私と妄想 自覚している妄想と自覚できない妄想 | ひらめさんのブログ

ひらめさんのブログ

メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

京都アニメーション放火殺人事件の青葉真司被告の公判が始まっている。某掲示板などを見ると、彼の言動が罪を免れるための詐病であるかのような書き込みが少なくない。だが、私には彼が本心に背いた言葉を語るほどの余裕があるとは思えないのだ。それは私の妄想体験に根差しているからだろうか。そのことについて書いてみたい。

 

まず最初にお断りしておくが、私は鬱を病んで精神科に通っている身(現在はほぼ寛解)だが、医師でも心理士でもないので医学的心理学的な正しさとは無関係な記述である。

 

妄想と言えば、青葉被告も診断されたという統合失調症がイメージされるが、私はその診断を受けたことは無い。それどころか私見ではその対極にあるような確固としたアイデンティティを持っていると感じている。こんな言葉は無いが”統合過剰症”とでも言えるほど認識にブレが無いのだ(認識とは錯覚なのだからブレて当然なのである)。それ故に相手と意見が対立すると逃げ場が無くて心を病んでしまうのである。

 

そんな私が妄想を抱くようになったのは、以前にブログで書いた睡眠導入剤マイスリーによって一か月の記憶をほとんど失う事件があったからだ。しかも当時は原因の分からぬままにである。交友関係の無いままに記憶が無いという状況は、自分が何をやっていたのか分からないということであり、自分の行動に責任を持てないということになるのだ。

 

例えばだ。私でも人並みか、人並み以上に性欲がある気がしている。だとすれば、記憶の無い時期に人前で何らかの変態行為をしているかもしれないのだ。もちろん記憶のある私はそんなことは決してしない。だが、あり得ないはずの記憶が無くなるということが現実になった以上、あり得ないという確からしさを信じられなくなるのである。

 

そして、この妄想は対社会的なものとなる。何事も無かったように見える近隣の人に対し、「きっと、あの変態行為を知っていながら穏便に済ませてやろうと知らぬふりをしているのだ」と。次の段階では、「あの記憶を失っていた時期に、私以外のすべての人が申し合わせをしていて、私を実験対象にして観察することが行われているのではないか?」になっていくのである。「そんなことはなかった」という論証は不可能なのだ。

 

ただ、たぶんここが統合失調症ではないところで、そんな妄想も"可能性のひとつ"なのだ。恐らく統合失調症ならそれがもっとリアルなものに感じてしまうのではないだろうか。私の場合は"可能性のひとつ"だから、もっと現実的な”対社会的には何も問題行動は無かった”という可能性も同列にはあるのだ。しかし、心配すべきは変態行為だから、それのみが最重要課題として頭を支配するのである。

 

この時は記憶が無くなったために自信を喪失してはいたが、脳の機能としては回復しつつあったのだろう。だから、記憶があった時の現実的な判断の記憶も可能性の候補として挙げることが出来たのだ。だが、機能的におかしな時期のことも覚えている。これもブログに書いたことだが、ケータイのメールを作成する操作が出来なかったことがある。だが、それをケータイのアップデートの不備だと合理化して解釈していたのだ。

 

この合理化による納得は、認知症の物盗られ妄想と符合する。自分がどこにしまったのか忘れていることを何者かが盗んだと解釈してしまうあれだ。自分が失くす筈はないという自信が理由を他に求めてしまうのである。それと同様に、当時の私はケータイの文字入力が出来ないはずはないという自信があったのだろう。だから理由をケータイ会社の責任にしていたのである。この妄想は、妄想としては自覚出来ていない。これが心神耗弱に繋がる妄想だ。当人の自覚上は妄想ではなく、筋の通った分析だからである。

 

青葉被告の小説をパクられたという妄想はこの範疇にある。論理の杜撰さもそこまでの思考能力が無かったということだ。彼は精一杯なのだろう。いや、私は彼のやったことを擁護しようとしているのではない。刑法第39条に関わらず、結果責任として刑罰は受けるべきなのだと思う。それは”私の変態行為”が穏便に済まされることに居心地の悪さを感じたのと同じ精神が求めているのである。精神障害を差別することなく人並みの刑罰を受ける権利を認めるべきだと。