないので、法哲学について知るところではない。ただ、半世紀以上生きて来て裁判の経験(民事だが)も踏まえると、それは真相究明ではなく妥協点の探り合いだとの認識を持っている。

 

しかし、妥協点を見つけるためには、もう少し真相に迫らなければならないのではないかと感じるのだ。そう思わせるぐらい検察側弁護側どちらの主張も納得できないのである。それは番組でも取り上げられていた被害者遺族の何とか納得したいという心情にも繋がるだろう。

 

そもそも、罪刑法定主義の観点からして死刑は免れ得ないものだと思う。それを阻止するための弁護側の主張がこじつけでしかないのは仕方の無いことだろう。青葉被告自身も控訴はしているのだが、そんな弁護人の主張には納得出来ていないのではないだろうか。

 

私と妄想 自覚している妄想と自覚できない妄想 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)

以前のブログで述べた通り、私としては心神耗弱レベルの妄想の可能性は感じたが、いまは妄想というより視野狭窄と言った方が正確だと感じている。それは先日死期を前に名乗り出た東アジア反日武装戦線の桐島聡容疑者を思い出したからである。

 

「桐島聡」死亡、事件で妹亡くした男性「発見が遅すぎた」…「彼らの思想は理解できない」 : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

この記事で被害者の遺族は「彼等の思想はいまでも理解できない」と言っているが、二十代の頃の私は結構理解出来てしまったのである(もちろん実行する気には到底なれなかったが)。

 

私よりひとまわり年長の彼等過激派は、純粋な理想主義者だった。だが、それを現実のものとするためには社会の抜本的な構造改革を必要とするのである。見える”悪”をやっつけても同じ構造がある限りそれは必然的に生じるものだからだ。それが革命だったのである。

 

しかし、構造改革=革命とは実は非情なものである。ほとんどの人は現在の構造の恩恵も受けているからだ。不満があってもその恩恵故に誰も構造改革なんてしたくないのだ。彼等が爆破した三菱重工は悪しき資本主義の勝者だったかもしれないが、その社員、関連企業社員、その家族と考えていけばその恩恵も計り知れないほどあったはずである。

 

だが同時にそうして守られてしまう”悪”があるのもまた事実だ。彼等の視点はそちら側にあった。変な例えかもしれないが、断捨離に悩む人は多いと思う。その達人とされる”こんまり”こと近藤麻理恵氏は「ときめき」を感じるかどうかで処分を判断せよと言う。それと同様に、彼等は「ときめき」を感じなかった大企業を処分することを断行したまでなのだ。

 

この「ときめき」を一元的な判断基準として切り捨てることは、目的達成のためには必要なことだが、これは多様な考えを無視した視野狭窄状態とも言えるだろう。青葉被告もまた同様に、京アニの盗用と言う裏切り(もちろん誤解なのだが)に対する是正のためにはやむを得ない犠牲だと考えていたはずである。

 

また「盗用という裏切り行為」という認識も視野狭窄によるものである。自作の小説のことばかり考えていた彼にとって、少しでも似た設定は非常に意味を感じてしまうものなのだ。これは妄想という根拠のない有り得ない妄信と言うよりは、僅かな根拠を拡大解釈した確信だったと言えるのではないだろうか。

 

定時制高校を皆勤したという青葉被告は、一生懸命であることが報われるという経験をしたはずである。教師との間で幸せな意思疎通もあっただろう。彼の行動原理は、少なくとも私には理解出来るように思えるのだ。