新鮮さを最優先させる人 双極性障害? | ひらめさんのブログ

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メランコリー親和型鬱病者で理屈好きな私の思うところを綴ります。

しばしば紹介しているが、私の持論に”鬱はメモリ不足によるフリーズである”というのがある。PCのメモリにあたる脳の部位がいっぱいいっぱいになると鬱になるということだ。精神科に通わずに済んでいる多くの人は鬱にならないようにメモリに余裕を持たせられている。

 

これは意識的にしているものではなく、正しい生体アラームに従っているということなのだろう。ところが、私のようなメランコリー親和型性格は正しくない生体アラームが備わっていて、疲労して苦痛を感じているのに達成感という”快”の響きに変換してしまいアラームの意味をなさないのだ。

 

そんな欠陥品の所有者ではあるが、メモリの消費を削減する別のシステムはきちんと作動している。それは習慣化=ルーティーン化だ。日常のパターン化した作業を行うためには誰もに備わっている機能である。Excelでのマクロのようなものだと思えば省力化であることは間違いない。しかし、それをあまり使いたくないような人もいるようなのだ。

 

知人の彼は精神科デイケアの利用者で、モノ作りが好きなことと理屈っぽい話が出来ることで親しくなった。彼は双極Ⅱ型(躁状態があまり無い)だが、お互いの症状を語り合う中でボキャブラリーを共有し合っている。当然、私の”メモリ理論”も理解してくれていたのだが、ルーティーンの話はちょっと違うようなのだ。

 

「疲れている」という彼に、睡眠の重要性はもちろんのこと、そのための適度な身体的疲労の必要性や眠れぬ時の対処法なども話した。だが、そもそも疲れ易いようなのだが、それが個人差レベルのものなのかも分からない。そこで”メモリ理論”提唱者としては日常のルーティーン化を勧めてみたのである。

 

私は起床から就寝まで可能な限りルーティーン化を進めていて好調を得ている。その伝で彼の日常を聞かせてもらうとかなり出来ていないのだ。いや、彼にとっての優先順位からすると”する意味”が無いと言うべきなのだろう。彼にとってはパターン化から逃れることの方が総体として心地よさを感じるらしいのだ。

 

なるほど。彼はデイケアでも自分のクラフト作品の製作をしていたりもするのだが、飽きてしまって未完成で保留していることが多いのだ。ルーティーン化してしまうと新鮮さが失われてモチベーションが下がってしまうらしい。そして新鮮な気分を取り戻せたら再開するのである。

 

この新鮮な気分というのが起床時から必要となるようなのだ。私ならアラームが鳴ったらとにかく起きて、トイレに行って、顔を洗ってと、ルーティーンをこなしているうちに目が覚めてくるということになる。恐らく多くの人がこんな感じだろうが、彼はこれをやるのがかなり苦痛らしい。”自然に目覚めて”というのが、まず大前提のようなのだ。

 

普通の社会人の感覚からすると我儘としか見えないかもしれない。世の中には怠惰ゆえのこんな人もいるだろうからだ。だが、たぶん試行錯誤の末にここに至った彼の様態は、彼にとってのベストなのだろう。怠惰な人との差は総体としてのパフォーマンスとして違ってくるはずである。

 

思えば以前にブログで取り上げた「躁鬱大学」で著者の坂口恭平氏はこんなことを述べていた。氏が影響を受けた精神科医・神田橋條治氏の書いた「神田橋語録」の中には「『~をしてはいけない』みたいなことがいっさい書かれていないんです。むしろ、そのような禁止をすることで『窮屈になるのがいけない』と書かれていました。」と。

 

坂口氏はこうして”躁鬱人”に窮屈を避けることを提唱している。もしかしたら、この”窮屈”と”パターン化”というのはニアリーイコールで結び付くものなのかもしれない。これが近似だとしてもサンプル数があまりにも少ないので何とも言えないのだが、ルーティーン化という省力化を拒んだための疲れ易さは、知人の彼の宿命なのだろう。それはメランコリー親和型の私がある種の疲労を達成感と見間違えることと同種のことに思える。

 

メランコリー親和型が読む「躁鬱大学」序章 | ひらめさんのブログ (ameblo.jp)